第25話 逃避行


 「バアル、予定変更だ」

 

 突如として、自身の執務室に現れた友人にバアルは驚きつつも、うたた寝したままの姿で迎えた。

 

 「んあ?なんかあったか?」

 「……シュエルに、子供が出来た」

 「は!?嘘だろ!?」

 

 ガタンとソファーから飛び起きる。

 

 「だから予定変更だ。今夜決行する。……明日には創生神がエデンに参られるから、もう猶予はない」

 「いや、マジで?マジで子供!?」

 「シュエルの聖力マナに乱れがあった。……ついだ」

 「……まじ、か。いや、信じてなかった訳じゃないけど、タイミングが絶妙すぎない!?あぁ!もう!お前はとにかくシュエル様を守れよ!?お前らがいないと話になんないんだからな!?」

 

 ガチャガチャと部屋中をひっかき回すようにバアルは必要なものをかき集めるとビシリとルシフェルに指差した。

 

 「分かってる。……そっちは任せた」

 「はいはい!天使最後の大仕事、やってやるよ!お前は父親としての最初の仕事だな!奥さんと子供たちをしっかり守れよ!おとーさん!」

 

 そう言い捨てるとあっという間にバアルはどこかに姿を消してしまう。

 

 "父親"と、他人から言われると何ともくすぐったくも不思議な気持ちになった。

 だが、今はその気持ちを抑え込む。

 

 時間は有限だ。

 疑われぬよう不用意に開けてしまった門の説明もしなければならないし、とにかく、時間がなかった。





 

 そうしてその日の夜、天界中に闇が訪れたころにエデンの門は開かれる。

 この純白の世界にはたった一人の少女しかいない。


 扉を開けた”闇”はそっと手を差し出し、優しく少女の名前を呼んだ。

 

 「シュエル」

 

 誘われるように門前にいたシュエルが一歩、また一歩と足を踏み出す。

 差し出されたその手に自身の手を重ねると、腕を引かれ、シュエルはここにきて初めて外に出た。

 

 「覚悟は、いいな」

 

 姿を隠すように頭からマントに覆われる。

 そのまま抱き上げられるとシュエルはぎゅっとルシフェルの首に抱きついて、頷いた。

 

 「さらって……この子達ごと。この神の国せかいから」

 

 

 ――この夜が、全ての運命の始まりだった。


 


 


 うるさいほどの警報が鳴り響く。

 シュエルが一歩エデンから足を踏み出しただけで、瞬く間に天界中に緊急警報が鳴り響いたのだ。

 多くの天使達の気配がそこかしこでして、シュエルは抱きつく腕に力をこめる。

 

 (もう、戻れない)

 

 久しぶりに見る外の空は、夜に覆われて暗いはずなのに緊急警報のせいで真っ赤に染まっていた。

 

 バサリとルシフェルが翼を広げる。

 シュエルの四対八枚翼よんついはちよくよりも多い、六対十二枚翼ろくついじゅうによくの翼はまだ純白のまま。

 

 「ルシフェル様!?一体何ごとです!」

 「その御方は、まさか最愛いとしご様!?ご乱心でもなされたか!」

 

 ルシフェルはシュエルを抱えている手はそのままに、追ってきた界層かいそう警備兵らを片手で薙ぎ払った。

 

 爆炎と黒炎が合わさったような炎が辺り一帯を包み、追従を一切許さない。

 燃えさかる業火の中で、ルシフェルは顔色一つ変えずに追ってきた天使達を見下ろした。

 

 「そうだな。神の宝玉はが貰い受ける。そう神にでも伝えておけ」

 「ま、待て……!貴様……っ!」

 

 シュエルを抱いたルシフェルはそのまま界下かいかへと舞い落ちていった。

 次々と追ってくる攻撃には一目も見ずに全て焼き尽くし、彼はシュエルを抱きしめて最下層まで下りる。

 

