第3話 暗雲

 それからの毎日は朱里しゅりにとって充実した日々だった。

 

 午前中はメイドの誰かと敷地内の散策をしたり、書庫で本を読んだりとのんびりとした時間を過ごし、午後は音葉達のメイド仕事の手伝いをしたりもした。

 

 偶然にも零と会えた時はとても嬉しくて、思わず彼に声をかけてしまう。

 零は相変わらず面倒そうで、それでいて少し戸惑ったような様子だったが、邪見にするわけでもなく、ほんの少しの時間なら朱里に付き合ってくれた。

 

 何を話すでもないけれど、今日は何をしただの何があったのだと零に言えば、「そうか」と返事を返してくれるので、それが朱里にはとても嬉しかったのだ。

 勿論、彼に会えない時間の方が圧倒的に多かったのだが、それでも朱里は零に会える時間をとても楽しみにしていた。

 

 

 しかし今日は土曜日。

 そう、義父が来る週末なのだ。

 いつもなら清々しく目覚められるのに、今日の朱里はベッドから起きるのを躊躇ためらうかのようにゴロゴロと時間をつぶしていた。

 

 勿論、義父の事を嫌いという訳ではない。

 

 正体も分からぬ自分を助けてくれた、いわば朱里にとっては命の恩人でもある。

 とても優しくしてもらったし、良くもしてもらった。

 それでもここに来てからゆっくりと考えてみると、違和感を感じることが無かった訳でもない。

 

 第一に朱里はこの敷地内から出ることを義父から禁じられている。

 療養中だからという理由だったが、朱里は記憶がないだけでそれ以外は心身ともに健康だ。

 

 音葉たちに聞けばこの屋敷はぐるりとあの高い塀に囲まれていて、唯一の正門以外からは出入りが出来ないようになっているらしい。

 そしてその正門も二十四時間体制で屈強な警備兵に守られ、いや、この場合は見張られていて、それ以外にも敷地全域に監視カメラが設置してあるので、あまり門や塀の近くには近寄らないようにと教えられた。


 ……移動が車という広大な敷地を持つこの場所で、正門や端の塀まで歩いて行く気にはとてもならないけれど。

 

 しかし、いくら財閥の所有物だとはいえ、山奥の屋敷を警備するのにこれほどのセキュリティが必要なのだろうか?

 ここにあるのは、あの立派な書庫くらいなものだと思う。

 

 (何のため?)

 

 あの義父の事だ、零の為という事はあるまい。

 大体、零の為というなら閉鎖されたこの屋敷は彼を閉じ込める檻でしかないだろう。

 今の朱里がそう感じているように。

 

 あと気になるのは零が言っていた”また”娘が出来たという言葉。

 

 結局、あの言葉の意味を教えてくれる人は誰もいなかった。


 

「朱里様?」

 

 声をかけられてハッと意識を戻せば、そこにはメイド三姉妹の次女・小春の姿がある。

 寝ていたままの体を勢いよく起こす。

 

「申し訳ございません、何度かお声がけはしたのですが。……お加減でも?」

「うんん、ごめんなさい。ちょっと考え事」

 

 乾いた笑いが随分と曖昧な言葉になる。

 この一週間でメイド達とは大分打ち解けられたと思うけれど、これはそっと胸の内に入れておくことにした。

 義父と主従関係にある彼女たちにあまり迷惑はかけられない。

 

 小春に手伝われ手早く朝の用意を済ませると、いつも通りダイニングで朝食を取り、食後の紅茶を頂く頃には朱里の憂鬱な気分はすっかり晴れやかになっていた。


 

 「……朱里様」

 

 小春がティーポットを抱えながら少し言いづらそうな笑みを浮かべる。

 

 「本日の18時頃に、ご当主様がこちらに参られるそうです」

 「……お義父とう様が」

 

 明らかにテンションが下がった。せっかくご飯で回復した気分が台無しだ。

 そんな朱里の様子に小春はその深緑の瞳を複雑そうに細める。

 

 「朱里様。……余計な事かとは存じますが、ご当主様に零様のことを仰っては駄目ですよ。ご当主様は朱里様の事をその、殊更大事にされていますので」


 「……そう、ね」

 

 言葉を選んでくれる小春に、朱里はそっと視線を伏せてティーカップの明るい水色すいしょくの液体を眺めた。ゆらゆらと小さな波紋がカップ内に広がる。

 

 (うんん、こんな顔じゃダメ。これじゃ皆に心配かける)

 

 意識を振り払うように頭をふるふると振って朱里は小春に笑いかけた。

 

 「ありがとう、小春。そういえば朝から音葉と美海の姿を見ない気がするけど」

 

 「あぁ二人なら本日は離れの方に行っております」

 

 「離れ……?」

 

 「はい、離れです。なので本日の朱里様のお相手は私が。もう少ししましたら通いの者も来ますので屋敷の事は心配いりません。あとは本日、業者の者が屋敷内と庭園の清掃に入りますので少々騒がしくなるかと」

 

 離れ、ということは零が住んでいる別邸の方だろう。

 さすがに零もメイド達もそこまで近寄らせてはくれなかったけれど、遠目から見ても別荘と呼べるくらいの大きさはあった気がする。

 

 今までは朱里の近くには大体音葉が居て気付かなかったけれど、今日みたいに交代で別邸に行ってたのかもしれない。

 

 

 「朱里様?」

 「……うんん、何でもない」

 

 何だか自分だけ知らないことが多いなぁと寂しさを感じつつ、少し冷めてしまった紅茶に口を付けた。

 朱里がこの屋敷に来て最初の週末が始まろうとしている。

 



 その日の夕刻、予定通りに林田はやって来ると朱里の姿を見て破顔した様子で車から降りてきた。

 

 「朱里!元気にしていたか?」

 

 朱里は柔らかな微笑みを浮かべて義父を出迎える。

 ここで自分が陰鬱そうな様子を出しては駄目だ。

 

 「はい、お義父様。この通り皆さんに良くして頂いてます」

 

 「そうかそうか、それは何よりだ。さぁここは冷える、中に入ろう」

 

 笑顔で朱里の背に手を添え、エスコートするように林田は歩き出した。

 離れから戻ってきた二人が恭しく観音開きの玄関ドアを開けてくれる。

 

 今日の日中に業者が入り、邸内外の清掃をしてくれたので屋敷はとてもきれいになっていた。

 こんな広い屋敷の管理をメイド三人と管理人一人で行うのは大変だろうし、もっと人を増やせばいいのにと音葉に言ってみたことがあるが、メイドや管理人はあくまで屋敷を痛ませない程度の補助の役割であって、定期的な屋敷の維持管理《メンテナンス》は林田財閥提携の管理会社が担っているそうだ。

 

 しかも今日は一流ホテルの元シェフらが泊まり込みで朝昼晩の三食を作ってくれるという贅沢ここに極まれりといった仕様らしい。

 

 いつもの家庭的な夕食とは違う慣れないフルコースを少々緊張しながら頂き、この一週間にあったことを零の話題を抜いて朱里は林田に話した。

 

 朱里の話を林田はワイン片手に興味深く、時に相槌を打ちながら熱心に聞いてくれる。

 食後のデザートまで頂き、問題なくこの食事会は終わるかと安堵しかけたその時だった。



 「そういえば、朱里」

 

 ほんの少し、険を含んだように瞳が細められる。

 

 「零と会ったそうだね」

 「……!」

 

 顔を上げて林田を見れば微笑みをたたえたまま、しかしその双眸は決して笑ってはいなかった。


 

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