遅効性デッドライン

稲井田そう

第1話



「どういうことですか! 椙成すぎなり先生! 天井が抜けるなんてあっていい訳ないでしょう! 何が起きたんですか一体!?」

「すみません、生徒が虫を退治しようとしたらしくて」

「それであんな崩落事故現場みたいになるわけないでしょう!! 大穴ですよ? 下手をすれば怪我人が出ている所だったんですからね!?」

「すみません、教頭……」


 麗らかな青い空に、赤い紅葉が浮かぶように舞い落ちる本日。私、椙成琥珀すぎなりこはくは教頭に思い切り怒鳴られていた。


 というのも私が顧問をする美術部の男子生徒が天井に絵を何十枚もしまいこみ、その結果重さに耐えきれなくなった天井が崩落し、大事故一歩手前の惨状を引き起こしたからだ。


 幸い崩落したのは天井の一部だけで、元々使用されていない教室であったから誰も怪我をすることはなかった。だがしかし、問題が全くないわけでもない。男子生徒は、自分のクラスの女子生徒と自分との子供の絵を描いていた。それも、何十枚も。


 娘、息子の成長記録のように何十枚も描いており、それを指摘しても天井を見て「うわ、ここが駄目になったか」とさして反省もせずに言っていたから、多分まだ隠し持っている。完全なる狂気の犯行としか思えない。頭が痛い。想い合っているのであればまだしも、想い合っていないなら関係各所に協力を求める必要があるだろう。


「しっかり! 指導してくださいね。今後はこのようなことが、絶対に! 起きないように! 指導してください」

「はい……」

「じゃあもう行っていいです。私はこれから業者からの連絡を待たなくてはいけませんから。くれぐれも頼みますよ!」

「はい、すみませんでした。失礼します」


 職員室を出て扉を閉じる。どっと疲れが出て来た。大学を卒業し教師になって四年。この学校に体育教師として赴任し、美術部の顧問になったものの、私はまず絵が描けない。

 学生時代の美術は無遅刻無欠席をして、提出課題は全て期日に出していたのにも関わらず五段階評定で二だった。そんな私が美術部の顧問になってしまい、最も迷惑を被るのは生徒たちだ。


 だから生徒たちがのびのびと部活が出来るよう、何かあった時「椙成は美術の話が通じないから相談ができない」なんて思われないよう勉強して、理解をしようと努めてきたつもりだった。


 しかし、今回ばかりはどうにも理解が難しい。というか、本当に理解不能だ。どうしていいか分からない。何だ同じクラスの女子生徒と自分の子供を描くなんて。受け止めきれない。


「あ、椙成せんせーじゃん!」

「おー」


 廊下を歩いていると生徒たちが集まって外を見ていた。不審者か? 不審者なら武器を持って制圧しに行かねばと窓の外を見ても、不審者らしき人物はとくに見当たらない。


「どうしたんだ、熱心に窓なんか見て、黄昏てたのか?」

「ちっがうよ! すーごいかっこいい人いてさあ、この子がこっから声かけたら、教育実習に来てるって言ってて」

「教育実習?」

「そうだよ! 本当かっこいいの!」


 朝の職員会議で教育実習生が来ることは聞いていた。私が担当だと指名付きで。でもそれは明日じゃなかったか? 何かの手続きでもあっただろうか。


「その教育実習生どこ行った?」

「分かんない、あっちのほう?」

「よし、行ってくる。ありがとな!」


 生徒たちが指で示していた方向へ駆けると、この学校の誰でもない男の背中が見えた。そのまま追いかけていくと男は振り返る。


「あ、先生!」

遠塚とおづか……」


 遠塚統希とおづかとうきは満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。遠塚は、私がこの学校で教育実習をしていた時、担当のクラスにいた。私の初めての教え子とも言える。当時は屋上で一人寂しくパンを食ってるような奴だったが、まさかこんなに元気になるとは。


