第30話 願い

 

 「――天界がか」

 

 ベリアルの報告にルシファーは眉をひそめた。

 あれから長い時が経ったが、彼の頬にはミカエルから受けた傷が今でも刻まれている。

 

 報告書片手に元サタナエルことベリアルはやや表情を陰らせた。

 

 「えぇ。わたくしめも遠目には確認して参りましたが、あれはどうもきな臭いですねぇ……天使がこちらにくる事はございませんでしょうが、何だか嫌な予感がいたします」

 

 境界を越えれば翼の色が染まってしまう為、天使が直接狭間の地を越えて地獄に来ることはない。

 だが、すでに瘴気に染まってしまった堕天使は問題なく出入りできてしまうのだ。

 

 だからこそ、それを激しく嫌悪した天使軍があの場所に砦を築き、地獄から何人なんびとたりとも寄せ付けないよう見張っている。


 ……かつてのサタン達が地下通路を作って普通に天界に出入りしていたのは公然の秘密だ。


 

 「天界で何かあったのかしら」

 「シュリ。ルッツもか」

 「おやシュリ様にルトゥレクト様。おはようございます」


 執務室に入ってきたのは魔王ルシファーの最愛の妻シュリと、息子の片割れルトゥレクトだ。

 

 まだ少年さが残るルトゥレクトはシュリによく似た真っ白な肌に銀色の長い髪と青い瞳、天界で言えば上位天使になりえるくらいの美しい容姿をしている。

 逆につい片割れあにヴァシュロンは浅黒い肌に短めの黒髪に赤目といった、天使から見たらいかにも”悪魔”めいた容姿だった。

 

 「おはようございます、父上にベリアルも。必要なら僕が狭間の地を見てきましょうか?天使軍に顔は割れてないし、見た目だけなら誤魔化せる自信はありますけど」

 

 息子の発言にシュリは首を振って駄目よと止める。

 

 「ルッツは絶っっ対に駄目。あなた、どんどんルシファーに似てきてるから逆に目立つもの」

 「そうですねぇ~まだいとけなさは残りますが、その容姿でルシファー様に似た顔立ちだと逆に警戒されかねませんよ。かと言って魔力ハヤの低いものを行かせるわけには参りませんし、我々だと全員が極悪非道な指名手配犯のようなものですからねぇ」

 

 有名人は大変ですよねぇと深々とため息をつくベリアル。

 こうなると道は一つしかなかった。

 

 「ルッツ。ヴァッシュはどうした」

 「……さぁ?どうせベルゼビュートの所じゃないですか?」

 

 さも興味なさげにルトゥレクトは肩をすくめる。またあの息子はベルゼビュートあいつの所に入り浸っているのか。

 

 「分かった。ひとまず城はお前に任せる」

 「え、まさか父上が行かれるんですか?」

 

 驚きに目を丸くする息子に歩み寄って、シュリによく似た猫っけな髪を軽く撫でるとルシファーはベリアルに視線を向けた。

 

 「俺が行った方が早いだろう。ルッツの補佐は任せるぞ、ベリアル」

 「畏まりました、我らが王よ」

 

 恭しく頭を下げるベリアルの姿は天使時代から何一つ変わらない。

 

 変わったとすれば、今ルシファーの前でにっこりと凄味のある顔で微笑む妻の存在くらいだ。


 

 「……シュリ」

 「いーや♡」

 

 分かってはいる。分かってはいるが、一応このやりとりは大事だと思う。

 

 この愛らしい妻は自分が単独で動くことをあまり良しとはしない。

 ベリアルの昔の言葉を借りるとするなら”愛した女性一人くらい手元でお守りなさい、魔王ともあろう方が情けない”といった所だ。

 

 諦めと共にため息をついてからシュリに手を差し出せば、花のような笑顔で返される。


 「ルッツ、ヴァッシュが戻るまではここをよろしくね」

 

