第一章 人界編

第1話 零

あの後、音葉に付き添われて部屋に戻ると備付けのバスルームを使うことを提案された。

 

 屋敷には広めの浴場もあるとのことだったが、今は個室の方がゆっくり出来るだろうという彼女の細やかな気配りで、部屋に戻った時にはすでに爽やかな香りがバスルームを満たしていた。

 

 髪や体を洗ってから朱里はちゃぽんと全身をお湯に沈める。

 夜風で冷えた指先や足先から、じわっと血流が戻ってくる感覚がした。

  

 ほんのりと薄紫色に染まったお湯からはゆらゆらとラベンダーのいい香りがして、朱里は大きく吐息をはく。

 

(……本当に、至れり尽くせり)

 

 別邸でもそう感じたが、それはここに来ても変わることはなかった。

 なぜ義父がここまで手厚く接してくれるのかは朱里には分からなかったけれど、あの日、優しくしてくれた彼に言われるがままにあれよあれよと流されて、今日に至る。


 

『”しゅり”という名前は、君にとって他の記憶を失っても覚えているくらい大事なものだったのかもしれないね。音は残したまま……あぁ君には赤がよく映えそうだから朱色の”朱”の字を使って”朱里”はどうだい?』


 

 なんとなくこの名前の音には特別な想いがある気がして、名を変えずに済んだのは正直ほっとした。

 

 記憶はないのに、この名前だけはなぜだか失いたくなかったのだ。

 

 全てが怒涛の日々だったけれど、ここにきてようやく一呼吸できるようなそんな気がして


 朱里は逆上のぼせる寸前まで湯船に浸かっていた。



 

「ねぇ音葉。お義兄にいさまってどんな方?」

 

 ドライヤーで髪を乾かしてもらい、ブラッシングをしてもらった所で朱里はこの屋敷に住み込みで働いているという音葉に尋ねる。

 

 その問いに音葉は少し困ったように微笑んだ。

 

「零様は……その、あまり表情を出すお方ではありませんし物静かな方です。」 

「……ふーん?」

 

 少々歯切れの悪い言い方だった。

  

「音葉は、お義兄さまのこと……好き?」

 

 髪を梳かしてくれる音葉を振り返れば彼女は先ほどよりも、もっと困った顔で苦笑した。

 

「そうですね。……尊敬しておりますよ。でもお嬢様は当主様よりあまり零様とお関わり合いにならぬようにとお達しが来ていますので会う機会はあまりないかもしれませんね。零様がお住まいになっているのは別邸ですから」

「……そう」

 

 なんだかそこまで鉄壁に隠されてしまうと今度は逆に気になってしまう。

 

 仮にも義兄妹の関係になるのだからあまり関わらないといっても最初の挨拶の1つや2つはあってもいい気がするのだが、お金持ちだと色々と勝手が違うのだろうか。

 

 そういえば結局義母にも会うことはなかったし、人の家の事情とはなんともよく分からないものだなと朱里はぼんやりと思った。

 

 「今日はお疲れでしょうから屋敷の案内は明日にいたしますね。妹たちの紹介もその時に。こちらの屋敷には今は季節ではございませんがそれはそれは立派な薔薇園があるのですよ。この部屋からだとそちらのバルコニーからよく見えるのです」

 

 すっかり乾いてふわふわになった朱里の髪を整えながら空気を変えるように音葉は一際明るい声色でバルコニーの方を見やった。

 

 「そうなの?今見える?」

 「ふふ、今夜の月は明るいですが、場所が分からないと探すのはちょっと難しいかもしれませんね」

 

 そう言いながらも朱里にガウンを羽織らせてバルコニーに案内してくれた音葉は、あの辺りですよと指さして教えてくれた。

 

 確かに都心部と違って光源のないこの場所からは薄らとした影しか見えない。

 明るさを持っているのはこの屋敷だけだからしょうがないといえばそうなのだが、ちょっとだけ残念だった。

 

 でも風呂上がりの火照った体を冷ますのに肌寒いくらいの夜風は丁度良くて、思わず少し身を乗り出したところで朱里は気づく。

 

「……あれ……?」

 

 目線をずらしたその下、月明りと屋敷の漏れ出る光の中に何か影のようなものが動いた気がした。

 

 「あっ……」

 

