恋と呼ぶには甚だしい

ふゆのうみ

第1話


 、あ

 と思った。

 もし、誰かを想う気持ちが「すき」と言い、それを「恋」と形容するのなら。ぼくはもしかしたら、とっくのむかしに常磐トキワに恋をしていたのかもしれない。



一、

 ぼくと常磐がと出会ったのは大学二年の晩春だった。話の分かるやつがいるんだよ、とマユズミに紹介されたのが常磐だった。黛に肩を組まれて困ったように笑っていたのは今でも覚えてる。ちらっとぼくを見つめた常盤の小さな二つの双眸が、ぼくと合うなりさっと視線を逸らされた。ぼくはそこに、確かに常磐に対する一種の処女性を感じた。

日比野ヒビノ、聞け。常磐も俺と同じでお前の書く話のファンだそうだ」

「ちょっと、黛くん……」

 お前の書く話、と言った黛の言葉に食指がぴくりと動いた。ぼくは今すぐにでも黛を問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。

 ぼくが小説を書いているのは、家族を除けば、黛だけしか知らなかった。高校の頃からの同級である、黛だけしか――。隠してるわけではなかった。でもだからといって大っぴらに公表するようなことでもない。でも、それでも、ぼくの預かり知らぬところで、ぼくが小説を書いていることを誰彼構わず吹聴する黛の軽薄さが許せなかった。しかし果たしてぼくは黛を怒ることは出来なかった。ぐ、と怒りを腹の内に押し込めた。出かかった言葉を飲み込んだ。

 黛曰く、常盤はぼくを紹介してくれと黛に頭を下げたそうだ。だから、ぼくに常盤を紹介することにした、らしい。ぼくと向き合った常磐は緊張で強張った表情をしていた。

「おれ、あの、日比野くんが嫌じゃなければ、と、……友だちに、なりたく、て」

 少しずつ小さく、弱々しくなる常磐の声音に黛はわはは、と笑いながらぼくの背を叩いた。

「もちろんいいだろう? な、日比野!」

 ぼくはそのとき、どんな表情を顔に貼り付けていたのかわからない。でも常磐の顔は相変わらず強張っていたし、黛はにこにこと笑っていた。

 常盤と連絡先を交換して、また会ってください、なんて言った常磐が立ち去った後のことだった。黛が口を開いた。

「時に、日比野。新作は書いてるのか?」

「、」

 ぼくは小さく息を呑んだ。その言葉はまるでナイフのようにぼくを突き刺した。身を捩る間もなく、真っ直ぐにぼくの真ん中のところを突き刺したのだ。新作、と聞いて常盤は一瞬顔を輝かせたが、ぼくを見て、何かに気付いたようだった。それは黛にも伝わったようで――しかし自分の言葉がぼくの急所に当たったことは伝わっていないようだった――黛は「なんだ、書けてないのか!」と声を上げた。

 黛の言う通りだった。最後に書いたのは去年の冬だった。そこからぼくはすっかり書けなくなっていたのだ。真っ白な画面が怖いのだ。そこに文字を落とすのも怖いのだ。仮に文字を落としたとて、なんだか違うような気がしてならなかった。

「まあ、いいさ。書けたら、真っ先に見せてくれよ。俺は日比野の書く小説のファン第一号なんだからな」

 ぼくはなんと返すのが正解なのかわからず、ただただ愛想笑いをするしかなかった。


二、

 連絡先を交換してから、意外にも常盤はほぼ毎日のように連絡をしてきた。たとえばそれは今日の二限の講義は出るか、という話から、遊びに行かないか、という話まで様々だった。講義とバイトの時間が被ってさえいなければ、ぼくは常磐の誘いに乗っていた。そのせいか、大学二年の夏に入る頃には、ぼくは常磐と連むことが多くなった。だからといって黛のことを忘れたわけではなかった。大学に行けば講義室で会えるし、世間話もしている。しかし黛にとってそれが原因でフラストレーションが溜まっていることに気付いたのはそれからしばらくしてからだった。

 常磐は案外親しみやすいやつだった。常磐の、ぼくの呼び方が日比野くん、から日比野、と呼び捨てになるまでに時間はかからなかった。ぼくのことを日比野、日比野、と懐っこく呼んだ。その声音を聞くだけで、ぼくはなんだか、気持ちが安らかな気持ちになっていくのを感じた。ともすると、一体全体どういった原理でそうなったのか、定かではないが、無性になにか書きたくなってきた。それはぼくのことであり、常盤のことだった。ぼくは久々にノートを広げて、プロットを練った。これが完成したら、まずいの一番に常磐に見せよう。これを常盤だけの話にしてしまおう。常磐と、ぼくだけの話だけにしてしまおう。そう思うとメキメキ筆が進んだ。

 それが書き上がったのは秋口だった。完成した小説を常磐に渡した。

「きみのために書いたんだ。よかったら、読んでほしい」

「えっ!? おれのために、日比野が……」

 最初常磐はびっくりしたようにぼくを見て、A4サイズの用紙に印刷された小説を見て、またぼくを見た。そして恭しくぼくの手からそれを受け取った。「読んでも、いいかな」おずおずと尋ねる常盤に、ぼくは頷いた。常磐は深く呼吸をして、小説に目を通した。常磐が読み終わるまで、ぼくは常磐を視界から離さずじい、と見つめていた。読み終わった常磐の目には涙が浮かんでいた。ぼくはぎょとした。

