雪祭り

きょうじゅ

本文

 八年の恋だった。


 君を愛して三年、君と別れて五年。あの北の街で暮らした。


 思えば、君の存在以外、それに何の意味があっただろう。あの島で生まれてあの街で育った君とともに在るために、ただそれだけのために。そのための、八年だった。


 呼びかける君の声が好きだった。君の無邪気なまでの素朴さが好きだった。君の柔らかい身体の温かさが好きだった。


 あの街の肌を刺すような空気にも、激しいまでの風雪にも、君さえいれば耐えられた。


 君と暮らした三年の間に、それが破局に向かうための何があったか、そうしたことがいったい如何ほどまでにあったのか、しかしそれはもう語るまい。今となっては、何もかも詮無きことで。それに、誰に知らせるべきことでもないと思うから。


 籍を抜いてから五年。気が付けば五年が経っていた。自分はこの街が好きだから、ただそれだけの理由でここにいるのだと、自分に言い聞かせる、そんな日々だった。そして、それは嘘だった。


 そうしたそのあとで、一度だけ、最後に君と会った。名前を呼ばれて、こちらを見る君の目を見て。その時にようやく気付いた。


 君がまだここにいるから、自分はもまたここに残っていたのだと。


 それから。ようやく、二人の間に、本当の離別が訪れたのだと知った。それを知ってしまえば、もう、あの雪の地に残るべき理由は、もう何一つ残っていなかった。


 君のいないところに行こう、と思った。正直なところ、何処でもよかった。ここでさえなければ、君はいない。ここでさえなければ、何処でも同じだ。そう思った。


 それでも東京に戻りたくはなかった。あそこは寒くはないが、冷たい街だ。好きな街ではなかった。自分にとって、暖かく、また温かい街。そうと思えば、いっそ大阪へでも行こうか。そう思った。


 計画を立ててから実行に移すまでは、決して簡単ではなかった。策を練り、うまくやった。逃げるようにあの街を捨てて、あえて振り返ることもなく、新千歳から飛んだ。随分な苦労はしたが、その甲斐はあった。大阪の街は、厳しくも温かく、この根なしの風来坊を迎え入れてくれた。


 この都には君はいない。この都には君との思い出は一つもない。そうでなければこの地を選ぶ事はなかったのかもしれないが、それも、今はまったく詮無きことでしかない。


 何しろ猫を連れての旅は一苦労だった。見つけた限り、猫を連れて泊まれる宿は大阪じゅうを探しても三箇所しかなかった。その中でいちばん宿賃の安いところに、三、四日寝泊まりした。


 根無し草が、突然にやってきた縁もゆかりもない街で居場所を作るのも結構な苦労ではあった。具体的にどうやったのかはあえて語らないが、その三日か四日の間に、おおむねすべての首尾は大過なく済ませることができた。


 時間ができた合間に、道頓堀へ行った。およそ、恋を失った男が黄昏れて川を眺めるなどというセンチメンタルな行為に、あれほど向かない場所もないだろう。どでかいグリコの看板を眺めながら、『大阪で生まれた女』を口ずさんだ。別に大阪で生まれたわけでなければまた女なわけでもないが、それでもなお君の面影が胸中にしがみついて離れなかった、などということはなかった。はっきり言ってしまえば、ここに来ることで、ようやく、君を完全に過去にすることができた。そう、思った。


 君との結婚指輪を道頓堀に投げて捨てた、などと書けば詩的ではあるかもしれないが、そんなことはしなかった。この新天地に、君との思い出を、一切持ち込むことはすまいと、そう思っていたから。結婚指輪は最後まで捨てられなかったが、最後はあの雪の街に残してきた。


 だから、ほんの軽い気持ちで、道頓堀にかかる橋から、石を投げた。水面に波紋が浮かび、すぐに消えた。儚いものだった。君と過ごした歳月がそうだったのと同じように。


 なのに、その時だった。道頓堀の水面に、何か筒のようなものが突き出ているのに、気付いた。その筒がすうっと浮き上がったかと思うと。


 下から黒装束の忍者が出てきた。そして言った。


「兄ちゃん、なんやおもろないで。せっかく水遁の術で隠れとったんに、邪魔したらあかんわ」


 そいつは手裏剣を構えた。その目には、明らかな殺意が宿っていた。手裏剣がその手から、放たれた。咄嗟だった。飛び退く方向が逆だったら、グリコ一粒の力で300メートル走って逃げる間もなく、殺されていたかもしれない。


「あんじょうきばりや」


 などと言いながら、忍者は刀を抜いて、こちらに向かって走ってきた。次に取ったこちらの行動も咄嗟だった。


 俺は腰の鬼神丸国重を抜き放ち、居合一閃、そいつの忍者刀を叩き折った。


 「何すんねん! この刀、ドンキで二千円もしたんやで!」


 忍者は文句を言ってきたが、俺は無視した。そして、鬼神丸の返す刀で、そいつを袈裟斬りにした。血が噴き出した。心の臓腑が、ぱっくりと裂けていた。


 それからその忍者の死体を担ぎ、道頓堀に投げ込んだ。まるで、阪神タイガースが優勝したからという理由で、カーネル・サンダースの人形でも投げ込むように。今年の阪神はセ・リーグ二位で、しかもCSでベイスターズに負けたけど。さて、ふと周囲を見渡せばあたりは静まりかえっていて、誰もいないかのようだったけど、橋を渡り切って角を一つ折れたら、観光客でごった返すいつものミナミの景色だった。


 その日から、さらに三週間ほどが過ぎている。とっくに猫可ホテルは引き払って、猫可マンションに落ち着き、そうして今、これを書いている。いま、午前三時。とても静かだ。


 この三週間、君のことを思い出すことはほとんどなかった。あの雪の街で心荒れていた自分のことがもう信じられないくらい、いまは穏やかな暮らしを送っている。


 この街に来てから、また煙草を吸うようになった。君のために辞めた煙草なのだから、もういいだろうと思った。八年煙草をやめている間にわかばは500円もするようになり、ゴールデンバットは廃盤になっていた。昔のように、また、煙管で刻み煙草を吸っている。君には一度も見せたことのない姿だけれど。


 こちらに来てからは、よく眠れるようになった。あまりにも眠れすぎるので、午後三時に寝て日付の変わらないうちに起きたりしている。さすがにこれは逆にまずいような気がしてきたので、今日は昼間モンスターエナジー500mlとペットボトル入りのコーヒーを買ってきて全部空けたら今度はまるっきり寝られなくなり、暇で仕方がないから、午前三時にこの文章を書いている。


 多分読まないような気はするが、もしも君がこれを読んだとして、どう思うのかと言うようなことも、もう気にはならない。笑うなり呆れるなり、好きにしてくれ。こちらは、どう思われても、もう気にならないから。本当に。


 相変わらず金はないのでこちらでの暮らしもそれなりに不自由なんだが、それでも少なくとも不幸ではない。他人様の基準から言えば不幸に見えるかもしれないが、それはどうでもいいことだ。生きてさえいれば、何なりと良いことはあるもんだ。どんな人生でも。どんな苦難に襲われようとも。誰に後ろ指をさされようとも。君の人生も、そんなようなものであれかしと、最後に少しだけ祈っておく。


 八年の恋だった。

 君に恋した八年だった。


 今にして思えば、君と過ごしたあのかけがえのない三年間は、本当に夢のような日々だったと思う。夢のように儚く、だけど、悪い夢ではなかった。


 それじゃ、さよなら。


 

 




 

 

 

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雪祭り きょうじゅ @Fake_Proffesor

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