第17話 禁忌の果てに


 鳥の鳴く声でルシフェルは目を覚ます。

 彼にしては珍しく、緩やかな酩酊感のような感覚が体に残っていた。

 長いこと眠っていたように思えたが、あれからそう時間は経っていないようで腕の中の少女はまだ小さく寝息を立てている。

 

 (夢では、ないな)

 

 シュエルの柔らかさが、温もりが、ルシフェルにこれは現実だと教えてくれる。

 彼らはとうとう、天の禁忌を犯したのだ。

 

 熱を確かめるように抱きすくめるとシュエルが小さく身もだえした。

 

 (後悔は、しない……後悔もさせない)

 

 神の目が届かないとシュエルは言ったが、この平穏が長くは続かないだろう事はルシフェルも分かっていた。

 

 創生神はそんなに優しい存在ではない。

 今抱きしめたぬくもりを守るには、彼は覚悟を決めなければならなかった。

 

 (そんなもの、彼女の手を取った時にすでに決めた……)

 

 すでにルシフェルの頭にはある程度の算段はついており、問題とするとすれば協力者が必要ということだけ。

 だが、幸いにもルシフェルにはそれを任せられる友人に心当たりがある。

 

 (面倒だが、バアルの力を借りるか)

 

 そう思うと急いで行動しなければならない。

 門番の自分が長時間エデンの内部にいるわけにもいかないのだ。

 

 名残惜しげにシュエルに口づけひとつ落とすと体を起こし、一瞬で服をまとう。

 

 聖力マナが充満した空間で力を行使するのは暴走する危険があるのは本当だが、熾天使クラスになれば面倒だなと思う程度で出来ないわけではないのだ。

 

 あの聖力マナを使わなかったのは念のためという位で、もしかしたら本能的に彼女といる時間を伸ばしたかっただけなのかもしれない。

 

 何も言わずに帰れば後々拗ねられそうなので、そっとシュエルを起こす。

 

 「…………ん」

 「すまない、眠いな。まだ眠ってていい……だが俺はそろそろ戻らないと」

 

 寝ぼけた眼がルシフェルをぼんやりと捉え、腕を伸ばしてきた。

 

 「……ゆめ……?」

 

 その腕を掴んで、ルシフェルは軽く手の甲に口づける。

 

 「夢にするのか?」

 「……ぃや……」

 

 寝起きだからか、少し幼くも感じる。そんなシュエルの姿に愛おしさを感じてルシフェルはもう一度口づけた。

 そこでふと気付く。

 

 天使が”欲”に手を出すと、しばらくの間は聖力マナが乱れるのだ。

 同じ天使のバアルでさえ僅かに揺らぐほどに。

 

 だが、今のシュエルも自分も乱れた様子は一切ない。なんならシュエルに”穢れ”は一切見られなかった。

 

 (これが浄化の力か)

 

 シュエルの純潔は確かに自分が奪ったのだが、どうやら彼女の言う通り浄化作用で元の純潔の体に戻っているようだ。

 

 「るしふぇる?」

 

 寝起き姿は以前見たことがあるが、あの時と今では状況が全然違う。

 気だるげに体を起こすシュエルを抱きとめ、聖力マナで冷たい果実水を呼び寄せると彼女に手渡してやった。

 

 「シュエル、時間だ」

 「……うん」

 

 喉を潤し、一呼吸おいてシュエルは寂しげに呟く。

 本当ならば一人にはしたくないが、こればかりは今はどうにもならない。

 

 「後でまた来る。疲れてるだろうからもう少し休むといい」

 

 空いたグラスを消すと、ルシフェルは立ち上がった。

 

 急に現実に戻った気がしてどうしようもなく寂しい。

 それがどうにもならないのは勿論シュエルにも分かっている。頭で分かっているのと心で分かっているかが別問題なだけだ。

 

 「シュエル」

 

 ふいに名前を呼ばれて顔をあげれば、別れのキスにしては情熱的な口づけを一つ落とされた。

 

 「んんっ」

 

 この男、本当は遊んでいるんじゃないのかと疑いたくなるほどだ。

 収まったはずの熱を無理矢理起こされてシュエルは小さく喘ぐ。

 

 長い時間ではなかったが、名残惜し気に離れる頃にはすっかり茹でだこになってしまった。

 

 「……いい子にしてろ」

 

 小さく笑んでルシフェルはあっという間に姿を消し、その姿にシュエルは声にならない声で絶叫した。

 

 「っ~~~~~!」


 (絶対遊んでる!もう!聖力マナも普通に使ってるし!ルシフェルのうそつきっ)

 

 おかげで寂しさもすっかり吹き飛んでしまった。

 

 エデンここは何もなくてつまらない世界だけど、愛する人を待つのならそれはそれで悪くはないかもしれない。

 そう思ってシュエルは今度は幸せな気分で、もう一度布団の中に潜り込んだ。


 

 

 ルシフェルがホールに戻ると執務机の前に副官のサタナエルの姿がある。

 

 友人のバアルに負けず劣らずの貴公子然とした見目麗しい上級天使だが、非常に残念なことに趣味嗜好を持つ同じ穴のむじなである。

 

 「お疲れ様です、ルシフェル様。無事に最愛いとしご様の加護が収まり、混乱は収拾いたしましたよ」

 

 そう言って提出された書類にルシフェルは目を通す。

 

 溢れかえった加護はシュエルを水から引き上げた時からゆっくりと薄まり、今では全天使が何とか活動できるまでにはなっているようだ。これならばもう問題はないだろう。

 

