カンザネ——忌子の少女にもう一人の人格が宿り、少女の人生が変わっていく
北里有李
第1話 御宿り
土を踏みしめる音が近付いてくる。湿った土が硬く踏みしめられていく。まっすぐに、しかし確実な悪意を持ってエマのもとにやってきていた。
だからといって、エマにできることは数少ない。エマは、理不尽な嵐が自分を襲うのに、わずかな抵抗しか許されていないのだ。
薄く、あちこちが破れ、小さな名前も知らない虫が跋扈している布を体から剥ぎ取り、エマは部屋の入り口まで走っていく。足音がやってくる前に入り口にたどり着いて跪いていなければ、嵐はもっと強くなる。これがエマの小さな抵抗だった。
エマは滑るように跪いた。
足音が跪いているエマの前までやってきて、荒々しく止まった。足音の主の鼻息は荒く、微かないら立ちすら感じる。
「おはようございます!」
できる限りの笑顔を向けておく。こうしておくと、暴力を振るわれにくいということが分かったのは、最近のことだ。
「……なんだよ、起きてたのか」
男の濁声がエマに雑に投げつけられる。これに答えてはいけない。これは男の独り言である。答えの許しが出ていないのに独り言に答えれば、罰が待っている。そう、知っている。
ただしそれも必ずではない。
「おい、どうして答えないんだよ」
男の声は心底楽しそうだった。これから自分のいら立ちを解消するために暴力を振るう大義名分を得たのだから。
「申し訳ありません!」
男はエマの脇に手を入れて、無理やり立たせた。エマは抵抗する素振りすら見せていないのに、男は乱暴だった。
エマが服を着ていれば胸倉をつかまれたのだろう。だが、エマは下半身に粗末な布を纏うことしか許されていない。奴隷のなかにも身分制度があって、エマはその身分制度のピラミッドに含まれないほどに身分が低かった。
男は厚い拳を握りしめて、大きく振りかぶってからエマを慣れたように殴った。その振りかぶりようは、絶対に避けられることはないという自信に満ち溢れていた。
大人の男の拳の質量に少女のエマが耐えられるはずもなく、エマの頭は簡単に揺れた。右の頬をぶたれて力なく倒れたエマは、しかしすぐに立ち上がって男の前まで向かう。男は拳を振りかぶったままエマがやってくるのを待って、今度は左頬を殴った。男はエマが倒れようとした瞬間にエマの手入れされていない髪の毛を掴んで立たせ、今度はエマの腹に膝蹴りした。
「……げほっ!」
エマは吐きそうになっていた。しかし、何も出てこなかった。何も食べていないのだから当然のことだった。
「おら、なに座ってんだ? もう一回殴られたいのか?」
エマの黄色い目には涙が滲んでいた。黄色の目は忌み子の証。どんな暴力に晒されても、小さな抵抗すら許されない汚れた身分の証である。
エマは殴られても声も上げなかった。そのままそそくさと立ち上がり、男の前に立った。
男の目はエマのむき出しの胸をなめるようにして、卑しく歪んだ。
「あーあ、もったいねえ。お前が忌み子でさえなければなあ」
男はしゃがんでエマと目線を合わせる。
「そしたらたくさん遊んでやれるのになあ。忌み子とヤッたって分かったら、神殿が俺を殺しに来ちまうもんなあ。でもよお……バレなかったら問題ないよな。もしできちまったらよ、育っちまう前に殴り殺してやればいいんだろ?」
「……それはいけません」
上手く声がでない。いつものようにハキハキとした声がでない。
「ああ? なに口答えしてんだ?」
「……忌み子の子は忌み子になります。殺せません。そしたら神殿にバレて、あなた様は殺されてしまいます」
「……ああ!? チッ……そうかよ」
男はまたイライラとしだした。そしてついでとばかりにエマをもう一度殴って、入り口のほうまで戻っていった。
エマは力なく立ち上がる。男はそれを確認もせずにはたと立ち止まって、振り向かずに言葉を発した。
「ああ、忘れてたわ。そろそろ仕事だからついてこい。ったく、殴られてばっかじゃなくて、自分から何をすればいいのか聞けよ」
「……はい!」
口のなかは血の味でいっぱいだった。エマは頬をさすることもなく、ただ立ち尽くしていた。
「おい! はやくしろよ!」
エマは慌てて男の後ろに走っていく。男はエマが近くまで来ると、もう一発殴ってから歩き出した。
エマの視界はずっと揺れていた。脳が荒海に浸かっているかのように、ぐわんぐわんと視界が上下していた。
忌み子の証たる黄色の目で男を追いながら、その視界のなかで、エマは思っていた。
誰か、代わってくれませんか。私はもう疲れました。物心ついてからずっと、こんな日々にはもう、疲れました。もう、いいのです。神さま。なぜ私は忌み子なんですか。なぜ、私には死すら許されないのですか。あなたは私がお嫌いですか。天国など分不相応なことは望みません。私は、どうしたら消え去ることができますか。
声に出されることもない叫びは、誰に聞かれることもなく、あばら家の暗がりに消えていった。
・・・
「何してんだ! 早く進め!」
がなり声にはっと気が付くと、見知らぬ暗いトンネルの中だった。わずかな松明の光がエマの顔を不気味に照らしている。
「俺は……ここは……?」
普段とは似ても似つかぬ口調で喋る。その目は松明の光に照らされて、黄色か白かもわからなかった。
「何してんだ、忌み子の分際で勝手に止まってんじゃねえ!」
男の声に気付くと、エマは男のほうを感情の抜けた目で見つめた。その瞳はどこまでも吸い込まれるように、中心に向かって黒ずんでいた。
男はエマの目で見つめられ、一瞬気圧されたように見えた。しかし忌み子であるエマを殴るために、拳を固めながらずんずんと歩いてきた。
「なんだその目は」
