終章 交響的練習曲
不意に、真雄くんのピアノの音が聞こえてきた。弾いている曲は間違いなく交響的練習曲であった。でも、なんだか明るすぎて、この雰囲気に合わないような感じがしないわけでもなかった。
「真雄くん、フィナーレを弾けるようになったんですね。よく頑張りましたね。」
水穂さんは、にこやかに真雄くんを見た。
「うん、だって、もう夏央はいないから、僕が頑張らなくちゃ。誰も、夏央の代わりなんてできないもの。今度は僕の番。夏央が弾けなかったこの曲、僕が最後までちゃんと練習するんだ。」
真雄くんは、一生懸命交響的練習曲を弾いていた。これには、杉ちゃんも水穂さんも、真雄くんの強さに感動してしまった。
「そうかそうか、真雄くん。偉い偉い。これからもがんばってピアノを続けてね。足が悪いからと言って、夢を諦めることは無いんだよ。」
「あらあ、水穂さんがそんなこと言ってら。」
杉ちゃんは水穂さんに向けてそういう事を言ってしまった。
「これからきっと、お父さんとお母さんは、夏央くんがなくなったことで、悲しみ続けると思うけど、そのときは真雄くんが慰めてあげてね。悲しい気持ちが続いていたら、その曲、弾いてあげてね。」
水穂さんは、真雄くんの肩にそっと手をかけた。
「そのうちお父ちゃんとお母ちゃんが、迎えに来るよ。そうしたら、その曲聞かせてやりな。きっと驚くぜ。」
杉ちゃんの言う通り、真雄くんは、ずっと交響的練習曲の楽譜を真剣に眺めている。
「ありがとうね。杉ちゃん、おじちゃん。僕頑張るよ。夏央の分まで一生懸命やるから。夏主それを望んでるよ。」
真雄くんの表情は、とてもしっかりしていて、ハーメルンの笛吹き男に取られてしまった、子どもにありそうな表情とは違っていた。
「よし、そうでなくっちゃな。夏央くんの代わりは、お前さんだけだぜ。」
杉ちゃんもニッコリした。
「きっと、お父さんもお母さんも喜びますよ。」
水穂さんもニッコリした。
それからしばらく、真雄くんの交響的練習曲は続いていた。もう真雄くんは、可愛い少年から、大人の男になってしまったのだろう。何も後ろを振り向くこともなく、ひたすらにその曲を弾いているのは、なんだか健気でもあった。
やがて、製鉄所の玄関先に一台の車が止まった。そして玄関の引き戸がガラッと開く音がした。
「真雄くん、お父様とお母様が迎えに来られましたよ。」
ジョチさんがそう言うと、真雄くんの両親が入ってきた。難しい顔をしている父親と、疲労困憊した母親。事件の被害者という顔をしていた。ジョチさんは真雄くんについていてあげてくださいといったが、とてもそんな余裕はなさそうであった。
すると、また交響的練習曲のフィナーレが聞こえてきた。美佐江さんは思わず、
「夏央が帰ってきた!」
と叫んでしまったが、
「いや、弾いているのは夏央くんの方です。一生懸命練習してここまでうまくなりました。お二方とも、真雄くんの側にいてあげてください!」
と、水穂さんが少々強い感じで言った。それを聞いて美佐江さんは床に崩れ落ちた。真雄くんはそれに構わず、フィナーレを最後まで演奏した。
「そうなのですね。ここまでやってくれましたか。夏央もよく弾いていましたが、真雄がここまでやるとは思いませんでした。これからは、真雄のことも気にかけて殺らなければ。」
義男さんはそう静かに言った。ジョチさんが母親である美佐江さんに、生き残った真雄くんを抱きしめてやるようにといったが、美佐江さんは夏央の事を思い出すからと言って、それはできなかった。
「この場に及んでまだ夏央くんの事を言っているのか。もう夏央くんのことは、もう何を言っても戻ってこないんだから、もう気持ち切り替えて、真雄くんのことを考えてやってくれよ。香里さんは気持ちの切り替えが上手くないといっていたが、もしかしたら、お前さんのほうが下手なんじゃないの?」
