第28話 決別の時


 「……久しいな、ミカエル」

 

 薄い金色こんじきの長い髪を空に揺らし、血にも似た赤い瞳を忌々しそうに歪ませながらミカエルは口を開いた。

 

 「恐れを知らぬ大逆賊めが。最愛いとしご様は返してもらうぞ」

 「悪いな。シュエルは私のものだ、返すいわれはない」

 「ッ!戯言を!」

 

 激高したミカエルが振り落とした剣の重みで足が一瞬地にめり込んだが、その勢いを利用してルシフェルは剣を滑らせ反撃に転じる。

 目にも見えぬ剣戟の残滓にバアルは聖力マナを展開しながらも乾いた声で笑った。

 

 「えっぐい兄弟喧嘩だなぁ~……いやー俺にあんなついがいなくてほんと良かったー」

 

 バアルには天使にしては珍しくついというものが存在しない。

 一時期は周りのついを羨ましく思った時もあったが、今となってはごめんこうむりたいものだ。

 

 剣と聖力マナが激しくぶつかる中、ついにルシフェルの頬にミカエルの一撃が深く刻まれ、血が舞う。

 

 「ルシフェルっ!」

 

 シュエルの悲鳴をバアルが片手で制した。

 任されている以上、絶対に彼女シュエルをここから動かすわけにはいかない。

 

 ぐっとルシフェルは己の頬を拭う。

 シュエルの回復が利かないのはミカエルの聖剣が神から賜ったものだからだろう。

 


 「――お待ちください」

 

 ふたりの間に見知った声が静止に入った。

 天使軍の後ろから先ほどまで満身創痍だったはずの天使が姿を現したのだ。

 

 「……何のつもりだ、ラグエル」

 

 ミカエルの睨みにもラグエルは表情を変えずに歩み出る。

 すっかり彼女の傷が癒えているのを見るに後方には大天使ラファエルでもいるのだろう。

 

 そんな彼女の手にはボロボロになった天使が掴まれ、引きずられていた。

 肌が黒く、髪も黒い。おそらくはネトーシュ区の天使だ。

 

 「途中でを見つけました。……最愛いとしご様、貴女にならこれが何だかお分かりでしょう?」

 

 ざっと地面に打ち捨てた天使の顔を足先でシュエルに向かせる。

 一拍置いて、その顔を見るなりシュエルの瞳が目一杯見開かれた。

 

 「駄目です、シュエル様っ!」

 

 咄嗟にバアルが走り出すシュエルを抱きとめれば、翡翠色の瞳に涙が浮ぶ。

 

 制止するバアルの腕の中からシュエルは目いっぱい手を伸ばした。

 自分はその”黒”を、昔から知ってるのだ。

 

 幼かったあの日、あの施設で離れ離れになってしまった大切な大切な自分のつい

 優しくて大好きだった、世界でたった一人の自分の姉。

 

 ずっと探し求めていた、ハサーシエン、その天使ひとに向かって。



 「……おねぇちゃん……!」

 




 

 ぼんやりとした意識の狭間で失ったはずの妹の声が聞こえた。

 

 殴られるのも馬鹿にされるのも慣れたはずの世界で、自分を呼ぶその声をハサーシエンは手繰り寄せるように思い出す。

 転がされた大地の上から意識を無理矢理叩き起こせば、大勢の天使達に囲まれるようにして太陽がこちらに手を伸ばしていた。

 

 (あぁ……あの子と同じ、金色)

 

 思い出の中にしか存在しない、自分のついだった大切な妹。

 その見た目の美しさと聖力マナの強さで神の最愛いとしごとして寵愛を受け、”神の楽園エデン”で何不自由なく暮らしているという自分とは真逆の存在。

 

 (私は、こんな世界でしか生きられないのに)

 

 何千、何万回もそう思ってきた。

 ついの天使なのに、片や神の寵愛を受け、片や神に見放されるとはあまりにも残酷すぎやしないだろうか。

 

