第二章 銀星と赤鬼の子

第16話 沙羅の変化

     *


 充が鷹山ようざんに入山するようになってから、ひと月半がった。山の木の葉はほとんど落ちて、雪を待つ姿へとすっかり変わってきている。

 周りが少しずつ風景を変えている中、沙羅は依然いぜんとして暴れまわっていた。


「沙羅、待て!」


 沙羅を追いかけている茜の大声が、充の耳にはっきりと聞こえる。緊迫した茜の声を聞く限り危険な感じがした。

 この日、充は持ってきた芋を焚火たきびで焼こうと思い、落ちた枝木を探そうと茂みに入っていたところだったのである。だが、茜の声を聞く限り、一旦山小屋のほうへ戻ったほうがよさそうな気がした。


「沙羅!」


 茜が再び叫んだ。先ほどよりもはっきりとした声である。近い。


 充は手にした何本かの枝を抱えたまま辺りを見渡し、急いで山小屋のあるほうへ向かおうとする。

 そのときだった。後ろの傾斜けいしゃの上から、ガササッと音がしたと思うと、目の前に沙羅と茜が降りて来たのである。


「わっ!」


 充は驚いて尻もちをつく。慌てて飛び起きたが、沙羅も茜も充のほうを気にするほどの余裕はなさそうだった。こちらに気が向いていない間に、充は急いで近くにあった皐月さつきの物陰に隠れ、様子を見る。


 沙羅は人間業とは到底思えない、飛びねるようなりをひっきりなしに茜に打ち込んでいる。


 一方の茜は機会をうかがいながら防衛していた。しばらくその状態が続いていたが、一瞬沙羅が動きをにぶらせたときに、茜がすかさず腹にこぶしを入れる。


「ウッ!」


 強い一撃だったらしく、沙羅は数歩後ずさったあとにその場に片足をついた。ようやく沙羅の動きが止まる。


「沙羅、もう逃げるのはよせ。そろそろ辛いころだろう」


 茜が息を整えながらさとすように言うが、沙羅は息を荒げ、茜を見上げにらみつけている。

 彼女の態度を見る限り、いつも通り茜の話を聞くつもりはないのだと思われたが、長引けば沙羅の体が壊れてしまう。


(茜……、どうするんだろう?)


 充がそう思ったときだった。沙羅の様子が急に変わる。


「ウウッ……! グルルル……」


 獣のようなうめき声を出すと同時に、彼女は背を丸め、少しずつ体勢を低くしていく。


「沙羅?」


 茜が慎重な声で名を呼んだ。少しの間、沙羅は動かなかったが、茜が一歩彼女に近づいたときに、ぱっと顔を上げる。だが、その形相ぎょうそうに、充はぎょっとしてしまった。


(何だあれは……!)


 鼻の上にはしわをよせ、口からは鋭い牙が見えよだれも垂らしている。

 さらに彼女の右頬みぎほほには、稲妻いなづまの形をした赤いあざのようなものが横に二本浮き出ていて、その姿はとても人間とは思えなかった。


(これって、まずいんじゃないか……?)


 これまでも沙羅の体は妖化あやかしかしていたが、一気に進んでしまったように思う。

 妖化が進んだということは、沙羅が妖の血に負けていることを意味するのではないか――。

 実際のところは充にも分からない。妖の血を飲んだ人間の患者など、沙羅が初めてだからだ。症例もない。


 だが、あのような変化は薬屋の養子の直感として「良くない変化」であると感じた。そうなると一刻も早く、水薬の鎮静薬を飲ませなければならないだろう。


 充はそう思うものの、肝心の茜と沙羅は対峙したままで、中々その先に行動が移せないでいる。充は自分の手に己の白い息を吹きかけ、体をふるわせた。


(ううっ……寒い! これ以上ここにいるのは難しそうだな。二人とも僕のほうには気づいていないみたいだし、そっと山小屋に戻って、水薬の用意をしておこう)

 

 先ほどまでは体を動かしていたので、皐月の物陰から見ていても平気だったが、これ以上長引くと充がこごえてしまいそうだ。

 充は体をそっと山小屋のほうに向けると、できるだけ音を立てないように静かに移動し始めた。


 そのときである。急に沙羅と茜がいるほうが騒がしくなった。

 何だろうと思って振り向くと、目の前には爪を構え、口を大きく開き牙を見せている沙羅がいたのである。


 充は目を丸くし、彼女の動きを見ていた。


「あっ……」


 自分に危機がせまっているからだろうか。何もかもがゆっくりに見える。自分の動きも、沙羅がこちらに飛びかかろうとしているところも全て。


(間に合わない)


 充がそう思った瞬間だった。


「充、逃げろ!」


 茜の鋭い声が耳に響く。途端とたんに、金縛りから解放された体のように、ゆっくりに見えていた景色がいつも通りの速さに戻った。


「うわっ!」


 充が何とか体を避けると、その刹那せつな充がいた場所を沙羅が恐ろしい速さで爪のある右腕を振り下ろす。

 危なかった、とは思ったが、今はそれどころではない。


「逃げろ!」


「くっ!」


 充は茜の声に再び反応すると、すぐに立ち上がり、山小屋のほうに向かって一目散いちもくさんに駆け出した。

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