第2話

 新幹線から在来線、私鉄へと乗り換え終点まで。


 バスに乗り、また終点まで。そこからしばらく歩いて、タクシーを拾う。


 運転手がこれ以上は車じゃ無理だよ、という地点まで行ってもらい、そこから徒歩で山の中にある車一台分の砂利道を進む。


 途中、村に向かう車がいれば運が良い。大体の場合乗せてもらえるだろう。


 しかし、運悪く誰にも会うことが無ければ、なんの面白みも無い山道を歩いて行くしかない。


 そうしてやっと着いたのが、山村という名前のとおり山奥にある小さな村だった。


 ここは、山の谷底を這う川に沿って、細長く興った村である。


 中心に川、そこを挟むように通りと民家、裏手には多少の田畑があり、その向こうは鬱蒼とした森が迫ってきている。


 村には小さな駐在所はあるが、警官はいない。担当になった警官はすぐにノイローゼになってしまうらしく、数年前、とうとう派遣されなくなってしまったそうだ。


 住民のほとんどが林業を営んでいるが、稼ぎを使うような商店は存在してない。自給自足とほぼ変わらない生活をしており、数ヶ月に一度だけ山を超えて買い物に出かけるような具合だ。


 川には三つの橋が架かっていて、上流から上橋、中橋、高橋という。なぜ三つ目の橋は下橋ではなく高橋なのかというと、それには諸説ある。


 高橋という男が一人で作ったという説や、嵐を鎮めるために人柱になった男が高橋という名前だったという説もある。


 しかし、もっとも有力な説は、上橋、中橋、下橋ではつまらないということで、冗談として高橋にしたのではないかということである。


 村の中心に位置する中橋の側には、一見すると掘っ立て小屋にしか見えない集会所がある。表には掲示板と称するひさしの付いたボロ板が立てかけてあった。見ると、一面紙だらけで古いものから新しいものまで、乱雑に貼り付けてある。


 内容のほとんどは、行方不明者の捜索情報の張り紙である。いつ張り出されたのかも分からないものが、びっしりと下地を作っている。


 「ここら一帯は、昔から神隠しの噂が多く、よく人がいなくなる」

 小さい頃に蒸発した母親の言葉を思い出していた。


 三男は眉を寄せながら、掲示板に見切りをつけて踵を返した。

 

 午後三時をまわろうかという時間、太陽はまだまだ高い位置にある。


 東京ではそこら中から人の会話が聞こえてくるが、ここで聞こえてくるのは、セミと上空を旋回するトンビの鳴き声だけだった。


 山から吹き下ろす風が、湿気と熱気によって不快な塊となり、三男の体にぶつかってくる。着ているグレーのシャツは、汗で濡れて、ダークグレーに染め上げようとしていた。


 暑さからにげようにも、ここにはコンビニも何もない。せいぜい木陰に入るくらいだ。ところが、どこの木陰も先約のセミに占領されており、日陰を得るおまけとしてセミのしょんべんも頂くことになる。


 中橋から上橋の方に向かって歩き、そこからさらに上流へと道沿いを進むと、三男の生家である大鼠家が見えてきた。


 村では一番大きな建物であり、見るからに地主という威圧感のようなものを感じる。恐ろしく大きな茅葺きの屋根が建物のほとんどを覆っているので、正面から見ると地面から屋根だけがボコリと生えてきたようだ。


 玄関前で脱帽し、一礼してから中に入った。線香の匂いがする。ずらりと並んだ靴を見ると正月を思い出したが、家の中は静かなものだ。


 靴を脱いでいると、仏間と広間に面している障子が開き、兄の太郎が出てきた。もみあげと眉毛のしっかりした、顔の大きな男である。タバコが大好きで、いつでも吸っている。


 顔を合わせるのは十年ぶりだったが、別段、久しぶりの挨拶もせず三男が言った。


「親父は?」

「今朝、死んだよ。お前に電話した後、すぐだった」口から煙りをぶわっと吐きながら言った。


 三男は、それなら急いで帰る必要も無かったなと思いながら、仏間に入る。線香の匂いはさらに強くなった。首を振った扇風機が、線香の煙を部屋中に拡散させている。


 開け放った縁側に座って、次男である次郎、その奥さんである玉恵がいた。二人とも、コップに入った麦茶をすすっている。四皿分の食べ終わったスイカが、傍らにあった。鼻の横に大きなほくろがあり、それを気にしているのが次郎で、じとっとした目をこちらに向けているのが玉恵だ。


「おう、着いたか。親父もう死んじゃったよ」

「おかえりなさい三男さん。スイカ食べる?」


 いや、これがあるから大丈夫と、三男はバッグからコーラを取り出した。完全にぬるくなったコーラを一口飲み「やっぱり貰おうかな」と言った。


 微笑しながら返事をして、玉恵は仏間を出て行った。


 仏壇の前に敷かれた布団の上に、父親であるジョン太郎が横たわっていた。すでに真っ白な死に装束になっている。無駄に立派で腹の立つあごひげは、だらりと横にしおれていた。


