第2話 勇士
リツェルは未だ洞窟の中にいた。暗闇のなかで小さな炎がリツェルとエマの顔を照らす。
「つまり、エマの体に、俺の意識が乗り移ってるっていうことか。というより、新しく俺という人格がエマの中に生まれたって言ったほうが正しいか……? そして、この体の本来の持ち主であるエマがなぜか体の外に追い出されてしまった、と」
「そういうことだと思います」
エマが困り顔でうなづく。
「でも、私は体の周りしか動けないみたいです。ほら、これ以上進めません」
エマがそう言いながら離れていこうとすると、大体十メートル地点でなにかに阻まれるようにそれ以上離れられなくなってしまう。
「あと、空が飛べるし、地面も壁もすり抜けます」
「へえ、ほんとに魂だけって感じだな。幽霊みたい」
リツェルは現実味の無い光景に、素直に感心していた。しかしエマはただ困惑するだけだった。
「あの、リツェル様は、なぜ私の体に……?」
「え……。うーん……、それが全然覚えてないんだよね」
リツェルは顎を触りながら天井を見上げた。何も分からないから、焦りも生まれない。
「やはり天から遣わされたのでは……?」
「ないね。俺はそんな神聖な存在じゃないよ」
確信をもってリツェルは答える。リツェルは自分が普通の人間だと理解していた。その理解がどこからやってきたのかは本人にも全く分からない。
「で、では、他に何か存じていらっしゃることは……?」
「そうだな……他には——」
そのとき、遠くから反響する足音が聞こえてくる。同時に「早くしろ!」という怒声まで聞こえてきた。
「さっきの人が呼んだんじゃ……! はやく逃げないと!」
さっきの男は、今の事態を仲間に知らせないといけないなどと騒ぎまわって、どこかに行ってしまっていた。その男が呼んだのだろうとリツェルはすぐに理解する。
「あの野郎、これ以上手を出したりしないって言ってたのに……!」
リツェルはすぐに臨戦態勢をとった。エマはリツェルの背後で小さく縮こまっている。表情は硬く、泣くまいとしながらも笑顔を取り繕っていた。リツェルは尻目にエマを確認し、何かを理解した。そのまま握っていた拳をほどく。
「大丈夫か?」
エマは頷いた。リツェルは眉間に皺を寄せてエマを見つめた。
「……逃げる。見つからないようにするから、付いてきて」
その口調は、ヒビの入ったグラスに触れるように柔らかく、慎重なものだった。
エマは呆気にとられたような顔でリツェルを見つめた。しかし小さく「はい」と返事することだけはしていた。リツェルはその返事を聞いて、エマにバレないように歯ぎしりをした。
リツェルが松明を拾う。洞窟内の澱んだ空気に触れて、少しだけ炎が大きくなった。
「ほら、はやく行かないと」
リツェルがエマの手をとろうとする。しかしリツェルの手は空を切った。エマの手をすり抜けてしまったのだ。
「なんだよ……。見えても触れないのか」
「申し訳ありません!」
「エマが謝る必要はないよ。さ、行こう」
遠くから多くの足音が響いてくる。リツェルはエマが置いて行かれないように、ゆっくりと走った。
「エマ。俺には必要以上に謝ったり、かしこまったりする必要はないから」
「……? はい、承知しました!」
エマはよく分かっていなかったが、こくんと頷く。なんて歯がゆいことだろうと、リツェルは思った。この少女の手を握ってやれないことに心底いらだちを覚えた。
追手の足音はどんどん近付いていた。そもそも逃げ場のない洞窟のなかだ。リツェルには、決して逃げ切れないことくらい分かっていた。
だがしかし、リツェルにはどうするべきか分からなかった。エマとあの男たちを引き合わせたくなかった。
エマがあの男と一緒にいるとき、エマの顔はずっと緊張していた。リツェルと二人きりになってからも、ずっと緊張しっぱなしだった。しばらく話をして、やっとリツェルとあの男が違う存在だと、少しずつではあるが分かってきていたらしかった。
いま追手とエマを引き合わせたら、またあの顔に戻ってしまう。リツェルには、それが許せなかった。
「エマ」
「はい! なんでございましょう?」
エマは全力で走っているのに、まったく疲れていなかった。体の主導権を持っていない、いわば魂だけの存在だからだろう。
「大丈夫だからな」
エマはどう返事をすべきか分からなかった。だからいつものように「はい」とだけ返した。それがリツェルにはたまらなく苦しかった。
もう追手の足音はすぐ近くまで来ていた。後ろを振り向けば、追手の持つ松明の明かりがぼんやりと壁を照らしていた。
リツェルは走るのをやめた。
「俺の後ろにいろ」
リツェルはすぐに戦えるように構えた。
「駄目です……! また殺されちゃう!」
「また? ……よく分からないけど、エマは俺が守るって決めたんだ。だから大丈夫」
リツェルには、自分の名前以外にも分かっていることがあった。さっきも使った超常的な力。リツェルは自分が戦えることが分かっていた。
エマは黙り込んでしまった。
「いたぞ!」
炎に照らされた男の顔は、さっきの男とは違った。その後ろには何人もの男たちが連れ立っていた。みな一様にぼろ切れを纏っていた。
