終章(現在)

 1 

 僕とのセックスに悩んでいた。

 相談するうちに頼もしく見えた。

 どちらが好きなのかはよくわからない。


 恋人から経緯をきき、僕は便所に篭もった。

 彼女と出会ってからの眩しい世界が、一気に色褪せ、荒涼とした世界にひとり取り残されたような錯覚に陥った。

 何を信じていいのか。

 背筋に寒寒とした震えが走り、脳内では間抜けな僕を嘲笑う幻聴が止まらなかった。


 二十年来堰き止められた涙が次から次へと流れ、その重さで洗面台を破壊すると、床に溢れて海となった。何処から侵入したのか、魚が飛び跳ね、飛沫を散らす。

 あの時こうしていれば。

 あの日に戻れれば。

 行き場のない後悔は、涙となって便所に溜まり、僕の脚を引き摺り込んで離さなかった。

 

 あゝ、これが。

 敗ける側の、普通の恋人の感情か。

 理解できた。


 水位が腰の辺りに達する頃、ようやく涙は涸れ、代わりに、過剰なヒアルロン酸がドボドボと漏れ出した。

 擦った眼から皮膚がボロボロと剥がれ落ち、それらを集めた肉塊がプカプカと浮かぶ。過去の自分の腐肉を、魚群が食い荒らした。


 変化した輪郭を触り、顔をあげる。

 鏡の中に、"美貌"の化身が顕現していた。魔力を増した邪眼を光らせ、店内に凱旋する。


 2

 全ての客の視線が、僕の"美貌"へと集中する。小学校の入学式を思い出す。当時と異なるのは、場を支配する、妖しい快感を覚えていたことだった。

 女は男を捨て、僕を求めて猛進し、必死で手を伸ばす。男はみな、狂乱する女を引き止めた。しかし、その努力も虚しく、便所を決壊した洪水が男を呑み込み、カップルを引き裂いていく。

 女たちは互いにぶつかると、何段にも折り重なり、人間ピラミッドが建立した。

 僕は悠然たる歩みでピラミッドを登り、頂点の玉座へと君臨する。


 高みから、自分の恋人を見下ろした。

 全身ずぶ濡れの、蕩けた顔で僕を見つめている。かつて、僕の"醜貌"を意に介さず、中身だけを見て僕と交際した恋人は。僕の"美貌"の虜となっていた。

 恋人は、僕が差し伸べた手を掴むと、そのまま勢いよく駆け上がり、僕の唇に貪りついた。僕の口内で舌が暴れ回る。

 一矢纏わぬ恋人を抱え上げ、僕はペニスを挿入した。


『世界の全てを味わえ』

  

 小説の台詞が頭で響く。視界の端をマグカップが漂った。その中心で、ラテアートが、己の尾を噛んで環となった"蛇" ウロボロスを象る。


『この"蛇"。君じゃないかしら』


 そうだ。僕は"蛇"だ。脱皮して更なる"美貌"へと進化した"蛇"。

 抜き差す毎に、寝取る"美貌"の僕と、寝取られる"醜貌"の僕との間で意識が揺らぐ。己の尾を噛んで環となった"蛇" ウロボロスのように、その両方を無限に堪能した。かつてない快感に全身が打ち震える。


 生まれて初めて、心の底から射精をした。


3

 絶頂した恋人を濁流へ還すと、ピラミッドから別の女を引っ張り出した。無軌道なセックスを繰り返す。

 かつての無感情なセックスとはまるで違う。


 乱れる女の顔に、女の恋人の幻影を重ねた。

 女からの返信を心待ちにする男。

 初デートを無事に終えて安堵する男。

 彼らの顔を想像し、そして踏み潰す。初恋を経験したことで、彼らの心境を痛いほどに理解できた。圧倒的な征服感が胸を満たす。

 

『ひとの女を寝取って楽しいかよ?』


 僕を暴行した男に、今なら即答できる。


「あゝ、愉しいねえ」


 3

 僕に抱き尽くされたピラミッドが崩壊すると同時に、店も限界を迎えた。軋む音を立てて柱が折れ、洪水が壁を外へと押し流す。

 開放された世界で、僕を祝福するように光が降り注いでいた。陽光の下で、無数の女が僕を欲して縋り付く。

 天国のような情景に僕は微笑む。

 僕は"蛇"だ。大きな口を開けば、なんだって食べられる。世界すら。


 ようやく、望んでいた、自分の人生を手に入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寝取り寝取られる蛇の環 真狩海斗 @nejimaga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画