 ぐいっと頭を掴まれ、上半身を無理矢理起こされると体中に痛みが走る。

 

 (そう、だ。戦争に……巻き込まれた)

 

 断片的な記憶を繋ぎ合わせて現状を理解する。

 ほんの少し前にお偉い天使サマが禁忌を犯して堕天するからそのついでに一緒に堕天しないかといった旨の話が回ってきたのだ。

 堕天の際に見放されし者ネトーシュ区も巻き込まれてしまうだろうからと。

 

 それに対してハサーシエンは詳しい話は聞かずにそのままこの地に残ることを選んだ。

 生きていても死んでも、別に運の悪い世界に変わりはないのだから。

 

 そんなこんなでいつの間にか戦争が始まり、気が付けば自分がいた集落は火の海と化して死にぞこなっていた所、名も知らぬ天使が自分を見つけてここまで連れてきた。

 

 (でも、一体何のため……?)

 

 自分には何の価値もない。だって私は名もなき者ハサーシエンなのだから。

 そう思っていたのに、次第に目の前が明るくなって世界のピントが合うとハサーシエンは太陽の正体に気付いた。

 

 (ま、さか……)

 

 泣きながら手を伸ばしてくる少女の顔には面影がある。

 

 キラキラと太陽の様に輝く黄金の髪と新緑を思わせる綺麗な瞳。お気に入りだった青色の服を身につけたあの子はとても可愛らしかった。


 

 『いや!いやだ!はなして!やだ!……おねぇちゃん!おねぇちゃん!』

 「……おねぇちゃん……っ!」


 

 あの日と同じ声色が、自分を呼ぶ。

 気が付けばいつだか聞いた……あの子の名前がぽろりと口から滑り落ちていた。


 

 「シュ、エル……?」


 途端に無理矢理持ち上げられていた頭を激しく地面に叩きつけられ、ハサーシエンは弱々しく呻く。

 遠くでシュエルの悲痛な声とそれを止める声が聞こえた。

 

 「貴様ごときが最愛いとしご様をお名前で呼ぶなど万死に値するぞ。ネトーシュごときが」

 

 だらりとした生温かい感覚は頭から流れる血のせいだろうか。

 ほとんど動かない体は為されるがままに地面を這った。

 

 「さて、最愛いとしご様。我々にとってはこのネトーシュがこの場で死のうがなんの問題もございませんが、お優しい貴女様はコレをお見捨てにはならないはずだ。……さぁ今なら主も許して下さいます、共にエデンへ帰りましょう」

 

 朧げな視界に愛らしいついのくしゃりと歪んだ顔が見える。

 脅迫まがいの発言に一体どちらが天使なのだろうと嘲笑が込み上げたが、それももうハサーシエンの顔に出る事は無かった。


 

 意識が保てなくてゆるりと瞼が落ちるその瞬間。

 

 ハサーシエンの耳に届いたのは、やっぱり"おねぇちゃん"というあの妹の悲痛な叫び声だった。


 



 

 「あいつら……やり口がえげつねぇ」

 

 シュエルを抱きとめたまま、バアルは眉を顰める。

 

 彼とハサーシエンの関係は一度きりの客と娼妓のイケナイ関係だが、それでも打ち捨てられたハサーシエンに心が痛まない訳ではない。

 ぎりっと自身の腕にシュエルの指がくい込む感覚にバアルはシュエルを抱きとめる腕に力を込めた。

 

 (それでもシュエル様を行かせる訳にはいかない)

 

 最悪の場合、自分が彼女を地獄まで連れて逃げるしかない。彼女さえ逃げ切れば、ルシフェルは自力で追ってくるだろう。

 ギリギリの状態で、ルシフェルがどう動くか目線をずらした瞬間だった。

 

 凄まじい轟音と共に天使軍後方の大地が横一線に割れて足場が崩落し、何事かと振り返ったミカエル達の目が驚きに満ちる。

 大地の中から現れ、ゆらりと宙を舞ったのは銀色に輝く鱗をもつ巨大な竜だった。

 

