第2話 見目麗しと無精ひげ

 大伴家は古くから続く武門の名家だ。織衣おりえはそこの一人娘として、小さい頃より貝合わせより剣の手合わせを楽しんで見ていたクチで、そのおかげか見目麗しい公達きんだちに興味がない。将来の伴侶は無精ひげが似合う父親のような男性がいい、などと勝手に思っている。


 東宮はどう考えても前者であるだろうから、織衣の好みの男性とはほど遠い存在に思えた。典侍ないしのすけが東宮御所での細かい決まり事をくどくどと説いているが、そこまで長居するつもりがない織衣にはどうでもいい話だった。


「それでは皆さま、今日よりつつがなくお務めを果たされますようお願いいたします」


 ようやく典侍ないしのすけの長ったらしい説明が終わり、姫君たちに解散を告げる。織衣は、やれやれと息をついた。


 その時、廊下に足音が鳴り響いた。

 なんだと思って外を見やると、あけほうをまとった男が現れた。足音うるさく現れた男に典侍ないしのすけが顔をしかめる。

 彼は一礼して、そんな彼女のしかめっ面を受け流しつつ彼女に告げた。


「東宮さまがお見えにございます」

「東宮さまが?」

「はい」


 その言葉を聞いて、姫君たちは慌てた様子で居ずまいを正す。あけほうの男がさっと膝をついて道を開けると同時に、白に二藍の直衣のうし姿が目の中に飛び込んできて、その場にいた者たちは全員とっさに頭を下げた。


 静かな足音は広間の上座中央まで入って来るとぴたりと止まった。上品ではあるが、無駄のない足運びだと織衣は思う。


(この方が東宮惟人これひと親王……)


 ややして、艶のある男の声が広間に響いた。


おもてを上げよ」


 そう言われ、織衣は顔をほんの少しだけ上げる。他の姫君も同様である。いきなり視線は合わせられない。格上の相手に対し、はっきりと顔を上げていいのは、もう一度声がかかった時だ。

 張り詰めた空気が漂う。さっきまで偉そうだった典侍ないしのすけさえ緊張した面持ちである。


「そう堅くならずともよい。楽にせよ」


 二度目の声だ。織衣は、ようやく顔をまっすぐ上げて目の前の相手に視線を向けた。刹那、冷ややかな瞳とかち合った。

 筋の通った鼻に、切れ長の魅惑的な目。そして引き締まった口。ここまでは完璧な美男子である。しかし、あご周りに不釣り合いとも思える無精ひげが生えていて、それが妙に人間臭い。


 なんと。見目麗しと無精ひげが混在している。


 これはちょっと、衝撃だった。織衣の中で、「見目麗し」と「無精ひげ」は相容れないものであったからだ。それを同時に体現した存在は、それだけで貴重と言えた。

 東宮ともあろう御方の容貌としては「なし」かもしれないが、織衣にとっては「あり」である。「皇子みこ」という遠い存在のはずなのに、親近感さえ湧いてくる。

 しかし惟人は、まじまじと見つめる織衣に向かって、皮肉げな笑みを浮かべた。


「私がそんなに珍しいか?」


 他の姫君を差し置いて自分が声をかけられてもいいのかと、織衣は思わず周りを見る。

 すると、誰も顔を上げていないではないか。


「え?」

「何を今さら慌てておる。勇んで自ら顔を上げたは、おまえ自身ではないか。他の者もさっさと顔を上げよ」


 東宮自ら三度目の声。ようやく全員が顔を上げた。

 やられた──。東宮相手は、二度ではなく三度の声らしい。そんな御所約束、聞いていない。

 案の定、大伴家から連れてきた古株の女房と目が合うと、彼女に絶望的な顔をされてしまった。が、ひとまず笑って誤魔化して、織衣は再び東宮と向き合った。

 あらためて東宮が姫君たちの顔を品定めのごとく一人ひとり見ていく。そして彼はやおら口を開いた。


「私が惟人これひとである。何を吹き込まれ東宮御所ここに来たかは聞かぬ。が、最初にこれだけは言っておく」


 静かな声ではあるが、有無を言わせない強い口調。顔を強ばらせる姫君たちの前で、惟人は冴えざえと目を光らせた。


「まず一つ。私は無駄な儀礼が好きではない。顔を上げるために三度も声をかけるなど時間の無駄だ。上げよと言ったら、一度で上げよ。二つ目、私は誰も選ぶ気がない。ゆえに、あてが外れたのであれば今すぐ帰れ」


 言って惟人は、織衣の前にひざまずいた。


「分かったか。二度目で顔を上げた女」


 まともに名前を呼ぶ気もないらしい。聞いていたとおりの傍若無人ぶりだ。

 思わず織衣は目をすがめる。名前を覚えてもらいたい訳ではないが、舐められるのは好きじゃない。


「返事は?」


 惟人これひとが、さらに圧をかけてきた。皆が家を背負ってここにいるのは分かっているはずで、その上でこちらの反応を面白がっている。泣き出すとでも思っているのか。


(面白い。受けて立とうじゃないの、この見目麗しの無精ひげが)


 織衣は心の中で言い返し、惟人に不遜とも言える笑みを返した。


「承知いたしました。今の東宮さまの話をまとめるに、要は勝手にしていいと。そういう意味でございますね」


 他の姫君たちがざわついたのが分かったが、知ったことではない。今はこの男と勝負中である。

 惟人これひとが、ほんの少し驚いた顔をした。それだけで織衣は胸のすくような気持ちになる。

 射抜くような惟人の視線に挑発的な視線を返せば、彼は小さな笑みを一つこぼし、ぱっと目をそらして立ち上がった。


「以上だ。それでもなおここに残るというのであれば、せいぜい私の気を引くよう励むがいい」


 最後は素っ気なく言い残し、惟人は広間から出て行った。


(よしっ。多分、勝った)


 そう思って得意げに後ろを振り返ると、古株の女房がさらに絶望的な顔をしていた。

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