回想

藍空と月

回想

 短い夢を、何度も見る。その夢はお世辞にも楽しいとは言えないもので、空気の薄い真っ暗な部屋にいるみたいに、夢の中で僕は浅い呼吸を繰り返している。暗い。寒い。冷たい。まるで肺が凍っているかのように息ができなくて、苦しい。痛い。それでも、愛おしい。目の前にあるどことなく懐かしい雰囲気に、心拍数が上がる。確かめたい。それでも、届かない。追いつけない。走っても、走っても。浅い呼吸の中、肺に思いっきり空気を吸い込んで、名前を呼んだ。それだけで、心の中にせき止めていたものが溢れてしまいそうだ。目の前の気配がこちらを振り返る。ああ、やっぱり君は――――。



 ピピピピピピピピピ

けたたましいアラームの音で、意識が浮上する。目が覚めた。まだ薄暗い部屋に、もう一度眠りにつきたがる身体をなんとか起こして、小さな欠伸をひとつ。少し落ち着かない気分だ。あんな夢を見て、どう落ち着いていられよう。上手に、忘れていたはずなのに。

「忘れる」とは一種の防衛本能だと思う。人の心は、簡単に傷つき簡単に穴が空いてしまう。それでいて、その穴は一度空いてしまえば決して元に戻ることはない。だから人は忘れるのだと僕は思う。空いた穴を一時的に塞ぐために。それでも残酷なのは、一度刻まれた記憶は、何一つとして完全に消えてはくれないということだ。悲しみも、妬みも、喜びも。例えば今日の空が高くて青いこととか、耳をかすめた生ぬるい風とか、人混みの中で揺れる誰かのポニーテールとか、ほどけた靴紐とか。そういうありふれたものが引き金となって、記憶は、穴を塞いでいたはずの膜をいとも簡単にすり抜けて、心の一番浅いところまで呼び戻されてしまう。今、僕がそうであるように。

 僕は、忘れるのが得意な方だと思っていた。宿題とか頼まれ事とか、そういうものは今まで忘れなかったけれど、自分にとって都合が悪かったり自分を傷つけたりする物事は、意思を持って忘れるようにしていた。昔からそういう風に、狡く生きてきた。夢の中のあの人についても、例外ではないはずだった。

 ああ、またか。あの名前を呼んだのは、随分と久しぶりな気がする。



 「あの人」――名前は「アキ」といった――は、かつての僕の恋人だ。アキは、僕がそれまで出会った誰よりも変な人だった。人一倍繊細な心を持って、今にも消えてしまいそうなくせして、豪快に笑い、わりとがさつで。きっとその掴みどころの無さが僕の心を掴んで離さなかったのだろう。本当に厄介者だ。アキと過ごした日々は、今日までの僕の人生の中で一番濃い時間だった、と思う。

 五年前のある秋の日に、僕らは出逢った。僕はその日もいつものように昼寝をしようと、校舎裏のベンチに向かっていた。その道中、植木から白い脚がはみ出しているのを目の端で捉えた。それがアキだった。僕はギョッとして駆け寄ったが、目に入ったのは気持ちよさそうに眠る顔で、ひどく安心したのを覚えている。どうやら植木の陰で見つけた野良猫と遊んでいる間に眠ってしまっただけのようだった。アキと僕は、同じ大学の同期で、僕は文学を、アキは芸術を学んでいた。互いが惹かれ合うのにそう長くはかからず、気づけば大学生活の大半はアキで彩られていた。二人で色んなことをした。色んなところに行った。それでも、何かが足りなかった。互いの一番深いところを差し出してみてもその気持ちが満たされることはなく、漠然とした不安だけがずっと僕を付きまとっていた。大好きで、大切で、側に居たくて、離したくなくて。求めれば求めるほど乾いていく感覚が、ただただ苦しかった。そのせいだろうか。ある時僕らの間に小さな歪みが生まれて、ほんの些細なことでそれは取り返しのつかない亀裂となった。今ではもう思い出せないほどの、小さなきっかけだ。最後の日に見たアキの顔を、もうしばらく思い出していない。もう思い出せないのかもしれない。泣いていた?怒っていた?呆れていた?わからない。思い出すことさえ許されないんじゃないか。許されたい。許されたくない。忘れたい。忘れたくない。許したい。許したくない。




