第16話 禁忌のはじまり
何度も震える声で謝罪を告げるシュエルの姿は、天真爛漫な分、何倍も脆くて弱々しかった。
震える小さなその肩をルシフェルはぐっと抱き込む。
「シュエル様」
びくりとシュエルの肩が大きく震えた。
「申し訳ございません。……全て、貴女に背負わせてしまった」
黄金の稲穂のように輝く柔らかなシュエルの髪。
甘い香りのする体に、いけないと分かっていてもあの一言をもらしてしまったのは完全に自分の落ち度だ。
神の
それでも……
「今更ですが……ご無礼を申し上げる許可を頂いても?」
当のシュエルは何度も浅い嗚咽に震えている。
表情は見えないが小さく震える体が、それでも頼りなさげにこくりと頷いた。
抱きしめていた手を緩め、ルシフェルはシュエルの両頬を包む。
震えるような視線と視線が、お互い痛いほどに分かった。
「――愛してる」
「……っ!」
こぼれんばかりにシュエルの翡翠色の瞳が見開き、涙だけが頬に線を残すように流れて消えていった。
「俺も、同じだ。これが禁忌だと、決して伝えることはならないと分かっていても」
思い出したかのようにぽろぽろと、シュエルの瞳からとめどなく涙がこぼれ落ちる。
苦しくて、苦しくて、呼吸の仕方なんて、もうとっくの前に忘れてしまったというのに。
「それでも、この想いだけは切り捨てられなかった」
労わるように優しく瞼にルシフェルの唇が触れ、切なげに彼は小さく笑む。
「だから、全部俺のせいにしていい。貴女の罪は、自戒できなかった俺の罪だ」
「……っちが……!」
(違う……それは違う)
シュエルはなんと言っていいのか分からずにふるふると頭を振った。
貴方に心奪われて、最初に禁を犯してしまったのはきっと私のほう。
貴方と毎日を過ごして、貴方の優しさに甘えて。
そうしたら気持ちが戻れないところまで来てしまっていた。
(……この気持ちが”恋”だと気付くまでにそう時間はかからなかったの)
言いたいことはたくさんあるはずなのに何一つ言葉にならない。
「すき……あなたが、すき……っ」
馬鹿の一つ覚えのようにそんな言葉しか出てこない。
だって、もうどうしたらいいのか分からないのだ。
このぐちゃぐちゃになってしまった感情をどう扱っていいのかも。
「……シュエル様」
「いらない」
宥める様に声を掛けてきたルシフェルの言葉を一蹴した。
「様は、いらない。そんなの、いらない……っ」
お願い。
私を
貴方の前ではただの、ただのシュエルでいたいのに。
それさえも
「様も、敬語も、全部……全部いらない……!」
赦されないの……?
吐き捨てに近いシュエルの言葉に、一瞬ルシフェルの動きが止まる。
だがそれはほんの束の間のことで、彼は強引にシュエルを引き寄せると噛みつくように口づけた。
触れるだけの軽いものではない、明らかに禁忌の欲情を伴った、深い口づけ。
「んんっ!?」
さっきまで呼吸の仕方が分からなかったというのに、酸素を求める様に口を開けば、侵すように口を塞がれシュエルは息苦しさに喘ぐ。
そのままこぼれるようにベッドに押し倒されると、なおも深く口づけられた。
「る、し……んっ」
両手で彼の肩を押し返そうとするけれど、全然力が入らずに彼の服を握りしめるだけになってしまう。
短い息継ぎに、体が酸欠になったように震えた。
「……あまり煽るな」
「っ!?」
整わない呼吸の先に、ルシフェルの欲のちらつく瞳がある。
あぁ習わなくても本能的に分かった。
これが、”欲情”だ。
「っ、ぁ……」
「頼むから、抑えている俺の身になってくれ」
そう首筋に唇を寄せられると全身が自分じゃないかのように震えた。
「な、なん……で、そんなに慣れているの……」
欲情を持つことは禁じられているはずなのに、ルシフェルの様子はまるで手馴れている。
ふと考えなしに出た言葉だったが、ピタリと彼の動きが止まった。
「?」
不思議そうに目線を向けると、ルシフェルはなんとも気まずそうにシュエルから目線を逸らす。
女の勘だ。
なんだか、すご――――く嫌な予感がする。
「……ルシフェル?」
「なんでも、ない」
「嘘だ。絶対嘘。絶対何か隠してる。なに?すごく気になるんだけど」
ぐいっとシュエルはルシフェルの服を引っ張り引き寄せると、赤くなったままの顔でジーっと睨みつけた。
呼吸はまだ苦しいけれど、今はそれどころじゃない。
シュエルに押されたのか二、三度、言い淀んだ様子だったルシフェルがついに観念したようにボソッと呟く。
「……友人に
(あぁ~……なるほどー?)
