酒に酔うように軽やかに

あじさい

* * *

 文章を書くということは、考えるということだ。

 何となく感じていること、当たり前にそうだと思っていること、調べるほどでもないが気になっていることが、人間にはあるものだが、そういうことをきちんと考えることを抜きにして、文章を書くことはできない。

 普段は考えていないことを、あえて意識的に考えようとするのだから、率直に言って、とても面倒くさい。


 だが、文章として残さなければ、記録はおろか、記憶にさえ残らない。


 記憶に残らないということは、現在以外の時間、過去と未来において、存在しなくなるということだ。

 自分の内に――あるいは外か、内と外に同時に――有るのか無いのか分からないような不確かなものは、確かな形を与えられることでようやく、感覚や感情として自覚される。

 意識することができる何かになる。


 言葉で表現しようとすると、言葉が歴史を背負っていることによる難しさを痛感する。

 歴史とは時間の長さでもあるが、空間の広さでもある。

 町の歴史、市の歴史、県の歴史、国の歴史、星の歴史は、それぞれ別物だが、重なり合い、溶け合い、波紋のように干渉し合っている。

 しかも、歴史そのものは人間の主観にすぎない。

 そんな中に、人間は生まれながらに放り込まれ、言語を骨肉化する。

 それは個々の人間の選択や好悪を超越している。


 借り物でない言葉はない。

 まっさらな言葉はない。

 自分だけの言葉はない。

 言葉とは歴史であり、社会。

 自分の内の不確かなものに形を与えるためには、それを歴史という文脈の中に再構築する必要がある。


 たとえば、男性と女性。

 同じ男性を単に男性と呼ぶか、おじさん、おじ様、おっさん、おっちゃん、ハゲ、ジジイと呼ぶか。

 同じ女性を単に女性と呼ぶか、おばさん、おば様、マダム、おばちゃん、年増、ババアと呼ぶか。

 男性を「男性」と呼ぶか「男」と呼ぶかに大きな違いがなくても、女性を「女性」と呼ぶか「女」と呼ぶかでは印象が異なる。


 夜、男性が1人、川岸を歩いていた。

 夜、男が1人、川岸を歩いていた。

 夜、女性が1人、川岸を歩いていた。

 夜、女が1人、川岸を歩いていた。


 言葉にしなかった時は無色透明なイメージでも、どの言葉を選ぶかで眼差しが定まり、距離感が定まり、意図が定まる。

 優しさや親しさが見出されることもあれば、悪意や侮蔑ぶべつが見出されることもある。


 特に日本語の場合は、一人称の種類が多い。

 私(わたくし)・わたし・あたし・ウチ・僕・俺・ワイなど挙げればキリがない。

 どれを選ぶかによって、話し手が聞き手に対してどのような印象を与えたがっているのかが変化する。

 これも言葉が持つ歴史だ。

 一人称を“I”、“my”、“me”、“mine”で済ます英語圏と日本語圏では、歴史が違う。

 どちらが優れているという話ではない。

 どう頑張っても英語に訳せない日本語と同様に、英語圏にはあるが日本語圏にはない概念や文法の例もまた、枚挙まいきょいとまがない。

 進歩や深化の度合いではなく、歴史の中で共有されてきた関心事や優先順位が違うのだ。


 だからこそ、言葉を適切に使いこなそうと思うなら、言語ごとの繊細な意味合いや、言葉と言葉の微妙な違いについて、慎重しんちょう推敲すいこうすることが求められる。

 頭に浮かんだ言葉をつれづれなるままに書いて立派な文章にできるのは、よほどの文化人だけと考えるべきだ。


 小説を書くとなれば、人間そのものを言葉によって再構築し、魂を吹き込むことになる。

 言葉の歴史を探るのとは桁違いの労力だ。

 当然、考えるべきことは増える。


 登場人物が仮に日本人女性だとして、どんな人間なのか。

 たとえば、学校の勉強はできたのか、運動は得意なのか、芸術分野に造詣ぞうけいが深いのか、機械に強いのか、SNSに熱心なのか、本は読むのか。

 どんな子供だったのか、親と仲が良いのか、母親・父親それぞれからどう見られているのか。

 在学中の引っ越し(転校)は経験しているのか、したとすれば何度か。

 性格は活発なのか引っ込み思案なのか、ポジティブなのかネガティブなのか、友達は多いのか少ないのか。

 民族や出身地、先祖の職業などに差別を受けうる要素はあるのか、身体機能や知能に関するハンディキャップはあるのか。

 恋愛に関心はあるのか、恋愛経験はあるのか、あるとすればどの程度か。

 大学・短大などに進学したとして、どのような理由で、どのような分野の学校・学部を選んだのか。

 就職したのはどんな会社か。

 転職はしたのか、したとすればどのような経緯で、どんな会社を選んだのか。 

