回想(過去 大学〜)

 1

 人生を取り戻そう。そのためには。

 人の理を外れた"美貌"。

 コイツを葬り去らなければならない。


 決意を胸に受けた、美容整形手術は無事に成功した。

 ヒアルロン酸の過剰な注入により顎は反り上がり、フェイスライン切開後に糸リフトで下に引っ張ることで頬はだらしなく弛んだ。

 紫外線を浴びた皮膚にはシミが至る所にでき、耳まで大きく裂けた口が動くたびに、その形を歪ませた。

 特に、眼については重点的に施術した。睫毛をすべて抜き取り、瞼の両端を縫い付け、周辺に刃物で傷を与えた。これで、僕と眼を合わせる者は皆無だろう。

 ここまで徹底的に眼を破壊し尽くした理由は、過去に「眼に魔力がある」と褒められたことにある。

 アレはたしか、活動家の女だったか。奥を突くごとに憲法を一条ずつ諳んじる、風変わりな性癖をもつ女だった。水を飲み干したボトルを握り潰すと、活動家は熱弁を奮った。


「ヒトラーってね。

 まるで呪力があるかのように、視線が強烈だったらしいの。瞬きが少なくて、ヒトラーが見つめ続けるだけで、民衆は魅入られ、ついつい生唾を飲み込んだそうだわ。

 演説で頭角を現した初期の頃なんかは、その視線で周囲をひどく疲れさせることから、"心霊吸血鬼"と呼ばれていたそうよ。恐ろしいわよね。

 私ね、貴方の眼にも同じ魔力があると思うの。貴方が人を惹きつける理由は、"美貌"だけじゃない。貴方はきっと、いつか世界を大きく動かすわ」


 2

 美容整形を受けてからというもの、"醜貌"となった僕に、誰も寄りつかなくなった。露骨に目を背けるだけならまだ良い方で、時には石を投げつけられることもあった。


 これまでの人生が一変したことを強く実感した。人を避け、カフェで読書に没頭する毎日だった。

 

 その日は、高校時代に図書委員の女子生徒に朗読してもらった一冊を読み返していた。黒縁の眼鏡をずり落として必死に騎乗位をする図書委員が朗々と読み上げた、ある台詞が印象に残っていた。

掏摸スリ』と題された、その小説で、主人公の天才掏摸は"絶対悪"の陰謀に巻き込まれていく。"絶対悪"の台詞が僕の脳髄を揺らした。


『この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。すべては、この世界から与えられる刺激にすぎない。そしてこの刺激は、自分の中でうまくブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる』


『世界の全てを味わえ。お前がもし今回の仕事に失敗したとしても、その失敗からくる感情を味わえ。死の恐怖を意識的に味わえ。それができた時、お前は、お前を超える。この世界を、異なる視線で眺める事ができる』


 3

「いつも本を読んでますね。面白いですか?」


 声をかけられ、ハッと振り返る。若い女性店員が水を注ぎにきていた。誰かと話すのは久しぶりだった。動揺する僕に、彼女はニッコリと微笑んだ。僕の空っぽのグラスが、澄んだ水で滔々と満ちていく。


「よかったら、私にも読ませてください」


 去り際に彼女が耳打ちした言葉が、水とともに流れ込み、僕の喉と心を潤した。

 この世界で彼女だけが、"美貌"も"醜貌"も関係ない、容姿以外の部分で僕を見てくれていた。

 ふわりと巻いた茶髪がよく映える、彼女の笑顔を席から見つめた。店内に春の陽だまりのような暖かさが満ちる。


 僕の人生に、求めていた光が射し込んだ。


 4

 その日から、本を貸し借りする関係となった。

 彼女が僕に貸す小説からは彼女の瑞々しい感性が溢れ、彼女が僕に小説を返却する際に添付された丁寧な筆致の感想文からは彼女の誠実な人柄を感じ取れた。

 彼女のこれまでの人生に思いを馳せ、そして、彼女と交際する未来を夢想した。彼女の肌に触れることを想像しながら、本の表紙を指先で愛おしく撫でた。


 四度目の往復ののち、ようやく連絡先を聞き出し、それ以降は毎日SNSで連絡をとった。彼女の連絡は気遣いとユーモアに富み、SNS慣れしていない僕ですら、純粋に会話を楽しむことができた。彼女の返信を期待し、SNSアプリを無闇矢鱈と更新するのが癖となった。

