第15話 渇望

 

 「シュエル様!」


 ふいに強い力で腕を掴まれ、いきなり水中から引き上げられた。

 ぱちくりとシュエルは瞬きし、驚く。

 目の前にはずぶ濡れになったルシフェルの姿があったのだ。

 

 何故、エデンここに彼がいるのだろう?

 しかも今日はいつもの何倍も顔が険しい気がする。

 

 「……ルシフェル?」

 「一体いつまで祈りを捧げられるおつもりですか!」

 「……?」

 

 なぜ彼が怒っているのかよく分からなかった。

 さっきまで水中にいたからまだ頭が働いていないせいかもしれない。

 

 はぁと短く息を吐き、ルシフェルは少し険の残った声で言う。

 

 「……主が玉座に戻られてから、もう三日経っています」

 「みっか……」

 

 それは……祈りとしては最高記録ではないだろうか。

 ゆらゆらと水に濡れたまま、ふたりの視線が合う。

 

 「そうです。加護の供給過多です」

 「かごの、きょうきゅうかた?」

 

 それは……一体なんだろう。

 

 初めて聞く言葉にシュエルは首を傾げた。

 そんな言い方は天使生てんしせいで初めてだ。

 

 そう思ったらなんだか急に面白くなってしまい、シュエルはこみ上げる感情に笑いを止めることが出来なくなってしまった。

 

 「加護の供給過多って……っふふふ、なぁにそれ……ふふ」

 「笑いごとではありません、下位の天使達はあまりの加護力に失神するものも出ております」

 「あら……それは、本当にごめんなさい。そんなに長いこと祈ったつもりはないんだけれど」

 「……とにかく出ますよ」

 「ぁ……っ」

 

 ぐいっと抱き上げられ、シュエルは慌ててルシフェルの首に抱きついた。

 

 (あれ?)

 

 「……?聖力マナ使わないの?」

 

 ふと気付いた。ルシフェルなら一瞬で屋敷まで飛ぶかと思ったからだ。

 それなのに彼はシュエルを抱いたまま、普通に水から上がり、そっとシュエルを地におろした。

 

 「お気づきではないのですね」

 「?」

 「今、このエデンは主とシュエル様の聖力マナが過剰に満ちております。下手に聖力マナを使えば暴走しかねない」

 「!」

 

 (今、俺って言った……!)

 

 思いがけないルシフェルの一人称に、シュエルは驚きと共に顔のにやけを我慢することが出来ずにまたくすくすと笑う。

 

 どうしよう、これは嬉しさを隠せない。

 

 「…………なんですか。そんな変な顔して」

 「ふふ、今だけはその発言許してあげる。……ねぇルシフェル、貴方、普段は”私”じゃなくて”俺”って言うのね」

 「…………!」

 

 しまったとばかりにルシフェルはバツが悪そうな顔をして、水に入る前に置いていったであろうマントをシュエルにかけた。

 

 そうか、裸だった。

 

 「……申し訳ありません。少々、取り乱しました」

 「どうして?一人称を使い分けるなんて出来る男のひとって感じで素敵なのに。私の前では”俺”でいてくれたらもっと嬉しいけど」

 「…………」

 

 複雑そうな表情を見せるルシフェルにシュエルは笑う。

 あぁ、この世界にはまだこんなにも楽しいことがあったのかと思うとやっぱり笑いが止まらない。

 

 ルシフェルが深いため息をもらしたけれど、それさえも今のシュエルには楽しかった。

 

 「さて!じゃあ聖力マナが使えないなら歩いて帰りましょう?」

 

 機嫌がよくなったシュエルは心が弾むように立ち上がった。

 バサリと肩にかけてあったマントが滑り落ちる。

 

 「あ……」

 

 (しまった、落としちゃった)

 

 落ちたマントを拾い上げて軽くはたく。

 うん、大丈夫。汚れてない。

 

 ひとまず彼に返しておこうとマントをルシフェルに手渡そうとしたら、なんだか絶望的な目でこちらを見られた。

 

 「えっと、濡らしてごめんなさい?」

 「いえ……あの、使わない気ですか?」

 「ん?……何を?」

 

 ルシフェルの目線はシュエルが返そうとしているマントに向いている。

 

 「ソレです。何故、裸のまま帰ろうとしてるんですか」

 「ん?……ダメ?」

 「駄目です」

 「私は気にしないけど」

 「気にします。自重してください」

 

 はぁっと濡れた前髪をくしゃりとかき上げるようにルシフェルはため息をついた。

 

 別に裸を見られたところでなんとも思わないのだが、彼は違うのだろうか?

 

 シュエルが不思議そうに小首を傾げていると、ルシフェルは諦めたようにシュエルの手からマントを受け取り、そのまま彼女の体にグルグルと巻き付けてから抱き上げた。

 

 「わゎ!ちょっとルシフェル!バランスがっ」

 「箱入りのお姫様は黙っていてください」

 「ちょっと!なんで怒っているの?」

 「怒っていません。呆れているだけです」

 「どうして!?」

 

 両手ごとマントに巻き込まれたので本当に身動きが取れない。

 

 自由になる口で精一杯の苦情を彼に言うと、ルシフェルは一度立ち止まってからゆっくりと目線を向けてきた。

 何故だろう、その表情にすごくドキリとする。

 

 「……いくら私でも、貴女の体を見て何も思わないほど純真無垢ではないんです」

 「――!」

 

 かぁっと顔に熱がこもった。

 ぱくぱくと何も言えなくなったシュエルを見てルシフェルはまた歩き出す。

 

