1-2 「抜山虎女」の称謂 その1【最新話】

このテーマで書いてみようと思ったのは、先日babibu様の近況ノートで出た「金瓶梅序」の中で、覇王・項羽のイメージのお話が出たことがきっかけとなっております。ですので、babibu様には言葉をお借りしてまずは御礼申し上げます。


まあつまり、ヒロイン・皓月のキャラ造形には、この英雄が関連しているのです。

長いので、2回に分けて書いてみます。


と~っても長い上に完全に自己満で書いたので、

興味の有るところだけでも拾い読みして下されば嬉しいです♪笑


【アウトライン】

(1)通り名「抜山虎女」の「抜山」の元ネタ

(2)項羽のイメージの変遷(前半)―『史記』における項羽―

   ■『史記』についてざっくりと

   ■司馬遷について

   ■『史記』「項羽本紀第七」中の項羽

  +α:「序文」と「跋文」って?


【関連作品】

■『昊国秘史〈巻一〉~元皇太女、敵国皇太子に嫁入りす~』

https://kakuyomu.jp/works/16817330669250683815

■『昊国秘史〈巻二〉~元皇太女、幽迷宮の残夢に眩惑す~』

https://kakuyomu.jp/works/16818093072992812371


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(1)「抜山虎女」の「抜山」の元ネタ


実はこの通り名、旧版では出していなかったのです。ただ、本人の名前より先に決まってはいました。


1-1で書きました通り、元は軽く読めることを何より意識して作った本作。

名と字の別も、当初は無し、でした。今でいうと、字一本で通していましたね。


(……そっちの方が良かったですかね? ただ、相手の「名」で呼ぶか「字」で呼ぶかというのが、相手との関係性を描写する上で大事な要素ともなりますので。入れたかったのです。なお、皇太子は異母兄弟たちのことは皆封号(「〇王」とか)で呼んでいますが、一人だけ時折「字」で呼んでいます(*´艸`)♪)


さて、「抜山虎女」の称謂は、「抜山」と「虎女」を組み合わせて出来ています。


「虎女」は、白虎の守護を持つ女性、という皓月のキャラ設定から決めたものです。ただ、これだけだと寂しいなーと思い。頭にもうちょっと付けたいなと。


武に秀でたパワフルなキャラクターに合いそうなのは、と考えていたときにぱっと浮かんだのが、「抜山蓋世」の四字熟語だったのです。


【抜山蓋世】山をぬき、世をおおう、力が強く、勇壮な気性のたとえ。

『漢和辞典 第四版』(長澤規矩也/三省堂による)


出典は『史記』「項羽本紀第七」中の所謂「垓下の歌」。

「四面楚歌」で知られる、項羽が、劉邦(前漢の初代皇帝)の軍に取り囲まれるシーンで詠じられたものとして登場します。


因みに、「四面楚歌」にいう「楚」というのは、項羽の故郷です。


一般に中国の方は故郷や同郷の人に対する思いというのが強いです。

(現代になって多少薄まっているようではありますが)

中でもこの項羽は、その思いがとても強かったそうです。

そして、これもまた、項羽の敗因の一つに挙げられることがあります。


それは後程確認するとして。

兎にも角にも、無双の勇武を誇りつつも、それでも破れてしまった項羽。

歴史的に見れば敗者である項羽が自らを評した「抜山蓋世」の語を、何故ヒロインの通り名に使うことにしたのか。


それについて書いていく前に、まずは項羽のイメージを確認してみましょう。



(2)項羽のイメージの変遷―『史記』における項羽―

■『史記』についてざっくりと

項羽の為人や事績を伝える書物として、ぱっと思いつくのは『史記』です。

その記述は、「項羽本紀第七」にまとまっています。『史記』の中でも特に名文として知られています。


『史記』は、世界史の授業で習うでしょうし、国語の漢文の教科書に採られていることも多いので、ご存知の方も多いかと思います。が、その全体を見たことがある方は少ないのではないでしょうか? 