 「あれ、は……!」

 

 ミカエルの声が震える。

 そうだ、自分はあの白銀の竜と以前も対峙したことがあるのだ。


 

 「ほんとにあいっかわらず、天界はねちっこいことしてんなー」


 

 そんな竜のてっぺんから年若い少年の声が聞こえ、あぁそうだ、と怒りにミカエルの髪が逆立った。

 前回の戦争で地獄へと取り逃した反逆者のリーダーの名を、忘れることなどできやしない。

 


 「サタン――ッ!」


 

 少年は嗤い、それを見て逆上したミカエルは空に舞い上がった。

 ミカエルの純白の翼とは違い、サタンの背中に生えた翼は真っ黒に染まっている。

 

 「よーミカエル。おひさしぶり、悪いけど今回も逃げさせてもらうよ」

 「っ!ふざけるな!」

 

 光の速さでミカエルの聖剣はサタンの頭上に振り下ろされたが、サタンの周りに張られた魔力ハヤがそれを通さない。

 

 ニッとしたサタンの顔を間近に捉えながらも、弾き返されるように一瞬よろめいたミカエルを元熾天使の銀竜レヴィアタンのしっぽが薙ぎ払い、ミカエルは百メートル近く宙を舞った。

 

 「く!」

 「はは、流石はミカエル。レヴィ姐の一撃を受けて無事とか一応軍団長張ってることはあるんだな~……まぁ、今回の俺達の用はお前じゃないんだよね。……あっ、いたいた」

 

 さも興味なさげにサタンは視線をミカエルから地上に戻し、ぶんぶんと嬉しそうに手を振る。

 

 「ルシ兄ー!遅くなってごめんなー!避難終わったぜ――!」

 「!」

 

 はっとしたミカエルが地上に目を向けるとそこには最後の天使達が狭間の境界線を越えるのが目に映る。

 

 (……しまった!)

 

 自分の目をルシフェル達から逸らすのが目的だったのだと、そこでようやくミカエルは気付いた。

 最後まで狭間の地と地獄との境界に立っていたルシフェルがシュエルを抱き上げ、無感情のまま自分を見上げている。


 「ルシフェル!」

 

 怒声にも似たミカエルの叫びが届く頃には半分地獄の地に足を踏み入れたルシフェルの六対十二翼ろくついじゅうによくが先端の方からじわじわと黒に染まっていった。

 

 ミカエルの目に、改めて兄に抱かれている金色の天使が映る。

 

 例えルシフェルを逃したとしても彼女だけは、彼女だけは地獄に行かせるわけにはいかない。

 幸いなことに境界線の上にいるというのに彼女の翼は純白のまま。

 

 ――まだ、彼女は”堕ち”ていないのだ。


 「シュエル様!お戻りください!」

 

 ミカエルの言葉にシュエルは首を振る。


 「ごめんなさい、ミカエル。私はもう……エデンには戻らない。ルシフェルと、子供たちと一緒に生きていくの」

 「ッ!?」

 

 そっとシュエルの手が己の腹を撫で、その言葉の意味をミカエルが理解するころには彼らの姿は完全に地獄側へと足を踏み入れていた。

 赦されることのない更なる禁忌をその時に初めて知り、ミカエルは目を血走らせながら己のついを射殺さんばかりに睨みつける。

 

 「ルシフェル!貴様っ!貴様は……最愛いとしごを地に堕とすだけでは飽き足らずに”悪魔”まで生み出したかっ!」

 

 背中に届く声に地獄の瘴気を纏いながらも一度だけルシフェルは薄く笑う。

 彼の六対十二翼ろくついじゅうによくの翼はもう、完全に漆黒に堕ちていた。

 

 「ではな、ミカエル……神から賜ったエルの名はこの場で捨てるとしよう。これからは――」



 

 堕天使・ルシファーと。

 

 そう言い置いてから、彼は自身の最愛を抱いたまま地獄の闇に完全に姿を堕としたのだった。

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