 実は、アキとの思い出に触れるのは今日が初めてではない。ちょうど半年前、今日のように空が高く澄んだ日に、一度だけ。その日、何を思ったか、僕は久しぶりに散歩をしたくなったのだ。たぶん、何日も降り続いた雨が止み、久しぶりの晴れ間に気分を良くしたからだろう。そして、半ば無意識のうちに、僕はかつての僕らの散歩コースとなっていた並木道を歩いてしまった。ほんの数ヶ月前までは確かにあった、左側の気配を追いかけるように。これが、アキと出逢ってからの僕の、ニ度目の過ちである。そしてあろうことか、僕は今から三度目の過ちを犯そうとしている。この衝動を抑えることができない。穴を塞いでいた膜にできた小さな風穴を、今、自らの手で広げようとしている。まるで、それを望んでいるかのように、ごく自然に。


 今僕の手の中にあるのは、数日前に物置部屋で見つけた日記帳だ。中には、アキの字で綴られた記憶。最近急に寒くなったからと毛布を取り出そうとしたとき、それは床に転がった。毛布の間に挟まっていたのだろう。アキのことだ。何故あんなところにあったかなんて、考えなくてもわかる。わかっていて読もうとしているのだから、僕も大概だろう。それでも、知りたい。触れたい。もう一度、あの日々に。今日は十一月十四日。丁度良いだろう。かすかに震える指先を笑いながら、僕はページを巡った。





―――――――――――――――――――――




 十月十七日

今日は五日ぶりに太陽の光を浴びた。

最近ずーっとアトリエに篭りっぱなしだったから、久しぶりに気持ちがよかったー!

そういえばあの場所知ってるの私だけだと思ってたんだけど、あの人誰だろう。

綺麗な寝顔だったな。

でもあそこは私のとっておきの場所だったのに。あーまた違う場所探さないと。


明日やること:良い昼寝場所を探す旅に出る



 十月二十五日

大学でまたあの人を見かけた。あんな風に笑うんだなと少しびっくりした。丁度図書館から出てくるところだった。課題かな。真面目な人なんだな。昼寝場所を奪われたこと、全然許してないけどね。


明日やること:良い昼寝場所を見つける・次のコンクールの締切を確認する(至急)



 十一月二日

好きな人に好きな人がいた。好きな人に、好きな人がいた。

知りたくなかった。見たくなかった。

こんなことなら昼寝場所探しなんてやめとけばよかった。

本当にツイてない、なあ。

今まで描いた絵も、全部捨てちゃおう。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ!

明日捨てる。明日ちゃんと捨てる。



 十一月十一日

あの人と初めて喋った。どうやら私が倒れてると思って心配して声をかけてくれたらしいけど、そんなわけないじゃんね。誰かさんのせいであんなとこで寝る羽目になったんだよ。まあ言わないけど。いろいろバレちゃうからね。

酷く驚いていたから、猫ちゃんと遊んでたって咄嗟に嘘ついちゃった。まあ、いっか。

今日も、絵は捨てられなかった。



 十一月三十一日

あれから、あの人とよく話すようになった。いつも、会う時は校舎裏のベンチで。そんなことはないのに、なんかいけないことをしている気がして、少しワクワクする。調子に乗って、最近失恋したことを話してしまった。重たい話題だったかなと心配になったけど、ただ静かに話を聞いてくれて、最後には「そう。」とだけ言われて話が終わった。それが心地良いと感じたのは、気のせいではないと思う。なんとなく恥ずかしくてまだ名前を呼んだことがないけど、次は頑張りたい。次に会うのは五日後。一緒に映画を見に行くことになったんだ。何着ていこうかな。



 十二月五日

彼と映画に行ってきた。彼のイチオシだったから楽しみにしていたけど、私はそんなに面白いと思えなかったな。回りくどい恋愛の話って苦手。奥手な人たちを見るとうずうずするし。私だったら好きだと思ったら猛アタックしちゃう。その方が絶対良いよ。