 カフェ以外でも会いたい。デートしたい。

 自然と気持ちが高まっていた。そこに至って初めて、僕にはセックス以外での女性との関わりがなかったことに気づいた。

 普通の、恋をする人間の感情とは、このようなものだろうか。初めての感情を教えてくれた彼女に、何度目かの感謝をした。


 5

「楽しかったね」


 動物園デート帰りに、彼女が微笑んだ。手には、チョコ&ストロベリーのクレープが握られていた。恋人として初のデートが無事に成功したことに、僕は胸を撫で下ろした。


「ゾウも、ペンギンも可愛かったし。

 あと、蛇が面白かったな。あんなに大きく口が開くもんなんだね。何でも食べられそう」


 そう言って彼女は、あ〜んと口を広げ、クレープに齧り付いた。


 彼女が口にした、"蛇"の単語は僕の記憶の扉を開いた。僕との関係に並々ならぬ空想を広げる人妻がいた。人妻は、構うように催促する幼児にiPadを渡してYouTubeを垂れ流すと、僕のペニスに指を這わせながら、妄想を口にした。


「不倫って"禁断の果実"って言うじゃない?

 不道徳で、禁忌的で、甘美な果実。

 旧約聖書で、アダムとイヴが楽園から追放される契機となった果実。

 今まさに私も、その蜜の隅々まで味わっているわけだけど。


 イヴを唆して"禁断の果実"を食べさせた旧約聖書の"蛇"、これってアダムとイヴの間に割り込む不倫相手なんじゃないかしら。

 さらに言えば。この"蛇"。君じゃないかしら。

 疑うのもわかるわ。旧約聖書の"蛇"と君とじゃ姿が違いすぎるし、年齢だって合わない。


 でもね、違うの。"蛇"は"蛇"じゃないの。

 本当は"悪魔"が変身した姿なの。

 これなら納得?

 "悪魔"は色んな姿に化けられるし、中にはルシファーのように、とても美しい"悪魔"もいるわ。

 そうよ!君もとっても美しい!

 そしてもうひとつ、"蛇"はね、昔から不老不死の象徴なんだって。

 これで君が旧約聖書の"蛇"だって証明できたわけ。じゃあ、私は何?私は誰?

 もちろん私はイヴ。人類の始祖だったの」


 6

 初めての恋人が出来て二ヶ月が経った頃に、帰省をした。

 廊下を、見知らぬ恰幅のいい男が四つ足で歩き回り、その背の上で、女王然と座った母が脚を組んでいた。


「帰ってくるなら連絡しておくれよ。

 アタシだって、アンタに会えることを、それはそれは楽しみにしてんだからさ。


 この男かい?

 誰だったかはとんと覚えちゃあいないが。

 最近のアタシはね、こうやって移動してんのさ。


 古代アフリカではね。

 王が呪力を持つとされていたのさ。そして、王が地面に足を着いたら、そこから呪力が流れちまうんだと。大変だ。

 じゃあ、王はどうやって移動したんだろうねえ。

 わからない?アンタは本当につまらないよ

 適当に答えときゃいいのさ。

 正解はね。従者に肩車させてたのさ。王なのに不便じゃないかい?嗤っちまうねえ。

 アタシもその真似事さ。


 それにしても、アンタ。不っ細工だねえ。まるでバケモンだよ。

 でもね、そんなことをしたって、アンタの魔力は消えちゃあくれないよ。古代アフリカの王と同じ。無駄な足掻きさ。

 今は隠れて見えないけどね、アンタの奥底には魔力がたんと残ってる。

 アタシには全部見えてるのさ」


 7

「気にしないで」


 またしても不能となって僕を、恋人が慰めた。セックスを幾度試みても、勃たなかった。セックスなんて無数にしてきたのに。なぜだろう、最も愛する人の前でだけ。情けない。


「私たちのペースでゆっくりいこう」

 

 俯く僕の頭を、彼女が抱きしめた。僕を諦めない恋人の言葉に、目が潤んだ。

 恋人の胸に顔を埋めると、彼女の体温がじんわりと僕に広がった。


 そうだ。セックスなんて問題ない。僕たちはすでに心で通じ合っているんだから。


 それが、二週間前のことだった。

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