教科書に採られるところだと、後半の「鴻門の会」か、終盤の「四面楚歌」から「項王自刎」の辺りでしょうか。


色々見方はありますが、以下、『新釈漢文大系38 史記一(本紀)』(吉田賢抗/明治書院/昭和48年初版)の説明を元に、『史記』と著者の司馬遷について述べます。


前漢の司馬遷の書いた『史記』は、中国正史の始まりの書物であり、内容も形式も、その後の史書の範とされるものです。


その形式を「紀伝体」といいます。

後漢の班固が『漢書』を書く際に『史記』形式に従ってからこの「紀伝体」が正史の基本形式となりました。

司馬遷が著したのは、「太史公自序」に、「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」とあり、「本紀」と「列伝」から一文字ずつとって「紀伝体」と称しています。


つまり、この「本紀」と「列伝」がその中核ということでしょう。

読んで面白いのも、です。


少し内容説明をします。


【本紀】

古代中国の歴代王朝の英帝と暴君を中心とした権威者の民族統率の経緯を綴った編年史。「三皇本紀」は唐の司馬貞が補ったもので番外。また、「孝武本紀第十二」は、当初司馬遷が書いていた。しかし、武帝の過誤を隠すことなく記せられていたため、その怒りにふれ削り去られた。その後、褚少孫が八書の「封禅書」の武帝の部分を本紀にあてたという。(本紀だけでなく、表や書、列伝にも全編または一部削られているのがあるそう)


【表】

夏殷周三代以来の帝王諸侯と将相名臣たちの活動の年表。


【書】

礼楽・刑政・天文・貨殖に関する法制経済史。他書では「志」と称する。


【世家】

本紀に記された帝王をとりまく王侯たちの列国史。なお、儒家の祖・孔子はここに記載されている。


【列伝】

本紀と世家で何らかの関係をもって栄枯盛衰の世相を織りなして活躍した幾多の人間像の活写。



■司馬遷について

司馬遷は、字を子長といいます。官名で「太史公」と呼ばれる事も。

太史令(漢室の記録を司る官)・司馬談の子として、景帝の頃に生まれました。代々史官の家柄にあったよう。


この司馬遷は『史記』の作成に十四年を費やしています。

それだけの年月を費やして書き上げた、執筆への熱意を支えたものとしては、主に二つが伝えられています。


その➊:太史令であった亡き父との約束

 武帝が行った大規模な封禅の儀に際し、父の司馬談は記録を司る太史令でありながらその儀についていくことができなかった。失意の父は遷に、「自分が論著しようとして果たせなかったこと(修史)を忘れるな」と言って死した。


その❷:腐刑(宮刑)事件

 匈奴に下った友人の李陵を弁護(たった五千の歩兵で八万の匈奴の騎馬兵が相手だったとか)して武帝の怒りにふれて獄につながれ、宮刑に処せられた。自殺を考えたこともあった。けれども父の遺命(➊)があり、「修史の完遂こそ処刑の憤懣に報復すること」と思い至り、以後その著述に没頭するように。所謂「発憤著書」とされる所以ですね。



■『史記』「項羽本紀第七」中の項羽

項羽本紀は、藤田勝久氏「『史記』項羽本紀と秦楚之際月表―秦末における楚・漢の歴史評價―」の別を参考に整理しますと、


 Ⅰ 項羽の人柄に関するもの~蜂起

 Ⅱ 楚の建国

 Ⅲ 鴻門の会

 Ⅳ 義帝擁立~四面楚歌~死

そして、「太史公曰」以降で、語られたエピソードに関する見解。


という構成を取っています。

 

以下、上記の論文も参考に『史記』より重要なところを拾い上げてみます。


因みに、〔訳〕は私訳です。ちょっとかたい所もありますが許してください。

何しろ『史記』、原文は中華書局本と會注考証があるのですが、訳書は先の新釈漢文大系の一巻しか持っておらず。「項羽本紀」入っているの、二巻でした(笑)


  Ⅰ 項羽の人柄に関するもの~蜂起

【出身及び人柄】

〔訳〕―――――――――――――――

  項籍は、下相の人。字は羽。初めて挙兵したとき、年は二十四であった。彼の末の叔父は項梁といい、梁の父は楚の将軍・項燕で、秦の将軍・王翦に殺された人物である。項氏は代々楚の将軍で、項の地に封ぜられた、それ故に項氏を姓とする。