 (なんだか、すごくドキドキする……けどっ)

 

 「その台詞は、天使長として……駄目なんじゃないの」

 

 か細く、消え入りそうな声は口の中で溶けてしまった。

 

 そうだ。天使たるもの欲に溺れてはいけない。

 色欲も勿論その1つだ。

 

 だから本来、使ならば裸体をみても反応することはないはずなのに。

 

 『貴女の体を見て何も思わないほど純真無垢ではないんです』

 

 (だけど、今の言葉は――)

 

 深読みしたら禁忌に触れそうなほどに危ういその言葉に、シュエルは赤くなった顔を俯かせた。

 

 「ルシフェル」

 

 シュエルの呼びかけに、はいと頭上から返事が来る。

 ぎゅっと体を小さくさせてシュエルはルシフェルの肩口に顔を埋めるようにして呟いた。

 

 「本当の事を、教えて欲しいの」

 「……本当の事?」

 

 いぶかしげに問うたルシフェルは思わず足を止める。

 世界がまるで二人だけになったかのような静寂。

 

 白い空がキラキラと星の様にまたたいた。

 

 震える喉を𠮟りつけて、何度か迷う仕草を見せながらも、シュエルは意を決したように口を開く。



 「……あなたのことが好きって言ったら……困る、よね」


 

 これは、もう二度と元には戻れない選択だった。



 

 

 (あぁ、言っちゃった……)

 

 想うだけで禁じられているのに、口にしたらもう戻れない。

 

 風の音さえ、小川の音さえ、動物たちの鳴き声さえ聞こえない。

 そんな静寂が耐えきれないほどに痛くて、シュエルは目を閉じて身を縮こまらせた。

 

 「――っ!」

 

 沈黙ののちにふっと体が揺れて、気が付けばそこは見飽きた自分の館。

 真っ白な天蓋付きのベッドが目に入る。

 

 (……天、井……?)

 

 するりと体に巻かれていたマントが消える感触と同じくして、シュエルは考える間もなく柔らかいベッドに押し付けられる。

 

 ぎしり、と寝台が揺れた。

 

 片手で覆いかぶさるようにルシフェルが目の前にいて、シュエルは何も言えずにその漆黒の双眸を見つめる。

 さっきまで濡れていたはずの髪も体も、どうやらすっかりと乾ききっていた。

 

 (聖力マナは、使えないんじゃ……)

 

 「ルシ……」

 「シュエル様。神の最愛いとしごの貴女が、先ほど一体何を仰ったのかよくお考えになって下さい」

 

 一瞬、彼の言葉を理解するのに戸惑った。

 短い呼吸と一緒にぎゅっと自身の手を胸元で握りしめる。

 

 「それ……は!でも、貴方だって……っ!」

 

 そう、彼は確かに言ったのだ。シュエルの体を見て何も思わないほど純真無垢ではないと。

 

 (でもそれは……それはつまり……!)

 

 シュエルだけが言われる所以ゆえんはないはずだ。

 ルシフェルの言葉は間違いなく禁忌に触れていた。だからこそシュエルは、意を決して、想いを伝えたのだから。

 

 恐怖からなのか混乱しているのか、無性に涙が溢れこぼれ落ちた。

 

 「貴方だって私を見て何も思わないほど純真ではないって!それは……それはつまり!私の事、を……っ意識しているからでしょう!?そうじゃなきゃあんな言葉出てこな……!」

 

 涙ながらに叫んだ声はそこでぷつりと途切れた。

 

 ふいに唇に感じる温かい感触。

 

 目の前にルシフェルのまつ毛が見えてシュエルの意識が固まった。

 

 (な……に……?)

 

 頭の中が真っ白になって、もう自分が何を言っていたのかさえ思い出せない。

 ゆっくりと離れていく彼の顔をなんともいえない表情でシュエルは見つめるしかなかった。

 

 「の貴女への気持ちはこういう事ですが、理解されていますか」

 

 拘束するものはもう何もないが、固まった首筋を撫でられると、自分とは違った骨ばったその指の感触に思わず体が反応する。

 

 「分かっています。これは間違いようもなく禁忌だ。――自分が一番理解してわかっている」

 

 自虐めいた声だった。ほんのわずか切なさがその顔に滲む。

 だから、とルシフェルは言葉続けながらシュエルの髪を一束手に取ると口づけた。

 

 「だから、この気持ちを貴女にこじ開けられると困るんです」

 「――!」

 

 (なんて、ひどい天使ひと……)

 

 それじゃあもう、好きだと言っているようなものじゃないか。

 

 心のどこかで、ぷつりとせきが切れる。

 

 

 ――あぁ

 もう……

 ……駄目だ。

 

 

 視界が歪むのを抑えられずにシュエルは身を叩き起こしてルシフェルに抱き着いた。

 

 「好きだった……!ずっと、ずっと……貴方が好きだったの……!でも言えなくて……言っちゃダメで!」

 

 ”父である創生神以外を愛してはならない”

 

 それはこの天界で生きとし生けるもの全ての絶対だ。

 

 何より自分はそんな父に愛された最愛いとしごであり、神の幸い。

 この天界で神に次ぐ尊き天使でありながら至高の存在なのだ。

 

 故に、他のどんな天使よりも父を愛さねばならなかった。父に愛を返さねばならなかった。

 それが他ならぬシュエルの”役割”だったからだ。

 

 「ごめんなさい……ルシフェル。お父様よりも、貴方を好きになってしまったの……」

 

 

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