第26話 開戦

 

 慌ただしく移動が始まった。

 

 すでにこの一カ月半の間に少しずつ避難は行われていたようで、今ここに残っているのはリリィやサラと言った天使達に関りがあるネトーシュ区の面々と非戦闘員の天使達がおもだ。

 だが、まだまだ時間稼ぎが必要である。

 

 「だからシュエルはリリィ達と」

 「嫌」

 「……シュエル」

 「嫌」

 「シュエル、頼むから言う事を聞いてくれ」

 「絶対に、嫌」

 

 ルシフェルはため息をついて頭をおさえた。

 こうなる事が分かっていたからギリギリまでシュエルには言わなかったのだ。

 

 この少女の性格を考えれば、自分だけが安全圏にいるのを好むわけがない。だが、彼女の身に何かあってからでは遅いのだ。

 説得をしようと口を開きかけた時だった。

 

 「ふふふ、こういった時は男が折れた方がよろしいですよ、ルシフェル様」

 

 ご機嫌な声色で話しかけてきた男にルシフェルは視線を向ける。副官のサタナエルだ。

 

 彼は恭しくシュエルに礼をすると、にこりとルシフェルに微笑んだ。

 

 「こういう場合、こじれますと非常に面ど……いえいえ大変な事になります。シュエル様は後方支援として一緒にお連れした方が良いでしょう。お互いが目のつく場所にいた方が安心でしょうし、お二人が揃っている方が軍の目も引き付けられます」

 「……だが」

 「”だが”も”でも”もございません。愛した女性一人くらい手元でお守りなさい、天使長ともあろう方が情けない」

 「…………」

 「シュエル様もそれでよろしいですね?初めての戦場です、ついて来られる覚悟はおありですか?」

 「ぁ、はい……っ!」

 

 何だかあっという間に彼のペースに流されてしまう。

 当のサタナエル本人は満足げな表情でうんうんと頷いた。

 

 「ではこれで決定です。残りの避難民はサヤリヤ様とアメン殿、あとわたくしめにお任せください。ルシフェル様、先に新天地でお待ちしておりますよ」

 

 ご武運を、と綺麗な一礼を残してサタナエルは去っていく。

 まるで嵐のような男だった。

 

 彼が向かった方には物資運搬の指示を出すアメンやリリィ達の姿がある。

 そういえば先ほど彼女はネトーシュ区の天使だとバアルから聞いたところだ。

 

 (もしかして)

 

 考えるより早くシュエルはリリィの元に駆け出していた。

 後ろからルシフェルが名前を呼ぶ声がしたが今は無視をする。

 

 「あ、の!」

 「わ、ぇ……シュエル様?……ど、どうされたんですか?」

 

 突然話しかけられて驚いたリリィが目を丸くした。

 少し呼吸を押さえて、シュエルは尋ねる。

 

 「ハサーシエンという……天使を、知りませんか?」

 「ハサーシエン?」

 

 リリィの顔色が少し曇った。

 バアルからシュエルのついの天使がハサーシエンだと聞いていたからだ。

 

 戸惑いながらも、言葉を選ぶようにリリィは答えた。

 

 「彼女は……ハサーシエンはここにはいません。自分の意志で、ネトーシュ区に残ると」

 

 その言葉にシュエルの大粒の瞳がこれ以上ないほどに見開かれた。

 


 


 

 (どうして……?)

 

 そういえばルシフェルも言っていた気がする。

 ”己の意志でここに残ることを決めた”天使達がいると。

 

 (でも、だって!ここはもうすぐ戦場になるのに……!)

 

 後方からは天使軍、前方には国境警備隊に挟まれるという圧倒的に不利な状況でこの第二次天使戦争は開戦される。

 この辺りにある廃墟同然のネトーシュ区はひとたまりもないだろう。


 (……シエン)

 

 道中のあの廃屋に自身のついはいたのかもしれない、そう思うと胸が苦しくなった。

 

 ぐいっと肩を抱かれシュエルは軽くよろめき、力強い体がそれを受け止める。

 

 「引き留めて悪かった、リリィ。そちらは頼む」

 「あ……は、はい!」

 

 慌てて頭を下げて踵を返し戻っていくリリィの後ろ姿を眺めて、シュエルは抱きつくようにルシフェルの服をぎゅっと握りしめた。

 

 今更、ハサーシエンを探す時間がないことなどシュエルにも分かっている。

 

 「……もしも彼女を見つけたら知らせる。……それでいいな」

 

 

 自分を撫でる手はどこまでも優しい。

 それがどれだけシュエルの心をおもんばかっているかよく伝わってきたから、何も言わずに小さく頷いた。

 

 もう、この戦いは誰にも止められないのだ。



 


 

 ときの声が響く。

 

 界層かいそう警備兵などとは比べ物にならない、凄まじい圧の聖力マナが天上から迫ってくる。

 崩した界層もそろそろ突破されてしまうだろう。

 

 やれやれといった様子で肩をすくめたバアルと共に、ルシフェルはシュエルを抱き上げて飛び立った。

 

 「とりあえず、前面の国境警備隊を蹴散らさないと挟み撃ちはさすがに厳しいね。後ろの足止めは、まぁ俺がやるからルシフェルは前を頼むよ。……突破したらすぐ呼んでよね?」

 「……いけるか?」

 「冗談でしょ、俺こう見えても豊饒の大地を司ってんのよ?足止めくらいちゃんと出来るし、大体ここじゃお前の次に階級高いから一応は前に出とかないと格好つかないでしょ」

 

 それに……と続けたバアルの視線の先を辿ったシュエルは思わず息を呑む。

 赤黒く染まった空の下に、大地を覆いつくさんばかりの天使達の姿があった。

 

 「……すごい」

 