  項籍は若い頃、学問をしたが身にならず、それをやめて剣法を学んでもこれまた身にならなかった。そこで叔父の項梁が項籍(羽)を叱った。すると項籍は「字は自分の姓名が書ければ十分。剣法は一人の敵を相手にできるだけで、学ぶに値しない。私は万人を相手どる方法を学びたいのです」と。そこで項梁は項籍に兵法を教えたところ、項籍はおおいに喜び、その大体のところを学んだが、また究めるところまではしなかった。


  秦の始皇帝が會稽に遊び、浙江を渡った際、項梁と籍は一緒にこれをみた。籍が言うことには「彼に取って変わりたいものだ」と。項梁はその口をおおって言うことには、「みだりなことを言うな、一族皆殺しになるぞ!」と。一方で項梁はこれによって籍を奇とした。籍は身の丈およそ八尺(184㎝)余りで力は鼎を持ち上げることができるほどであり、才気は人より優れていたため、吳中の子弟は皆、籍に憚っていた。

―――――――――――――――――――


いかがでしょう? 項羽の為人、これだけでも結構窺える描写が見られますね。

この後、陳勝・呉広の乱に際し、項梁・項羽の挙兵が述べられます。

会稽守である殷頭の首を項羽が斬り、その部下百名近くを殺して、項梁が会稽の守となって八千の兵を得ます。項羽は副将となり。更にその後、兵力は六、七万に増え。後に沛公(劉邦)が項梁と合流するまでがⅠとなります。そして、初め「項籍」と姓名で呼ばれていた項羽が「項羽」と、字での表記に変わります。



   Ⅱ 楚の建国

 この段は、范増の合流に始まり、項羽と沛公の進軍、項梁の死から鴻門の会の前までです。


【参謀登場】

〔訳〕―――――――――――――――――

  居鄛の人 范增はん・ぞう、年七十、家にあって仕えず、奇計を好んだ。

――――――――――――――――――――


この人物のすすめで、項梁は楚の懐王の孫である心という人物を、民間で人に雇われ、羊を牧していたのを探し求めて楚の懐王とします。(紀元前208年)


「懐王」&「懐王」。紛らわしいですね。

それにしても、牧羊から楚王へ。これまた、人生の変転の凄まじいことですね。


ところで、七十才にしてこう、仕官せずにいた人が、新しく世に出ていこうっていうのは、どんな思いだったのなのだろうかと思ったりします。現代でも高齢の域ですが、当時なら尚更でしょう。

 この范増は、項羽からは「亜父(父に次ぐ)」と呼ばれて敬愛されます。


【項梁の死】

項羽と沛公が陳留をせめているころ、項梁が秦の章邯と戦い、戦死。

楚王は項梁の敗北を予言した宋義を上将軍とて項羽をその次将として軍を編成し、これを「卿子冠軍」と名付けます。


〔訳〕――――――――――――――――

  安陽に行くに至り、四十六日もそこに留まって進むことがない。そこで項羽が言うことに、「聞くところでは秦軍は趙王を鉅鹿で取り囲んでおり、疾やかに兵を率いて河を渡り、楚がその外を撃てば、趙は內応して秦軍は破れるだろう」と。

―――――――――――――――――――


しかし、宋義は「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」として、項羽の提案を退けます。その上で、


〔訳〕――――――――――――――――

  軍中に命令して「虎のように猛々しく、羊のように命令に従わず、狼の様に貪欲な者、狂暴で使命に従わない者は皆斬る」と。

―――――――――――――――――――


という命令を出します。それは、明らかに項羽を当てこすったものでした。


【項羽、諸侯の上将軍へ】

宋義は斉の宰相に就任する息子を送って無塩まで行って酒宴を催します。時に大気は冷え込み、大雨が降り、兵は皆、飢え凍えていました。


〔訳〕――――――――――――――――

  項羽がいうことには、「今(餓え凍えた)士卒をあわれまずに私情に溺れ(子の為に宴会を催したこと)るとは、社稷の臣ではない」と。項羽は朝、上將軍宋義にその帳中で宋義の頭を斬り、軍中に令を出して言うことには「宋義は齊と謀って楚に反逆したため、楚王は密かに私に宋義を誅殺させた」と。