 「シュエル様のご様子はいかかでした?」

 「……三日三晩祈りを捧げられていたようだ。エデン中に主とシュエル様の聖力マナが過剰に溢れていたから戻るのが遅くなった。今は館でお休みになっている」

 

 追及を避けるためあえてそう言ったのだが、何を察したのかサタナエルはその双眸を薄く開いて興味深げに歪ませた。

 

 「おやおや、天使長でもあられる貴方が聖力マナに負けるなど、神とシュエル様の愛のお力はなんと素晴らしいことか」

 「…………」

 

 暗に、聖力マナなんて使おうと思えば使えるくせにこんな時間まで何やってたんだ?と言っているのがありありと伝わってくる。なんて優秀で面倒な副官なんだ。

 

 ため息をつき書類を片付けていると、ぱたぱたと外から一羽の白い鳩が舞い降りてきた。

 ――これは。

 

 「おや、主からのお呼びですか」

 「お――いルシフェル――呼び出しきただろ――?いくぞ――」

 

 同時に入口から間延びした声が聞こえる。さっき名前を出したせいだろうか、そこにはバアルの姿があった。

 おっ、と声を上げて城内に入ってくるバアルにサタナエルが恭しく頭を下げる。

 

 「これはこれはバアル様。お久しぶりでございます」

 「サタナエル、久しぶりだなー。最近姿が見えないから心配してたけど、なんだ、元気そうだな」

 「ふふ、ルシフェル様がエデンの守護天使としての任に就かれましたから、副官のわたくしめの仕事が増えているんです。あぁ癒しが足りませんね、悲しいことです」

 

 (…………嘘くさい)

 

 わざとらしく泣き真似をする副官をよそ目にルシフェルは立ち上がった。白い鳩が舞い上がり、その後を追うように歩き出す。

 

 「おい、お前らも早く出ろ。門を閉じる」

 

 滅多にないことではあるが、守護天使であるルシフェルが外に行く時はこうやって彼の聖力マナを持ってエデン全体の門を封じるのだ。

 長時間封じてしまうと最愛の加護の供給までも封じられてしまうので、応急の処置である。

 

 二人が出たことを確認してルシフェルは何重にも門を封じた。

 今から行われるのは創生神への謁見である。

 

 気を抜くことは出来ないが、愛しい少女の笑顔を思い出すよう一度だけ門に触れて、ルシフェルは身をひるがえした。




 

 光あれ。

 神がそう言って光が生まれたように、かの空間は目映いほどの光に包まれて、高密度の聖力マナに溢れている。

 

 ルシフェルとバアルは片膝をつき、こうべを垂れた。

 今から行われるのは創生神との謁見。数少ない、高位天使にのみ許される神との直接の対話である。

 

 『よく来た。天使・ルシフェル、天使・バアル』

 

 頭上から聞こえる言葉に二人は今一度頭を下げた。

 光り輝く果ての玉座には創生神、その御方が今あられるのだ。

 

 『此度は他でもない。我が最愛いとしご、シュエルの件だ。私とお前達子らへの愛故に天界の秩序を乱すほど溢れてしまったようだが界下かいかの様子はどうだ、熾天使ルシフェル』

 

 神の言葉にルシフェルが目線は下げたまま答える。

 

 「我が主よ、最愛の父よ。かの最愛いとしご様のご加護のおかげで天は満たされております。主への愛が溢れたことをどの天使が責められましょうか」

 『そうか。熾天使バアルよ、なにや困難はあるか』

 「至高の神よ、我らが父よ。全ては最愛いとしご様の愛が故。主への献身ならば我々は何一つその実りに不信はございませぬ。全ては御許に捧げられ、その祝福に我らも歓喜しましょう」

 

 バアルも普段とは違う、いかにも高位天使らしく厳かな様子で紡いだ。

 創生神はシュエル以外の天使が顔をあげることは決して許されない至高の存在なのだ。

 

 『子らの愛、この父はしかと受け取ろう。――我が子たちに祝福あれ』

 

 彼らの言葉に満足したのか、鷹揚おうように頷く様子を見せた創生神は最後に祝福を残し、一際強い光と聖力マナでルシフェル達を元の界下かいかへと戻した。

 

 数秒後、見慣れた風景にルシフェル達はようやく体を起こす。

 伸びる様にバアルが体を捻り、叫んだ。

 

 「あー!もー!終わったー!いくら俺が豊穣の天使だからってなんでお前と一緒に呼び出されるんだよー!そんな三日程度で影響でないってー!」

 「相変わらずの猫かぶりだな、お前は」

 「ふふーん、見直した?」

 「せめて下位の天使達の前では猫かぶってやってくれ。お前の所の副官が過労死するぞ」

 「アーシェが?彼女は優秀だから問題ないよ、美人だし有能だし俺の事大好きだし」

 「……最後のは彼女の名誉のために否定しておこう」

 

 以前、彼女が仕事をほっぽり出して逃げ回るバアルをいつか絶対ぶっ殺すとわりと本気で言っていたのをルシフェルは知っている。

 さらっと禁忌の”殺人”を口にするあたり、さすがはバアルの副官なのかもしれない。

 

 「というか、お前……なんか、雰囲気変わった?」

 「は?」

 

 ふと足を止めたバアルに怪訝な目線を送る。

 

 そんなルシフェルを見てバアルは何度かうんうん唸りをあげ

 

 「いや、まぁ最近のお前はちょっと雰囲気違うなぁとは思ってたんだけど、さっきサタナエルから話聞いて確信した」

 

 ぐっとルシフェルに顔を近づけて、バアルはまるで天使とは思えぬあくどい笑みを浮かべる。

 

 「ルシフェル。お前、神の楽園エデンでなんかあっただろ?」


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