第9話

あの事故から、十数年が経った。


いまだに彼女の意識は戻っていない。

おれはそこそこの企業に就職し、週に二度の休日には欠かさず彼女のもとへ訪れていた。


いまだに、彼女の最後の言葉が脳裏から離れない。

「わたしを、忘れないで」

忘れるわけないじゃないか。

一日たりとも忘れた日などない。


おれをトラックの追突から救った結果、意識が戻らなくなってしまった彼女。

「ずっと一緒だよ」といつも微笑んでくれた彼女。

一緒にクラス委員をして、一緒に帰った日々。

一つ一つが鮮明に思い出されて、朧げに記憶の流れに流されてゆく。


「充〜。お前宛に電話だぞ〜」


仕事の同僚から、おれ宛に電話が来たと教えてくれた。


今日は電話での会談の予定はなかったはずだが……

不審に思いながら受話器を取ると、相手は志帆の母親からだった。


「充くんよね? 今、志帆が目を覚ましたのっ!!

 やっと……やっと目を覚ましてっくれたわ……」


その瞬間、おれは受話器を手から落とし、膝から崩れ落ちてしまう。


彼女の……志帆の意識が、戻った。


自然と涙が頬から垂れて社内の床へと落ちていった。


「充? 大丈夫か?」


電話が来たことを伝えてくれた同僚がおれのそばにしゃがみ、背中をさすってくる。

おれはそれに何も返すことができない。

彼女のことしか今は考えられなかった。


何も言わないおれのことに何かを察したのか、同僚は言う。


「充、今日のお前の仕事はおれが全部やっとくから。だから、早く行ってやんな」


この会社内ではおれが毎週二日かかさずに病院を訪れていることを知られている。

そして、おれがこうまでして崩れ落ちたこと照らし合わせたのだろう。


おれは同僚に感謝の意を伝えると、すぐさま彼女のいる病院へと向かった。


流石に十数年も通っていると病院の看護師たちとも顔見知りになるもので、おれを見つけた看護師が彼女の病室へと案内してくれた。


白く統一されたカーテンをめくってベッドを見ると、ずっと寝ていたはずの彼女-志帆-が目の前に座っていた。


「志帆……」

「みつる……くん?」

「あぁ、ずっと、忘れたことなんてなかったよ……」


志帆が今、目の前で話している。

それだけで、今までのどんな重みもスッと抜けていくような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

勿忘草 EVI @hi7yo8ri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画