「どうしたんだ? 学校に遊びに来たのか?」

「違いますよ、俺この学校に教育実習に来たんです」

「じゃあ、遠塚が教育実習生か?」

「はい、先生がこの学校にいるって聞いて希望を出したんです」


 遠塚は何かを期待する目でこちらを見た。私がいる高校と聞いて実習希望を出すとは。嬉しいものがある。


「そうかそうか、嬉しいなあ! 私もまた教え子に会えてうれしいよ!」


 ばしっと背中を叩くと遠塚の目は冷えた。けれどそれも一瞬で笑顔に変わった。私は戸惑いながらも、奴に来校の理由を問うことにした。


「それで今日は説明か何かを聞きに来たのか?」

「ええ。それと懐かしくて、見学も兼ねました。よければどうです? 先生も一緒に」

「いいぞ、職員会議も入ってないし、部活は解散にしたしな」

「えっ……先生なんの部活の顧問をしてるんですか」

「美術部だ!」


 遠塚は微妙な顔をした。こいつは私が絵を描けないことを知っている。前に教室で授業をした時クマを描いたら、わざわざ授業が終わった時に寄って来て、死んで羽をもがれた蝶だと思ったと言った。私の自信作のクマを。


「遠塚、お前が何を言いたいのかは分かるぞ。ただな。絵は描けなくとも部活の顧問になることは出来るんだよ」

「そうですか?」

「ほら行くぞ、校内見て回るんだろ」

「はい」


 私がさっさと歩みを進めると、遠塚は後ろを追って来て隣に並ぶ。何だか昔と逆で笑ってしまうと、また奴は変な顔をした。


「何ですか?」

「いや、昔と逆だよな、昔は遠塚を私が追っていたのに」


 遠塚はクラスの注目を一身に浴びる生徒だった。でもある程度教室にいると、いつの間にか屋上に行ったりふらりとどこかへ消えていく。クラスで明るく振る舞っているけど根は暗い、そんな奴だった。


 そして一人でどこかに行く時の目は、誰かに追ってほしい、助けを求めている目をしていたのだ。だから私は追った。当時の遠塚は放っておいたらベランダから飛び降りるんじゃないかと思うような危うさがあった。


 クラスを受け持ってる状態で一人を優先するのは良くない、全員をきちんと見なければいけない。だけど私は教育実習生。こいつが昼を食べている時に何回も突撃した。教育実習中、私はこいつの背中をいつだって追っていた。


「あの頃だって大して変わりませんよ」

「いやお前最初のほう私のこと撒いてただろ」

「ストーカーっぽかったですよね先生。今だったら、ストーカー教師ってネットにあげられて炎上ですよ」

「安心しろ、遠塚。お前にしかしない」

「え」

「あの時のお前、放っておいたらすぐそこのベランダから飛び降りそうな感じあっただろ。でも今そんな危ない生徒うちにはいない……天井を崩落させる生徒はいるけどな……」


 本当にどうしよう。天井という隠し場所が消えたところであいつが絵を描くのをやめるわけがない。となると新しい場所を探してやるしかない。でもそんな場所は校舎のどこにもないし、無いからあいつも天井に隠したのだろう。 


「俺には先生しかいませんよ」

「? そうか!」 


 まぁ、あの頃遠塚を追ってたのは私くらいだった。結局よく分からん間に元気になって、しばらくして私の教育実習の期間が終わった。


 だから終わった時、遠塚が元気になって良かったと安心したことは、しっかりとよく覚えている。


「しっかし、私は嬉しいよ。お前が教育実習生としてこの高校に来てくれて。これから楽しくなるな」

「そうですね。これからはずっとよろしくお願いしますね」


 笑いながらまた遠塚の背を叩く。奴も笑ってるけれど、その目はどことなく底冷えしているように見えて、また心の中の違和感は膨らんでいった。



「かんぱーい!」


 遠塚が正式に教育実習生として学校に来て、三日。今日は居酒屋で歓迎会だ。


「遠塚さんって、椙成さんの教え子だったって本当ですか?」

「そうですよ」

「へえー!」


 隣にいる遠塚は方々からの質問に淡々と答えていく。もう皆酒が回っているのか、奴の素っ気ない返事ですら盛り上がっていた。


「その頃の椙成さんは、ずっと俺のこと気にかけてくれて、それで何度も救われたんです」

「え、じゃあ教育実習生になったのも椙成さんの影響ですか?」

「はい。絶対に達成したい、目標があって」


 遠塚が目を細めてこちらを見ると、周りの先生たちはさらに盛り上がる。何なんだ今日は。思えば皆が奴を見る目が輝いている気がする。特に女性陣。なんだろ。物珍しいのか?