怒りに声を震わせ、エマの前に立つ。エマとの身長差はかなりのもので、エマの頭は男の胸にも届いていなかった。
男が拳を振り上げ、エマに振り下ろす。空を切る音を空耳するほど勢いののった拳は、エマの頬になんの躊躇もなく落とされる。
しかし、途中で男の拳は止まってしまった。まるで何かに遮られるかのように、男の拳はそれ以上進むことができなかった。宙で止まってしまったのである。
「なんだ……これ……」
「いま、何する気だったんだよ」
エマはドスの効いた声で男に問いかける。その声には見えない圧が確かに存在していた。
「忌み子のくせに……!」
「なんだよそれ。それが人を殴っていい理由になるとでも思ってんのか?」
男の後ろにいた、男の仲間らしき男たちが「なんだ、どうした」と、前をのぞき込んでくる。しかしエマはともかく、男にその声を気にする余裕はなかった。
男の手がどんどん捩じれていったからだ。明らかに人の関節の可動域を超えて捩じれていく腕を抑えながら、男は驚愕と苦しみの声をあげ、地面に膝をつく。
「……なんだよ! やめろ! なにしてんだ!」
「うるせえな。俺は普通に生きたいだけなのに、お前が先に手を出してきたんだよな? 悪いのはお前だけだよな?」
男は自分の肩がぎしぎしと音を立て始めたのを聞いていた。痛みに脂汗がぶわっと出るのを感じる。男は唸り声をあげて涎を垂らしながら抵抗しているが、なすすべがなかった。後ろにいる男たちが困惑した表情で「忌み子がなんかしたのか?」と男に尋ねるが、男に答える余裕はない。
「い、いてえ! いてえいてえいてええええ! 分かった! 謝るから! だからやめてくれ!」
しかし腕はなおもねじれ続けていく。エマは男をまっすぐな目で見つめていた。男はエマの視線に、とてつもない恐怖が腹の底まで刻まれるのを感じた。
瞬間、ぼごっ、と音がして、先ほどまでとは比べ物にならない痛みが男を襲った。男はたまらず叫んだ。しかし、エマがそれを気にかけることはなかった。男の後ろから、小さな悲鳴があがった。逃げていく足音が聞こえる。
「なあ」
エマが男に声をかける。男は痛みに顔をあげることもできなかったが、エマは男の髪の毛を掴んで無理やり自分のほうを向かせる。
「もう俺に手を出さないって約束するか?」
そのときにはもう、声を出していたのはエマだけだった。
顔中から汚い液体が流れさせながら、男は困惑していた。すると腕がまた少し捩じれた。喉の奥から叫び声に成り損なった声が漏れ出る。
「わ、わかった! わかったわかった! もうお前に手は出さない! ごめんなさい、許してください!」
男は情けなく許しを請うた。するとエマは途端に安心したような表情になる。
「そうか。わかってくれればいいんだ。ほら、いま治してやる」
エマが膝をついて、男と同じ目線に立つ。そして男の肩に手を当てようとするが、男は怖がって身を引いてしまった。
「なんだよ、治してやるって言ってんじゃん」
エマがそう言うと、男の体は見えない力によって前に突き出された。男はもう、疲れてしまって抵抗もしなかった。
エマが男の肩に手を置くと、男の肩は時間が巻き戻ったかのようにもとの位置に戻っていく。同時に痛みも引いていき、男はまた驚愕した。
「おま……貴方は、天使に選ばれた聖歌隊の……。いやでも、忌み子が……?」
「はあ? 何言ってんの? 俺はつつましく生きたいだけなの。だからさ、もう俺に関わらないでもらっていいかな?」
それだけ言ってエマが立ち上がり、辺りを見回す。
「さて、で、ここはどこなんだ?」
「あ、あの……」
後ろから突然声をかけられ、エマが振り向くと、そこにはエマがいた。二人目のエマがそこにいたのだ。
しかし一人目のエマは気付いていなかった。エマが二人いるということに。
「ん? どうしたの? 迷子になった?」
「い、いえ……。その、あなた様は、神さまが私に遣わしてくれた天使さまですか?」
「は?」
「どうして、私にそっくりな見た目をしていらっしゃるんですか?」
「いや、そっくりって……」
自分の体を見下ろす。そして固まってしまった。その顔は困惑の色に溢れていた。
「……ええ? 俺の体、女の子になってるんだけど……」
エマは目を見開いて自分の体を観察していた。腕、胴、足、すべてがかつての自分のものとは異なっていることに気付いた。
「……あれ、そもそも俺って、なんでここにいるんだ? いま、どういう状況なんだ?」
トンネルの反響する音のなか、独り言でなんとか平静を保っているだけに過ぎなかった。
「あの……貴方さまのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「え? あ、ええと、そう、俺の名前はリツェルだ」
「リツェルさま……」
エマが恍惚とした表情でリツェルを見つめる。
その横でさっきの男がリツェルに話しかける。
「あ……リツェル様……であっていますか? そのあなた様はもしや天使さまではありませんか? 忌み子の体を依り代にしてご降臨なさったのでしょう? いま、もしや、神様とお話になっていたのですか!?」
最初は遠慮気味だった口調が段々と確信を得たようになっていく。
「はあ? 天使とか神とか、なに意味わかんないこと言ってんだよ、二人して」
「ふ、ふたり?」
男は間抜けな声を出した。
「え、ここにいる女の子だよ」
リツェルはエマのほうを指さす。しかし男は困惑した表情を浮かべた。
「その……誰もおりませんが?」
「はあ?」
リツェルはひたすら困惑するしかなく、エマもまた、困惑の表情を浮かべた。
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