第2話 義兄妹

 しょぼくれる朱里しゅりを宥めて、美海はそのままれいがいたであろう書庫に彼女を連れてきた。

 

 重厚そうな扉を開けるとそこには壁という壁一面に書棚が並んでいる。

 本を保護するためだろうか、明かり取りの窓は最低限で、それでも決して陰鬱にはならないように光量を加減して適度な明るさはあった。

 

 「わぁぁぁ……!」

 

 思わず朱里が目を輝かせて歓声をあげる。これはまるで小さな図書館のようだ。

 

 哲学書に歴史書、金融や法律関係といったお堅い書籍から社会科学や自然科学、地理地形や産業・技術書に加えて自己啓発本や芸術・言語・多数の文学書。

 さらには子供向けの絵本やファッション誌までと、周囲を見回すだけで様々な書籍が目にとまる。

 

 「この書庫には林田財閥が所有する全ての書籍が送られてくるんです。あちこちに本があると管理が大変との事で、各家庭に必要がなくなったものは一旦全てこの屋敷に送られて、専門の人間が精査してから修繕、管理をしています」

 

 そういうと美海は壁に設置されているレトロな照明に明かりをつけてくれた。

 なんだかとてもお洒落な気分だ。

 

 「それでこんなに本があるのね!……すごい」

 

 これだけのジャンルがあったらしばらく退屈することはなさそうだ。

 本棚を眺めていて、ふと思い立ったことを美海に聞いてみる。

 

 「……お義兄にいさまも、よく来られるの?」

 

 振り返って美海を見れば彼女はその愛らしい顔をうーんと悩ませた。

 シャープで大人っぽい顔立ちの音葉とは違って三女の美海は老若男女に愛されそうなとても可愛らしい顔立ちをしている。

 

 「零様は、そうですねぇ。通われるときは頻繁にいらっしゃっていましたよ。新しい本が入った時はいらっしゃることが多かったかもしれません。でも最近はお忙しいみたいであまりお見えにはなってなかったはずなんですが」

 

 だからさっきは私もびっくりしましたと美海は続けた。

 朱里はうつむき加減で目線を落とし、きゅっとこぶしを握る。

 

 「……美海は」

 

 そこまで言葉を続けて聞こうかどうかをちょっと迷う。

 昨日音葉に聞いた時は何とも歯切れの悪い回答をされたのを思い出したからだ。

 

 (お義父とう様はああ言うけど、私にはお義兄さまが怖い人だとは思わない……かな)

 

 初めて会った、正確には姿を見たのが昨日で、今日も会いはしたけれど会話らしい会話はしていないから正直なところよくは分からない。

 

 確かにあの瞳には感情をあまり感じないけれど、それは怖さとは別物のような気がするのだ。

 悶々とする朱里を見て美海は察したようにふっと微笑んだ。


 「昨日、姉から聞きました。……朱里様は零様と仲良くされたいんですよね」

 

 パッと朱里が顔を上げる。その顔に美海はちょっと困った表情をしたが

 

 「本当は当主様から朱里様と零様が接触しないようにと命令を受けているので、私たちメイドの立場からはそれに従わざるを得ないのですが」

 

 切なさや諦めを少し含んだ、そんな微笑みだった。



 「……零様は、本当はお優しい方なんです」


 

 

 

 散策が終わり、一階のテラスでお茶を飲みながら朱里は考える。

 昼食の時間までゆっくりしていてくださいねと言い残して美海は仕事に戻っていった。

 

 朱里をこの屋敷に置いていく際、義父は零の事を特段警戒していたような気がする。

 何故あれほど警戒するのかは分からないが、一方の零も義父の事を”あの男”と呼んでいたから、あの親子関係には深い溝があるのは理解できた。

 

 (確かに顔の傷は目立つし、とてもクールな印象だったから怖いって思う気持ちも分かるんだけれど)

 

 それでもメイド達に命令するほどの事だろうか?

 何かが引っかかる気がしたが、これだけの情報だけじゃよく分からない。

 

 テラスから見る山々はすっかり秋めいていて、ちらりちらりと赤や黄色の紅葉こうようが見て取れた。


 

 美海の話では、零がこの地に来たのは彼の実の母が亡くなったことがきっかけだったらしい。

 

 話を聞く中で驚いたことに、当のメイド三姉妹は本当の姉妹ではなく孤児なのだと美海は言った。

 林田財閥の管理下にある保護施設の1つに、主に見目麗しい子供たちを集めては育てている孤児院があるそうだ。

 

 そこで育った者は林田財閥を始めとした日本有数の名家の使用人となることが決まっており、各家柄に対応した教育や礼儀作法を学んでからそれぞれの屋敷に送り出されるという。

 

