ソーダ割り

henopon

ソーダ割り

 僕が初めてバーに行ったのは二十代も半ばを過ぎた頃のことだ。どんな仕事をしても続かず、人と交わることのできない自分は度胸試しのために一人で商店街の一画にあるカウンターだけのバーに飛び込んだ。まだ早い時刻だったせいか、一人の中年マスターが暇そうにしていた。入った瞬間、帰りたくなったが暗さのせいで何とか持ち堪えて、出入口の近くのストゥールに腰を掛けた。

「何になさいますか」

 と尋ねられ、

「初めてなんです」

 と答えたとき、恥ずかしという気持ちではなく、うまくやろうとしなくてもいいんだと気づいた。

「ウィスキーのソーダ割りでも作りますか」

「お願いします」

 確か一杯六百円のような記憶がある。チャージ料金を含めて千円だった。ウィスキーすら飲んだこともない僕は震えながら口をつけた。カウンターの上にはカンテラを模した灯がぶら下がっていて、口に含んだソーダ割りは味もなく、ただほろ酔いになるだけで、すぐに店を出ることにした。話すこともなかったからだが、なぜか僕は次の日も行くことに決めていた。ここでやめれば負けだと思った。仕事が続かない僕は意地でも店に通おうと決めた。毎日同じ時刻に一杯のソーダ割りを黙って飲んで帰ることを繰り返した。マスターはウィスキーのこと以外は気さくに話しかけてくることもなく、いくつか違うウィスキーを勧めてくれた。僕は少しずつ味もわかるようになったが、他の客が来れば帰ることは変わらなかった。ただ週に三度同じ曜日にソーダ割りを飲みに通い続けた。カナディアンクラブ、ジム・ビーム、フェイマスグラウス、シーバスリーガル、そしてジェイムスンに落ち着いた。相変わらず仕事は続かず、同時に精神科にも通うようになる。眠れない、喉が詰まるような気がする、朝ひどく落ち込む。睡眠導入剤と精神安定剤、抗うつ剤を処方され、カウンセリング、グループワークに参加したが、誰とも話すこともなく家と続かない仕事場、バーで一杯だけ飲む日々が続いた。カウンセリングとグループワークは終わった後の負担がひどいことに気づいて行くことがなくなった。カウンセラーに話すとき、何度も同じ嫌なことを思い出すことになる。脳の中で嫌なことを繰り返し、それが記憶として定着する気がしたのだった。しかも医者という恵まれた人に話すことで、ますます自己嫌悪に陥る悪循環に落ちていく。ただ言われたように薬を飲み、言われたことをし、できないとなれば休み、休みが多くなると職場の人からは蔑まれ、いたたまれなくなると辞める。ただ一人でバーに行き、一杯だけ飲んで、誰とも話さずに今も過ごしている。

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