第29話 対の天使


 「…………なんで来たの」

 

 疲れたような声でバアルは不満を口にした。

 

 目の前には自分が今まで可愛がって、天界に残してきたはずの副官の姿がある。

 アシュトレトの翼はもう、地獄の瘴気で完全に黒に染まっていた。

 

 「……貴方が、心配でしたので。それに」

 

 座り込んだ彼女の両の手には、ひとりの死にかけの天使が抱えられている。

 

 ミカエルの意識がサタンに向いた瞬間にバアルはシュエルをルシフェルに任せ、真っすぐラグエルに向かったのだ。

 彼女の手元にいるシュエルのつい、ハサーシエンを救出するために。

 

 不意打ちには成功したが、流石は砦を任されるだけあり彼女の反応速度は速かった。

 反撃を食らいそうになった時、唐突に現れた自身の副官がハサーシエンを抱えて迷うことなく境界を越えたので、驚愕と共にそのまま撤退することが出来たのだ。

 

 「だからって……もう戻れないよ?」

 

 助かったけれど、と付け加えて重々しくバアルはむき出しの岩に腰を下ろす。

 もう戻れないことなど、ここにいる全ての天使が理解していることだ。

 

 「分かっています。ただ、この天使が最愛様のついなのでしょう?」

 「うん……もう、時間はないだろうけどね。最期くらい、姉妹の時間があってもいいだろうから」

 

 聖力マナがないと、天使は生きていけない。

 元々の聖力マナも決して多くはないハサーシエンだったが、今回の戦争に巻き込まれて重傷を負い、もう助かる見込みがないほどにその力は流れ落ちていた。

 


 

 「おねぇちゃん……っ!」

 

 シュエルの声にバアル達は顔を上げる。

 アシュトレトは何も言わずに自身が抱いていた天使をそっと駆け寄ったシュエルに手渡した。

 

 「おねぇちゃん……ねぇシエン……目を開けて……っ!」

 

 雪のように白いシュエルの手が真逆の黒に染まったハサーシエンの体を撫でれば、彼女の外傷は綺麗に消え去る。

 

 だがしかし、すでに流れ落ちてしまった彼女の聖力マナは決して戻ることはない。

 シュエルの呼び声に反応するようにハサーシエンの瞼が薄く揺れて、その漆黒の瞳に金色の天使の姿が映る。

 

 あの日と変わらない、太陽の様に輝く黄金の髪と新緑を思わせる綺麗な瞳。


 

 「……変わらずに、青が好きなのね……」

 

 シュエルが身にまとっている青いドレスはハサーシエンに当時を思い起こさせた。

 

 あの名づけの日に道が別れてしまった、たった一人の自分のいもうと

 

 「うん、おねぇちゃんが一番似合うって言ってくれたもの。だから……っ」

 

 ぼろぼろとシュエルから涙が溢れる。必死で笑おうとすればするほど笑顔は歪んでしまって、もうどうしたらいいか分からない。

 慰めるようにハサーシエンはのろのろと手を伸ばしてシュエルの頬を撫でてやった。


 「泣き虫も……かわらないのね。……禁忌を、犯して……堕天する天使が、まさかアンタだとは……思わなかった」

 「……うん」

 「アンタは……何不自由なく、幸せに生きてるんだと……思ってた……」

 「……うん……っ」

 

 ハサーシエンの力の抜けた手を握りしめながらシュエルは何度も頷く。

 

 「……わたしは……そんなアンタが……ずっと……きらいで……ずっと、憎らしくて……どうして……じぶんだけが、って……ずっと思って……でも……それは完全に……八つ当たり…………だから……アンタは……わたしのことなんて、さっさと忘れなさ……」

 「いや」

 

 ぎゅっとハサーシエンを抱きしめてシュエルは首を振る。

 

 「絶対に、絶対に忘れない……っシエンは私の唯一で、ついの天使で、たったひとりのおねぇちゃんだもの……!」

 「……なに……?そのシエンって」

 「ハサーシエンなんて呼びたくなかったから、シエンってずっと呼んでた……」

 

 名もなき者ハサーシエンなんかじゃない。大切な貴女を、忘れたくなかった。

 そうシュエルが呟くとハサーシエンは淡く笑った。

 

 「ふふ、へんな子……ねぇシュエル……アンタ、どうして堕天したの……?」

 

 ハサーシエンの問いに、シュエルは抱きしめていた腕を緩めた。

 ほとんど見えていないだろう漆黒の瞳を真っすぐに見つめる。

 

 「好きな人が、出来たの……お腹に、赤ちゃんもいる……」

 「……!?」

 

 驚きにハサーシエンの瞳が見開かれた。

 それは”黒”の天使である自分と同等か、それ以上の大罪ではないか。

 

 なんだ、自分だけが罪な存在かと思ったら遠く離れていたついも同じだったのか。

 そう思うとほんの少しだけ心のしこりが取れたように感じて、つい小さな笑いがこみ上げる。

 

 「そう……じゃあ……せいぜい幸せになりなさい……」

 

