第35話 西日

 葵は手当てをしてくれると言ったが、充には先に知ってほしいことがあった。


「あの人の……」


 充は彼の着物をきゅっとつかむと、かすれた声で言った。


「あの人の、言っていることは違います……。閉じ込められただけじゃ、ありません。何もしていないのに、桃を、盗った、犯人扱いをされて、背中をむちで、打たれました……」


すると穏やかな雰囲気をまとった葵が、どこか冷え切った声で聞いた。


「鞭打ちをですか?」


 出入り口に立っていた使用人は、体をびくっとさせる。


「それは……」


 彼が言いよどんでいる間に、充は体を起こそうとした。もう一度「僕は何もしていないのに、鞭で打たれたんです」と言うために。だが、背中に激痛が走り、上手くいかない。


「うっ……」


「無理はしないでください。どこが痛みますか?」


「背中が……」


 充が呟くと、彼は言い合っていた使用人に「この子を連れて客間に戻ります」と低い声で言った。


「し、しかし……」


 戸惑う彼に、やんわりとした声でしかし強い口調で問うた。


「何か問題でも?」


「ありますよ! 大ありです! この子は地主様が罰を与えるためにここにいれていたのですよ! それなのに勝手に出したとなれば私が責めを負います!」


「ですから、その責任は私がとりますと申したではありませんか。私の我儘わがままなので、あなたはそれに従ったまでだと言えば咎めもないでしょう」


「しかし……」


 言いよどむ使用人に、葵は小さくため息をつく。その様子は、何かになげいているかのように充には見えた。


「ではこうしましょう。連れ出していけないというのであれば、もうここには薬を売りに来ません。それでもよいですか?」


「……っ」


 葵の提案に、使用人の息が詰まるのが充にも分かった。


(この人は薬屋さんなんだ……)


 そのため彼がここに来なくなると、この屋敷の誰かが困るのだろう。それも、地主に近しい誰かが。


「それは……困ります」


 小さく答える使用人に対し、葵は笑みを向けてもう一度尋ねた。


「では、連れ出して構いませんね?」


 使用人は悩んだ末に、渋々しぶしぶとうなずく。


「……分かりました」


 その言葉を聞くと葵は、充に優しく声を掛けた。


「君の傷の手当てをしましょう。でも、ここではできないので移動したいのですが、歩けますか?」


 充が遠慮がちに首を横に振ると、葵は「じゃあ、私が抱っこしますね」と言った。


「え、で、でも……」


 手当てをしてくれる人に、抱っこまでしてもらうのは申し訳ないのではないか。そう思っていると、葵は優しく「嫌ですか?」と聞く。


「あの……えっと、そうじゃなくて、僕……汚いし……」


 すると彼は微笑んで、「そんなことは気にしません」と言った。


「おんぶでもいいと思ったのですが、きっと背中を丸めるから痛いと思うんです。それで抱っこを提案したのですがどうでしょう?」


「だ、抱っこがいいです……」


 ためらいながら返事すると、葵はにこっと笑う。


「良かった。では、私の首に腕を回して」


 葵がそう声を掛ける。充はこういうことに慣れていなくて、そろりと彼の首に腕を回す。


「こちらに体重を掛けて」


 充はその優しい声に引かれるように、葵の胸に体を預ける。たくましい体とは言い難かったが、骨ががっしりとしている感じがして、どっしりとした安心感がある。

 充は彼の腕に抱えられ、暗くて陰鬱いうんうつな部屋から出た。ちかっと西日が目に入る。ここまでまぶしく、光に満ちていると感じた夕焼けは充にとって初めてだった。


 使用人に案内された部屋は、それほど大きくはない。

 しかしちゃんとした調度品が並んでいることから、充でさえもここが客間であることが分かった。


「ありがとうございます。もし側役の方か、地主さまに事情を聞かれたら『葵が直接話します』と伝えてください」


 葵が使用人に言うと、彼は素直にうなずいた。


「分かりました」


「それと、お水をいただけませんか」


「それでしたら、そばにある井戸から好きなだけんでください。上に報告し、周知しておきます」


 使用人は静かな様子で答える。何を言っても無駄だとさとったのだろう。葵はそれに気づいているのか否か、にっこりと笑って「ありがとうございます」と再びお礼を言っていた。


 言われた方は少し複雑そうな表情を浮かべつつ、「では、私は退室いたします。何かあれば、その辺にいる女中にお申し付けください。失礼いたします」と、一礼すると部屋を出て行った。

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