 途中で一界下分を全て焼き払って崩壊させたので多少の時間は稼げるはずだ。

 

 降りだした雨に濡れないように聖力マナまとい、ルシフェルは地表につくと抱いていたシュエルをそっと下ろす。

 

 「大丈夫か」

 

 エデンから出たことのない彼女にとって今回の逃走劇はあまりにも強硬突破だった。

 ルシフェルの服を掴んだままシュエルが不安げに瞳を揺らす。

 

 「ここ、は……?」

 「界下かいかの最果て、最下層だ」

 

 ここは彼女が今まで生活していたような穢れなき場所エデンではない。

 

 地獄と狭間の地に接した神から見放されし土地、見放されし者ネトーシュ区がある曇天と雨が支配する楽園。

 

 「シュエル、こっちだ」

 

 すぐそばに廃屋らしき集落が見える。よく見れば薄汚れた視界の先には何か所か同じような集落があることが分かった。

 

 ルシフェルに手を引かれ歩けば、すれ違う建物からは弱々しい天使の気配やこちらを窺う好奇や疑心といった視線を感じ、シュエルは被せられた彼のマントをぎゅっと握りしめる。


 ここは天であって、もはや天ではないのだ。

 

 (シエンも、ここにいるのかな)

 

 自身の対を想うと胸が痛んだ。

 自分はあの神の楽園を退屈だと思っていたけれど、少なからず衣食住に困ることも貧困に喘ぐこともなかった。

 

 ふと目線を廃墟の一つに向ければ、頬のこけた老天使と目が合う。

 骨と皮ばかりなのに瞳だけが爛々と輝き、シュエル達をじっと凝視していた。

 

 「……ッ!」

 「見るな」

 

 小さく洩れた悲鳴ごと力強く肩を抱かれ、シュエルはルシフェルに恐々こわごわと視線を上げる。

 

 「奴らは、己の意志でここに残ることを決めた連中だ。……見なくていい」

 

 少し足早に通り過ぎ、ルシフェルは慣れたように一つの廃墟のドアを開けた。

 

 (私の加護は……ここまで届いていなかったのね)

 

 いつもシュエルはエデンから天界の加護と安寧を祈っていた。

 それでもこの地にはシュエルの加護の一欠けらさえ見当たらないのは、自分の力が足りなかったのか、それともどこかで塞き止められていたのか。

 

 今となってはもう、それは分からなかった。

 

 廃墟となっているのは少し大きめの館の様で、今にも崩れそうな階段を二人は降りていく。

 

 「ルシフェル……今、どこに向かってるの?」

 

 今日の今日、この逃避行が決まったのでシュエルは詳しいことは何一つ分からない。

 少し考えるように間を開けてから、ルシフェルが口を開く。

 

 「今から、ここから狭間の地まで大規模戦闘になる。そちらは俺達が囮になるから、お前はこの先の通路を通って他の天使達と一緒に先に行け」

 「!?」

 (初耳なんだけれど……!?)

 

 天使軍が追ってくることくらいはシュエルにも予想がついたけれど、まさか自分を先に逃がそうとしているなんて。

 

 「ちょっとルシフェル!そんなの私聞いてな……!」

 

 そんなシュエルを遮るようにルシフェルはたどり着いた扉に手をかざし、聖力マナを流す。

 扉が光り、あまりの眩しさにシュエルが一瞬目を瞑った次の瞬間。

 

 「……ぁ……」

 

 その先の光景に言葉を失い、思わずルシフェルからも手が離れる。

 

 そこは幅だけで数十メートル以上もある大きなトンネルだった。

 一体どれだけ距離があるのか全く分からないほどに先は暗くなっており、果ては見えない。

 そして今はその奥にまで多くの天使達の姿があり、ルシフェルとシュエルの姿を見るなりざっと全ての天使達が跪いたのだ。

 

 「シュエル。……来い」

 

