第3話 初めの一手

 それから姫君たちはそれぞれの部屋に解散した。織衣おりえは、東宮の寝所から最も遠い場所にある五乃舎いつつのやに案内された。

 姫君たちの部屋は、近い場所から、初乃舎はつのや次乃舎つぎのや三乃舎みつのや四乃舎よつのやとなり、身分や家柄の順に格式の高い部屋に入ることになっている。

 織衣は最も低い五乃舎いつつのやをあてがわれた訳だが、内裏だいり見物を決め込んでいる織衣としては最適な場所とも言える。


「うん、悪くない部屋ね。夏になればクチナシが綺麗な花を咲かせそうだわ」


 庭に植えられたクチナシの木を眺め織衣は言った。

 これからしばらくここに住むことになる。お付きの女房は、自由に連れてきて良いとのことだったので、織衣は信頼のおける者を三人ほど連れて来た。その中の古株の女房が、織衣の教育係でもある遠野という女性である。

 遠野はかつて内裏に出仕していたことがある女性だ。今は近衛府少将と結婚し、その縁もあって大伴家に仕えており、内裏の事情も詳しいだろうということで女房役をお願いした。

 遠野が持参した荷物を整理しつつ織衣に言った。


「何をのんきにおっしゃっておりますやら。先ほどは肝を冷やしました」

「あら、売られた喧嘩は買うクチよ。結果的におとがめなしだから大丈夫よ」

「……先が思いやられます。二度目のお言葉で顔をお上げなさったのも──、事前にきちんと織姫さまにお教えしなかった遠野の大失態にございます」

「仕方がないわ。遠野にとっても久々の内裏だもの。あんな細かい決まり事まで抜け目なく教えるなんて無理よ。仮に事前に聞いていたとしても忘れるだけだわ」

「忘れないでくださいませ」


 ため息一つ、しかし、遠野はすぐに気持ちを切り替え織衣に進言する。


「織姫さま、あらためて気を引き締めて参ります。さっそくですが、他の皆さまにご挨拶に上がりましょう」

「もう? 今着いたばかりなのに」

「なればこそ」


 遠野がずいっと前に進み出た。


初乃舎はつのやにお入りあそばされた女柏宮おんなかしわのみやさまから順に、いち早く挨拶へ上がることが、五乃舎いつつのやの姫君として大切な初手にございます」

「でも、東宮さまは無駄な儀礼はしなくていいとおっしゃったわ」

「それはそれ。他の方々がどう思っているかは分かりません。むしろ、どう思っているか、さぐる必要がございましょう」

「さぐるって──、私は誰とも競うつもりはないわ」

「つもりがなくても巻き込まれる可能性は大いにあります。動きの遅い格下は格好の餌食えじきです。先手必勝、今すぐ参るのがよろしいかと」


 ふむ。身を守るために、攻めろということか。

 剣の手合せとは趣がかなり違うが、こうした駆け引きもまた悪くない。それに他の姫君の人柄も知りたいところである。


「分かったわ。遠野、お願い」

「はい。では、参りましょう」


 遠野はどこまでも手際がいい。彼女は残りの仕事を他の女房に任せると、織衣の先に立って部屋を出た。




 初乃舎はつのやは東宮の寝所に最も近い。ここに入る女柏宮おんなかしわのみやは、皇族である。名は咲子、父親は柏野親王と言い、今上帝きんじょうていの弟君にあたる。彼女は惟人これひと従姉いとことなる。


 初乃舎に行くには、各々の部屋の前を通り過ぎることになるので、こちらの動きは筒抜けだ。東宮の寝所へ行くとすれば、またしかり。

 案の定、各部屋を通り過ぎる際、織衣の動きに気づいたそれぞれの部屋の女房たちが焦る様子を見せている。

 四乃舎よつのやの姫は、大納言橘和義たちばなかずよしの娘で、三乃舎みつのやに入ったのは、神祇伯じんぎはく阿部清玄あべのせいげんの娘だと聞いている。どれも帝の覚えめでたい一族の娘である。


「……なるほどね。上の部屋になるほど下の動きは丸見えで、下は上の動きがまるで掴めない」

「左様にございます。織姫さまのお部屋は最も不利であると心得くださいませ」


 視線は前に向けたまま、遠野が小声で織衣に言った。そして、次乃舎つぎのやに差しかかった時、そこだけ様子が違うことに織衣は気がついた。


「遠野、」

「はい。どうやら織姫さまと同じくの姫君がいらっしゃるようです」


 二番目の部屋である次乃舎、女房たちは織衣の姿を見ても慌てる様子が全くない。むしろ、含み笑いさえ浮かべている。

 ここの主は、左大臣一条いちじょう元親もとちかの娘で、今回の妃候補で女柏宮と並んで有力視されている姫君だ。

 無意識のうちに織衣たちの歩調が早くなった。


 次乃舎を過ぎてしばらく進むと、初乃舎が見えてきた。二つの殿舎の渡殿わたどのの終わりに取り次ぎ役の女房が一人控えている。遠野は彼女に歩み寄り、女柏宮おんなかしわのみやに挨拶に来たことを告げた。

 すると取り次ぎ役の女房は、遠野の背後にいる織衣を一瞥してから困った顔で答えた。


「すでに左大臣の姫君、菊姫さまがご来舎されていらっしゃいます。織姫さまにおかれましては、別室でお待ちいただきたく……」


 やっぱり。

 織衣は遠野を押し退け、ずいっと前に出た。


「ちょうどいい。まとめてご挨拶申し上げますゆえ、案内を頼みます」

「それはさすがに──」


 取り次ぎ役の女房がおろおろとたじろいだ。なぜなら、「先客に割り込むことができるのは格上の者」というのが通常で、本来であれば織衣は待たなければならない。

 しかし、ここで待たされては他の姫君たちが来てしまう。そうなれば、五乃舎いつつのやの織衣は挨拶の順を彼女たちに譲らねばならなくなる。


五乃舎これはあまりにも不利ね)


 このような不公平な扱いを甘んじて受け入れる気はない。幸い、東宮からは「勝手にしていい」と言質を取っている。


「私も時間を無駄にはしたくありません。つべこべ言わず、案内して」


 最後は語気を強めて織衣は取り次ぎ役に詰め寄った。

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