―――――――――――――――――――


項羽を恐れた将達は、逆らわず、項羽を立てて「假上將軍」とし、宋義の子を追わせ、齊で追いついてこれを殺します。そして、報告を受けた楚王は項羽を上将軍とし、諸将を項羽に従わせました。その後、秦軍を大いに破って項羽は諸侯の上将軍となります。ここで楚の兵士は一人で十人の敵に当たり、楚兵の挙げる声は天を動かさんばかり。他に趙の救援に当たっていた十数もの諸侯の兵は手を出す余地もなく、諸侯の将軍はみな膝を地に擦り付けながら進んで恐れつつしみ、項羽を仰ぎ見ることの出来る者はありませんでした。

楚兵、そしてそれを率いる項羽の威勢が窺えます。


このとき降伏した20万の秦兵を先鋒に新安城を攻めさせたものの、暴動の気配を察知。一部を残し、20万の秦兵を生き埋めにして殺します。そして、項羽は秦の地を平定しながら進み、彼の函谷関に到着します。しかし、すでに沛公の軍が関を守っており、入ることができません。おまけに秦の都・咸陽をすでに沛公が破ったと聞き、項羽は激怒。沛公を殺そうとします。


というのも、楚王が、「先に関中に入った者を関中王とする」と宣言していたからです。


慌てた沛公は項羽のおじである項伯に取りなしを頼み、「明朝 将軍に詫びに来られよ」と言われ、赴いたのが鴻門の会です。


この前後から、項羽の呼び方は「項王」となります。



   Ⅲ 鴻門の会

ここはあまりに有名なのですが、詳細に語り出すととても字数がとんでもないので簡潔に記します。ここだけでもとっても読み応えがあるので、もし読んだことがない方は、是非ご一読を。


参考に、ネットで読めるところを挙げておきます。登場人物も多くてちょっと大変かもしれませんが。手に汗握る緊迫のシーンです!


(https://shingakunet.com/journal/exam/20210115000001/)


【ざっくりいうと】

翌朝、謝罪に訪れた沛公を留め、項羽は宴会を催します。

范増は目配せをし、玉玦を挙げて沛公を殺す決心を促すこと再三であったが、項羽は応じません。

そこで、范増は項羽の従弟の項荘を呼び、

「項王は思いやりがあって人を敬う性質だから(沛公を討てない)、お前が入って長寿の祝いをし、それが終わったら剣舞を披露し、それに乗じて沛公を討て」と命じます。


すると、企みに気付いた項伯(劉邦に項羽への取りなしを頼まれた人)も立ち上がってそれを防ぐ。

そこへ乱入した樊噲らの活躍で、無事沛公は宴から逃げ出すことに成功……というお話。


まんまと逃げられたことを知った范増は激怒し、沛公が贈ってよこした玉の盃を剣で突き壊し、「ああ、この豎子青二才(=暗に項羽を指す)め!! ともに謀るに足らず!! 項王の天下を奪う者は必ず沛公だ」と悔しがるのでした。


部下の進言を退けて決定的な失敗をした項羽と、部下の進言を素直に受けて危険な命の綱渡りを制した沛公の違いが最も際立つシーンです。


その後、項羽は咸陽を屠り、秦の降王を殺し、秦の宮室を焼き払い、その火は何ヶ月も消えることが無かったと言います。


天下の覇者たるには関中の地を手に入れるのがよいと勧めるひともありましたが、項羽は故郷の楚を思うて東に帰ろうとします。また、「楚人」を揶揄する言を聞いてその者を釜ゆでの刑にするなど、故郷への思いの強いことが語られ、「四面楚歌」への布石となっていきます。



  Ⅳ 義帝擁立~四面楚歌~死


項羽は、楚の懐王を尊んで義帝とし、沛公を漢王として辺境に追いやります。その他、諸将を侯や王としますが、ここでの杜撰な論功行賞が、諸侯の不満を膨らませる原因となります。


そして、義帝を遷都と称して移動させ、その群臣に叛く気配を察知すると、人に命じて義帝を殺してしまいます。これは、項羽を討つ決定的な名分を与えることになってしまいます。


そこで檄を発した漢王に応じて集まった56万の諸侯の兵を、項羽の兵3万が打ち倒し、なんと敗走させてしまいます。この時討たれた漢軍は「十餘萬」といいます。その上、漢王(劉邦)の父や妻(呂后)は項羽の捕虜となってしまいます。これが「彭城の戦い」です(前205年4月)。