 それにしても、遠塚に椙成さんって呼ばれることは変な感じだ。先生でずっと定着してたし。でももしかしたら、後輩になるかもしれないのか……。


「何かお前にさん付けで呼ばれるとくすぐったいな」

「……そうですか?」

「ああ、何か教え子にさん付けで呼ばれるとむずむずするな」


 そう言うと遠塚は私を睨んだ後、溜息をついて一気にジョッキを煽ろうとする。私は慌てて止めた。


「遠塚、お前気をつけろよ、一気飲みなんて絶対やっちゃだめだ」


 先輩風を吹かせている感じになってしまうが、とても大事なことだ。一気飲みなんてさせてたまるか。


「酒での失敗はな、本性が出るんだ。酒が人を駄目にするみたいに言われてるがアレは違うぞ」

「はぁ」

「酒で本性が出るんだ。理性が抜けて、獣みたいな本物の感情が出てくる。そういうのは不特定多数の人がいるところで出したらとても危ない」

「先生は何か失敗した経験があるんですか?」

「いーや? 私の家は代々弱いんだよ。だから私は飲まない。だから皆には内緒だけどな、これはウーロンハイではなくウーロン茶だ」


 私の家は代々酒に弱い家だ。そして必ず何かしらのアクシデントにより酒を摂取して失敗をする恐ろしい血筋だ。


「私の父親はな、酒粕漬けで酔って電柱上って骨折したんだ。爺さんは全裸で畑に突っ込んだ。そんな姿を見て育てば飲む気にはなれない。お前にも飲むなとは言わないが一気飲みはやめろ、すぐ酔いが回る」

「ふぅん……」

「まぁ、ここで無理に勧められても安心しろ。先生がちゃーんと守ってやるから」


 ばしっと遠塚の背を叩くと奴の目がまた冷えた。不思議と灯辺の絵を見た時と同じ悪寒が走る。


「遠塚?」

「……ありがとうございます。でも、先生も気を付けてくださいね。自分で気を付けていても、どうにもならないことなんて沢山あるんですから」

「お、おう」


 笑う遠塚の声は怯むほどに昏く、こちらを蝕むようだ。おかしい。四年前はあんなに聴いていたはずなのに。


「それよりその偽装ウーロンハイ、なくなりそうじゃないですか。何頼みます?」

「ああ、ちょっとトイレ行ってくるからその後に頼むよ」

「じゃあ俺頼んでおきますよ、どれにします?」


 遠塚にメニューを差し出され選んでいく。もう皆酔いが回ってきているし、オレンジジュースを頼んでもバレなさそうだ。


「じゃあオレンジジュース」


 そう言うと遠塚は少し吹き出す様に笑う。無礼が過ぎる。


「何だよ、いいだろ美味しいんだから」

「ええ、美味しいですよね。子供は皆好きですもんね」

「お前なあ……! ……くれぐれも皆にバレないようにしてくれよ。オレンジジュース一つ! とか絶対するなよ」

「安心してください。上手くやりますよ、上手く、見つからないように、ね?」


 遠塚は、悪戯をする子供のように笑う。私は「頼んだぞー」と軽い調子で席を立ち、手洗いへと向かったのだった。





「ただいまー……え?」


 トイレから戻ると、たったの五分くらいしか席を外していなかったのに、他の先生たちはびっくりするくらい酔っぱらっていた。酒が強い教頭ですら胡乱な瞳で虚空を見上げている。一方遠塚は俯きがちに口をつけることなくグラスをゆすっていた。