しかし一番後ろに綺麗な身なりをしている男がいた。そいつだけ、リツェルを冷たい目で見下ろしていた。
「忌み子め……! 手間取らせやがって……!」
「……その『忌み子』ってなんなんだよ。なんでエマがお前らにひどい扱いをされなきゃいけないんだ」
「ああ⁉」
男の一人がドスをきかせた声でリツェルを睨んだ。
しかしすぐに後ろにいた綺麗な身なりをした男が口を開く。
「忌み子の起源も知らないとは……。あなたには徹底して教えたはずなのですがね……」
「そんな記憶はないね」
「なんと無礼な……。……いや、いいでしょう。さて、さっき奇妙なことを聞いたので確認したいことがあるのですが、構いませんか?」
「構うね。俺らをこの暗い洞窟の外へ案内しろ。そして二度とエマにかかわるな」
「ええ、ええ。私の質問に答えていただけたなら、それも聞き入れましょう」
男は余裕そうな態度を崩さない。リツェルはすぐに攻撃を開始できる用意だけはしている。
「……なんだよ」
リツェルとエマには逃げ場がない。洞窟内の道も分からない。だからこの男の言葉に従わざるを得ない。
「お利口です。……さっき洞窟の中で鉱夫に何をしましたか? 何人もあなたが奇妙な技を使ったと証言しているのですが」
「知らねーよ。見たいなら見せてやる。でも、俺にもどうしてできるのか、これが何なのかは分からない」
「そうですか。では……、そうですね、約束通り外へ案内しましょう」
「え、いいんですか、勇士さま。こいつは忌み子ですぜ」
「いいのです。本当に神から力を授かったのなら、この娘はもう忌み子ではないはず。であれば、その目は黄色ではないはずです。……松明の明かりだけでは確認できませんから、いったん外へ出ましょう」
勇士さまと呼ばれた男は踵を返す。
「ほら、行きましょう」
勇士はリツェルを警戒する様子もなく、完全に背を向けていた。リツェルもその背中に攻撃をする気にはなれなかった。
「いったん大丈夫みたいだ。いけるか、エマ?」
エマのほうを見る。リツェルはその表情をみて、小さく驚いた。
「どうした……?」
エマはおびえ切っていた。笑顔を取り繕う余裕すらなくなっている。呼吸すら荒くなっている。
「……あの人、私を殺した人です……」
「は?」
思わず口に出てしまった。
勇士は他の男たちを連れて、なお悠然と歩き続けている。リツェルは勇士への警戒度を数段引き上げ、その背中を追った。
・・・
「……出口ですね」
勇士が久しぶりに口を開いた。洞窟内を歩いている間、一切の会話がなく、ただ足音だけが響いていた。
洞窟を一歩出ると、曇り空だった。いまにも雨が降り出しそうな分厚く黒い雲が空を覆っている。
鉱夫が松明を洞窟の入り口にある置き場に置く。リツェルは自分が持っている松明を消した。
勇士がゆっくりと振り返り、嘗め回すようにリツェルを見る。エマはその目を見た途端、震えだしていた。
「ふむ、本当に目が白くなっている……。なるほど。あの鉱夫の言っていたことは本当でしたか」
勇士は空を見上げて考えるような素振りをした。そのまま数秒間止まってしまう。
「……いいでしょう。あなたは自由です。奴隷として働くことを望むなら、これからは忌み子ではなく奴隷として扱いましょう。望まないなら、どこへ行くなり自由です」
「もう、エマに手を出さないんだな?」
「ええ、本当ですよ。どうしますか?」
「奴隷なんてまっぴらごめんだね」
リツェルはそう吐き捨てると、エマのほうを見た。
「ほら、行こう」
エマは困惑していた。信じられないというような顔をしていた。
「大丈夫。ほら、あいつも話せばわかるやつなんだよ」
「……は、はい」
できるだけ優しく見えるような顔をしてエマに笑いかける。
「行こうか」
その瞬間、胸にとてつもない衝撃を感じた。声を出そうとしても、一切出ない。一瞬冷たさを感じたが、胸がどんどん熱くなっていく。
見下ろすと、胸から鋭い金属が突き出ていた。エマが悲鳴を上げる。後ろからは鉱夫たちの歓声が聞こえる。
「……自由にしてもよいですが、条件があります」
かろうじて後ろを見ると、勇士が歪んだ笑みをしていた。
「忌み子の本質は不死。黄色の目は不死たる証です。ですが、証を持っていないとしても、あなたが本当に不死——忌み子でないと証明するには、一度死に至る傷を負っていただかなければ。それが済んだら、あなたは自由ですよ」
身体から血液とともに力が抜けていくのが分かる。リツェルは膝から崩れ落ちてしまった。気道から血がのぼってきて、呼吸もできない。苦しい。苦しくて焦りが止まらない。どうすればよいか分からない。
勇士が胸から槍を抜くと、リツェルは姿勢を保つことすらできずに、地面に倒れ伏した。湿った地面は不快な臭いがした。
そしてリツェルの意識は途切れた。
しかしすぐに意識を取り戻す。リツェルの目は、胸から血を噴き出して倒れているエマの体を見ていた。
「え……?」
リツェルにはなにが起きているか理解できなかった。
カンザネ——忌子の少女にもう一人の人格が宿り、少女の人生が変わっていく 北里有李 @Kitasato_Yuri
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