そこで、一時漢王についた侯も、また項羽につきます。

項羽に追い込まれ、困窮した漢王(滎陽の戦い,前204年4月)は、范増を疑わせるように仕向け、結果范増は項羽のもとを離れ、その途中で死去します。


その後も項羽と劉邦は睨み合ったり、劉邦が項羽に射られて敗走したり、なんだかんだあって、戦いは続いていき、遂に垓下の戦いに。


【垓下の戦い】

〔訳〕――――――――――――――

  項王の軍は垓下で城壁の内に立てこもった。兵は少なく食料も尽きた。漢の軍と諸侯の兵が、幾重にもこれを取り囲んだ。夜、漢軍が四方すべて楚の歌を歌うのを聞き、項王がそこでたいそう驚いて言うことには、「漢軍はすっかり楚の地を手に入れてしまったのか。なんと楚の人が多いことか。」と。


  項王はそこで夜に起きて陣営の張り幕の中で酒を飲んだ。美しい女性がおり、名を虞という。常に寵愛されて項羽に付き従っていた。駿馬がおり、名は騅という。項羽は常にこれに騎乗していた。そこで項王は哀しみにくれながら歌い、気持ちが昂ぶり、自ら詩を作って歌うことには、


  我が力は山を引き抜くほどであり、

  我が気力は世を覆い尽くすほどである。

  しかるに今、時運に恵まれず、

  愛馬の騅も進もうとしない。

  騅が進まないのをどうしたらよいか。

  虞よ、虞よ、お前をどうしたらよいか。


と。

数回歌うと、虞美人がこれにこたえて詩を歌った。項王は幾筋も涙を流した。側近たちは皆泣き、顔を上げて(項王を)見ることができる者はいなかった。

―――――――――――――――――


ここで詠じたのが、先に挙げた垓下の歌です。


その後項羽は800人を連れて囲みを破ったものの、漢軍に気付かれて追われ、しまいには28騎まで数を減らしていました。対して漢軍の追撃は数千人。どうあっても逃げられないと悟った項羽は闘う決意を固め、配下達に語ります。


〔訳〕―――――――――――――――――

  今日はもとより死を決している。願わくは、諸君のために決戦を行い、必ず三度勝って、諸君のために囲みを壊し、敵将を斬って、敵の旗を倒し、諸君に天が私を滅ぼすのであり、戦いの罪ではないことを証明しよう。

――――――――――――――――――――


そこで戦い、項羽はなお敵兵「数十百人」を斬り殺し、囲みを突破したところ失ったのは2騎のみであったと言います。そして、項羽が烏江を渡ろうとすると、そこの渡し場の長が、船を出す準備をして待っており、今一度江東に逃げて再起を図るように提案します。

すると項羽は笑って答えた。


〔訳〕――――――――――――――――

  「天が私を滅ぼそうとしているのに、どうして渡ろうか(いや、渡れない)。そのうえ私はかつて江東の若者八千人とともに、烏江を渡って西に進軍した。今、一人の(生きて)帰る者もいない。たとえ江東の年長者たちが憐れんで私を王としても、私はどの面下げて彼らに会えるだろうか。いや、会えはしまい。たとえ彼らが何も言わなくても、私はどうして心のうちに恥じないだろうか(いや、恥じる)」と。


  そこで宿場の長に向かって言うことには、「私は貴公が優れた人物であることを知っている。私は五年この馬に騎乗し、当たる所敵無しであった。以前に一日で千里を走ったこともある。この馬を殺すには忍びない。(そこでこの馬を)貴公に授けよう」と。


  そこで騎馬兵に全員馬を下りて徒歩で行かせ、刀剣などの武器を持って接近戦を行わせた。項王一人が殺した漢の兵は、数百人であった。項王の身もまた十箇所あまりの傷を負った。振り返って漢軍の騎司馬の呂馬童を見かけた。(項王が)言うことには、「お前は私の旧友ではないか」と。馬童は項王から顔を背け、王翳に指し示して言うことには、「この者が項王だ」と。項王がそこで言うことには、「私は漢軍が私の首に賞金を懸けて捜し求めていると聞いている。私がお前のために恩恵を施してやろう」と。(項王は)そこで自ら首を刎ねて死んだ。


 王翳がその頭を取ると、他の騎馬兵達は、互いに踏みあって項王の遺体を争い、死傷者も十数名を数えた。最後に郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝、楊武がそれぞれその一体を得、五人でともにその体を合わせると、皆項王の死体であった。