「どうした遠塚、大丈夫だったか? 何か無理に飲まされたりしてないか、大丈夫か?」

「あはは。俺は大丈夫ですよ。ただ皆さん盛り上がって酒のペース上がってたみたいで、こんな感じに」

「そうか……まぁ車で来てる先生はいないからな、大丈夫だろ」


 とはいえ、全員がこんなに酔っているのは珍しい。主任も机に突っ伏しているし、他の先生も意識があっても胡乱に笑っていたり、泣きながらぶつぶつ言っているかしかない。


「遠塚、何か酒勧められたりしてないだろうな、何か顔色悪くないか? 暗いような……」

「いえ、それよりオレンジジュース、ぬるくなっちゃいますよ、ほら、飲んでください」


 ずいっと目の前に差し出されたオレンジ色のジュース。躊躇わずそのまま一口飲むと、何だかいつもより苦みを感じた。でも酒じゃない。この店のオレンジジュースはこんなにも味が濃かっただろうか。


「先生? どうしました?」

「いや、何か思ったより濃縮還元って味がする」

「そうですか、良かったですね」

「お前も飲むか? うまいぞ」

「いいえ、俺はまだまだしなきゃいけないことがあるので、そんな強いもの飲めませんよ」

「そうか?」


 またオレンジジュースを一口飲む。遠塚はこっちを愉快そうに見ている。つられて笑うと、少しだけ悲し気な表情に変わっていった。



「ん……」


 がんがんと痛む頭に手をあてる。瞼が重い。何とかして目を開けると、朝日が天井を照らしていた。だけど視界に映るのはただただ見知らぬ天井で、私は慌てて体を起こそうとする。


「う、えつ」


 飛び起きたつもりだったのに、何故かベッドらしきスプリングがただ軋んだだけだった。謎の圧迫を感じ掛け布団をはげば、お腹のあたりに私じゃない人間の腕がしっかりと巻き付いている。確かに背中も温い。布団由来じゃない。誰かが後ろで眠っている。私は誰かに抱きしめられて横になっている……?


「……は?」


 自分の身に起きたことながら、「は?」としか言いようがない。だって本当に記憶がない。昨晩私は飲み会に出席したが、酒を一滴も口にしていない。遠塚がおかしなことにならないよう目を光らせていた。にも関わらず私はいかにも酒の過ちで一夜の過ちを犯したかのような状況に陥っている。


 もっといえば、素肌に布団の感触が伝わる―ーつまるところ服が無いところもさっぱり意味が分からない。何これ。


 昨夜の記憶を鮮明に思い出そうとしても、何も思い出せない。ウーロン茶を飲んで、その後オレンジジュースを飲んだ。


 だから絶対に飲んではいない。


 けれど昨夜の記憶の範囲では、疲れによって徐々に瞼が重たくなり、ぼんやりしていたことはあったような気がする。


「……何も無かった」


 無かったことにしよう。それしかない。代々酒が弱く、一口飲んでしまえばすぐに酔ってしまう私の家系は、酒は飲んでも飲まれるなという教訓を徹底していた。地域の集まりで酒粕漬けを一口食べて泥酔する父の背中を見て、私はああはならないと誓っていたはずだ。


 にもかかわらず二十歳になり、それからわずか六年でその誓いが破られるとは。


 こうなってしまったらすることは一つだ。さっさと着替えてここから立ち去る。それしかない。何者かの腕から逃れ、早速下着を探す。


「あ、おはようございます……」


 かすれる声に振り返ると、気怠げにベッドから起き上がったのは、紛れも無い遠塚だった。それも服を着ていない。上半身裸で。


「と、遠塚、お、お前……」

「琥珀さん。もういつも通りの調子に戻ってる。昨日はあんなに甘えただったのに」


 遠塚は私の腕を引っ張ると、ベッドに引きずり込んできた。愛おしむように私を抱き寄せ、私の額に口づける姿はあの頃の面影なんて微塵もない。奴は私の額の髪をすくい、顔を寄せてくる。


