第5話


 折妃目、菊子、譜歌の三名は会議室に通された。

 夜己博物館の館長と会うことに関して、大した苦労は無かった。すでに学芸員とは一度話したことがあり、折妃目の名前を添えて館長と話をする機会を欲しいと頼んだところ、覿面に効いたらしくすぐに是と返事がもらえた。彼女の名はそんなところまで轟いているらしい。

 

 館長が来るのを待つ間、何を話すでも無く座っていた。会議室は展示室に近く今も客が入っているはずだが、喧騒すら聞こえない。

 

 午後有給を使ってでも打ち合わせの時間を開館時間に合わせたのは菊子自身だった。閉館時間後の警備員の怪しい挙動について、真偽のほどは確かではない。なるべく人のいる時間を望んで安全を図った結果だった。

 

「お待たせいたしました」

 ほどなくして老齢の女性が入室してきた。彼女が館長らしい。折妃目は司会に向かないため菊子が名刺の交換を済ませ、譜歌の紹介はそれとなくしておく。話の分かる館長だと判断できた時点で金の卵の持ち主だと明かしても良いかもしれない。

 

「もう一人いらっしゃるのですが、大学がお忙しいようで。今向かっているそうです」

 館長がいれば十分かと思うが、もう一人とは副館長だろうか。「お待ちしましょうか」と尋ねたが「いえ、始めましょう」と先を促された。

 

 折妃目がたおやかにコレクションの目録を開くと、最初は毅然としていた館長の態度もあからさまに軟化していった。あれもこれも寄贈しても構わない、むしろ資金の援助をさせてほしいとまで話せば、館長は狼狽を見せた。

 

「お話は大変嬉しいのですが、一体その……当館に何をお求めでしょうか」

「あたし、欲しいものがあるの」

「はい……ご協力できるものでしたら、是非に」

 折妃目と館長の年齢差は祖母と孫ほど離れているであろうに、明確に主導権を握っているのは折妃目の方だった。

「金の卵よ」

 

 館長は苦笑を浮かべる。

「金の卵、ですか。ええ、予定の展示が済み次第でしたら、すぐにでもお持ちいたします」

「駄目よ。終わるまでなんて待てない。ねぇ、今すぐ」

 

 博物館側としては折妃目が持っているコレクションの実在も確かめられていない時点で金の卵を渡すことはしたくないだろう。あまりに性急な折妃目を宥めるべきか、と菊子が口を挟むより前に、館長の弁明が入った。

 

「申し訳ございませんが、金の卵の所有権については、我々の一存では決められないのです」

 さしもの折妃目も得心いかなさそうに閉口した。館長が続きを言おうとした時、部屋の外から忙しない足音が聞こえた。ノックの音が響き、男が一人入室してくる。

 

「遅くなり申し訳ない」

 息を整えることもそこそこに頭を下げる。あげた顔に皺が濃く刻まれている老爺だった。

 菊子は彼の顔を知っていた。ごく一方的に。そして大まかな経歴も把握している。

 背筋に怖気が走った。

 

「ちょうど良かったわ。彼が金の卵の所有者なんです」

 館長がそう紹介した。老爺は譜歌の師事する教授だった。

 思わず譜歌を見てしまう。彼女は話が呑み込めていないようで、喉から困惑の吐息が漏れていた。

 

「当館は卵を借りている状態でして、先行公開後に買取をさせていただく予定なのです。そこから本公開をしようかと……」

 教授は譜歌の存在にやっと気づく。彼女を視界に入れて一瞬息を呑んだ。

「教授……」

「あ、嗚呼。賀長くん。君もいるとは」

 

 地面が途端に薄氷になってしまったかのようだった。張り詰めた空気に館長だけが気づかず「お知り合いでしたか」と宣う。

「どうして教授がキ……金の卵を?」

 譜歌は決して騒がず、努めて平静を保とうとしている。無意識に菊子は彼女の背に手を添えた。

 

「いや、何。そうだったな。そういえば君も似たような卵を持っていたな。私は最近、知人から研究用に買い取ったんだ」

 教授の説明に、譜歌はハッと表情を明るくさせた。「そっか!」

「あの、教授。実はわたし、少し前に金の卵を盗まれてしまったんです。それが教授が持ってる金の卵と細かい傷まで一緒なんですよ。で……今わかりました。きっと卵を盗んだ犯人が転売みたいなことをして、ちょうど教授の手に渡ったんですね!」

 

 名推理、と言わんばかりに息巻く譜歌に、菊子は内心焦っていた。

 譜歌が言っていることは間違っている。けれど今それを口にすれば状況が悪くなるばかりだ。一刻も早く撤退して、仕切り直さねばならない。

 

「あら?教授、昔からあの卵を研究していたと仰っていませんでした?本公開もその研究成果を発表するのを兼ねていると……」

 そう言ったのは館長だった。

 教授の顔から感情が抜けていく。隠せていなかった焦燥すら色を失い、冷たくなっていく。

 秋風がガラスにぶつかって、窓ががたがたと揺れていた。

 彼の手が携帯を握り、どこかに電話をかける。

 

