序章②

 N温泉前という駅がある。特急Lだけが停まる、不可解な駅。


 N温泉前駅を降りると、そこはH区J市の市境。そこから恥ずかしいほどよく見えるアパート――それが、Tアパートだ。


 Tアパートは3号棟まである。噂の出どころは不明だが一番新しい3号棟もバブル崩壊直後くらいに建てられたらしい。


 さぞかし大家は襲ってくる不景気に動揺しただろう。


 ちなみに噂によると、これは建設会社の発注確認のせいらしい。


              *


 その日も夜になっていた。ある中年の男がアパートの前をぶらついている。彼は少し前までは俗にいうホームレスだった。しかし今はこうして就職している。月収もよい。生活も何とかなっている。

 

 彼はTアパートの住人だった。彼は2棟の114号室に居を構えていた。


 男は2棟の自動ドアへ近づいた。2棟は向かいの歩道にある。男は歩道を渡り切り、夜の空を見上げた。


 縫物の藍色のような、きれいな空――それを遮る、月のような光。


「今日は半月か? 出てもいいぞ」


 男はいった。しかし、見えたのは半月ではなかった。


            


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る