 音葉も気づいたようで思わずといった声を漏らす。月明りの薄暗い敷地内を誰かが歩いていた。

 

 人だ。

 しかも若い男だ。

 

 今、この屋敷には朱里と音葉を始めとするメイドたちと管理を任されている堂珍という年配の男しかいないはず。


 彼ら以外にもしもいるとするならば、それはただ一人。


 

「お嬢様。あの方が、れい様です」


 

 小さな声で音葉は教えてくれた。

 

 

「……あの人が……」

 

 ”零”と音葉に呼ばれたその人は、まるで闇のような青年だった。

 

 漆黒の髪に漆黒の瞳。

 身にまとう服も夜の帳のごとく黒く、すっかり夜の中に溶け込んでいる。

 

 義父に聞いていた通り彼の頬には痛々しい裂傷があり、冷ややかな双眸には一切の感情がない。まるで孤高の狼のようだった。

 

 ほんの一瞬だけ、彼の視線が朱里に向けられた気がしたが、零は歩みを止めることなく、そのまま闇の中へと消えてしまう。


 

 「お嬢様……」

 

 少し心配げに音葉がそばに歩み寄った。

 朱里は零が居なくなった暗闇から目を離せないままに、じっと見つめている。

 

 「……怖く、ない」

 ぽろりと朱里の口から言葉が漏れた。

 彼から感じるのは月のような冷たさだ。

 太陽の力強い美しさとはまた違う、静かな夜の光のような冷たさ。


 どうして義父があれほど忠告してきたかは分からないが、途端に朱里はそんな零に興味を抱いてしまった。

 知ってしまったらもう駄目だ、彼と話してみたい。

 そう思うと急に元気が出て、朱里は満面の笑みで音葉に振り返った。

 

 「私、お義兄さまにご挨拶がしたいな」

 

 今日一番の朱里の笑顔に音葉はピシリと固まる。

 名前を呼ばれて我に返った音葉に必死に宥められるも、朱里は頑なに譲らなかった。

 

 だって気になってしまったのだからしょうがない。

 駄目だと言われると逆らいたくなるのが人のさがというものなのだから、諦めて一言挨拶するくらいはさせて欲しい。

 

 押す朱里と宥める音葉の攻防戦は朱里がベッドに入るまで延々と続き、そんな我の強さをみせつけた朱里の願いは翌日にあっけないほど簡単に叶うことになる。


 

 「……あ」

 「…………」

 

 それは本当に偶然の出来事だった。

 

 朝食の時に音葉の妹たち――心春こはる美海みうを紹介され、今日は美海が屋敷内を案内してくれるとの事だったので、食後の散策をしているその時だった。

 

 前方から歩いてくる人影に思わず朱里は立ち止まる。

 

 「零様……!」

 

 美海が声を上げ、急いで頭を下げた。

 

 当の零は気にした様子もなく真っすぐこちらに歩いてくる。

 

 (何か……話さなきゃ)

 

 まさかこのタイミングで会うと思わずに朱里は固まった。

 

 陽の下で見る零の姿は確かに表情が薄く冷たさは感じたが、それでも義父があそこまで言う怖さなど微塵もなかった。

 

 すれ違う直前にチラリと零と視線が合う。

 咄嗟に朱里は彼に話しかけていた。

 

 「あ、あの、えと、昨日の夜……!」

 「知っている」

 

 足を止めた零が、頭だけ振り返ってくれる。

 近くで見る彼は標準身長の朱里よりも頭1つ分ほど大きかった。

 

 「災難だな」

 

 それだけ言うと零はまた歩き出し、有無を言わさぬ彼の後ろ姿は音もなく廊下の角で消え去った。

 

 「……あ……」

 

 引き留めようとした手が宙に浮いたまま行き場なく空を掴む。

 

 「もしかしたら、書庫にいらっしゃったのかもしれませんね。零様は管理人に用がある時か、書庫に御用がある時しかあまり本館にはいらっしゃらないので」

 

 しょぼんとした朱里に大丈夫ですかと美海は声をかけた。


 思いのほか落ち込んでいる朱里を励ますようにその背に手を添える。

 

 「……どうしよう。ちゃんと挨拶、出来なかった……」

 

 まるで小動物のように眉を下げる朱里の愛らしい姿に、思いがけず美海は小さく吹き出した。


 

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