 ご機嫌に笑って頬にキスをしてくる母にルトゥレクトも「父上も母上もお気をつけて」と小さく笑んだ。


 

 これが、両親との別れの挨拶になるとも知らずに――

 


 

 

 

 久しぶりに訪れた狭間の地は相変わらずの荒野で、あの時と何一つ変わっていない。

 

 マントで姿を覆い、自身らに同化の魔力ハヤを纏ってシュリとルシファーは狭間の大地に降りたった。

 

 「……うん、ベリアルの言う通り。天使達の聖力マナが少ないね」

 「あぁ、ただ残っている聖力マナは強いものばかりだ。数ではなく、戦力で揃えた可能性も無きにしも非ず、か」

 

 しかし、今までの国境警備隊は中隊規模の戦力を有していたはずだ。長い間それは変わらずに、急に変わったとすれば。

 

 (恐らく、天界でがあった)

 

 だが、それを知るすべは地獄にいるルシファー達に今はない。

 ネトーシュ区に繋がっていたあの地下も第二次天使戦争の時に壊れてしまい、天界との繋がりは今や一切残っていないのだ。

 

 「!……シュリ!」

 

 今まで感知できなかった殺気を真横から感じてルシファーは咄嗟にシュリを抱いて空に飛んだ。

 六対十二翼ろくついじゅうによく黒翼こくよくが宙を舞って、先ほどまで自分達がいた場所に激しい斬撃が落ちる。

 

 「っ……あれ、は」

 

 狭間の地は曇天の空にもかかわらず、彼女が身にまとう白銀の鎧がまるで星のように煌めいた。


 「さすがは魔王ですね。この鎧は神の祝福を得ているので易々に見破れないはずなのですが」

 「……まだいたのか、ラグエル」

 

 そうだ、あの時指揮官として砦を守っていた天使だ。

 戦闘になると判断したシュリは己の四対八翼よんついはちよくを広げた。

 

 長年を地獄で過ごしたはずなのに、一切瘴気に染まらずに天使と変わらないシュリを見てラグエルは恍惚そうな表情を浮かべる。

 

 「あぁやはり貴女は我らが神の最愛いとしごだ。その美しき純白の翼が証明している。例え闇の元にあろうとも貴女は穢れなき神の最愛いとしごなのです」

 

 さぁ共にエデンへ帰りましょうと、ラグエルはあの時と同じセリフを口にした。

 シュエルは静かに彼女を睨む。

 

 「残念ね、ラグエル。私はお父様に隠れて自分の守護天使を愛して悪魔を身籠るような女なの。何なら純潔はエデンで捨てたわ」

 「あぁ分かっております、お可哀想なシュエル様。そこの男にたぶらかされたのですね。大丈夫です、ご心配なさらなくても我らが主は悔い改めればその罪ごとお許し下さいます」

 「……ッ」

 

 シュエルは悟った。


 ラグエルの目には、もう、光がない。

 

 (駄目……彼女にはもう話が通じない……)


 

 「――昔はそこまでではなかったが、変わったな。ラグエル」

 

 漆黒の長剣を握ったルシファーがシュリを庇うようにラグエルに対峙した。

 恍惚としていたラグエルの表情がぐしゃりと醜く歪み、血走った目で一気にルシファーに迫る。

 

 「変わったのは貴様だろう!魔王ルシファー!」

 

 激しく大剣が振り下ろされ打ち合った剣が鳴き、僅かにルシファーの表情が変化する。

 

 「神を裏切り!最愛いとしごを奪い!多くの天使達をそそのかし!一体貴様はどれだけの罪を重ねれば気が済むのだ!?」

 

 雷撃と見紛う程に繰り広げられる剣撃は以前の何倍も重く、気を抜くとルシファーでさえ避けきれない。

 追撃をするように繰り出された攻撃を避け、反撃に転じようとしたその瞬間。

 

 「!?」

 「ルシファー!」

 