「お、おい何しようとして……」

「何って、キスに決まってるじゃないですか? 昨日の夜散々したのに、まだ照れてるんですか?」

「昨日の、夜……?」

「俺、琥珀さんの気持ちを聞いた時は驚きましたが、ちゃんと嬉しかったんですよ? 昨晩は不甲斐ないばかりにすみません。かっこ悪いところ見せちゃいましたよね。俺、こういうこと初めてで。でも、先生も初めてですもんね。俺、先生の初めてもらえて嬉しいです、すごくすごく嬉しい……」


 遠塚が私のお腹を撫でた。確かに私には経験がない。学生時代はスポーツに打ち込み、大学では教師になるべく邁進していた。だから男と手すら握ったこともない。でも、それでいいとすら思っていた。


 それなのに、いつの間に私は教え子に手を出すようなクズに落ちぶれてしまったのか。


「まだ、学校まで時間ありますね、俺シャワーの準備してきますから、先生はまだゆっくりしててください。身体、辛いでしょうし」

「ま、待つんだ遠塚……」

「はは。おねだりですか? 駄目ですよ。今日学校あるんですから」


 遠塚は目を細めると、さっとベッドを下り部屋から去っていく。私はその姿に愕然とした。


「うそだろ」


 奴は腰にタオルを巻いていた。パンツを履いていたならタオルを巻く必要は無い。ということは、確実に大事故が起きている。


「おわりだ……」


 私は目の前が真っ暗になり、ただただベッドの上で項垂れていた。



 あの人が教育実習の期間を終えた日のことを、俺は一生忘れることが出来ないだろう。


「先生、俺……先生のことが、好きなんです」

「あはは! 私も遠塚のこと大好きだぞ!」


 そう言って残酷に笑うあの人の顔。眩むように熱くて、憎々しいほどに空が青かった、あの日。


「違います、先生、俺……」

「椙成ちゃーん! 大変! 部長と委員長が取っ組み合い始めてる!」

「今行くー! 悪いな遠塚、行ってくる!」


 あの人は好かれていた。色んな生徒に。色んな教師に。ひた向きに頑張ってたまに失敗をしながら、それでもめげない人柄は共感をよんだ。


 人当たりもいい。誰かに頑張りを強要しない。人の立場に沿って考えることが出来る。人の為に動ける。そんな人を好まない人間の方が少ないことは分かっていた。


「そんな寂しそうな顔するなよ、今世の別れじゃないんだからさ」

「……」

「安心しろ遠塚、私が教育実習でいなくなっても、お前が私の初めての教え子であることは変わらないぞ!」


 俺が黙っているところを見て、先生は致命的な勘違いをした。そうじゃない。違う。俺はそんなこと一つも望んでない。俺が欲しいのは違う。全然違うことなんだ。俺は、ただ、貴女を……、


「椙成せんせー! はやくー!」

「分かったー! ……じゃあな遠塚!」


 あの人が駆けていく。艶やかな黒髪を揺らして俺から離れていく。去っていく。置いていく。その背中を俺は見つめていたのか、睨んでいたのかは分からない。ただ笑えないことは確かだった。夏休みを控えた、暑い七月のことだった。



 屋上を囲うコンクリートに腰かけ、ぼんやりと桜の囲む校庭を見下ろす。中学の頃はフェンスで囲われていたけれど自由に出入りが出来ていた。でもこの場所は立ち入りがずっと禁止されているからか、あるのは膝くらいまでしか無い申し訳程度の囲いだけ。


 昼を食べながらここから外を見下ろすたびに、いつでもここから飛び降りることが出来ると思う。そうすると全てのことがどうでも良くなってくる。


「遠塚、ここにいたんだ」


 振り返ると中学からの腐れ縁である帆坂がなにやらプリントを抱えてやってきた。「進路希望調査、決めてなくても白紙はやめろって」と先週提出期限だった紙を渡してくる。俺はポケットにしまい込んでまた外に目を向けた。