杉ちゃんが呆れて言うと、
「おばちゃんは?」
と、真雄くんは両親に言った。義男さんと美佐江さんは、どうしようと言う顔になって、顔を見合わせた。
「ご両親から言ってやってくれますか?きっと本当の事を知りたいと思っていると思います。真雄くんは。」
とジョチさんがそう二人に言った。
「何よ!あの女は大事な夏央を私達の手から奪っていきました。そんな女のことを、今から話せというの?」
美佐江さんはそう言っているが義男さんは、ちょっと覚悟を決めて、
「真雄、香里さんはね。夏央ばかりがかわいがってもらっていると勝手に思い込んでいて、夏央を誘拐して、夏央を刺したんだ。でも、パパとママは、夏央だけではなく真雄のことをちゃんと見てるから。だから真雄は可愛がってもらっているとちゃんと言って良いんだよ。」
としっかりと真雄くんに言った。
「嘘でしょ?」
真雄くんはしっかりと言い出す。
「そんなことはない。きっとご両親は真雄くんの事をきっと愛しています。ただ、やり方を間違えただけで、これからはちゃんとやってくれるから大丈夫ですよ。こんな事件が起きた以上、ちゃんとしてくれると思います。」
ジョチさんが、真雄くんにきちんと言った。
「真雄くんもそういうことなら、ちゃんと言ってご覧。お父さんとお母さんに、僕は夏央の分まで頑張るって。」
水穂さんが優しくそう言うと、
「ウン。僕は頑張るよ。おばちゃんにも優しくしてもらったし、夏央が一生懸命世話をしてくれて、おばちゃんもずっと仲良くしてくれて、そしてパパとママがいてくれるって、僕のこと一生懸命やってくれたんだって、ちゃんと知ってるから。」
と、真雄くんはしっかりと言った。
「よしよしわかった。」
杉ちゃんが言った。
「きっとこれからは、お前さんと、お父ちゃんとお母ちゃんで、三人で楽しく暮らしてね。」
「ウン、これからもやっていく!」
真雄くんの言い方は、なんだかおとなになったようだ。
「じゃあ、お父ちゃんとお母ちゃんと、三人でお家へ帰ろう。今日はきっと、お母ちゃんのうまいグラタンやカレーが待ってるよ。」
杉ちゃんがにこやかに言った。
「まあ、私は、カレーもグラタンも得意料理じゃありませんわ。どうしましょう。」
美佐江さんが苦笑いして言うと、
「いやあ大丈夫です。レシピなら、いろんなところで売ってますから、それを買えばなんとかなります。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。
「本当にありがとうございました。それでは、真雄を連れて自宅へ帰ります。今回のことは、本当にありがとうございました。」
と義男さんがそう言って、真雄くんの車椅子に手をかけた。
「ちょっと待って!」
と真雄くんが言う。水穂さんがどうしたのと聞くと、
「待って。最後におばちゃんに会わせて!」
と真雄くんは言った。
「おばちゃんは、今頃警察署で取り調べを受けていることでしょう。それに悪事をしでかしたのですから、おあいしても、意味がないのではありませんか?」
ジョチさんが言うと、
「うーんそうだねえ。でも、真雄くんがおばちゃん、つまり、小栗香里さんが好きだったことは確かでしょう。だから、最後に会わせてあげても良いんじゃないかなあ。ちょっと、警察署に電話して見たらどうだろうか?」
と、杉ちゃんが言った。皆しばらく考えていたが、
「そうですね。真雄くんは、本当におばさんが好きだったわけですから、しばらくおばさんとは会えなくなるわけですし、少しだけお話をさせてあげても良いのではないでしょうか?」
水穂さんが優しく言った。ジョチさんは、どうしようかと考えていたが、
「最後の頼みだ。おばちゃんに会わせて上げよう。」