 ルシフェルが名を呼べば、呆然と立っていたシュエルはハッとして彼の伸ばされた手を掴んでトンネルに足を踏み入れた。

 

 「……バアル。聞いていた話より多くないか?」

 

 ルシフェルの目線の先には金髪青眼の天使の姿がある。シュエルも思わず彼に視線を向けた。

 

 (彼が、天使バアル)

 

 初めてみる彼はとても天使らしい天使だった。いかにも創生神が好みそうな、清らかで美しい容姿。

 だがシュエルは忘れてはいない。

 

 (よし、顔は覚えた)

 

 自分の最愛ルシフェルにイケナイ遊びを覚えさせた償いは絶対にしてもらう。……全て終わった後に。

 

 シュエルの心知らず、バアルは体制を崩すことなくルシフェルの問いに答えた。

 

 「全ては我らが天使長の人徳の故かと」

 「やめろ気色が悪い」

 「ふふ。せっかく仕事モードで接してやったのに酷いやつだな」

 

 ルシフェルに一蹴されて面白そうに笑いながらもバアルは立ち上がる。

 そうしてシュエルの前まで来ると片手を胸に当て、恭しく頭を下げた。

 

 「お初目御目にかかります、シュエル様。天使バアルと申します」

 

 挨拶を返そうと顔を上げた瞬間にぱさりと被っていたマントがシュエルの頭からずれ落ちる。

 シュエルの金色の髪とその翡翠色の瞳がさらされ、周囲が尚一層静まり返った。

 

 「あ……」

 

 それが誰の声だったかは分からない。バアルの視線も思わず固まった。

 神の宝玉と謳われた至宝天使シュエル。深窓の天使として一部の天使しか見ることが叶わなかった存在だ。

 

 (これは……っ予想以上の美しさだな)

 

 その天使が今、自分たちの眼前にいる。

 自分が天界一の美丈夫だと思っているバアルでさえ認めざるを得ない完璧な美しさで。

 

 (よ……くも、こんな天使を落としたな。どんだけのバイタリティ持ってんだよ)

 

 同時に自身の友人を心の底から尊敬する。

 当のシュエルはそんな様子にキョトンとしていたが、ため息をついたルシフェルにまたマントを被せられた。

 

 「な、なに?」

 「いいから被っておけ。……お前の姿は目の毒だ」

 「ちょっと!なにそれひどいっ」

 「あぁ、文句は後で聞くから今は大人しくしていろ」

 

 宥めるようにシュエルの頭を撫でるルシフェルを、今度は目が点になって見守るはめになった。

 

 (う、ん……疑っていたわけじゃないけど)

 

 自分たちが思っていた以上にこの二人は仲睦まじいようだ。

 

 それはそうだ。

 あのルシフェルが堕天を決断するほどに、この神の最愛いとしごと呼ばれた少女は今となってはルシフェルの最愛なのだから。

 

 (そっか……良かったな)

 

 そんな二人の様子を見て思わずバアルは口元を緩ませる。

 この長い天使生でこんな奇跡に巡り合うことも早々ないだろう。

 

 (守ってやんなきゃな……俺らが)

 

 この二人に幸せな未来が訪れるように。

 切り替えるように頭を振ってからバアルはルシフェルに向き直った。

 

 「とりあえず、さっきの言葉は嘘じゃないぜルシフェル」

 

 なんの話だと視線を向けてきたルシフェルにバアルは続ける。

 

 「お前の人徳って話。この短期間にどんだけの天使が集まったと思う?」

 

 そう言われて見渡せば優に数百は超えている気がした。

 こんなにも多くの天使が一度に介したことなどシュエルは今まで見たことがない。

 

 まるで自分の事のようにバアルは誇らしげに笑う。

 

 「これでも一部だ。全部合わせりゃ天界の三分の一の万の軍勢だぜ。さすがだな、ルシフェル」


 

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