徒桜の契り

甘灯

徒桜の契り

 

 暗い森を抜けると、そこには一本の枝垂れしだれ桜が咲き乱れていた。


「綺麗…」


 みおは思わず感嘆かんたんの声を漏らした。

雲のない夜空に手を伸ばせば届きそうなほど、大きな満ちた月が浮かんでいる。

春風が吹くと、しなった枝から切り離された薄紅色の花弁がはらはらと散っていく。

その様は刹那的で、澪は思わず一筋の涙を零した。

まるで導かれるように、澪は枝垂れしだれ桜に近づいていく。

 

 そして幹に触れそうなほど近づいた時、


「道に迷ったのか?」


 凛とした低い男の声がした。


人が居るとは思わず、澪は驚いて辺りを見渡す。


「こっちだ」


 澪は声のする幹の反対側に回った。


 すると幹にもたれかかって、長い銀髪の男が煙管きせるを吹かせている。

その横顔は息を呑むほど美しかった。


「で、道に迷ったのか?」

「い、いえ…違います」


 澪は視線をそらしながら、消え入りそうな声で言った。


「うむ。見たところ白無垢しろむくを着ているが……花嫁が一人、こんな人里離れた場所になんの用だ?」

「…………」


 男の言葉に、澪は無言でうつむいた。


「まぁ、言いたくなければ別に言わんでもいいがな」


 そう言って男は澪から興味をなくしたように、月を見上げながらゆっくり紫煙を吐く。




 しばし沈黙が流れた。


「……に、逃げてきたんです…!」


 沈黙に耐えきれず、澪は上ずった声で言った。


「ほう…何故だ?」


 男の視線は再び澪に向く。


「……祝言をあげるのが、嫌だったのです…」


 澪は前で組んでいた手に力を込めながら、そう告げた。

澪が着ている白無垢は森の中を走ったせいで着崩れしており、とても薄汚れていた。

下駄は逃げる時に両方脱げてしまい、足元は傷だらけだ。


 言わずとも一目見ればある程度は察せそうなものを、この男はあえて知らぬ顔で聞いてきたのだ。


(意地悪な人…)


 澪はそう思った。


「ほう…それは大変だったな」


 全く同情心の欠片もない、冷めた声で男は言う。


「で、これからどうするつもりなんだ?」


 この問いに澪は首を横に振った。


「………考えてません…」

「戻った方がいいのではないか?針仕事も家事さえしたことがない大事に育てられた姫さんが、これから一人で生きていける程この世は甘くはないぞ」

「なぜ…私が姫だと思うのですか?」

「手だ。あまりにも綺麗すぎる。苦労知らずの手だな」

「…………」


 チクリとした嫌味に何も言い返せず、澪は押し黙った。


「どこぞの姫君なのだろう?政略結婚など、この世の中で腐るほどある話だ。貧乏で遊郭に売られる娘はそれ以上に腐るほどいる。お前だけ不幸だとは思わぬことだな」

「そう…ですね」


 男の歯に着せぬ物言いに、澪は何も言い返せなかった。

正論だからだ。

澪自身、それはよくわかっている。


「でも…どうしても嫌だったのです…相手の男は私の家族を皆殺しにした憎き相手…そんな男の妻になるなんて…耐えられなかったのです」


 澪は震える声で言った。


 あの時のことは鮮明に覚えている。家族を殺された憎しみを片時も忘れたことはない。


「命乞いをする母様をあの男は躊躇ちゅうちょなく刀で刺し殺しました…母様が抱きかかえていた幼い弟も…なんの迷いもなく、殺したのです!あの男は鬼です…!人の心なんて持っていない…!」


 澪は涙を流しながら、今まで胸の内に貯めてきたおりを出すように一気に話した。


「なら、戻ってそいつを殺せばいい。そうすれば家族はうかばれ、その胸がすくだろう」

「それは…」

「そいつは鬼なのだろう?ならさっさと殺してくればいい」


 男は少し苛立ったように言い放つ。


「………」

「都合が悪いとすぐだんまりだな…まぁ、私には別にどうでも話だ」


 そう言って、男はまた煙管を吹かした。


「…それはできません」


 少し落ち着きを取り戻した澪が、静かに言う。


「人を殺めることが怖いのか?それとも人を殺して、自分も殺されるのが怖いのか?」


 澪はすぐ首を横に振る。


「約束を果たすまで…死ねないんです」

「約束…?」

「この木の下で…再会を約束したんです」


 澪はゆっくり木の幹を撫でた。


「貴方は…前世というのものを信じますか?」

「…どうだろうな」

「私は信じています」

「……何故だ?」

 

