第4話 発端(B2パート)相続と兼業
頭を起こすと、
「神村さん、父の遺産を相続することを決めました」
「巨額の負債を背負う覚悟はおありなのですね」
銀縁の眼鏡からは、玲香の真意を見抜こうとする洞察力が感じられた。
「はい。もし負債があっても父とともに返済してまいります。幸い警察官は公務員ですから安定した収入もありますし、贅沢をしなければそれなりに返せると思います。それに父が所有していた不動産をすべて売却したとすれば、たいていの負債は返せると考えられますし」
「お父様が遺した不動産が概算でどのくらいと見積もっているのですか」
「正直わかりません。ただ、都心に十棟近く所有していたと聞いたことがありますので、それが本当なら百億円くらいにはなるはずではないでしょうか」
冷徹な視線を送ってきていた神村の眼光がわずかに緩んだ。
「それでは玲香様は相続するという意志で間違いないですね」
「はい、相続致します」
一度宣言してしまえば、それまで張り詰めていた空気が和らいだような気がした。まるで父が相続しろとプレッシャーをかけてきたような不可思議さがある。
「それではこの相続をする意志を示す宣誓書にご署名ください。それによってお父様の葬儀が終わり次第、相続の手続きを開始いたします。失礼ですがお父様の葬儀代は玲香様がご負担願いますか。相続の手続きが完了するまで遺産は一円たりとも手に入りませんので。警察の方であればおわかりだとは思いますが」
「存じております。正式に遺産相続の法的手続きが終わるまでは相続人であっても一円の預金さえ引き出せませんからね。死亡保険の支払いも死亡届を生命保険会社へ提出したのち審査されてからの支払いになりますから似たようなものです」
そう言いながら宣誓書の文面を読み込んで、サインを書き入れた。それを神村弁護士に手渡した。
「理解が早くて助かります。それでは遺言書をお見せいたします。相続手続きの際にあなたの戸籍謄本や印鑑証明などと一緒に提出しますので、今はお見せするだけですぐにお返しいただきますが」
父の遺言が記された書面が入っている封筒を開けて、神村弁護士が中身を取り出して玲香に差し出した。
「かまいません。どうせ巨額の負債が待っていたとしても、すべて受け入れます」
遺言書の中身を読み進めると、どうやら資産は大幅な黒字のようだ。しかも都心の高層ビル八棟など現金に換算すれば十三桁に限りなく近い十二桁の資産がリストアップされていた。そのすべての資産は玲香ひとりに相続されることが遺言書に記されていた。資産は相続税を支払ってもなお十二桁を誇っている。もちろん相続税を払えるほどの現金はないので、ある程度の高層ビルを売却して現金化し、それを相続税に充てるしかない。
「神村さん、相続税に充てるべく売りに出される高層ビルはすでにリストアップされているのでしょうか」
「はい、警視庁にいちばん近いビルと交通の起点となる都市のビルは確実に維持し、残りはすべて売って現金化するよう言い伝えられています」
「遺言書にはそのあたりが書かれていませんが、他に書かれていない条件などはあるのでしょうか」
「警視庁にいちばん近い高層ビルのワンフロアを玲香様の住居としていただくように仰せつかっております」
高層ビルのワンフロアを住居にしろというのか。確かに警視庁に近ければ刑事としての働きが楽になることは確かだ。しかし。
「なぜ高層ビルに居住スペースを作ってあるのですか。まるで最初からそこに私が住むことを見越していたようなめぐり合わせを感じますが。しかも低層階ですよね。普通マンション付きの高層ビルの場合、高層階が居住スペースですよね」
その言葉を聞いて神村は穏やかな笑みを浮かべる。
「上層階は災害時に不向きですからね。それに将来的に捜査で事故に見舞われた際、上層階と地下駐車場の行き来はかなりの難事となります。ですから、お父様は低層階に玲香様が住むことを想定したフロアを設けたのです」
「それは父が望んでいた未来なのでしょうか」
「はい、あのビルは玲香様を思いやって設計がなされています。都内の一等地に建つビルのワンフロアが玲香様の居住スペースとなっています。それと言い忘れたのですが」
これまで
「なんでしょうか」
「お父様はあなたにご自身の事業を継承してもらいたい、とおっしゃっておりました」
「事業を継承、ですか」
「警察は副業や兼業が禁止されていますから言い出しづらかったのですが」
彼の言う通り、警察官は副業や兼業を禁じられている。
もし父の事業を引き継ぎたいのなら警察を辞めなければならない。父の思い描いていた未来は、玲香とともに不動産業で財を成すことだったのだろう。
だが、父は玲香が捜査一課の刑事になった苦労も知っている。それでも玲香に継承しようと考えていたのだとすれば、なにか策があったのではないか。
やり手の父のことだ。策があっても不思議はない。
「神村さん、父はなぜ私に継承させたがったのでしょうか」
気の良い顔をしていた神村は、一瞬で真顔に戻った。
「お父様としては、玲香様と一緒に事業拡大を目指したかったのです。ですが玲香様の正義感も蔑ろにできなかった。そこで警視庁本部庁舎に近いビルに居を構えていただいて、警察から帰ったら不動産業の勉強ができるよう環境を整えたのです。そもそも捜査一課は猛者揃い。いつ脱落してもおかしくはなく、その場合はすぐに辞職させて共同経営に移行すればよいだろうと。ただ」
「ただ、なんですか」
「警察を辞めても捜査を継続できるだけの設備を用意すれば、刑事でなくともさして問題にはならないだろう、とおっしゃっておりました」
警察でなくても捜査ができる、とはどういうことだろうか。
日本では警察や検察、裁判所や国会には捜査権がある。逆に言えば、それ以外の職業には捜査権が存在しない。
現行犯なら逮捕できる罪状もあるが、そう都合よく現行犯が現れるとは思えない。
「お父様はそのフロアに、現在研究開発が大詰めを迎えている量子コンピュータの試作機を導入し、それを使いこなせるスーパーハッカーと接触しておりました。これがなにを意味するのか。玲香様にはおわかりではないですか」
(第2章A1パートへ続きます)
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