「全員にそんなことしてんの?」

「学級委員長だからね。一応。あと出してないのは和泉なんだけど、あいつ今保健室で取り込み中だから、先に遠塚のいる屋上かなと思って」

「俺、いつも屋上にいると思われてんの?」

「違わないでしょ?」


 帆坂は鼻で笑って俺の隣に立つ。そして徐に下を指さした。


「世谷の親、やっぱ駄目っぽいって」

「あの、寝たきりの?」

「そう。結局目覚めないまま心臓止まって、明日葬式らしい。今日はその関係で帰るんだって」


 校門のほうを見ると、確かに世谷がスクールバックを肩に下げ、淡々と帰っていく途中だった。同じ小学校出身の世谷とは親の仕事の関係もあって度々話す。ただ、世谷の両親が事故に遭ってからは、話すこともないけど。


「世谷、どう思ってるんだろう」

「さあ。あいつ元々何考えてるか分かんない奴だし」


 そっけなく返しても、帆坂は気にするそぶりがない。やがてばん! と扉が開く音がして、次に「尚人くん!」と喧しい声が聞こえてきた。帆坂は無表情から一変させ、優しい笑顔を作り出す。


「ああ瑠璃」

「ここにいたー! 学級委員のお仕事手伝えないかなと思って探してたんだ!」

「そうなんだ。助かるよありがとう。じゃあ早速だけど……」


 帆坂が自分の幼馴染を伴い屋上から去っていく。ただ最後の最後に進路希望調査について念押しをされ、俺はため息を吐いた。


 進路なんて、考えていない。そこまで生きる気もない。


 それから少し経った頃、さっきより数倍大きな扉を開く音がした。先週から俺のクラスについた、教育実習生の椙成だ。長い髪を後ろにきつく縛った髪を揺らし、大股でこちらに近付いてくる。


「先生と一緒に昼を食べよう! な!」


 返事をする前に椙成は俺の隣に座り、不格好に包まれた弁当箱を広げる。水色の角が丸まった弁当箱には、良く分からない茶色の炒め物や、丸いのか三角なのか分からないご飯をまとめたものが入っていた。


「遠塚、またパン食ってんのか、そんなんじゃ大きくなれないぞ?」

「先生と違ってもう身長足りてるんで」


 そう答えると椙成は首を横に振る。


「駄目だ、人間成長と生きるために栄養とエネルギーが必要なんだ。そもそも生きるエネルギーが足りてなきゃ成長なんて出来ないんだからな。ほら、食え」


 弁当の蓋におかずを盛りつけさらにご飯までのせると、割り箸と共に椙成はこちらへ差し出してきた。受け取らないとぎゃあぎゃあ騒ぐことは明白で、黙って受け取ると満足そうに鼻を鳴らす。


「このご飯丸めたやつ、なんですか?」

「なっ、おにぎりだ! 知らないのか?」

「こんな形状のおにぎりがあるとは知らなくて、勉強不足ですみません」

「うっ……善処する」


 この人は、何なんだろう。屋上で一人でいるところを見られてから、この人は俺に構うようになった。


 毎日毎日、昼になればこうして屋上に来て隣で弁当を食べる。俺に自分の弁当を食わせたりもする。俺が一人のときは必ず声をかけてくる。ずかずかと、人の心に土足で踏み込むような振る舞いをする。