急に涙が引っ込んで一気に頭の中がクリアになった。
へぇそうなのか。外にはネトーシュの区画というものがあるらしい。
イメージでしかないが、とても健全な遊び場には思えない。
(は!待って……健全じゃない、欲……?)
今まさに自分が体験したことに気付き、シュエルはわなわなと震えた。
「――ルシフェル……?」
「待て、落ち着け。俺は他の女には手を出してない」
「嘘だ!だってそれ、絶対に色欲があるでしょう!?むしろないと変でしょう!?絶対慣れてた!絶対遊んでる!」
「だから、違う。落ち着け。俺は誰も買ってないし、やってない」
「…………」
(……この回答を信じる女の子って、いるの……?)
さっきまでの悲壮な気持ちは一体何だったのだろうかと思うほどの衝撃だ。
「ちなみにその友人って?」
「……バアルだ。
あぁ、名前は聞いたことがある。
豊穣の……なるほどなるほど?
どうやら豊穣の天使・バアルはその名に負けず劣らず、とても豊かな
――一度でも会ったならその顔面に雷を落としてやる。
大体、
はぁと切り替える様に大きなため息をついてから、シュエルはぐいっとそのままルシフェルを引き寄せ口づけた。
「……じゃあ、証明して」
少し拗ねたようにシュエルは囁く。
「貴方が欲情するのは私一人だけだと、いま証明して」
これにはルシフェルの瞳がわかり易く動揺した。
さすがにこれ以上は駄目だという、なけなしの自制心まで吹っ飛んでしまいそうになる。
「それ、は……
そう、シュエルがこの
シュエルが他の天使達から隔離され、たったひとりでこのエデンにいるのも、天界の平和と安寧を祈るのも、清き純潔を貫き続けるのも、ひとえに神への美しく穢れのない愛の為。
「さっきの貴方の話を聞いて、少し不思議に思ったの。何故お父様はネトーシュの区画を放置しているの?」
「?」
ひとつひとつ、言葉を選ぶようにシュエルは真剣な顔で言う。
「穢れなきものがお好きなお父様なら、ネトーシュ達の存在を許さないと思うの。お父様がその区画の事を知らないわけもないだろうし、そこで何が行われているかも恐らくは知っているはず。ただ、まだご自身の怒りに触れない程度だから捨て置かれているだけなんだと思うのよね」
バベルの塔やソドムとゴモラと同じね、とシュエルは続けた。
ある一定のラインを越えた時に初めて神の怒りは降り注ぐ。だがそれは直ぐ直ぐ、という訳ではないのだ。
それに……とシュエルは続け、ルシフェルの少し浅黒い頬にそっと触れた。
「天界最大禁忌の"欲"でさえも見逃していらっしゃるの。……お父様はきっと、いつも
「……さしずめ、貴女が女王蟻で俺達は働き蟻という訳か」
触れた手を重ねれば、そうかもとシュエルは苦笑した。
働き蟻と違って女王蟻は普段表には出てくることはない。巣穴の中の、誰からも目の届きにくい
「このエデンはお父様が作った箱庭。ありとあらゆる”欲”や”穢れ”でさえ一瞬で浄化してしまうほどに清らかな場所なの。それゆえにお父様が直接来られる時にしかその目は届かない。……ご自身の
「……そうだったのか」
天使長である自分でさえそれは初耳の事だった。
確かに膨大な
「そう、どんな穢れでもね。すごいでしょう?」
不思議と貴方への想いは浄化されなかったけれど、とシュエルは笑う。それはルシフェルも同じことだった。
「だからきっと、このエデンにいる限り私は純潔を失わない。失うことも、許されない」
「…………」
だから……と続けてシュエルはルシフェルの首を引き寄せ、自ら唇を重ねた。
性急さはないが何度もゆっくり唇を合わせると、応じるようにルシフェルに抱きしめられる。
「……ねぇ、名前をよんで……?」
甘えるような蕩けた声が
シュエル、と呼べば、少女は花の様に微笑んだ。
まさに灯台もと暗し。
神に最も近い聖域では、
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