後編 夜紛い
「図書委員の仕事の一つに栞の絵を描くっていうのがあったの。図書室の本を借りる時に、自由に持っていっていいよってやつ」
「ああ、私もそれあったかも。ショーコはてっきり学級委員かと」
「えー、それ揶揄ってるでしょ!」
こちらから顔は見えないが、頬をふぐみたいに膨らませている顔は想像に容易い。手作りの栞とは懐かしい話題だ。小学生の時に絵が上手い人は、割と運動神経が良い子の次くらいに話題があるイメージである。
「そ、それで、ショーコも勿論栞の絵書いたんでしょ? どんな絵」
「わたしはクマさんの絵……」
明らかにひとつまみ分くらい、声のボリュームが下がった。クマさんね。熊ではなくクマさんなのが、なんとも可愛らしい絵柄を想像させる。おそらく一生懸命描いたのだろう。ふふ。
「ねぇ、今笑ったでしょ!」
鋭い視線が向けられる。目が細められ、長い睫毛が強調されて見える。
「ごめん。茶化したんじゃなくて……」
「どうせ、また一人で、頭で、ぐつぐつと考えたんでしょ。ほーんとこれだから厄介ファンはこわいねぇ」
「なんか今日火力高くない?」
「何? 続き聞くの、聞かないの」
「……聞きます」
上手く丸め込まれた気がする。今日は私の厄介な話よりも、
サッ。サッ、サッサ…………。
鉛筆。それも色鉛筆だろうか。時折、カタンと机を鳴らして、ペンを置き持ち替えているのが分かる。絶妙なテンポの摩擦音は、創作意欲を掻き立てる。私も筆を手に取って作業を再開した。
「それである日ね。ふと、図書室に立ち寄ったわけ」
「……! え、あ、うん。聞いてるよ」
何事もなかったかのように
「そしたらね。私の栞を手にした男子たちがすごい笑い始めたの。『なにこれ、下手くそな絵』って。隣にいた友達が『それ、しょうこちゃんが描いたやつ……』みたいなことを言おうとしたから、慌てて止めたよね」
「あー、フォローしなくていい! って感じ」
「そうそう。もうなんかすごいやるせないっていうか、悔しいっていうかね。恥ずかしさも込み上げてきて。別にお前らのために描いたんじゃないし、みたいな気持ちもあって。その場で言い返せたらよかったんだけどね。出来なかった」
「それ以来、絵描くの苦手?」
彼女は首を縦に一度振った。何でも卒なくこなしてしまう、高嶺の花には弱点があった!ミーハーな新聞部員が聞きつけたら、明日の見出しはこうなるのだろうか。新聞部なんてあったけ。冗談はさておき、私は思考に集中する。
匿名なものに対して、人間は無遠慮で無配慮になる節がある。だからこそ、ありのままを表現できるし、ありのままに評価されやすい。それは時に残酷な結果を生むこともある。
栞だって、描いたのが
作品への評価なんてそんなものだ。誰が作ったのか。何歳なのか。男か女か。何作目か。人気はどうか。付随するキャプションは時に、中身にも多大な影響を与える。
仕方がないよね。作品が秘めている本当の価値なんてもの、創った本人にすら推し量ることなどできないのだから。
もし、栞が低学年の生徒の手に渡っていたら、無邪気な笑顔で喜ばれていたかもしれない。
そう考えると。作品の価値を、自分の粗末な価値観だけで判断したとも思わないような男子たちの反応も、無邪気な笑顔と言えるのかもしれない。
それはそれとして。
「──殴ってやりたいよ。できないけど」
「へ? また考え込んでると思ったら、急にどしたの?」
「ううん。ショーコと同じ、小学校だったら良かったなって」
「えー、マヤと同じね……。やだよ、厄介だもん。当時の私にはとても捌ききれないよ」
彼女は笑いながら、こちらへ体を向けて、腕でバツ印をつくる。首を傾げると長い黒髪がひらりと跳ねる。何度彼女に厄介だと言われても、悪い気はしない。面倒な私。それでも良いと肯定されているような気分になるからだ。