 なんだか不思議と満たされたような気分だった。

 温かくて、穏やかで、呼吸も一気に楽になって、ハサーシエンは満足気にシュエルに体を預けて目を閉じる。


 

 

 「わたしも……もし……つぎがあるなら……もう黒じゃなくて……金と、緑と、青と……うん、そんなアンタの………セカイみたいな色がいい……な……」



 

 その言葉を最後に、ハサーシエンから力が抜け落ち、パタリとも動かなくなった。


 

 眠るように目を閉じたハサーシエンの頬にシュエルの大粒の涙がこぼれ落ちる。


 

 「うん……そうだね。……分かった。じゃあ……今度は二人じゃなくて……三人がいいね……」

 

 体温の残るハサーシエンはまだ温かくて、それでも微動だにしないついをシュエルは強く抱きしめ祈った。

 

 ばさりとシュエルが翼を広げれば、闇に染まるはずのそれは純白のままキラキラと光っている。

 シュエルは泣きながら、精一杯微笑んだ。

 

 「おやすみ、シエン。私の大切なついの天使…………次に生まれてくる時は、どうかあなたの望む色でありますように」


 

 シュエルがハサーシエンの額にキスをすると彼女の全身は光に包まれ、しゅわしゅわと数多の粒子に変わっていく。

 

 全身が粒子となったハサーシエンはそのまま閃光となり、ぱぁんと三つに分かれて空に砕け散った。


 

 「…………」

 

 何も言わずに後ろから抱きしめてくれる腕にシュエルはぎゅっと縋る。

 

 「……大丈夫。また……またきっと、いつか必ず逢えるから……ッ」



 

 それから先の声は嗚咽にまみれて、もう言葉にはならなかった。


 




 その日以降、天を捨てた彼らは神から頂きし“エル”の名も捨てることとなる。

 

 今回の最大の反逆者、元天使長の熾天使ルシフェルはルシファーと名を改め、神の最愛いとしごシュエルもシュリとその名を変えた。

 

 どうせ変えるならまるっと変えたいとベルゼビュートと名乗ったバアルだったが、天使時代に少々因縁があったベルフェゴールに同じ”ベル”の名は気持ち悪いと言われ、会って早々に半殺しの目にあっている。

 聞いた話によれば天使時代に付き合っていたらしいのだが、意外と今でも気にしているようだ。

 

 もちろん戦争が終わった後には真っ先にシュリからルシファーをに連れ込んだ報復を受けていたのは言うまでもない。

 

 軍勢を率いて地獄にやってきたルシファーにサタンは人手不足が解消されると大いに喜び、その後、彼の口添えによって地獄を統べる王――魔王としてルシファーはかの地に君臨することとなった。

 

 魔王となったルシファーとその最愛のシュリの最初の仕事は聖力マナ……いや魔力ハヤの低い堕天使達の為の住み場を作ることである。


 シュリが祈れば、まるで天界と見紛う程に緑豊かな肥沃の大地が数階層にも広がり、地獄の空気は浄化されたかのように一気に様変わりした。


 さらにそれにルシファーが加護をかければそれは強靭な護りの結界となり、それに感動したサタンがどうせならここを王都にしようと勝手に決めてしまった。

 最終的に地獄は、魔王城の周辺に弱き堕天使、そして城から離れれば離れるほど強者が住まう土地になっていく。


 

 強者の土地に住み着いたのはやはり天使時代でも階級の高かった面々で、元座天使のアメンはマモンと名を変え、地獄各所で鉱山を大量発掘しては見事に輝く万魔殿を建築する程にバイタリティ高めな活動に笑顔で勤しんでいた。

 

 元智天使だったサヤリヤも名をアスモデウスとし、最愛のサラの為に魔改造を繰り広げた城で仲睦まじく暮らしているとの話だ。

 実際は城から全く出てこようとしない引きこもりなので詳しいことは分からない。

 

 ルシファーとベルゼビュートの元副官たちはベリアルとアスタロトと名が変わっても、何だかんだで相変わらず元上司の補佐についており、王都運営の慌ただしい毎日を送っている。

 

 あのサタンでさえ甲斐甲斐しくリリィ――リリスにアプローチをした結果、なんと同棲にまでこぎ着けたらしいのでそろそろゴールは近いかもしれない。


 

 そんな騒がしくも満ち足りた日常の中で、ルシファーとの愛の結晶を身籠っていたシュリは全堕天使待望のつい悪魔きょうだいを無事、出産した。

 

 それは不毛の大地と揶揄された地獄での初の生命誕生の瞬間で、魔王夫妻の婚姻も併せて地獄は七日七晩のお祭り騒ぎで盛り上がり、その日以降、堕天使達の間に生まれた他の悪魔達も増え始めて地獄では空前の第一次ベビーラッシュが巻き起こっていく。


 

 ルシファーとシュリの子供たちは”ヴァシュロン”と”ルトゥレクト”と名付けられ、両親や他の堕天使らに見守られてすくすくと成長していき、父親によく似た好青年へと育っていった。


 

 事件が起きたのは地獄とは思えぬ穏やかで平和な時間が過ぎていた、そんなある日の事だった。

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