 三月十七日

前回書いたのが十二月って…。こういうの本当に長く続いた試しがないのだけど、どうして懲りないんだろうね。今まで何冊のノートを無駄にしたんだろうか。

今日は部屋の整理をした。溜まっていたキャンバスを一気に捨てて、作業スペースがだいぶ広くなったと思う。次は何を描こうかな。



 六月九日

どうしよう。どうしよう。どうしよう。

気付いちゃった。わかっちゃった。

彼のことが好きだ。



 七月二日

今日は彼と遊園地に行った。少し前まで存在すら知らなかったのに、人生って不思議だ。なんてね。ねえ、気づいてる?もう、君のことで頭がいっぱいなんだよ。他に何も考えられないくらい。

まあ、彼のことだから気づいてないだろうな。なんならまだ前の恋を引き摺ってるとか思ってそう。でも、もう少し、いいよ。このままで。まだバレないで。まだ独り占めしていたい。

嘘みたいだ。



 十一月十四日

今日という日が、特別な日になった。私にしては今日までよく我慢したと思う。えらいよ。

あの驚いた顔、最高だったな。今初めて知りましたみたいな顔して、嘘でしょ⁉と思った。鈍すぎる。鈍すぎるけど、そういうところも、好き、だなあ。

今日のこと、いつかは忘れちゃうのかな。全部覚えていたいけど、無理かもしれないな。たぶん、明日はまだ覚えてる。明後日も、その次の日も、一か月後も。四年経ったら、どうかな。十年経ったら?

今日のこと、少しずつ忘れていくのかな。例えば今日着ていた服の色とかさ。私は白だったよ。あと、通りすがりの人がぽろっとこぼした言葉で二人でお腹を抱えて笑ったこと。

あー、ぜんぶ、忘れたくないなあ。

でも、あまり詳細に文字に残すのは恥ずかしいので、これだけ残しておくことにする。

今日はめちゃくちゃ風が強くて、寒かった。



 十二月二十五日

二人で過ごす二回目のクリスマス。今年はお家でチキンとケーキを食べました。彼の好きな映画で、一緒に泣きました。やっぱり、嘘みたいだ。







 四月五日

桜が見頃だと聞いて、お花見に行きました。お花見と言っても、言ってしまえばただの散歩だけどね。あまりにも嬉しそうに綺麗だねって笑うから、かわいくてつい頭をわしゃわしゃしてしまった。しっかり嫌そうな顔をしていて、今度は私が笑ってしまった。ああ、ぽかぽかだったな。全部、ぜーんぶ、このままならいいのに。



 八月十九日

念願の花火!花火をやっても大丈夫な公園を探すのに苦労したけど、楽しかった!

帰りにコンビニでアイスを買って、食べながら帰った。バケツとごみはジャン負けで彼が持ってくれた。本当に楽しかった。



 十一月七日

この時期になると、道が落ち葉で埋め尽くされるのが好き。落ち葉を踏みながら歩くのが好き。なんなら新しい雪を踏むより好きかもな。彼にそう言ったら、なぜか笑われた。なんでだ?







 二月九日

朝起きたら、辺り一面に雪が積もっていた。十数年に一度の大雪だってテレビで言ってた。眠そうな彼を起こして、一緒に雪合戦をした。やる気なさそうだったくせに、いざやるとなったら本気で投げてきてむかついた。普通に、勝てなかった。腹立つ。いじわる。でも、楽しかった。



 九月二十五日

もう最後かもしれない。はっきりとは言われてないけど、なんとなくそう思った。

どうして?昨日のご飯が美味しくなかったから?数日前、疲れてるのにわがままを言ってしまったから?それよりももっと前?今日、前から楽しみにしてたデートだったのに、あまり笑ってくれなかったな。わからない、わからないよ。言ってくれなきゃ。

私も、どうしたのってなんで言えないんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。

わからない。怖い。悲しい。





―――――――――――――――――――――






 この先は書かれていない。所々日付が飛んでいるところもあったが、それが逆にアキらしくて、あの頃の自分に戻るには十分だった。まっさらなページを見つめながら、ほとんど手付かずのまま冷め切ってしまったコーヒーを飲んだ。胸のざわめきは収まることを知らない。あの時は猫と遊んでいたんじゃなかったんだなとか、僕の寝顔って綺麗なんだなとか、どうでもいいことばかりを考えようとしてしまう。ああ、苦しい。

