第2章 相続

第5話 相続(A1パート)神村の説得工作

 警視庁は副業や兼業を原則として認めていない。

 最近では情報システムの職員に限って副業や兼業を認める流れも出てきてはいる。優秀な情報システムの職員に高額の報酬を払うだけの余裕が警察にはないからだ。

 だから副業や兼業を可能とすることで、優秀な職員を確保する手段とするのである。


 とくにサイバーセキュリティを重視する今般の情報化社会では、いかにして警察のシステムを防衛するかがサイバーテロを防ぐための生命線ともいえる。

 しかし捜査一課の刑事は依然として副業や兼業は認められていない。そもそも本職だけでも事件が山のようにあり、とても副業や兼業をしている余裕はないのだ。


 玲香が不動産と金融資産を合わせて相続税引き後も十二桁にも及ぶ父の遺産を引き継いで不動産経営をすることは、規則上も実務上も不可能なのである。

 本来ならどう考えても不可能なのだが、神村かむら弁護士は自信をのぞかせている。


「こちらの書類を参考に、あなたの主な実績をまとめてください。記憶力はお手のものとうかがっております。それをもとに刑事部長や警視総監を説得しましょう。私は総理大臣に接触して、れい様が警察の仕事を続けられる道を模索いたします」


 神村弁護士はどうやら総理大臣に通じているらしい。

 警察が行政に属する以上、最高位である総理大臣の命令は絶対だ。警視庁の内部から説得するだけでなく、トップからの上意下達を組み合わせることで、不可能を可能にできないか。神村の狙いはそこにあるようだ。


「お父様の遺産を放棄すると、すべて国庫に入ります。そうなれば数千億ものお金を政府が使い放題になるのです。それで日本政府の借金返済に充てられればよろしいが、ほとんどの場合、政権延命のためのバラマキ政策を行う財源にされるのが関の山です。これでは誰も幸せにならない。いや、延命できる政権だけは喜ぶでしょうが」


「それでは、総理大臣への説得は無意味なのではありませんか。もし私が遺産を継ぎながら刑事の仕事を続けたら、国庫にはなにも入らないしバラマキ政策の財源にもできません。そんな割に合わないことを許可してくれるとは思えないのですが」

 当たり前のことを聞かされた神村はたじろぎもしなかった。


「バラマキ政策で潤うのは行政だけではありません。そこから請け負った事業者と下請けで働く人材派遣業者が濡れ手であわの大儲け。だから仕事を寄越した政権に票を入れるのです。自分たちの懐が温まるだけでなく、次の選挙で票が期待できる。だからバラマキ政策はなくならないのです」


 なるほど。バラマキ政策は一見底辺の庶民を救済するかに見えて、選挙の支援者を儲けさせて票を買う意味もあるのか。

 これでは警察官にはなんの恩恵もない。仮に警視庁宛に寄付をしても、政権が思うような配分で寄付の大半を抜き取られてしまうだけだろう。

 よくもまあこんなひどい政治屋が政権を担うものだと、玲香は呆れることしきりだ。


「それで、総理大臣を説得するということは、バラマキ政策以上の旨味があると見せかけられるから、ですか」

「なに、私が言うのもなんですが、今の総理大臣とはじっこんの間柄でして。強みも弱みも知り尽くしております。好きなものを手土産にして弱みを突けば、嫌とは言いますまい」


 バラマキ政策以上の旨味はなかなか見出だせないだろう。元は国民の金を、国民に薄くばらまくだけで次回の選挙で票が期待できるのだから。

 玲香に副業や兼業をさせるのが今回の目的なのだから、総理大臣にはまったく利害が発生しない。これでどうやって総理大臣を説得できるのか。

 手土産くらいで特例を認めてもらえるのなら、すでに皆がやっていて不思議はない。


「しかし、現場の刑事たちがなんと言うか」

「弁護士の力を侮らないでください。行政を監視するのが司法の役目。玲香様が登庁するときにご一緒できれば、説き伏せるのはわけありません」

 捜査一課を始めとして、刑事たちを納得させることができるのだろうか。神村はやけに自信があるようだが。


「とりあえず警視庁にはお父様の喪に服すと連絡を入れて、七日間の猶予を得てください。私の部下に手伝わせるので、葬儀は滞りなく営めるはずです」

「その間に神村さんはなにをなさるのですか」

「もちろん総理大臣に接触します。根回しは早いほうがよろしいでしょう。早いぶんだけ刑事部長や捜査一課長を説得しやすくなりますから」

 こうまで言い切るということは、実際に総理大臣となんらかの関係があるのだろう。いったいどんな弱みを握っているというのだろうか。


「なに、純米大吟醸に目がない人なので、最高級を四本ほど持参すればこちらの思うがままですよ。まあ玲香様が希望しているような形にはならないとは思いますが。それでも事業をしながら捜査もできる環境は整うはずですよ」

 神村はかるく笑い声をあげた。


 無類の酒好きに最高級の日本酒を賄賂として渡すということか。それは警察官として正しい行いなのだろうか。しかし神村自身は警察官ではない。司法を担当する弁護士だ。しかも総理大臣と昵懇と自ら言うほどなのだから、よほど親しい関係なのだろう。それなら賄賂というより、一緒に酒を酌み交わそうという狙いだろうか。


 しかし、玲香の希望とは違う形とはなんなのだろうか。

 事業と捜査を両立するには兼業以外に道はない。兼業を可能とするには、情報システムの専門家を雇うのと同じようなアピールをすることになりはしないだろうか。

 そのために捜査実績を示して「私にはこれだけの捜査能力があります。だから兼業を認めてください」と上層部にねじ込むのだろうと想像していたのだが。

 それとは異なるということになかなか理解が追いつかない。記憶力は誰にも負けない。推理力も土岡警部からとくにすぐれていると評価されている。その玲香が思い描いているものと異なるというのはどういうことなのか。


「では私はこの書類に捜査実績を書き込んで、刑事部長や警視総監にアピールすればいいのですね」

「とくに推理力を生かした著名な事件を二、三、挙げてください。それで総理大臣を説得いたします」


 ここまで玲香に尽くす神村弁護士はなにが狙いなのだろうか。父の顧問弁護士だったから、引き続き玲香の顧問弁護士になりたいというだけなのか。少し探りを入れる必要がありそうだ。

「なぜ神村さんはここまで私の世話を焼くのですか。父の顧問弁護士だからといって、ここまで親身になる理由がわからないのですが」

「なに、お父様ののりさんとは同郷で同級生なんですよ。だからあなたをわが子のように思っている。ただそれだけです」

 やさしい表情を浮かべているが、なにか含むところがありそうだ。これは推理力のチェックを受けているような気もしてきた。


「もしかして、なのですが」

 玲香は神村弁護士の思惑を見抜こうとした。

「私に事業を継がせることで、神村さん自身が利益を得るのではありませんか」

 自信はなかった。だが、そう考えるとここまで親身になる理由の一端は垣間見える。





(第2章A2パートへ続きます)

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