 地下だけでもすごい人数だと思ったのに、あれの何十倍……いや下手したら何百倍あるのだろうか。


 (これがバアルかれの言っていた、軍勢……)

 

 あの日たった二人で決意した逃避行は、こんなにも大事おおごとになっている。

 

 「さてと、天使長殿。お言葉を頂いても?」

 

 空中で止まったバアルが面白げに笑った。

 こんな緊迫した場面でもこの男はいつもと何ひとつ変わらない。

 

 ばさりとルシフェルは六対十二翼ろくついじゅうによくをはためかせ、地上の軍勢の端から端まで目線を向けて静かに口を開いた。

 その瞬間だけは天使軍の迫る音が掻き消えたように静まりかえる。

 

 「これより、我々は神に反旗をひるがえす。その翼が染まる覚悟……全軍、相違はないな」

 

 ルシフェルの言葉に咆哮にも似た叫びが大地を激しく震わせた。

 

 決して天使軍にも引けを取らないほどの肌に突き刺さる様な聖力マナの圧は、”闇”の天使として忌避されながらもその実力一つで頂上までのし上がった至高天使に呼応するかのように大地に広がる。

 

 天使になるその過程で、ルシフェルのそのカリスマ性は多くの天使達を惹きつけてきた。

 それでこそ彼は、”闇”の天使でありながら最高峰の天使長と成りえたのだから。

 

 そして、これがシュエルが初めてみる天使長・天使ルシフェルとしての姿だった。

 

 「……ルシフェル、下ろして」

 

 少し硬いシュエルの声に、それでもルシフェルは何も言わずに彼女を望み通り宙に下ろす。

 彼の手が離れる瞬間にばさりとシュエルの四対八翼よんついはちよくの純白の翼が空に広がった。

 

 (大丈夫。……もう十分守られてきた)

 

 そっと下腹部をひと撫でしてシュエルは眼前に広がる軍勢に目を向け、姿を覆っているマントを取り払う。

 

 (私はもう、守られるだけのお姫様じゃない)

 

 キラキラとシュエルの髪が朝日のように空に舞い、宝石のような瞳が世界を捉えた。

 

 初めて見るシュエルの姿に万の軍勢が息を呑んだように静まり返る。

 彼女こそが神の幸いと呼ばれ、至宝天使であり、神の最愛いとしごと寵愛を受けてきた、その天使ひと

 

 そして、神に最も信を置かれた天使長でもあり至高天使のルシフェルが、堕天を選んでも愛すると決めた、その天使ひとだ。

 

 「私が出来ることは、少ないけれど……どうか皆が無事でありますように」

 

 祈るように目を閉じれば、彼女の純白の八枚翼が淡く光り、もれ出した粒子が辺り一帯に舞い散る。

 それが各々の体に触れた途端、脈打ったように体が高揚した。

 

 シュエルは天界の加護をたった一人で受け持っていたほどの聖力マナを持つ天使だ。

 そしてそれは守護範囲内の能力を上げる加護と護りと癒しの力を有する。

 

 「す、っご…………」

 

 思わずと言った様子でバアルが呟いた。

 これだけの軍勢をたった一人の聖力マナでカバーするなど天界広しといえども恐らくシュエルにしかできない。

 

 あぁ、そうだ。

 今まで見る事は叶わなかったけれど、この聖力マナはいつも自分たちの身の回りに溢れていた。

 たった一人で、閉ざされた楽園で、この祈りを自分たちに捧げていてくれた天使が今、目の前にいるのだ。

 

 シュエルは翡翠色の瞳をそっと開く。

 

 「私は、彼を……ルシフェルを愛してる。だから私達に力を貸してほしい……彼を、誰にも渡したくないの」

 

 そのシュエルの言葉に尚一層激しい歓声があがり、大気が震えあがった。

 

 今ここにいる天使の中にも自身の最愛を持つものは多い。

 だからこそ彼女の気持ちは痛いほど分かる。ついでに公衆面前で自分の最愛に愛してる宣言をされて固まってしまったルシフェルの気持ちも。


 「だってよ、ルシフェル。シュエル様に愛されててよかったな~」

 

 にやにやとしながら寄ってくるバアルをルシフェルは睨んだ。

 シュエル自身はきょとんとした顔をしているのだからもうルシフェルは何も言えない。

 

 (たまに、こういう所があるから手に負えないんだ……)

 

 切り替えるように一呼吸置いた。


 天使の軍勢はもうそこまで迫っている。

 

 

 「……ひとまず、先の国境警備隊を叩く。軍の食い止めが要になるから三分の二はこちらに置いていくぞ」

 「了ー解。ひとまずは……っと」

 

 バアルが天に手を掲げると大地がせり上がるように壁を作り、空を覆っていく。

 途端に激しい迎撃音が周囲にこだまし、ぱらぱらと空の壁が剥がれ落ちた。

 

 「あ~さすがに一枚じゃ厳しいか。まぁ何とかなるでしょ。先に行きなルシフェル、警備隊を蹴散らしてくれないと俺らも下がれない」

 「……分かった」

 

 そう言ってルシフェルは軍の中でも最も機動に優れた数軍だけを連れてその場を離れる。

 シュエルも後に続こうとした所でバアルに呼び止められた。

 

 「シュエル様、ルシフェルのことを宜しくお願いします」

 「えぇ。バアル、貴方もどうか無事で」

 

 シュエルの言葉にウインク一つを返して、バアルは迎え撃つべくして空を見上げた。

 

 ルシフェル達が去ったと同時に天空の壁が一気に瓦解する。

 

 「ははは、お仕事熱心だこと」

 

 軍を引き連れ、その三対六翼さんついろくよくの純白の翼で悠々と現れた天使にバアルは苦笑した。


 

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