栞を食む
シンシア
前編 冬眠
スー。
絵の具は整えられた筆先を伝って、硬質紙へ落ちていく。鉛筆の頼りない下書き線をはみ出さない様、慎重に付けては動かされて離される。冷たさが紙を這っていく音。ただ、ひたすらにこの音が聞きたくて、手を、腕を、体までも動かす。
雑音も雑念もここには存在しない。目の前のこれを完成させる。いや、そんなことじゃない。色が欲しいと思うところに筆を持っていく。
これぐらいのことしか考えていないのかもしれない。
チリン。
綺麗な音がした。まるで夏を運んでくるかのような、あの鈴の音。あれ、今の季節はなんだっけ。
──夏?
チリン、チリン。
今度は二つ。ああ、そうだ。夏なのだ。ん?
ふと目に入るのは紺色。筆を握る右手から伸びる紺色の衣服。ブレザーだ。夏にこんな厚いものを着る? まぁ私は、衣替え期間ギリギリまでブレザーを着るし、今は初夏なのだろう。特に気にせずに作業を再開し──。
「──マヤ」
「わ!」
風鈴がいきなり
♦
「すごーい集中力だったね。何度呼んでも反応がないもんだから、心配になっちゃった」
隣に座る
傷んだ木製の長机。香る画材の匂い。壁に掛けられた絵画の数々。開かれた窓から侵入するのは花粉と清々しい暖かな空気。ここは美術室。今は各々が製作課題に取り組んでいる最中だ。耳を少し向けると、教室のあちこちでぽつりぽつり。私語が聞こえてくる。
教卓だと思われる汚い机に先生はいない。奥の部屋に引っ込んでしまっているからだろう。彼は基本的に授業中の私語を注意したりはしない。作品を期限内に提出するなら授業の時間をどう過ごしてもよいという考えから。
「──ごめん。何かこういうの嫌いじゃないんだよね」
「そうなんだ、意外……でもないか。ところで何描いてるの?」
「うーんと、ねぇー。──歯車?」
「歯車?」
課題内容は自分を象徴するアイコンの作成。四角い枠組みの中に自分が好きなものを表現するみたいなモチーフを描けという、自己紹介みたいな作品だ。たぶん、好きなものを描けばいいんじゃないかな。
「そ、そう。スチームパンク風。噛み合わさる歯車たちとか、蒸気機関とか。そーんな雰囲気が、伝われば」
「へー。ふーん、そっかぁ……。なんかカッコイイね。いやね、良かったよ! とんでもない厄介な怨念を描いてたらどうしようって」
歯切れの悪い相槌を打つ
「心配してくれてありがとね。いつもなら、ま、間違いなくてるてる坊主は描いてたね! それで、ショーコの方は何を描いているの?」
「ははは。──え。あー、わたしはね……」
彼女は珍しく歯切れの悪い物言いをする。見た方が早いと思ったが、彼女の腕と体のせいで、座っている体勢じゃ手元を覗くことは出来ない。よし、それなら。私は筆を置いて、長机に手を置き立ち上がろうとした。
「いた!」
爪先に鈍い痛み。肖子に足を踏まれた。
「ごめん! マヤの靴に虫がいて」
「そんなわけないよ!」
私はもう一度チャレンジする。すると、彼女は素早い動きで紙を裏面にして、その上に上体を預けた。
「あ! 机に大きな虫が! 気持ち悪いから私が隠しとくね!」
くぐもった風鈴の音が聞こえてくる。
「別に見せたくないなら、いいよ。無理に見たりしないよ」
「そんなの知ってる」
「じゃあ顔上げてよ」
「いやだ」
彼女は机に突っ伏したままだ。こんな
高嶺の花。これは学校中のみんなが彼女に抱くイメージだ。学生離れした、すらりとした長身と容姿端麗な見た目から、告白を申し出る生徒は後を絶たない。それでいて、勉強もスポーツも交友関係も完璧。まさしく、非の打ちどころがない高嶺の花だ。
「どうしたの? 早く進めないと終わらないよ」
「いいもん。放課後一人でやるから」
「え、今日は一緒に帰らないわけ?」
私の言葉に反応するように
「それは困る。終わらせる」
彼女はやけに機械的な言葉を浮かべると、私の横を意味ありげにゆっくりと指さす。
私を刺していた視線は、いつのまにか身体をするりと通り抜けていた。彼女の意識を私から奪うものの正体を突き止めなくては。不思議な感覚のまま、指の動きに従うように顔を向ける。
風を受けて膨らむカーテン。纏まりを失い解き放たれ──。
そこには何もなかった!
私はすぐに顔を戻したが、
「ねー、さっきの意味ありげな指──」
「わたし、小学生の時ね。図書委員だったわけ」
「え? こんな雑に回想シーンに入るの⁉」
彼女は手を動かしながらぽつりぽつりと、つぶやき始めるのだった。
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