 かなり集中して読んでいたのだろう。部屋がだいぶ薄暗くなっていたことに、今初めて気がついた。おそらく十七時頃だろうと思う。固まった身体をほぐすように軽く伸びをする。そのときちょうど通知音とともにスマホの画面が明るくなった。そこには、”十六時四十八分”の表示。――――――――ほらね。

 目を閉じると、あの頃の僕たちが鮮明に脳裏に浮かぶ。この部屋に確かに存在していた小さな日常が、怖いくらいにはっきりと。今、あの扉の向こうから「ただいま」と聞こえてきそうな気さえしてしまう。ああ、気づいてしまった。いや、本当はずっと気づかない振りをしていただけなのかもしれない。この部屋に時計が無いままなのも、それに慣れてしまっているのも。この部屋に残された生活が、僕はもう君の無い生活なんてできないということを示しているのだということに。

掃除の仕方、洗濯物を干す場所、使う食器の優先度、寝るときの位置、姿勢。一つ一つにこだわりがあったらしく、元々僕が一人で住んでいた部屋だったのに、気づけばほとんどアキの好みに変えられてしまった。そして、二人で過ごす時間が長くなるほど、必然的に僕もアキの生活に慣れ、気づけばそれが当たり前になっていった。――――ああ、そうか。僕は最初から、何一つとして手放せてはいなかったんだ。寒くても毎晩洗濯物を外に干すのは、アキが湿気を嫌って部屋干しを拒んだから。朝が苦手な僕が毎日同じ時間に起きるのも、朝ごはんを食べるようになったのも、アキに叩き起こされないようにしていたらいつの間にか朝型になったからだ。お風呂に入ったらまず湯船につかるのはアキがそうしていたからだし、毎晩歯磨きを洗面所でぱぱっと済ませるのは、そうしないとアキが歯磨きをしながら寝てしまうから。今でも全部、あの時のまま。この生活は、全部、全部アキが作ったんだ。自分でも気づかないうちに、僕自身にアキが染み付いていたんだ。

 今更こんなことに気づいても、もうどうしようもない。もう、戻れない。アキとの記憶が鮮明になればなるほど、心に張った膜が破けて穴が広がっていく。なんて愚かなのだろう。なあ、この日記を遺していったのも、わざわざ毛布に挟んでおいたのも、わざとなんだろう。僕の記憶が薄れる頃に、また君に会いたくなるように。一度思い出してしまったのだ。もう無くすことはできないだろう。雪が解けてあたたかな日差しに包まれても、ジリジリと肌を焼くような太陽の光を浴びても。秋の風に吹かれ、この毛布を見る度に、きっと今日のことを、そのもっと奥にある僕らの過ごした日々を、僕は思い出してしまうのだろう。

「はは、さすがだな。」

コーヒーをもう一口含みながら、目を閉じて、あの愛おしい日々を反芻する。僕の左側で揺れていた少し明るい栗色の癖毛を。秋が好きだと言って笑ったあの顔を。まだかろうじて耳に残っている、独特な笑い声を。







いつの間にか眠ってしまったらしい。また夢を見た。先ほどよりもさらに肌寒くなった部屋。それとは対照的に、じんわりと緩くなった心。頬を伝う涙が少しだけ擽ったい。

 後悔、している。後悔したところで、もう何も元には戻らないのだけど。苦しい。痛い。それでも、愛おしい。今ならこの感情の正体がわかるような気がする。きっと僕はこれからもずっとこの感情と付き合っていくのだろう。それなら僕は、何度だって過ちを繰り返そう。この秋の日に。君を、君と過ごした日々を忘れないように。どうせ僕は、もう君無しでは生きていけないのだから。












「雨ほんと嫌い!うざい!」

灰色の空の下、唐突に君がそう叫んだ。

「なんで?俺は結構好きだよ。」

と、僕が言うと、

「だって湿気で髪が広がるんだもん。」

と、頬を膨らませてそう言った。

「うん、だから俺は結構好きだよ。」

毛先を指でもてあそびながら僕が言うと、君はそれでもまだ不満そうな、でも少し嬉しそうな顔をして、「ありがとう。」と小さな声で言った。


「亜希」

愛おしさを込めて名前を呼ぶ。すると今度は、

「なあに」

と、とても嬉しそうに笑った。








Ray

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回想 藍空と月 @aizoratotsuki

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