―――――――――――――――――――


項羽は、懐王に始めて封じられた魯公としての礼で葬られました。


漢王は項羽の葬儀で涙を流して立ち去ったといいます。一方、項羽の一族の者は列侯に封じられ、劉姓を賜った、と締めくくられています。


【司馬遷の評価】

以上のエピソードを通しての、ここからは、司馬遷の評価です。


〔訳〕―――――――――――――――――

  私は周生から、「舜の目は重瞳子(一つの眼球に二つの瞳)」であり、また「項羽もまた重瞳子」であったと聞いた。項羽は舜の末裔だったのであろうか。なんとその興こることの速やかなことであったろうか。


  そもそも秦がその政を失い、陳涉が始めて兵を起こし、豪傑が並び起こってたがいに争ったことは、数えきれぬほどであった。それなのに項羽は尺寸ほど(の土地)も持たず,勢いに乗じて隴畝の中から身を起こし、三年で遂に五諸侯を率いて秦を滅ぼし、天下を分けて王侯を封じ、政は項羽によって出で、号して「霸王」とした。位は全うしなかったが、近古以来 未だ嘗てこのようなことはなかった。


 項羽が(治めるのにつごうのいい)関中の地に背いて(故郷の)楚をおもい、義帝を放逐して自立すると、王侯たちが己に叛意を抱くのを恨んだが、これは間違いであろう。


 自らの手柄をたのみ,自分よがりな狭量な知識を振るい、過去に学ばず、霸王の業といい、武力による征伐で天下を経営しようとすること五年、ついに国を滅ぼし、身は東城に死し、それでもなおさとらず、自らせめることもしないのは過ちである。「天の我を亡ぼすにして、戦いの罪に非ざるなり」とはなんとあやまりのはなはだしいことであろうか。

 ―――――――――――――――――――


■「重瞳子」と、「聖人異形説」から話を持ってきていますね。

偉業をなす人物は、見かけも普通とは違うっていう発想。面白いですよね。

一つの眼に瞳が二つってやつですが。

因みに、孔子は、めっちゃ背が高くて。頭が特徴的な形だったとか。


■土地も持たない民間人に生まれながら、たった三年で秦を滅ぼした功績を「古今に未だ類をみない」としながらも、その行いについては批判の眼が向けられています。

特に、自分の失敗を認めず、「天が我を滅ぼすのだ」と言っているという点については、過ちも甚だしいと断じています。


■項羽が楚の地に拘りがあったのは、関中を手に入れる機会もあったのに、捨てて故郷にもどったりとか、楚人を馬鹿にされて相手を釜ゆでにしたとか、死に際しても、せめてとばかりに同郷人(呂馬童)の為に身を捨てて自刎したとかあります。四面「楚」歌のシーンは、そんな故郷への想いに溢れる項羽が、故郷が皆敵に回ったのかと絶望するシーンでもあります。



あー。

思ったより骨が折れた(本音)。

お付き合い下さり、ありがとうございます。


■+α「序文」「跋文ばつぶん」って?

漢文には、「序文」や「跋文」なる文章があります。

『史記會注考証』にも、後代の学者によって、沢山付けられています。また、「太史公自序」ということで、司馬遷本人が書いたものもあります。

「序文」「跋文」とは、文体の一種です。


【序文】

「序」は、文体の名称であり、また「序文」、「序言」などとも称する。作者が作品の主旨や、著作の過程などを述べるのが一般的である。晋の黄文の「三都賦」序文のように、他人が書いた作品の紹介や解説も序文と呼ばれる。漢代以前は、序文は“巻末”にあり、後代は“巻頭”に置かれるように。なお「太史公自序」も末尾に置かれている。


【跋文】

文体の一種。書籍や文章の最後に書かれる。多くは序文同様に内容の紹介や制作過程について述べる。


まあつまり、その作品がどんなことが書いてあるのか。どんな経緯で書かれたのか。その評価などが書かれていることが多いので、読む時の道しるべにもなるものです。


因みに、それを利用して、バッドエンドになることを先に宣言したのが、拙作『碧血双傳』の「楊名臣序」と「飄冷光自序」です。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885876821

メインメンバーが皆志半ばで死んだり行方不明になったりするけど、

それでも良い人だけ読んでね、って感じで付けておきました。


以上です!

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