 孤児の方が何かと使いやすいという仄暗い思惑もあるようだったが、そこで今の姉達と姉妹になることができたのだから幸運だったとも美海は言った。

 

 『あの日の事はよく覚えています』

 

 零と会った日の事を思い出したのか、美海が少し遠くを見つめた。

 

 当主でもある林田に連れてこられた当時8歳の零の頬にはすでに大きな裂傷があり、その顔に少年らしい表情はなかったという。

 

 そして年齢の近い者がいた方が後々役に立つだろうと、当時12歳だった音葉を筆頭に10歳の小春と9歳の美海の三人がメイド見習いとして屋敷に呼ばれた。

 

 最初のうちはそれこそ会話という会話はなかったが、時間の経過とともに少しずつ言葉を交わしたり、美海達が困っているとさりげなく零が手を貸してくれたりするようになって、無表情の中のその優しさをとても温かく感じたのだと美海は笑う。

 

 (やっぱり、優しい人)

 

 朱里は思う。

 ずっとそばにいた美海がそういうのだ。恐らくこんな山奥に息子を一人置いていく義父よりも、幼少時から零のそばにいたメイド達の方がずっと彼について詳しく知っているに違いない。

 

 こんな山奥で、母も亡くし、顔に傷を負い、父にも放置され。

 それがどれだけ8歳の少年の心の傷になったかと思うと胸が痛んだ。

 

 ふと顔を上げた視線の先、探し求めた姿を遠くに見つけて反射的に朱里は立ち上がる。

 

(あれは……!)

 

 頭が機能するより先に体が動いた。

 まだこの屋敷の全体図は分からないがテラスから駆け出し、急いでその人影を追う。

 

 山々の中の広大な土地を持つこの屋敷はとても広く、運動不足な体が悲鳴を上げたが朱里は構わず人影の元まで走り寄った。

 

 「……あ、の……!」

 

 呼吸を胸元で押さえ肩で息をしながら朱里は声を絞り出す。

 その声に振り向いたのは、零その人だった。


 

 「あの、私、朱里と、いいます…!ちゃんと、挨拶……してなかったから」

 

 はぁと一呼吸息を吐いて朱里は微笑んだ。そんな朱里の姿を冷たい双眸がじっと見つめている。

 

 朱里と零の間にえも言えぬ沈黙が続き、朱里が落ち着いたのを見計らうかのように抑揚のない声がその静寂を裂いた。

 

 「……俺に関わるなとあの男に言われなかったか?」

 「それ、は……!……お義父様には、言われたけれど」

 「なら関わるな」

 

 それだけを言うと零は踵を返し、去っていこうとする。

 今度は逃さないとばかりに朱里は零の腕を掴んだ。

 

 「待って!」

 

 少々面倒くさそうな顔で零は朱里を見下ろす。

 

 「お義兄さま、なんでしょう?」

 

 朱里の一言に零はさも嫌そうに眉を顰めて、パッと少々乱暴気味に朱里の手を振りほどいた。

 

 「あの男に”また”娘が出来たところで興味はないが、俺を巻き込むな」

 「……”また”?」

 

 なんとも不可解な言い方だった。朱里も怪訝そうに聞き返す。

 

 「また、ってどういう事?」

 「そのままの意味だ。ここに連れてくる時点でお前は”特別お気に入り”のようだが」

 

 面倒なことこの上ないと零は愚痴めいた口調で言う。

 どうしよう、何のことだか全く分からない。

 

 困惑気味の朱里を、零は冷めた目で見下ろした。

 

 「俺はお前の義兄あにになる気はない」

 

 ピシャリと歯に衣着せぬ冷たい拒絶。

 朱里はしゅんと肩を落とした。


 

 「……それじゃあなんて呼べばいいの」

 

 よく分からないが、”お義兄さま”は駄目らしい。うん、これはよく分かった。

 

 呆れるような小さなため息を一つ漏らして零は言う。

 

 「関わらなければいいだろう」

 「それは嫌!」

 

 「……なんなんだ、お前は」

 

 はたから見たらよく分からない会話だったが、それでも朱里は譲る気はなかった。

 譲っては、いけない気がした。

 

 零の瞳を真っすぐに見て目で訴えかける朱里に根負けしたのか、しばらくしてから零はまた一つ、今度は少し大きなため息をついた。


 

 「……名前でいい」

 「名前?」

 「零でいい」

 

 面倒くさそうではあったが、そう言われて朱里はぱぁっと満面の笑みを浮かべる。

 

 「分かった、零!」

 

 「……本当になんなんだ、お前は」

 「お前じゃないです!朱里です!しゅーり!」

 

 若干疲れたように零は呟いた。


 

 「……本当になんなんだ……」

 

 後日、音葉から『朱里お嬢様は結構我がお強いですよ』とにこやかに教えられることになるが、身をもってそれを体験した零であった。


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