「もう色々と済んでる。明日には墓の中だって。早いもんだよ」視線は外に向けたまま、背中で次郎が言った。


「親父は、何か言ってた?」


 嫌っていたとはいえ、最後の言葉くらい気にするのが家族だろうと三男は思った。しかし、それと同時にどんなに縁を切っても、結局は血のつながった人間なのだと思うと、腹が立った。


「いつも通り何も。倒れてからもずっとむっつりしてて、意識が無くなってもむっつり、死ぬ直前までむっつり、死んでどうだと思ったらやっぱりむっつりしてるよ」


 次郎は、5つ目のスイカをかじり、種を外へぷぷぷと飛ばした。


「もしかしたらとっくに死んでたのかもしれないな」仏間に戻ってきた太郎が笑いながら言った。


 さっき死んだばかりだというのに、誰も悲しむ者がいないというのはなんとも悲しいものだ。生前、人から好かれ人望があり、暗いことが嫌いな人物が亡くなった場合に、周りの人間が明るく送ってやろうというのは多々あることだ。しかし、このジョン太郎の場合は決してそんなことではなく、単に人望が無く、亡くなったとて誰も悲しむ者がいなかったというだけである。


「で、俺が帰ってくれば何か見られるものがあるんだろ」


 三男はあえて、遺言状という言葉を使わなかった。金目当てで帰ってきたのは間違いないが、金目当てだと思われたくない。しかし、自分の安っぽい自尊心がまさかこんなことを言うとは思わなかった。三男は自分の恥ずかしさに耐えきれず、しかしやっぱり、その恥ずかしさを悟られまいと縁側に行き、目を細めて外を眺めていた。


「そうだな。それじゃあ揃ったことだし見てみるか」


 にっこりと黄ばんだ歯を見せてから、太郎は仏壇に置いてあった、白い封筒を手に取った。表には、筆字で遺言状と仰々しく書いてある。裏返すと「兄弟が揃ってから開封せよ」と、これまた筆字で記してあった。


 ところでこの仏壇であるが、いまのところ遺影はひとつも飾っていない。一族のそういうしきたりだとか、宗教上の理由というわけでもない。単純に、この家ではまだ誰も死んでいないのだ。


 流れ者だったジョン太郎が、この村にやってきたのは五〇年以上も前のことである。村といっても、当時は、ここには何も無かった。谷底に川が流れているだけの、ただの山の底であった。


 洞穴に住み着き、一本の木材を売るところから、この村は始まったのだ。次第に人が集まり、家が建ち、また人が集まってくる。そうやって今の村ができあがった——とジョン太郎は言っていたが、実際のところは分からない。変わり者のジョン太郎のことだから、遺影も何もかも、先祖のことすらも捨ててしまったのかもしれない。


「——じゃあ、開けるぞ」言って、太郎は背中を丸めた。


 太郎は目だけで次郎を見、そして三男を見た。それを今度は三男を見てから次郎へと視線を動かし、もう一度、次郎、三男へと視線を動かした。そんなことを何度も繰り返したが、ふたりはいつまでも太郎をじっと見ているだけで何も言わない。いつの間にか戻ってきた玉恵は、スイカを持ったままその様子をじっと見ていた。


 太郎は前のめりになっていた上半身を元に戻すと、大きなため息を鼻から噴射した。


「おい、お前たち。遺言状をいよいよ開けるぞって言ってるんだから、なんかこう、喜んだり緊張したり、そういうの普通あるだろ」太郎の顔は脂で顔がギラギラしている。


「ああ、ええと。よし、じゃあ開けよう」次郎は拳を握って、ガッツポーズをしてから三男を見た。


「あ、ああ。あの、そうだな、うん、緊張するなあ」三男は胸に手を当てて深呼吸をした。


 太郎は満足そうに笑って、うんうんと頷いた。


「じゃあ、今度こそ本当に……」


 太郎が遺言状の封を切ろうとしたその時、玄関の戸が勢いよく開く音がした。次いで、廊下をバタバタと走る音と振動。その場にいた全員が仏間の入り口を見ていた。


 勢いそのままに飛び込んできたのは、太郎の嫁である純だった。どこから走ってきたのか、長い髪の毛はボサボサになり、顔は真っ赤である。肩を上下にしながら、荒い呼吸をして目が血走っている。


「ちょ、ちょっと」


 息も絶え絶え、純は太郎を手招きした。腰を折り、膝に手をついている。立っているのもやっとのようで、かなりの距離を走ってきたようだ。荒い呼吸はしばらく経っても荒いままで、咳まで出ている。相当苦しいらしい。あまりの迫力に気おされたのか、太郎は反応できなかった。


