灯辺と私の鮮やかなる放課後

稲井田そう

第1話


 高二の夏休み前。私は足を折った。


 いつものトレーニング中、軽自動車が突っ込んで来て、跳ね飛ばされた私は右足の骨折だけで済んだ。もし私が普通だったなら「良かったね」「運がいいね」と九死に一生を得るエピソードとして、何年後かに笑顔で話せる出来事になっただろうと思う。


 だけど、私はエースだった。


 陸上部の期待の新人として高校に推薦入学して、賞を期待され続け、それにちゃんと応えて来た。エースじゃなければ足を折っても悲劇にならないわけでは絶対にないけど、私が足を折って部活を辞めたのは、間違いなく、私がエースだったからだ。


 というのも次の大会に出ることが叶わないと部活の皆に伝えた時、その反応は綺麗に量ったように二分した。「あいつ調子に乗ってたんだよざまーみろ」と言わんばかりに私を見て嗤う派閥と、どうしていいか分からない困ったような顔をして私を避ける派閥、その二つに。


 私を嗤う派閥が私に対して嫌悪を持つ原因は大きく分けて三つあり、私ばかりが大会に出場していること、それによってコーチが私につきっきりになっていたこと、私が後輩に甘いことだった。


 大会に出場する回数が多いのは単純にタイム順で選ばれているからだ。スポーツ推薦で入っているのに他の選手より足が遅く大会に出る事すら危うかったら普通にまずい。


 コーチについては、トレーニングを指南してくれるコーチに私が「他の人のところへ行ったらどうですか?」なんて言えるわけがない。


 最後の後輩に甘いと言うのも、我が部では、器具の片づけは一年任せ、三年二年が練習を終えたらすぐに一年がドリンクを差し入れるなんて慣例があり、私がそれを無視して自分が使った器具は自分で片付け、ドリンクも自分で用意して飲んでいたことが「甘やかしている」にあたるそうだった。


 だからその派閥からしたら私が怪我をしたことは、「罰が当たった」らしい。


 私を避ける派閥は、私に対して特に嫌悪は無いけど、かといって私の味方をすると睨まれてしまう。だからどう接していいか分からず避ける。


「椎葉さん、ここプラスで式作ってるからそのままだと答え出なくなるよ」


 放課後の工芸室で数学の勉強をしていると、先程まで真向いで絵を描いていた灯辺が私のノートを見下ろし、興味なさげに雑巾で筆を拭った。私が陸上部から追われ、放課後の時間を持て余していた時に出会ったのがこの男、灯辺…… 灯辺巡とべめぐるだった。


 灯辺とは松葉杖がいらなくなった夏休み明けの放課後に出会った。


 その日は美術の制作の補習に参加しなくてはいけなかった日で、美術室は丁度陸上部のメンバーが使っていた。気まずいと逃げた私は、同じ美術の授業でも、電動のこぎりを使ったり工作をする時に使う工芸室に向かったのだ。


 そこには先客がいて、一人の男子生徒が熱心に油絵で何かを描いていた。それが彼だった。




「あのさ、ここで補習していいかな」


 おそるおそる、工芸室の棚から油絵のセットを取り出す背中に声をかける。今灯辺が手に取っているそれは、授業で使うようにと配られたものよりパレットも筆もずっと大きくて、絵の具も十二色の箱に収まらず、大きな箱に乱雑に押し込められている。


 だからなのか、同じクラスの生徒なのに声をかけることに躊躇いが生まれ、機嫌を窺うような声色になってしまった。


「……別に。ここ僕の部屋じゃないし。ご自由に」


 彼は私を少し変なものを見るような目で一瞥すると、そのまま午後の日差しが注ぐ椅子に座り、カンバスに向かった。


 私と灯辺は二年になって初めてクラスが同じになった。しかし、席も遠ければ係も委員会も何かの班で一緒になったこともない。なんとなく気まずい空気を感じながらも、私は美術室にいるよりはましかと部屋の隅に腰を下ろし、課題であるポスターの色塗りに取り掛かる。


