第36話 お水と器

 葵に抱きかかえられた充は、使用人が去ったあとにそっと下ろされると、ふかふかの座布団の上に座らせられた。


「水を持ってくるので、待っていてくださいね」


 充がこくりとうなずくと、葵は部屋に置いてあった縦長の木箱の中から、竹筒たけづつおけを取り出して外に出ていく。

 彼は大した時間もかからず戻ってくると、桶は使い古した布の上に置いて部屋のすみにどかし、竹筒は重厚感のあるつくえの上に置くと、今度は木箱から小さな陶器の器を二つ出した。

 白地に赤い紅葉もみじがあしらわれている。充は単純に「高そうだな」と心のなかで思った。


 葵はそのうちの一つに竹筒に入れた水を注いて口に入れると、こくりと飲んだあとに「大丈夫だね」と独りち、口のつけていない器に同じように水を注いで、「はい」と言って充に差し出した。


「お水です。どうぞ」


 充は彼の突然の行動に、器と葵を交互に見つめた。

 まず、器に水を入れて出されることがなかったので、充は驚いてしまった。普段はかめから直接飲んでいるし、大人たちが祝いの席で酒を飲むならまだしも、子どもの自分にこんな洒落しゃれたもので水を出されると思ってもみなかったのである。


 それに加え、充に対する態度が丁寧すぎる。


 確かに着物が汚れるのもいとわないし、派手な感じではないが、使用人と葵の会話を聞いた限り葵は上流社会で生きる人間だろう。


 そう考えると、葵と充の身分の差は大きい。それにもかかわらず充に対して丁寧な言葉で接するし、高価な器に水を入れて出すことなどあり得ないと思ったのである。


 充が黙っていると、葵は不思議そうな顔をする。


「どうかしましたか?」


 尋ねられ、充はためらいながらも尋ねた。


「何でお水をくださるんですか……?」


「喉が渇いているんじゃないかと思ったんですけど、違いましたか?」


「……渇いています」


「それじゃあ、どうぞ。おいしいお水ですので、このまま飲んで大丈夫ですよ」


「……この器で……飲んでいいんですか?」


「はい、もちろん」 


 葵はにこりと笑う。

 充はそれを確認しながら、そっと手を伸ばし器を手に取った。とても軽い。そして口をつけて飲んでみると、するっと水がのどの奥に流れていく。ごくりと飲み込むと、体のなかを通っていくのが感じられた。これまでに味わったことのない不思議な感覚である。


「口のなかは痛くないですか?」


「え? はい……」


「それならよかった。あ、もっとありますよ。飲みますか?」


「えっと……」


「遠慮しなくていいんです。その様子だと随分涙を流されたのでは?」


 葵の指摘に、充は顔を赤くしうついた。


「あの、僕……その……」


 すると葵は、器を持った充の手ごと掴むと、空になったそれに竹筒から水を注いだ。


「恥じることなどありません。よく我慢しましたね」


 その瞬間、充は胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。


(この人は、僕の痛みを分かってくれる人だ……)


 充は涙を流すまいと目に力を入れながら、葵から何度か水を器に注いでもらい、口の渇きをいやしたのだった。


 充が十分に水を飲むと、葵は「上の着物を脱いで、少し横になってもらえますか?」と言った。充はこくりとうなずき、着物を脱いで座布団を並べた上にうつぶせに寝る。すると、縁側に向けられた障子戸しょうじどが目に入った。


(暗くなってきてる……)


 夜が近づいてきているようで、障子を染める色が赤から紫に変化していた。そろそろ畑仕事が終わるころだろう。桃を盗み食いしようとしていた次兄さえ見つけなければ、今ころ父に頼まれたざるを持って、畑の石を取り除く作業をしていたのだが。


(心配はしてないと思う。どちらかというと怒っているかな……)


 本当はこんなにかかるはずではなかった。ちょっと行って、すぐに畑に帰ってくるつもりだったのだ。


 地主さまに、桃が盗まれた話を言えば分かってもらえると思っていたのもあるが、両親に事情を話さなかったのは、話したところで「桃なんて、食っちまえば誰が盗ったか分からないんだから、さっさと畑仕事を手伝え」と言われると思ったのである。それなら、何も話さないほうがいいと充は判断したのだ。


 充が感じていることだが、父と母にとって、正しさはどうでもいいのだと思う。

 そうでなければ、次兄が悪さをしても「充がやった」と言われ簡単に納得するわけがない。彼らは自分たちと子どもたちが明日生きるために、畑仕事をするので精一杯なのだ。


 仕方ないとは思う。

 仕事を手伝っているとはいえ、充は養ってもらっている側なので文句は言えない。しかし、それと自分の行為を信じてもらえないのはまた別の話だ。やってない罪をなすり付けられ、家族のなかで肩身の狭い思いをしなければならないのがどれだけ辛いか。罰として食事を抜かれることが、どんなにみじめか。


(あんまり……帰りたくないな)


 次兄と顔を合わせたくないし、両親とも会いたくないと思った。少しでも心配してくれるのならいいが、怒られるならどこか別のところに逃げ出したいくらいである。だが、自分の土地も持てぬ百姓以下の充に、逃げる場所などない。


 するとそのとき、葵が用意されたろうそくに火を灯したので、部屋が一気に明るくなった。しかしそのせいで、充の背の傷もはっきりと見えてしまったようである。

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