「教授……?」

 数秒の後、会議室のドアが開かれて全員の意識がそちらに向く。

 警備員が数名入ってきた。電話が合図だったことに、菊子は遅れて気がついた。

 

「縛り上げろ」

 教授の指示に、警備員は黙したままこちらに近づいてくる。入り口に一番近く座っていた譜歌に手が伸ばされ、菊子は咄嗟に彼女の身を引かせた。空振りに終わった腕が八つ当たりのように飛んできて、菊子の側頭部を殴打した。譜歌の悲鳴が上がる。

 

「ちょっと、貴方たち、何を」

 館長が勇ましく問い詰めたが、後ろから羽交い締めにされ、二人がかりで腕にガムテープを巻かれ始めた。菊子は視界の端に光る物が見えて、思考が止まる。

 

「菊子!」

 折妃目の呼びかけも虚しく、肩に冷たい切っ先が突き刺さった。刃渡り十五センチのサバイバルナイフだ。刃が引き抜かれた瞬間に激痛が走って、うめき声も出ない。崩れ落ちそうになったところを警備員に捕まり、首元に腕を回される。拘束には不十分だが、痛みで動きが鈍った菊子を封じるには十分だった。

 

 譜歌が可哀想なほどに震えていた。空回った喉で菊子の名を呼んでいる。

 菊子は傷口を押さえながら考える。さながら走馬灯のように記憶を巡らせる。滲む視界の中で、折妃目の姿だけが妙に鮮明だった。彼女は一瞬、ドアに目を向けた。

 

「死体が」

 菊子は気がつくと口走っていた。

「なんだ」

「……死体が出来ると困るでしょう」

「命乞いか」

「そうですね。口止めして見逃した方が良い。このままでは金の卵で得られるはずだった利益が全て飛ぶでしょう。そう、もっと利益の出る売り先をお教えすることも出来ます。笹川組をご存知ですか?私の知人がいるんです」

 

 綱倉は言った。『じき捕まえるけど』と。もし、それが今日ならば。否、例え来なくても何かしら証拠を残すために時間を稼ぐ。

 

 教授は短慮の末、菊子の魂胆を見透かしたように警備員に向かって顎をしゃくった。菊子の首筋にナイフを当てがわれ、ままならない身体で何とか仰反る。やはり駄目か、と諦めるように目を瞑った。

 

「ねぇ」

 目を開くと折妃目が立ち上がっていた。ナイフなど見えていないかのように、警備員に遠慮無く詰め寄る。

「退いてくれる?」

 臆することの無い折妃目に、警備員の方が臆していた。

 

 落ちる静寂。わずかな間の後、轟音が耳をつんざいた。

 素早く開かれた会議室のドア。廊下に数名の人影が立っていた。菊子はその中に綱倉の姿を見つける。

 

 警察だ、と彼らが叫んだ瞬間、菊子を捕まえている警備員は咄嗟の判断に迷った。手元の菊子か間近にいる折妃目か、どちらを人質にして警察の動きを止めるのか。

 そしてその逡巡を警官らは見逃さなかった。体術でナイフを落とし、悶着することも無く無力化された。菊子は拘束が緩み、床に崩れ落ちる。

 

 館長は先に縛られ終えていたことが幸いし、すでに館長から離れていた警備員は人質を取る間も無く制圧された。残る警備員も同様、教授は元より暴力装置を持たず、狼狽えている間に拘束された。

 

 捕物劇に安心出来る暇は無かった。菊子は天井を見上げながら、恐る恐る傷口を押さえていた掌を見てしまう。赤い血がべっとりとついていて、動脈血だ、と他人事のように考える。一方で大怪我をしていることを一気に自覚してしまい、血の気が引いた。

 

「無茶をするね」

 駆けつけた綱倉が応急処置を始めてくれる反対側で、折妃目が覗き込んでくる。綺麗なハンカチを傷口に押さえてくれていた。

 

「痛い?」

「痛い……」

「そう。痛いわね。すぐ救急車が来てくれるみたい。死にそう?」

「死にそう……」

「死にそうね。大丈夫よ、人間って意外と丈夫なの」

「……ごめん、プリン、作れないかも」

 

 為されるがまま肩に布を巻かれるも、血が抜けていく感覚が止まらない。痛みに耐性など無く、死なないだろうと理解できても死ぬほど痛いのだ。菊子は瞼を閉じた。灰色の視界で、折妃目の声が響く。

 

「じゃあ、痛くなくなるおまじない、してあげる」

 この感覚が死に近づいているものなのか、ただの気絶なのか、菊子には分からない。けれどただ一つ確かなのは。

 

「ねぇ、死なないでね」

 見えずとも瞼の裏には、まなじりを細めてたおやかに微笑む折妃目が見えた。

 無意識に唇を動かしていた。

「……いいよ、分かった」

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