 でも、視界の隅に灯辺が入る席を選んでしまったことで、なんとなく視線がそちらに行ってしまう。


 灯辺は教室ではいつも本を読んでいて、クラスから浮いているわけじゃないけど何かを率先してやるタイプでも無かった。教科書の朗読で、あまりにやる気のなさに周囲から失笑が出るくらいの印象だ。そんな彼が熱心にカンバスに向かい筆を動かす姿は、なんだかとても新鮮に思える。


「補習」

「え」

「しなくていいの?」


 存外に見ていることを嗜められた気がして、私はすぐにポスターに向かう。灯辺はこちらに見向きもせず、ただただ黙々と筆を進めていた。



 そんな私たちが挨拶以外の会話をするようになったきっかけは、灯辺が筆を洗うか何かする為に教室から出たときに、私が興味本位で彼の描いていた絵を覗いたことに他ならない。


 そこには素人目に見てもカラフルな絵が描かれていて、単刀直入に言えば驚いた。学校の景色なのにところどころオレンジ色やピンク、ブルーが混ざり合う様に重ねられていて、学校なのにこんなに綺麗に感じるんだと感動した。


 絵に見入っていると本人が帰って来て、私は勝手に絵を見たことを怒られると覚悟した。でも灯辺は怒ることもなく平然としていて、普通に戻って絵を描くのを再開した。


 拍子抜けした私が灯辺に「これ学校だよね、めちゃくちゃ綺麗」と言うと、彼は「綺麗に見えるように描いてるからね」と素っ気なく返事をした。謙遜するでもないその答えがなんだかとてもおかしくて、私は彼に興味をもった。


 作業の邪魔にならないように、灯辺が席を立ち、戻ってくるタイミングで質問をするようにして、色々なことを知った。


 灯辺は小さい頃から絵を描くことが好きだったこと。


 美大を目指していること。


 大学の受験科目は文系なのに、国語と英語は苦手で、数学や化学、物理が得意なこと。だから本を読んでいること。だんだん灯辺は私にも聞き返してくるようになった。



「椎葉さん、ここプラスじゃなくてマイナスになるよ」


 補習もしなければならないけれど、課題も出てしまい工芸室で数学のプリントも広げる暴挙に出ていると、私の後ろを雑巾の取り換えのために通過した灯辺が数式を指した。


「え……うわ、やり直しだ……」

「一回すらすら解けるようになったと思ったら疑う癖つけたほうがいいよ」

「なんか悲しいなその癖付け。間違ってる前提じゃん」


 正直なところぐうの音も出ない。ただ来年受験な手前認めたくない気持ちもあって、私は彼を見返した。


「そんな目で見られても、椎葉さん面積系の計算式、基本的に、ねぇ」

「わかった。今度歴史のプリントの代打すんのなしね」


 灯辺は美大の受験科目をどうでもいいと思っている節があり、国語、英語、他は歴史や社会が苦手だから倫理を受けようなどと言って授業中も絵を描き続けた結果、先生を怒らせ、灯辺専用の歴史課題プリントが出た。


 それもスマホで調べ辛いところを凝縮しながらも授業では出たというかなり癖のあるプリントで、案の定彼は私に助けを求めてきたのだ。にもかかわらず、彼の手癖は治まらず歴史プリントのアンコールがいつ来るかわからない状態になっている。


「分かった。言い方には気を付けます」

「ははは。冗談だよ」


 灯辺は接してみて、結構歯に衣着せぬ物言いをすると知った。クラスでもオタクのグループと会話しているし、彼女の存在だけは目立っているけど他はぱっとしない藤角とかといっしょに行動するから、同じおどおどしてる感じだと思っていたけど全然違う。


「でもまぁ、国立受けるなら数学必須だし、受験にも関わるんだから気を付けたほうがいいよここは」

「うーん」


 正直なところ、どこの大学に行っていいかまだ決めてない。


 灯辺は中学の時から美大には行きたいと思ってたと言っていたし、予備校には一年生のころから行ってるらしいから他の人よりより受験を近くに感じているからか、そんな彼の話を聞いていると、自分がひどく遅れた存在に感じてくる。


 普通なら、「椎葉には陸上あるからいいよな」とか、言うんだろうけど。灯辺を見ても、私にそんな言葉をかける様子はない。というか、工芸室にきて陸上の話題を出したことがない。それほど美術以外のことに興味がないのか。それとも――、