「ちが、違うんだ、日比野。おれ、おれはうれしいんだよ」

 ぼくが何か言うより前に、常磐は口を開いた。

「おれはな、日比野。おまえの書いた話に救われたんだ。冗談なんかじゃない。ましてや誇張なんかでもないんだ。だから、どうかおれの話を聞いてほしい。高校三年のとき、おれはどうしようもなく死にたかったんだ。そんなときだよ、日比野の書いた話を読んだのは。本屋に並んでいた文芸雑誌を、たまたま手に取って、たまたま読んだのが日比野の書いた話だったんだ。……もう少し、生きてみようと思ったんだ。本当だよ、日比野。今でもたまに読み返しては、生きる活力をもらっているんだ」

 濁流のように常盤の口から飛び出す言葉に、ぼくはただただ圧倒された。常磐はさらに続けた。

「これは、おれの話だね。おれと、日比野の話だね。うれしいよ。日比野、これはおれにとって二つ目の宝物だよ」

「宝物なんて、そんな大したものじゃ……」

「大したものだよ! ……おれは、日比野に救われてばかりだな」

 うれしそうに、でも少し困ったように笑う常磐を今すぐ抱きしめてやりたい気持ちになるのをぐ、と堪える。

「ずっと言いたかったんだ。ありがとう、日比野。あの時おれを救ってくれて」

「……常磐!」

 ぼくは堪らず、常磐の手を握った。常磐はぎょとしながらぼくを見た。ぼくは構わず続けた。

「きみのためなら、ぼくは書くよ。きみに誓って、書き続ける、約束する」

 常磐のなにがぼくの琴線に触れたのかはわからない。でも、ぼくは確かに常磐に喜んでほしいと思ったのだ。常磐の、この手を話してはならないと思ったのだ。

「ありがとう、日比野」

 常磐は恥ずかしそうにはにかんだ。


三、

 話がある、と黛から連絡があったのは、常磐に小説を送ってから、数ヶ月経った日のことだった。指定されたのは黛の家だった。「黛の家なんて、何年振りだろう」呑気にそう思っていたぼくに待ち受けていたのは、明らかに機嫌の悪い黛だった。

「最近、常磐と仲が良いな」

「そうだね、最近はずっと一緒にいるし」

 その言葉がいけなかったのだろう。黛はぼくの肩を強く掴み、ほとんど叫ぶようにして言った。

「なんでだよ、日比野。なんで、どうして俺じゃないんだ。日比野。なあ、日比野。俺はお前の書く小説が好きなんだよ。なんで、俺じゃ……」

 その悲痛な声が、ぼくに突き刺さる。黛の言葉は、いつだってぼくに突き刺さるのだ。それは黛が、あまりに真っ直ぐな気質を持っていることからであることを、ぼくは知っていた。黛はとめどなく、ぼくに真っ直ぐ言葉を突き刺した。

「知ってるんだよ、日比野。お前が、常磐のために小説を書いたこと。常磐の為だけに、小説を書いたってこと。……俺は、どうにかなってしまいそうだったよ。なんで常磐なんだ、って。どうして、俺じゃないんだ、って。日比野、なんで、なんで俺じゃ、」

「……うん、ごめん。ごめん、黛」

 すっかり丸くなりながら嗚咽する黛の背を、ぼくはそっと抱き締めた。すると黛は声を上げて子どものようにわんわん泣き出した。ぼくは黛が泣き止むまでずうっと黛を抱き締めていた。その背を撫でて、ときには赤ちゃんをあやすようにとんとん、と優しく叩いた。さんざん泣いた黛は目の周りを赤く腫らして、ぼくを見つめた。見つめて、言った。

「かっこ悪いとこ、見せちまったな」

「そんなことないよ。……黛、」

 ごめんな、と再度謝ると黛はちょっと考えたような間をあけて、笑った。

「日比野だけが悪いんじゃない。なかなか言い出せなかった俺も悪いんだ」

「そんなこと、」

「そんなことあるんだよ。日比野は優しいからなあ」

「……」

 結局その日は黛とそれきりだった。翌日大学構内で会った黛は以前と変わらず、ぼくに接して来てくれた。その日から数日は、逆にぼくのほうがぎくしゃくしていて、常磐に「黛くんと何かあった?」と聞かれるほどだった。



「日比野」

 ぼくを呼ぶ常磐と黛の声が重なる。「ごめん、待った?」ぼくの言葉に「全然?」と常磐が、「少しだけな」と黛がそれぞれ答える。二人は顔を見合わせてしばし無言を貫いた。「時に、日比野。書けたんだろ? 新作!」気まずい沈黙を破ったのは黛だった。

「ああ、うん。今日、持って来たからふたりに読んでほしくって」

 鞄からA4サイズの用紙を取り出して常磐と黛、二人の目の前に二部差し出した。常磐も黛も物凄い勢いでぼくの手から用紙を取り、文字を目で追った。その気迫ときたらすごいもので、ぼくはすっかり気圧されてしまった。二人はものの数十分でぼくの小説を読み上げたようで、常磐も黛も早口で今回の小説について捲し立てていた。ぼくはそんな二人を見て小さく笑った。ちらり、と目を見遣ると視線が絡み合ったのは常磐のほうだった。しかし最初に会ったときとは違い、常磐はにこりとぼくを見て笑った。


 、あ

 と思った。

 もし、誰かを想う気持ちが「すき」と言い、それを「恋」と形容するのなら。ぼくはもしかしたら、とっくのむかしに常磐に恋をしていたのかもしれない。

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