 遠くでシュリの悲鳴が聞こえる。


 

 一瞬、何も感じずに呼吸が止まって、次の瞬間には膨大な聖力マナの力で圧し潰されるように全身と内臓全てが焼き尽くされた。

 目の前を閃光が走り、全身から血が噴き出して己の魔力ハヤが流れ落ちる感覚に、本能的にルシファーは察する。

 

 これは。

 

 ゆるりと視界が揺れて体が大地に落ちる。

 叩きつけられる瞬間に今にも泣きだしそうなシュエルに抱きとめられた。

 

 目線の先。

 

 先ほどまで戦っていたラグエルの顔を見ればそこに、彼女の表情はない。

 

 

 (――神の、いかづち)


 

 は、ゆっくりとシュリをみて微笑んだ。


 

 『我が幸い、我が愛しい娘よ。私はそなたへの愛故にそなたの罪を全て赦そう。……その穢れはもうじき死ぬ。さぁ父の元へ戻るが良い。さすれば前と同じように完璧なそなたに戻し、相再び共にエデンで過ごそうではないか』


 

 シュリの瞳が激しく揺れる。

 そうだ、そうだ、この声……この声は……!

 


 「お……父様……」


 

 呆然とした声でそう呼ばれると、ラグエル――創生神は慈愛のこもった微笑みで応えた。

 


 恐らく、神の依り代になったラグエルはもう存在していない。

 ここにいるのは天界の長であり、全知全能の、創生神そのひとなのだ。

 

 「にげ、ろ」

 

 顔を歪ませたルシファーをシュリは強く抱きしめる。

 先ほどから治癒をかけているけど、全く彼の魔力ハヤの流れが止まる気配はない。

 

 このままでは。

 

 (このままではルシファーが死んでしまう……っ)

 

 あの時のハサーシエンのように。

 

 そう思ったら全身が滝に打たれたように震えた。

 

 (それだけは、それだけは絶対に認めない……!)

 

 創生神はそんなシュリの様子を興味深げに見て、微笑んでいる。

 所詮は篭の中で育った愛らしい娘だ。その穢れルシファーが消え去れば自分の思い通りになるだろう。

 

 そう思ってルシファーが死ぬまでの時間をあえて待ってやろうと構えた時だった。

 

 ザシュン!

 

 『!』

 

 創生神の目が驚きに大きく見開く。

 ぼたりぼたりとシュリの背中から鮮血が溢れ、彼女の服がみるみるうちに血に染まっていった。

 

 シュエルの純白の翼が、四対八翼よんついはちよくの美しい純白の翼が、無残にも一対を残して彼女自身の手によって放たれた斬撃で切り落とされたのだ。

 

 『な……何をしている!?我が娘よ!』

 

 余裕をなくした創生神には見向きもせず、シュリはルシファーを強く抱きしめた。


 

 「必ず、見つける。必ず貴方を見つけるから。だから待っていて。……ずっと、ずっと大好きよ、ルシファー」

 

 まだ彼の息は限界の所で途絶えてはいない。ハサーシエンの時とは違って今ならまだ間に合う。

 

 翼には想像しえぬほどの果てしない力が眠っているから、シュリはそれを利用して己の翼と引き換えにルシファーを逃すことを選んだ。

 

 まだ、息があるうちなら、転生させることが出来るから。


 

 『なんと、なんと愚かなことを……』

 

 これでシュリは、もう二度と今までのように力をふるうことは出来ない。

 

 それでも彼と共に生きると決めた時、後悔はしないと誓ったのだ。

 

 愕然と呟く創生神に、シュリは血だらけの満身創痍の体で挑発的に微笑んだ。


 


 「その愚かさに、あなたは屈するの。――さようなら、お父様」

 

 『シュエル!』


 


 ルシファーを抱きしめたまま、シュリは目映い閃光となって世界から霧散し、跡形もなく消え去っていった。


 

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