第3話 発端(B1パート)亡き父との対面

 父の顧問弁護士だった神村かむら|に指定された隅浦病院へとたどり着いた玲香は、駐車場に黒い覆面パトカーのクラウンを停めて院内へと入っていく。

 今は夕刻なので受付ロビーはすでに閑散としており、朝に見られる老人のたまり場のような雰囲気は感じられない。


 玲香は受付に名乗り出て、ここで待っているという神村弁護士と遺体となった父と会わせてくれるよう頼んだ。

 後ろに控える医療事務の女性が、電話でどこかに話をしているようだ。おそらく内線で、遺体安置室につながっているものと思われる。

 受話器を置いた女性が受付窓口まで歩いてきた。


「今、係の者が遺体安置室から弁護士さんを連れてまいりますので、席に座ってお待ちくださいませ」


 幾列も並ぶ緑色のソファの最前列に腰を下ろし、微妙な座り心地を味わいながら件の神村を待つことにした。

 八分ほど座っていて座面に痛みを感じて座り直そうとしていた頃、看護師に連れられた漆黒のスーツをまとった熟年の男性が玲香に向かってくる。


 看護師は指示を得ようと受付窓口に顔を出していたが、男性はツカツカと足取りも確かに玲香の正面で立ち止まった。


れいさんですね」

「はい、そうですが。あなたが電話をくださった神村弁護士でしょうか」

 男性は懐から名刺入れを取り出すと、一枚引き抜いて玲香の正面に差し出した。

 受け取って確認すると「弁護士 神村隆弘」と書かれている。

 名前と連絡先を憶えた玲香は、仕事柄名刺を差し返そうとしたが、慣れた手つきで正面に手のひらを向けられて拒否された。


「これから何度も連絡をしなければなりませんので、名刺はお持ちください。あなたの記憶力が右に出るもののいないほどすぐれていると地井のり氏から伺っておりましたが、もしあなたが窮地に陥ったとき、名刺があれば通行人に手渡して連絡をとることもできます。実際、遺言書による財産分与では肉親同士が生きるか死ぬかの大立ち回りをすることが多い」


 この神村という弁護士はかなりの切れ者のようだ。

 これからなにが起こるかわからない以上、たしかに連絡手段として名刺を持っているのといないのとでは安心感が違う。


「父から話を聞いているのならおわかりのはずです。父には私以外の肉親はおりません。母もずいぶん前に亡くなっておりますし、私には兄弟姉妹はおりません。父自身も兄弟はいないと聞いていますので、骨肉の争いにはならないでしょう」

 神村は白い口ひげをひと撫でする。


「しかし、相続する財産次第では、有象無象の知人縁者が増えるのが世の常」

「そのような人がいるのなら、私の養育費を請求してもよいのでしょうか。私は奨学金を受けて高校そして警察大学校を卒業していますから」

「たしか警察大学校には学費自体必要なかったはずですが。教材や研修などで自費が発生するとは聞いております」


 神村弁護士はやはりかなりの切れ者だ。警察関係の事情にも通じているとは。

 法を司る弁護士と、法を執行する警察の差はなかなかに埋まらないはずなのだが、よほど広範な知識を持っているのだろうか。


「ところで、遺言書の公開は家庭裁判所での関係者の立ち会いが条件でしたよね。ここで開封してしまうのは規則違反では」

「相続人が複数いるときは、公平性を担保するために家裁で行うことが多いのです。しかし今回は相続人が地井玲香様、あなたおひとりしかおられない。私は徳人氏が遺言書を書くのを補佐いたしましたので、書かれている人物もあなただけだと知っています」


 最初から神村弁護士の手の上で転がされているように感じた。玲香がとるべき決断も、すでに織り込み済みではないか。

「ちなみに、相続したほうが得なのか、放棄したほうが得なのか。そこは教えてもらえませんよね」

 これは財産のほうが多いのか、負債のほうが多いのかを探る意図がある。


「それはお答えいたしかねます。相続を受けるのであれば負債も引き受けていただかねばなりません。放棄するのであれば財産があってもあきらめるのです」

 壮大なバクチである。大富豪の仲間入りをするのか借金まみれになるのか。

 人生の分かれ道だ。


 ビデオ通話では、父から事業は順調だと聞いていた。毎週の連絡でも事業拡大の話ばかり耳にしてきた。いつかは玲香に事業を継いでもらいたい。そう語っていたものだ。

 だが、虚栄かもしれない。実際はうまくいっていないのに順調だと言い張ろうとするのは、親としての面目を保とうとしたのならばわからない話ではない。


 父の本心はどうだったのだろうか。知っているのは眼の前にいる神村弁護士以外にいない。


 亡き父を信じてみるべきだろうか。それでたとえ巨額な借金を背負ったとしても、仕事を精いっぱい頑張って、父と一緒に返済していくのも親孝行としては悪くない。

 いつもやさしかった父の顔が思い浮かぶ。


「父の顔を見ながら決めてもよろしいでしょうか。人生を左右する決断ですので」

 神村弁護士は相好を崩さずに答えた。

「検視官もすでに調べ終えていますから、おふたりで相談されるとよいでしょう。それでは安置室へ向かいましょうか」


 受付窓口からこちらへ向かってくる看護師を捕まえた神村は、自分たちを安置室へ案内するよう伝えた。


「このたびは誠に残念なことでございます。お父様は本当に安らかな顔をしておりました。きっとひとり残される娘のあなた様にご負担をかけたくなかったのでしょう。それではお父様がお眠りになっている場所へご案内いたします」


 そう述べると、看護師は玲香と神村を先導してゆっくりと歩いていく。


 検査棟の地下に遺体安置室はあった。

 殺人事件を扱う捜査一課に所属している玲香にとっては、遺体安置室は取り立てて特別な場所ではない。だが、横たわっているのは見ず知らずの遺体ではない。最愛の父である。

 顔に載せられている白い布が取り除かれると、安らかな表情を浮かべているような父の顔が現れた。きっと玲香の到着を待っていたに違いない。

 苦しんだところのない綺麗な顔立ちに、玲香はわずかばかり安堵した。

 きっと眠るように亡くなったのだろう。迫りくる死を抗うことなく受け入れて、玲香に後事を託すことをむしろ誇りに思っていたのではないだろうか。


 父が今にも目を開けてとびきりの笑顔で抱きついてくるのではないかと、埒もないことを想像してしまう。そのくらい自然な眠りに見えるのだ。


 胸が上下していないから、かろうじて父が死んだことを理解できる。

 まじまじと死に顔を眺めていると、ふと「玲香」と呼ぶ父の声が聞こえてきた。

 いや、実際にはそのような気がしただけだ。

 だが、先週に会話をしたばかりにもかかわらず、どこか懐かしさを感じる声を耳にして、玲香は父を信じなければならないような気持ちになった。


 そう、父が玲香を見捨てたことはこれまで一度もなかった。つねに玲香をフォローし、名門高校から警察大学校へと進んだ玲香を励まし続けてくれた。

 警視庁に入庁してからも、父は陰日向なく玲香をサポートした。そんな父が玲香を借金まみれにするだろうか。

 そうなるくらいなら、一億円の死亡保険にでも入っていておかしくはない。だが「死亡保険はしょせんただの金だ。お前に遺すものはそんなものじゃない」とつねづね話していた。


 最後にもう一度父の顔を見てから、深々と一礼した。





(第1章B2パートへ続きます)

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