「え」


 ふいに窓を見ると、校庭で陸上部の部員たちが集まっていた。けれど何かの準備ではなく争っているように見える。やがて私を責めていた生徒たちは仲間割れを起こすように散り散りになっていく。


「椎葉さん? どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 私はなんとなく引っかかるものを感じながら、目の前のプリントに取り掛かったのだった。



 お互いの知っていることがだんだんと増えていく度、私の補習も終わりが近づいて来る。同じクラスだというのに少し悲しくて、私は補修最終日「寂しくなるねえ」なんて、いつになく本気の調子で言ってしまった。


 すると灯辺が「来年受験だし、椎葉しいばさん、勉強でもすれば? 別にここはいつでも開いてるし」と特に何の感情も持たずにそう言って、放課後のこの時間は終わり、そして新にまた始まった。


 そうして私が教室でも灯辺と普通に会話をするようになった頃、いつの間にか訪れていた秋の終わりが見えていた。


 放課後に工芸室に行けば灯辺はやっぱり絵を描いていて、私は少し離れた席で勉強をしていた。私の得意科目は灯辺の真逆の文系、苦手科目も灯辺の真逆の理系で、私が勉強をしているとたまに彼が覗いて来て、お互いに教えあったりして、私たちは秋を過ごした。


 灯辺の存在は、陸上で得た欠落にぴったりとは言わないまでも、するりと入り込んできたのだと思う。そうして部活について考えることが減った矢先、私の前に部長が現れた。



「椎葉、一度部に顔を出してほしいんだ。話し合い……を、してほしい」


 朝、下駄箱で私を待っていたらしい部長は、人通りの少ない廊下に私を連れていくと、申し訳なさそうに頭を下げた。。


「話し……合い?」

「ああ。お前は届を顧問に出したが……部活には顔出さなくなっただろ。それで、お前に反感を持つ者がいてな……。一度、みんなの前で話をしてほしい」


 今、部長は、私に気を遣って「話し合い」という表現を遣ってくれたのだと思う。でもこれはきっと、謝罪をしてほしいというお願いだ。


 私を嗤うあの人たちは、私が部活にいた頃私に憤りを向けていた。高校を卒業しても陸上を続けたい人、高校でやり切りたい人、プロになりたい人。志の違う人間は、共通の敵によって統率が取れていたのだ。私が怪我をしてからは私を嗤っていた。そうして互いの差に見ないふりをしていた。


 でもそれにも限界が来る。統率を失い、私へ向けていた敵意はぐるぐると彷徨い部内に不和をもたらしていたのだ。


「僕は、お前は謝るべきじゃないと思う。でも、そうしないともう部が回らない。助けてほしい。そうじゃないと、終わらないんだ」


 夏の頃だったら断っていたかもしれない。あの人たちと同じ空間にいることが嫌で工芸室へ向かった私は。


 でも今の私なら大丈夫だ。一言謝ってガス抜きをすればいい。そう思って頷こうとした、次の瞬間だった。


「どうして椎葉さんが謝らなきゃいけないんですか。部員まとめるのは先輩である部長の仕事でしょう。他人のこと巻き込まないで自分でしたらどうですか」


 視界いっぱいに、ブレザーの紺色が広がる。色彩を認識したのと同時に、目の前に灯辺が立ち、庇われたのだと理解した。


「灯辺……」

「二年に頼る部長なんて、いる意味ありますか?」


 灯辺はそう言って、私の腕を引いていく。振り返ると部長はばつの悪そうな顔で俯いていた。灯辺に声をかけても彼は振り向く素振りがない。しばらく無言で歩き続け、工芸室の隣にある作品置き場の部屋の前でようやく彼は私の顔を見た。


「ごめん。勝手なこと言って」

「え」

「相手、部長なのに。椎葉さんが部活に行き辛くなること言ったから」


 どうやら灯辺は自分の態度や言葉によって、私が今後部活に行き辛くなることを心配しているらしい。


「気にしなくていいよ。そんなの」

「でも……」


 灯辺は言い淀んだ。今まで彼がこんな風に感情を出しているところを私は見たことはない。歴史の先生にひどい量のプリントを渡された時だって、気怠そうな目をしていた。体育祭や文化祭で皆が浮かれていた時だって、他人事のように自分だけ帰っていた。そんな彼が、苦し気に次の言葉を考えている。彼はあのことを、知っているはずなのに。


