キューヤクン・アン・カミング

 讃美、というのは、一般に「ハレルヤ」という言葉で表現される。

 この「ヤ」というのは、神の名の短縮である。


 先日、韓国社会の特質に関する本を読んでいて、韓国人は「道徳的」ではないが「道徳志向的」であるという話が載っていた。

 日本のドラマでは、例えば本居宣長の「もののあはれ」のように、月の出る公園で恋人たちが別れ話をする。

「あんたの感じにはもうついていけない」

 しかし、韓国の若者は倫理の主導権を争う。

「お前の倫理観はここが間違っていて、それがわたしには許せない」と。

 時代は遡って旧約聖書に描かれた時代。その時代が良き時代であったかというと、「コヘレトの言葉」に描かれた享楽に頽落したユダヤ人たちを想像すれば、答えは明白である。現代となにも変わるところはない。しかし、そうしたいつの時代にあっても、脈々と「義」を貫いてきた人たちの物語、それが『聖書』である。

 また、それが東アジアでは「たていと」としての「経典」の世界である。

 彼らは、「義」に従い、決して時代に調和せずに警告を発し続ける生き物である。

 それが彼らの流儀としての、あの賢しらな小学生のような正義観である。

 したがって、それが彼らにとって「神を讃美する」ことの表現型だった。


 しかし、そんなやつならこの世にごまんといる。わたしの父も、同調せず、しきりに「おかしかろうもん」と言っている生き物である。

 そうした人は、よく「理想の時代」を過去に求め、そこから演繹して現代を「曲がった時代」だと言う。それが、彼ら、「讃美する人」(ホモ・プレイス)の生態である。これを「よこいと」に求めると、出羽守になる。曰く、「欧米では……」。


 たんに、「欧米」が権威を失ったから仕方なく「過去」を、或いは「超越」を持ちだしているだけなんじゃないか?ええ、そうですよ。そういう仕事は正義感の強い人がやるものではなくて、調和できない人が苦し紛れにやるものなんだ。しかし、必要だから社会に存在する人たちでもある。


 キリスト教であれ、マルクス主義であれ、いつも古典の物語は、やりきれない男たちの、慰めの追憶。

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