 そんな自分のことを、彼女自身はどう思っているのか。


 不遇な境遇だから暗い人間になる、性差別を受けてきたからフェミニストになる、とも限らない。

 人間はそこまで単純ではない。

 不遇な境遇だからこそ強気でユーモラスな人間に育つかもしれないし、性差別を受けたからこそ性差別を自然なものだと諦める人間になるかもしれない。


 すべてをあらかじめ決めておかなければ満足のいく小説など書けない、とは言わない。

 一から十までプランを作って小説を書くのは1つの理想ではあるが、自分自身の内面を深掘りしていくような執筆活動は、往々にして見切り発車から始まる。

 だが、いくら作者でも作品世界の神にはなれないという謙虚さ、作者自身ではない他者を完璧に理解することはできないという慎み深さを、忘れてはならない。


 実生活においてはなおのことそうだという点は、小説を書くときにこそ思い出されるべきだ。

 人間の多くは何かしらの点で特権的な立場にいるし、そうでありながら、自らの特権に盲目であることが圧倒的に多い。

 先入観に囚われた特権者の言葉を、架空の人物とはいえ、現実と地続きのマイノリティ的存在に語らせること、あるいはそれについて黙らせることは、現実のマイノリティをステレオタイプの鋳型に押し込み、差別的な規範を再び押しつけることにほかならない。


 このことは、言葉そのものが歴史と社会からの借り物であり、“自分だけの言葉”など存在しないことと密接に関係している。

 言葉によって構築されるものであるからには、いくら独自の虚構世界、独自のキャラクターであっても、言葉そのものが背負っている歴史的・社会的な文脈と無縁ではいられない。

 そして、言葉の歴史は、人間1人の頭では一生をかけても把握しきれないほど、長く、深く、重い。

 そのため、言葉に対して真摯な作者によって書かれた小説作品は、どこかで作者自身の手を離れ、それ自体として独自の世界を探求し始めないわけにはいかないのだ。


 実際、執筆中に人物像が変わることはよくある。

 作者の立場で最初にイメージしていた人物像と、キャラクター自身の言葉遣いとが乖離かいりしていって、あたかも架空のキャラクターが勝手に動き始めるような感覚になる。

 とはいえ、作者の立場からのキャラクターの掘り下げ、ないし直観的な把握が不充分だった場合、動き始めたキャラクターはすぐに立ち止まってしまう。

 彼女が次に言うべき言葉、次に行うべき行動が、急に分からなくなる。


 作者が日々の生活の中でどれだけ豊かな感受性、人間観、世界観をつちかっているかが試される。

 その意味では、作者が主体、小説が客体となり、作者が小説を書くばかりではない。

 小説の方が作者を試し、作者を育て、時には作者をこばむこともあるのだ。


 だからこそ、小説を書くことは楽しい。

 1人の人間が一生を通じて続ける価値があるほどに。




 ここまで熱弁を振るってきたが、しかし、プロの小説家でもない人間が、日々の生活を送りながら小説を書くことは難しい。

 仕事に疲れ、たまに少し豪勢な食事で気合いを入れ、家に帰れば風呂に入るのも面倒な日々。

 休日は昼まで寝て、目が覚めてもベッドの上でスマホをいじり、昼下がりに近所のスーパーで買い物を済ませたら、もう酒を飲み始める。

 酒に酔いながら、Vtuberの切り抜き動画を適当に再生し、手慰みにいくつかのスマホゲームを進めていたら、思考力はすぐどこかにいってしまう。

 気持ち良く酔える時も酔えない時も、時間はあっという間に溶けて、眠らなければならない時刻が近づいてくる。


 酒に酔うように軽やかに、ネットを開くように何気なく、小説を書けたらいいのに。

 日々の生活の中で感じる喜びや不安、感謝、怒り、違和感を、何のてらいもなく率直そっちょくに、文章にできたらいいのに。


 タイムリミットが来る。

 ネットを閉じ、パソコンを閉じ、部屋の電気を消す。

 充電器につないだスマホで、翌朝のアラームを確認してから、安眠用の音声を再生し、枕元に伏せる。

 聞いたそばから忘れても誰にも迷惑をかけない世間話、何の押しつけがましさもない雑談、くだらないことで大はしゃぎする、楽しげな話し声が、ゆううつで邪魔くさい連想ゲームをかき消して、思考回路を一本道に舗装ほそうする。

 誰もがありのままでいれば良いのだと、そのままの自分を肯定することが大切なのだと、生きているだけで立派なのだと、嘘をく。

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酒に酔うように軽やかに あじさい @shepherdtaro

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