てらてら夏

中野半袖

第1話

 けたたましいベルの音が部屋に充満した。苦情を恐れて、慌てて受話器を持ち上げる。こんな時間に誰なんだ。


「……はい、もしもし」


 受話器の向こうから返ってきたのは懐かしい兄の声だった。久しぶりの挨拶も無しに言われたのは、父親の危篤の知らせだった。かなり悪いらしく、今すぐに帰ってこいという。


 しかし、大鼠三男は拒否をした。正直、父親のことなどどうてもいい。


「悪いけど、帰るつもりはないよ」そう、はっきりと言った。


 ところが、向こうは帰ってこいの一点張りで、取り付く島もなかった。とにかく帰ってきてほしい。百歩譲って父親のことはいい、それでも帰ってきてほしい、ということだった。いったいどういうことだ。危篤だから帰ってきてほしいのではないのか。


 三男は拒否をするが、それでもどうしてもという押し問答が続く。


 これ以上話していても仕方ないと、三男は電話を切ろうとした。しかし、架台に触れかけた受話器から聞こえた言葉に、手が止まった。


「遺言状がある」


 三男は再び受話器を耳にやった。もう会うこともないだろうと生家を飛び出したが、遺言という言葉の重みには反応してしまった。そういうものにはいったい何が書いてあるのだろうか、という興味も沸いた。


 話を聞くと、父親の遺言を見るには兄弟が三人揃う必要があるらしかった。なるほど、長男と次男は向こうで暮らしている。


 そういうわけで、今すぐに帰ってこいということだった。淡々とした話しぶりから、父親が助かる見込みは無さそうに感じた。


 お前にもいくらかの遺産が入るだろう、という兄の声は、どこか周りを伺っているような気配を感じた。父親は田舎の大地主である。そう思うと、少ないとは言えないほどの金額かもしれない。


 悪い話では無いと思った。小説に集中できるまたとないチャンスかもしれない。それに、田舎に行けば面白い着想があるかもしれないとも思った。 


 三男は了承し、電話を切った。


 冷蔵庫からコーラを引っ張り出し、蓋を開けた。さっき脱いだズボンに脚を通し、近くに落ちていた穴だらけの靴下をはいた。

 

 コーラを飲みながら、財布と部屋の鍵をズボンのポケットに入れる。古本屋で買った小説を適当にバッグに放り込み、コーラに蓋をした。着替えも、と思ったが今日中に帰れないこともない。


 クーラーは稼働限界の一時間を超えたので、自動的に止まった。


 三男は脱帽してから玄関扉を開け、一礼してから扉を閉めた。


 商店街を、社会人の流れに沿って駅に向かう。さきほどの酔っ払いのひとりが、電柱の横で眠っている。誰も気にかける者はいない。男か女か分からない大仙人が喫煙所で、美味そうにタバコを吸っていた。


 JR中央線を乗り継ぎ、新幹線に乗り換えた。


 自由席の窓際、夜勤明けだというのに妙に目が冴えている。バッグに手を突っ込み、最初に触った小説を取り出した。読んでいるうちに眠くなるだろう。


 少しでも寝ておこうと思った。


 ところが、小説が面白い。まるで眠れる気がしない。めまぐるしい展開、それでいてリアルな描写。ページをめくる手が止まらない。


 新幹線も止まらない。


 眠気を部屋に忘れてきたようだ。

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