「ねぇショーコ? 絵、見せてよ」
「えー。嫌だって言ってるでしょ」
「わ、私。見ようと思えば今見れたんだよ。腕上げた瞬間!」
「じゃあ、何で! 見なかったのさ」
「──っそ…………れはさ」
彼女はグイッと私の方へ身を乗り出す。私は思わず、椅子から落ちる限界まで身を引く。大きな二つの黒色は決して私のことを離しはしない。
「…………嫌われたくないから」
切実な願いだった。あなたの記憶に私が残ったとしても、思い出すのが苦しい思い出にはなりたくなかった。私はじっと彼女の返答を待つ。
「私がすぐにマヤに見せなかったの。マヤが悪いんだからね!」
「へ?」
「……!」
そこに描かれていたのは、風に揺れる木々と金魚、風鈴。夏の昼間を感じさせるモチーフが連なっていた。
「わ、私があげたハンカチ?」
私の問いに彼女はニヤリと笑った。目線を下ろした酷くアンニュイな顔。
「そう。だってあの柄はあなたから見た私のイメージそのものなんでしょ」
私の頭に付いているヘアクリップが光ったような気がした。これは私が
「ごめん。私気に入りすぎて」
「分かってるから、マヤが大切にしてくれてることくらい。あなたの今を飾ることができて、わたしは十分嬉しいからさ」
言葉が返せなかった。吃っているからではない。返す言葉が分からないからだ。彼女は私が夜空をモチーフとした絵を描いていることを期待しただろうか。
「どうなの? 私の絵は。あんなに見たかったものだよ」
私はもう一度、絵を良く見る。
「この金魚私すき。目がおっきくて、なんだか──」
「えー!」
肖子は驚きの声をあげた。
「どうしたの!」
「これ、デメキンじゃなくてリュウキンなんだけど!」
「え! あ、出目金じゃなくて琉金……! いや、違くて! 飛び出しててカワイイじゃなくて!」
琉金。これまたポピュラーな金魚である。しかし、肖子が描いた金魚は明らかに出目金だ。目が飛び出していてカワイイし、そこがいいのだが、彼女が琉金をモチーフとして描いたのなら大事件だ。
「やっぱりわたし、絵ダメなんだね」
「い、いや、カワイイんだよ。すっごくね。いいじゃん私には出目金に見えただけで、ほら、見た人の感性にね、よって変わるとかあるんじゃない」
「あ、そういうこともあるか! よし、ちょっとみんなに見せてくる」
「しょ、ショーコ……」
肖子はすぐに席を立つと、絵を持って他の机へ向かった。案の定、みんなが金魚に触れ、出目金が上手い、可愛いといった感想を口にした。
「え、あ、うん! これはデメキンよ!」
席に戻ってくる頃には、肖子の琉金は出目金へと姿を変えていた。
「まぁ、みんな絶賛してるみたいだし、いいんじゃない?」
「そ、そうだよね。うん! あー、あの頃より絵上手くなってて良かったー」
肖子は腕を上げて伸びをする。もしかしたら、肖子はクマさんを描いたつもりでも、みんなには何か違うものに見えただけかもしれない。小学生の浅い知識の中で評価された、あの栞には、まだ検討の余地があったのかもしれない。
「ショーコ、ありがとね。私もハンカチ気に入って使ってくれてるの知ってるから」
「うん。擦り切れるまで使うつもり。私も頑張らなきゃ」
「なにを?」
「スチームパンク? や彼にも勝てるような。すんごいものをマヤに教えたいからさ」
「ふ。根に持ってるでしょ」
「いやさ、結構強烈な体験だったと思うんだよね。ロリータ服」
「っ! もーう、やめてよ。それは二人だけの内緒でしょ」
肖子は恥ずかしがる私を見て満足げな表情を浮かべ「二人ね」と、含みを持たせた言い方で呟いた。
やっぱり、私は君が後生抱えて生きるような思い出になりたい。
栞を食む シンシア @syndy_ataru
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