 それに気がついたのか、純は大きな深呼吸を二,三繰り返してから、もう一度「ちょっと」と、太郎に言った。


「あ、今から遺言状を開けようかと思ってるんだけど」太郎は、次郎と三男を見ながら言った。


「いいから、ちょっと」


 純は少しだけ語気を強く言って、太郎を部屋の隅へ無理矢理連れて行った。


「ちょっとちょっとちょっと。今から遺言状をだな」


「ああもう、それはいいから」言って、太郎に耳打ちを始めた。


 三男たちは、何事かとふたりを見ている。


少しの間があいて「ええっ」と太郎が飛び上がった。


「ちょっとアンタ、しっ」


 バシッと太郎を叩きながら、大きな小声で純が言ったあと、再び耳打ちを始めた。チラチラとこちらを見ているのは、余程、内容を聞かれたくないのだろう。


「ねえ、何かあったの?」次郎が言った。


 しかし、太郎と純はこちらをチラリと見ただけで、相変わらずこそこそしている。少しして、お互いが小さくうなずいた。


 こちらに向き直るふたり。横並びに立って笑顔を見せているが、なんだか妙に不自然だ。その不自然の理由は、太郎を小突いている純の左手にもあるかもしれない。


「あの、あれだ。あの、後藤の婆さんに明日の段取りを聞いてくるのを忘れてた。忘れちゃってた。あははは……。ちょっと行ってくるわ」


 と、太郎が言い終わる前に、純はもう仏間を出て行ってしまった。


「え、遺言状はどうするの」次郎が言う。

「そうだよ、そのために帰ってきたんだけど」三男も言った。


 仏間と廊下の敷居に脚を乗せたまま、太郎はぎこちない動きで止まった。いや、固まったと言ったほうがいいかもしれない。一点を見つめたまま、何度もまばたきをしている。必死になって何かを考えているように見えた。


「あ、ああ……。あ、じゃあ先に見といてくれないか。俺は後でいい」

「え、そうはいかないよ。兄弟が揃って見るって話なんだろ? 兄貴がそう言ったから、こうして三男も帰ってきたんじゃないか」

「そうだよ、そのために帰ってきたんだから」

「あーだから、兄弟は揃ったじゃん。揃ったんだから見ていいじゃん。たとえ俺がいなくても、見ていいじゃん。揃ったのは事実なんだから。一度兄弟は揃った、だから遺言状は見れるようになったということ。じゃあ、これよろしく」太郎は遺言状を次郎に渡して、さっさと出て行こうとした。


「いや、ちょっと待てよ」


 次郎が太郎の肩を掴んで言った。太郎はその手を素早く振り払うと、血走った目をこちらに向けた。


「うるさい、うるさい」太郎は突然叫びだし、地団駄を踏み始めた。

「遺言状なんてなどうでもいいんだ、もうどうでもいいんだよ」


 太郎はこれでもかと目を見開きながら、他にもバカとかアホとか田舎者とか言いながら、ドスンドスンと床を鳴らしながら出て行ってしまった。


 仏間に残された三人は、ただキョロキョロと互いの顔色を伺うことしかできない。


「なんなんだよ」次郎が言った。

「なんなんだ」三男が言う。

「なんなんでしょうね」玉恵も言った。


 次郎は遺言状に視線を落としてから、三男の顔を見た。三男も、同じことをして次郎を見た。玉恵はふたりの顔を見た。


「どうする、これ」

「どうするって言っても」


 見てもいいと言われたものの、そう言われると見る気が起きない。あくまでもこれは遺言状なのだ。決められた条件をそんな簡単に破れるのなら、わざわざ三男を東京から呼び出していない。


「まあ、そのうち戻ってくるだろ」そう言うと、次郎は遺言状を仏壇の前に置いた。


 こうなっては仕方が無い。三男は、縁側に座ってスイカを食べ始めた。


 しかしなんだこのスイカは、どうも何かが足りない気がする。種をぷっと出す。よく冷えたスイカだが、もうひとつ惜しい。甘みもあるし、みずみずしい。しかし、やはりどうしても何かが足りない気がするのだ。種をぷっと出す。足りているはずなのに、何かが足りない。


 そんなことを考えていると、一切れ食べ終わってしまった。種をぷっと出す。


 皿にはもう一切れ、スイカが乗っている。三男はそれを手に取り、横にしたり逆さまにしたりして、ようやく、足りないものは塩気だということに気がついた。


 この家を飛び出して一人暮らしを始めてからというもの、スイカからはだいぶ遠ざかっていた。スイカには塩。そんな単純なことを思い出すまでに、十年は長い。


 とにもかくにも、塩の優位性を思い出した三男は塩を探した。ところが、皿の乗った盆の上にも、その周辺にも無かった。もしかすると縁側に置いてあるのではないかと思ったが、やはり、無い。まさかスイカに塩をかけずに食べる人間がいるなんて。三男は信じられないと思いで、スイカを持ってきた玉恵を見た。


 その玉恵は顔全体を眉間のシワにして、一点を見つめたまま固まっている。もしかすると、塩を忘れたことを、いままさに思い出しているのかもしれない。


 三男が塩の在り所を聞こうとするよりも、「あ」という、玉恵の大声が先だった


 スイカには塩、ということを思い出したのか玉恵さん。

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てらてら夏 中野半袖 @ikuze

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