 男は興味を持ったように、澪を見た。


「おかしな話だと聞き流してくれてもいいですが…私は前世で…この木の下で“人”と会う約束をしたんです」


 澪は静かに木を見上げる。


「その記憶はおぼろげで…その方の顔も姿も、もう覚えていないのですが…最後の言葉はちゃんと覚えています」


 男は黙って、澪を見つめ続ける。


「彼は私が死ぬ間際に言ったんです…『ここで待っている』と」


 強い風が吹いて、花びらをつけた枝が音を立てて揺れた。

はらり、はらり、薄紅色の花びらが散っていく。





      ◇   ◇   ◇





『私は死ぬのですね…』


 女は悟ったように、男の腕の中で静かに微笑んだ。


『鬼のにえとして…人生の半分以上を座敷牢で育てられた人生でしたけど…貴方に捧げられるための人生だったなら…これ以上ない、幸せでした』


 女は虚ろな瞳で男の顔を見つめる。


『貴方は私に広い世界を見せてくれました…鉄格子越しの景色しか知らなかった私に…貴方は色んな景色を見せてくれましたね』


 女の顔はとても穏やかだった。


『これからも見せてやる…お前が望むら何処だって連れて行ってやる…だから!』


 男は女の手を握りながら、強く言った。


『ありがとう…』


 女はふわりと笑った。


『でも…もう…』


 女のまぶたがゆっくりと落ち始める。


『待っているから…お前を待っている…またお前に会えるのを、ここで待っている』


「はい…約束ですよ…」


 そうして、二人は『小指切り』をした。





      ◇    ◇     ◇




「ーー」


 男が不意に“女の名”を呼んだ。

 途端に澪は泣きそうな顔をした。


「ああ…やっと会えた…」


 澪は涙を浮かべながら、ゆっくりと男の方に歩み寄った。

そして男と手を取り合う瞬間、風を切る音がした。


“トスッ”


 突かれた音がして、澪の背中に鋭い痛みが走った。

前のめりに倒れかかる澪の身体を、男は反射的に支える。

澪の背中に矢が深く突き刺さっていた。

白い着物は見る見るうちに、赤い染みで広がる。

男は殺気を込めた鋭い眼差しで、矢が放たれた方向を睨む。

そこには篝火かがりびに照らされて、弓を構えた鎧姿の男がいた。


 男は咆哮ほうこうを上げた。





     ◇    ◇    ◇

                        





「よかった…」


 澪は消え入りそうな声で言った。


「何がよかったんだ!?…また…私はお前を失うのか…?」


 返り血を浴びた男は、横たわる澪の前で力なく膝を折った。


「こうして…貴方にまた会えた…から」


 澪は手を伸ばして、男の頬についた返り血を指でそっと拭った。

男の煌々こうこうと燃えるような赤い瞳を見つめながら、澪は男に言い放った言葉を思い出し、表情を曇らせた。


(ああ……彼にひどいことを言ってしまった。顔も姿も覚えてなかったとしても……心がないなんて……なんてひどいことを……こんなに……優しい“ひと”なのに)


 澪は後悔の涙を流した。


「…泣くな」


 男は澪の涙を優しく拭った。


(貴方の方が泣いているわ……)


 澪は男の頬を撫でる。

互いの頬に手を当てる形になり、澪はふっと微笑んだ。


「…約束守ってくれて…待っててくれて…ありがと…う」

「っ………」


 男は途端に嗚咽おえつを零した。

その姿に澪は胸が張り裂けそうだった。

何年…何十年……何百年………彼はいったいどんな思いで自分を待っていたのか。

きっと想像もつかないほど、苦しいものだっただろう。

だから、これ以上は望むのはもうやめよう。


ー彼をこの“呪縛“から解いてあげなければ…。


「もう…」

「…また、待つ…」


 男が静かに言い、澪は言いかけた言葉を呑み込んだ。

泣きそうになったが、何より望んでいた言葉を男の口から聞けた。

自然と澪の顔に笑みが浮かんだ。


「はい……約束ですよ」


 あの時の様に、再び二人は『小指切り』をする。


そして、男の腕の中で澪は息絶えた。






 はらり。

   はらり。


 澪の頬に乗った薄紅色の花びらが、まるで涙の様に滑り落ちた。


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徒桜の契り 甘灯 @amato100

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