第34話 葵

「お待ちください、あおい殿! そこへ入ってはなりません!」


 別の人物が後からきて注意をしたようである。だが「葵」と言われた男は引き下がらなかった。


「そうはおっしゃいますが、誰かがすすり泣いているような声が聞こえました。間違いなくここからです」


 どうやら泣いていた声で気が付いてくれたらしい。戸が閉まっていたので気づいてくれる大人などいないと思っていただけに、希望の光のように思えた。


「ここは葵殿が入るようなところではないのです。風も冷たくなって参りました。さあ、お部屋に戻りましょう」


 使用人と思われる人物が、葵という人を部屋から引き離そうとしているようだった。彼らの話ぶりから想像するに、「葵」は地主の客人だと思われる。


(客なら、もしかすると助けてもらえるかもしれない……)


 この屋敷の人間は全員充の敵だ。逃げようとすればきっと捕まえられるに違いない。

 客人が信用できる大人かどうか分からなかったが、少なくとも心配している様子なのは確かだ。少しでもこの状況から抜け出せる可能性があるのなら、すがりたいと思い、客人に気づいてもらえるように充はのどから声を出した。


「ん、んん……ん、んん!」


 本当は「います」と言いたかったが、口には猿轡さるぐつわをされていて上手く発声できない。しかし、今度は空耳とは思われずに、ちゃんと聞こえるはずである。


「やはりいるではありませんか。この戸の向こうから聞こえます。何をなさったんです?」


 充の声に気づいた葵は静かな声で問うた。使用人はしどろもどろに答える。


「いえ、あの……ちょっとした仕置きを……」


「お仕置き? それは誰です?」


「それはその……この辺りにいる悪さをする子どもでして……」


「ここで、子どもにお仕置きですか?」


 りんとした指摘に、使用人は観念したようにぼそぼそと事情を説明した。


「庭の桃を盗ったんです。ですから側役が……、反省するためにしたわけで……」


 使用人はそこまで言うと、うつむいて口を閉ざしてしまう。

 葵は呆れたように息をはくと「そうですか……。では、これからやることには口を出さないでください。責任はすべて私が負います」と言った。


「お、お待ちください! 何をなさるおつもりですか⁉」


 使用人が頓狂とんきょうな声をあげてる。そのとき戸ががたがたと動いた。もしかすると、葵という者が戸を開けようとしたのかもしれない。


「何があったのか、中にいる子から事情を聞くのです」


「いけません! その子は百姓よりも身分の低い子なのですよ! まさかその子に慈悲じひを与えるおつもりですか?」


 使用人がどういうつもりで必死になっているのか充には分からなかったが、葵はどこ吹く風だった。


「何をおっしゃっているのか分かりませんね。私が何をするのか気になるのでしたら、見ていてくださればいいではないですか」


「葵殿!」


 使用人が葵の名を呼んで止めたが、彼は代わりに冷たく言い放った。


「あなたは私を引き留めますが、何故です? やましいことでもあるのですか?」


「そ、そうではございません! 先ほども申し上げましたが、ここは葵殿が入るような場所ではないのです。もし入ったことが主人に知られたら、とがめを受けます」


「咎めを受けるのは私? それともあなたですか?」


「それはっ……!」


 尋ねられて答えられなかった使用人に、葵はやわらかだが、どこかすごみのある声で提案した。


「ですから、これから起こることは私の責任ですと申したではありませんか。あなたに咎が及ばぬようにいたします」


「しかし……!」


「それとも見られたくないものでもあるのですか?」


「そのようなものはございません。ただ、その……仕置きをするために、閉じ込めていただけで……」


「んうん!」


 充はそのやり取りを聞いて、「違う!」と言っていた。しかし、猿轡のせいで言葉にならない。


 すると葵は「失礼いたします」と言いながら、戸を勢いよく開け、戸惑うことなく部屋の中に入ってくる。使用人は先程と同じように引き留めようとしたが、「止めないでください」という葵の強い言葉に気圧けおされ、中には入ってこなかった。


「これでは話したくとも話せないではありませんか」


 葵は出入り口から差し込む光を頼りに充を見つけると、顔を見るなりそういった。


 そして充の首の下にそっと腕を入れて体を抱き起してくれると、頭の後ろに手を伸ばし、猿轡の布を外してくれる。鞭に打たれたときに散々噛みしめていたので、唾液でびしょ濡れになっていたが、葵は気にした風もなくそれを外す。そして自分の懐からきれいな布を取り出すと、充の口周りを優しくいてくれた。


随分ずいぶんと痛めつけられたようですね。先に手当てをいたしましょう」

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