禁愛のアンヘルカイド

熾音

序章

「さぁ、ここが今日からお前の家だよ。朱里しゅり

 

 初老の男に促されて、まるで絵画の世界から飛び出してきたような美しい少女が車から降りてくる。

 

 山深い緑に囲まれたここは、県境に位置する林田財閥の私有地であり、身の丈三メートルを越える堀に囲われた内側は外から一切うかがい知る事が出来ない。

 

 人里離れた山奥にもかかわらず、正門の前には小さな詰所と二人の警備兵が常駐しており、よく見れば広大な敷地を防犯カメラが隙間なく監視しているという何ともいえない物々しさがあった。

 

 (まさかこんな形で利用できるとはな。ここなら自宅からの利便性もまぁ悪くはない)

 

 敷地内にあるこの立派な屋敷は、所有者でもある林田財閥の現当主・林田景之はやしだかげゆきの祖父が昭和初期に建てた歴史ある西洋造のものだ。

 しかし正直なところ、林田の趣味では全くなかったので今まではとりあえず所有しているだけのものだった。

 

 屋敷メイドに案内されたサロンのソファーに腰を下ろし、林田は思案げに窓の外を眺める。

 

 (今この屋敷にいるのは“アレ”と……管理人の他に三人の屋敷メイド。あとは通いの人間が何人かいたか)

 

 それくらいの人数ならまぁいいだろうと林田は用意された紅茶に口をつけた。

 自身の義娘むすめとしたこの愛らしい少女……朱里の事をあまり公にはしたくなかったからだ。

 

 

 「……お義父とう様」

 

 ふいに聞こえた鈴の音に林田は思考を止める。

 目線の先にいるのは彼ご自慢のキラキラと輝く珠玉の義娘だ。

 戸籍的に親子関係があるわけではないが、訳あって今は”親子”として接している。


 林田は優しく微笑んだ。

 

 「なんだい?朱里」

 「あ、の……私は、本当に今日からこちらのお屋敷で暮らすんですか?」

 

 両手でカップを持った朱里が少し不安げな表情で林田を見上げている。

 思わず彼はティーカップを乱雑ぎみに置いて朱里の柔らかな髪を撫でた。

 

 「あぁ、朱里。そんな顔をしないでおくれ。お前はこの前までベッド生活だったんだ。記憶も戻っていないし、都会だと体にも悪いだろう?ここなら空気も良いし、人も最低限で煩わしさも少ないはずだ。私は週末にしか足を運べないが、療養だと思って自分を労わっておくれ。いいね?」

 

 まくし立てるように口を開いた義父に、朱里は少し驚きつつも数秒後にこくりと小さく頷いた。

 林田の寵愛を受けるこの少女には、そう、自身の名前以外の記憶が一切ないのだ。

 

 偶然立ち寄った別宅の近くで倒れている彼女を見つけた林田は、その美しさに一目で魅了され、連れ帰っては最大級のもてなしで世話をしたのだが、意識が戻った彼女に記憶がないことを知るや否や各方面に手をまわして身元を調べさせた。

 

 するとどうだろうか。

 

 彼女には捜索願も失踪届も出されておらず、なんと戸籍さえも見つからない。

 

 林田は狂喜乱舞した。

 これ幸いと彼は何も分からぬ少女に口うまく入り込み、自らの義娘として手元に置くことにしたのだ。

 

 そこらにいる愛人など目ではない。

 至宝級のこの少女が自分の義娘という肩書がなんとも林田の性癖にクるものがあり、あえて”父”と呼ばせていつの日かその時まで――林田は朱里との偽りの親子関係を最大限に楽しむつもりでいた。


 

 「……あぁそうだ、不安だろうから先にメイドを紹介しておこう。私がいない間に何かあったら彼女たちを頼りなさい。――おい!」

 

 林田の一声で音もなくそばに控えていたメイドがすっと朱里達に近づき、恭しく頭を下げる。

 

 「初めまして朱里お嬢様。音葉おとはと申します。私以外にもあと二人の妹達がこれから朱里お嬢様の身の回りのお世話をさせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」

 

 「あ、はい!よろしくお願いします!」


 切れ長の瞳にストレートの深めの青髪がよく似合う音葉と名乗ったそのメイドは、朱里より幾分か歳上に見えたが、その立ち振る舞いはなんとも上品で惚れ惚れするほど洗練されたものだった。

 

 思わず立ち上がってお辞儀をする朱里に林田は笑う。


 「朱里、我々は主人だからそんなに畏まらなくても良いんだよ」

 「え?」

 「左様でございます、お嬢様。御用の際はどうか音葉と呼び捨てでお呼びくださいませ」

 「えっ?で、でも……」

 

 狼狽える朱里に林田は良いんだよと何度も優しく諭す。

 どうしようかと思案していた朱里だったが、しばらくの後に「……分かった。よろしくね、音葉」と小さく微笑んだ。



 

 「――あぁそうだ、朱里。私と一つ約束をしておくれ」

 

 夕食後、見送りにと外に出た朱里に林田は振り返る。

 

 「実はこの屋敷の離れには私の息子も住んでいてね。直接的にお前との繋がりはないが、一応は私の息子だからお前にとっては義兄あにになる」

 「おにいさま……ですか?」

 

 それは初耳の事だった。

 

 今日、この屋敷に来て会ったのはメイドの音葉と屋敷管理人の堂珍どうちん、あとは通いの庭師だけだ。

 林田は困ったようにかぶりを振った。

 

 「だが、父の私から見てもあまり愛想が良い奴ではなくてね、顔にも醜い傷があってお前が怖がるかと思うんだよ。まぁ会うことはないとは思うが、念の為だ」

 

 車に乗り込み、ウインドウを開けた林田はいつになく真剣に言った。



 

 「息子に……"れい"には絶対関わらないようにしなさい。――いいね?」



 

 朱里の胸は少しざわついたまま、遠ざかる義父の車を見送る。

 

 (……実の息子、なのに……?)

 

 すでに義父の乗った車は見えなくなっていたが、漠然とした気持ちに朱里は視線を前からそらせずにいた。

 腑に落ちない感覚にどうもモヤモヤする。


 

 「――様。朱里お嬢様」

 「!」

 

 名前を呼ばれて、はっと意識が浮上した。

 山の夜風はかなり冬めいていて、いつの間にかすっかり体も冷え切っている。声の方を振り返ればメイドの音葉が心配げに朱里の事を見つめていた。

 

 「朱里お嬢様、そろそろ中に戻りましょう、数日前まで体調を崩していたと聞いております。山の夜は寒いですから、この夜風ではまた体調を崩してしまいますよ」

 

 「あ、……そう……ね。ごめんなさい」


 苦笑して謝れば音葉はいいえと柔らかく微笑んでくれる。


 こうして始まった新生活に戸惑いつつも、それを振り払うかのように朱里は音葉と共に屋敷に戻っていった。


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