 だけど決して触れてほしくない一線を超えようとはしてこない。それが本気で拒絶しようと思わないただ一つの理由だ。


 椙成は俺が何を思って屋上にいるのか聞いてこない。ただ言いたくなったら話せと、暗に伝えてくる。それがすごく上手い。


 おにぎりを一口食べると、少ししょっぱかった。炒め物らしきものは味が薄い。初めの頃、この人はパンだった。料理が下手なのに、段々と弁当に変わっていった。


 多分俺の為だと思う。どう考えてもタイミングがそうだったし、きちんと切られず繋がった野菜炒めもどきが、慣れない人間が突然料理を始めたと物語っていた。


「そういえば、夏休みに入るな! 涼しいといいな!」


 夏休みはどこへ行くのか。そんな話をこの人とクラスの奴がしているのを聞いた。でも俺には聞いてこない。俺の家庭環境に何らかの問題があることを感じ取っているのだろう。


 実際その通りだ。父親も母親もろくに家に帰ってこない。お互いが別の家に愛人を作り、互いの仕事が忙しいという言葉を利用し続けている。


 俺のことなんて、眼中にない。風邪で倒れても気付かれない。後から聞きつけ相手の不在を嘆き、憤る二人を俺が収める。それの繰り返し。だからか自分の存在意義について、途方も無く虚しくなる瞬間が確かにある。一思いに全て終わらせてしまいたくなる時が来る。


 その間隔は日に日に狭くなっていき、いつの日かこの屋上で景色を見下ろすことが日課となっていた。


「先生は夏休み、あるんですか」

「ああ、その頃は教育実習も終わって休みに入ってるんだけどな、採用試験の勉強がある! だから休みなしだ!」


 わははと快活に笑う姿を横目に見る。俺は知ってる。この人は嘘をつかないし誇張もしない。本当に休みなしで勉強するつもりなのだろう。


「じゃあ、俺に構ってないで、勉強したらどうですか?」


 口から出た言葉に偽りはない。なのに心なしか、試す口調になってしまった。何でだろう。最近はいつもこうだ。俺はこの人をつい試してしまう。わざと姿を見せて、追って来るか気にしたりもする。


「いやあ、遠塚と居られる時は遠塚といるさ」

「どうして」

「楽しいからな!」


 先程と同じ明るい花咲く様な笑顔だ。それなのにぴたりと時が止まった気がした。


「遠塚はわりと人を良く見ているし、そういうところが心配になるが、その分言葉も的を射ているし好きだ。だから私は遠塚と居るのが好きだ! だから勉強は夏に頑張る!」


 ばしっと背中を叩かれ、また時間が進んでいく。同時に心臓が激しく脈打っていくのを感じた。


 この人の発言に意味なんてない。そういうことじゃない。分かってる。分かってる。なのに訳が分からないほど息が苦しい。


「これでも成績はいいんだぞ! ……美術以外は……、そう、美術以外はいいんだ……」


 やがて椙成は俯き始めぶつぶつと自分の世界に入り込んでいった。俺はずっと、その横顔を食い入るように見つめていた。




 裸の先生をベッドに残した俺は、湯を張る準備を始めた。


 高校の頃、生きていることがただただ面倒だった。何もかもが上手くいかなくて、それなのに何もかも成功しているように見られて、頭がおかしくなりそうだった。


 そんな俺にあの人だけが気付いてくれた。あの人だけが寄り添ってくれた。親ですら見向きもしなかった俺を呼び掛けて、俺を追ってくれた。


 初めに抱いた好意は興味にも似ていた。でもいつしかそれは恋情に変わり、独占欲を纏いながら劣情へと姿を変えた。気が狂いそうなほどあの人が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。


 でも先生の教育実習最終日。俺は線を引かれた。相手にもされなかった。好みではない。好きではない。そう言われた方がまだ良かった。生徒だから駄目だと拒絶されたってかまわなかった。なのに俺は見てすら貰えなかった。


 だから、あの人の線を壊さなければいけない。そうしなければ、スタートラインにすら立てない。そう思って同じ教師になったのに、まだ俺とあの人の間にはその線が色濃く引かれていた。


「おわりだ……」


 ベッドルームに戻ろうとすると、先生の声が聞こえる。


 俺は何もしていないし、何も言われていない。だけど真面目でいつだって人のことを考える人だ。俺の為に自分が損をする選択肢を取ることは明白だ。これから先の未来全て、今、俺が握っている。


「はじまりだよ」


 ベッドで茫然としている、俺の唯一の人に向かって囁くように呟く。その声は、あの人には届かない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遅効性デッドライン 稲井田そう @inaidasou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る