と、杉ちゃんが言った。ジョチさんは、仕方ありませんねと言って、スマートフォンを取り出し、富士警察署に電話をかけた。電話によると、やはり取り調べをしている最中だと言うことであったが、真雄くんが、小栗香里ちゃんにあいたがっていると言うと、ちょっとだけならと許可してくれた。
「じゃあ、それでは、皆さんで警察署に行きましょう。ワンボックスカーを用意するようにたのんで置きます。」
ジョチさんが小薗さんに電話をしようとすると、
「どうして、今更あの女に会わないと行けないんでしょうか?」
美佐江さんが言った。
「だってあの女は、夏央を消してしまおうと思ったんですよ。それなのに、そんな悪女にまた会いたいなんてなんてこと言うの。」
「いいえ、子供さんと、大人の感じ方は違います。それは、しっかり理解してあげてください。」
水穂さんが、急いで言った。
「じゃあ、ワンボックスカーを出しますから、急いで行きましょう。」
とジョチさんは、小薗さんにワンボックスカーを要請した。製鉄所の前にワンボックスカーが乗り込むと、杉ちゃんと水穂さんが残って他の人は、全員ワンボックスカーに乗り込む。車の中では黙ったままだったが、それでも小薗さんは警察署に連れて行ってくれた。
警察署に到着すると、華岡が、入口で待っていた。ジョチさんが、真雄くんを連れてきたというと、中に入ってくれと言った。そして、彼らを接見室に連れて行って、手錠をかけられて座っている、彼女、小栗香里さんとアクリル板越しに久しぶりに会った。
「おばちゃん。」
真雄くんはアクリル板越しに声をかけた。
「おばちゃん。ありがとう。」
真雄くんは、そうアクリル板の向こうで小さくなっている、香里さんに言った。
「真雄くん。」
香里さんは、小さな声で真雄くんに向かっていった。
「ごめんね、、、。」
香里さんは、涙をこぼして泣き始めた。
「泣かないで。僕は、おばちゃんのことずっと好きだったんだよ。だからこれからも好きだから、また戻ってきてね。」
と真雄くんが言うと、
「ごめんね。」
と、優しいおばちゃんはそういったのであった。
しばらく、真雄くんも香里さんも何も言わなかった。真雄くんはアクリル板に顔をつけて、香里さんのことをじっと見ている。香里さんは、何度もごめんねと言っていた。
「すみません。接見時間は、30分です。面会したいのであれば、また来てください。」
と華岡が言った。アクリル板越しに、香里さんの側にいた警官が、香里さんに立ちなさいといった。香里さんはハイと言って、手錠をはめたまま立ち上がり、そのまま取調室へ戻っていった。
「おばちゃん!ありがとう!また戻ってきてね!絶対だよ!ありがとう!」
と真雄くんは、アクリル板越しに、一生懸命語りかけた。それに気がついたおばちゃんこと小栗香里さんは、真雄くんの方を振り向くと、軽く手を降って、接見室を出ていった。それを、真雄くんのご両親は悲しそうに眺めていた。お母さんの美佐江さんの方は、どうして真雄がという感じの顔であったが、義男さんのほうが、
「これからが大事じゃないか。」
と、美佐江さんの方を叩く。真雄くんは香里さんが、部屋を出ていくのを最後まで見つめていた。涙がこぼれていたが、真雄くんは、きっと強い男になるだろう。
事件から数日が経った。
誰も事件の事を話す人はいなくなったし、テレビでも新聞でも新たな事件の事を報道するようになって、もう夏央くんのことを話す人はいなくなった。ただ、青い空と白い雲だけが、時間の経ったのを示しているのであった。
でも、夏央くんの家では、交響的練習曲が、途絶えることなくなり続けるのであった。
交響的練習曲 長編版 増田朋美 @masubuchi4996
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