「言い方があったよ。僕、よくない言い方をした。椎葉さんの立場、悪くなる言い方だった」


 夏休みが終わって、補習をしてからずっと私たちは放課後の時間を共にしていた。部活に行く素振りを微塵も出さなかった。その間彼は一度だって陸上部に触れず、聞こうともしなかった。私に興味が無いのもあっただろうけど、たまに私の質問を返しても部活についての質問は絶対に返してこなかった。


 だから、部活に行き辛くなることをこんな風に悔やまれるとは思わなかった。


「悪いもなにも、どうせ走れないからいいよ」


 簡潔に言えば、私の足はとっくのとうに選手生命を断たれていたのだ。


 足を折った時から。折れた骨の欠片が、神経の良くないところを傷つけていたらしい。


 歩けはする。走れもする。でも選手として走ることは無理。医者にそう言われて、どうしていいか分からなくなって私は部活を去った。人にはじかれようが孤立させられようがどうでも良かったけど、当たり前に選手として走るみんなの姿を見ることは駄目だった。

「っていうか、灯辺なんとなく気付いてたと思ってたんだけどね。知らなかったんだ」


 私はそう言って、笑みを浮かべた。口角を上げながら案外笑って話せるものだと気づく。灯辺と出会った日も、陸上部の部員たちは私に対する陰口を私に聞こえるように話をしていた。でも先生が近くに来ると、陸上の話に切り替えたのだ。当然のように走る話を、自分が走ることが出来る前提の話、それがどうしようもなく効いた。苦しくて仕方なくなって、私は工芸室に逃げてきたのだ。


「将来どうすればいいんだろうね、私」


 灯辺に言ったって、何も意味のない話だ。でも言わずにいられない。こんなこと聞かれてどうするんだろう。


「まずは大学生になりなよ、大学行ってから考えな」

「え」

「何するにでも、大学出ておいて損はないよ。受かってから考えなよ」


 今のうちに将来を考えなさいと言う大人たちと真逆の言葉だ。大人たちはみんな今のうちに将来を考えなさい。やることを決めておきなさい。中途半端な気持ちで大学に行くなと言うのに。


「……大学行っても見つからなかったらどうするの」

「……僕も一緒に考えるよ」

「本当に?」

「うん。椎葉さんとは友達だからね」


 灯辺は前に工芸室を使っていいか聞いた時と同じように、素っ気なく言う。さっき申し訳なさそうにしていた彼とはまた別人みたいだ。それが何だかとても嬉しくて、でもやっぱりおかしくて、私は笑いながら少し涙が出た。



 冬も本番になり、雪がちらつき始めた頃、私と灯辺は一緒に帰るようになっていた。


 今までは私の方が先に帰っていたけど、何となく放課後の生徒下校時刻まで残っていたら、灯辺が「もう暗いし送っていくよ」と言って一緒に帰った。彼とは最寄りの駅まで一緒で、私が下り線で灯辺が上り線。


 ホームで会話をしているとどちらかの電車が来て、そこでお別れ。それを繰り返している間に、変化が起きた。


「おつかれー」

「うん」

「いや、うんって何」


 工芸室に向かうと、灯辺がさっきまで描いていたカンバスをしまい、荒々しい風景画に着手し始める。高校生の美術コンクールに出す予定の風景画は、赤い下地の上から教室の風景を一メートルくらいのパネルに描いたもので、タイトルは「最悪の場所 地獄の世界」らしい。


 そんなタイトルを公募に出せるのか聞いたら前年度はグロテスクな題名が佳作に入ったらしいから、大丈夫だそうだ。彼はこちらの様子をうかがいながら、こそこそ最初に描いていたカンバスをロッカーにしまい、「換気するよ」と窓に向かう。


 今まで灯辺は、ただ普通に絵を描いていた。でも、最近、私が美術室に行くと、あるカンバスの絵だけは隠し、ぱっと別の絵をかき始める。いつもなら私に見せてくれるし、たまに「どう思う?」なんて意見を求めてきたりする。でもそのカンバスだけは絶対に私に見せてはくれない。


 はじめのうちは気に留めることも無かったけど、段々と気になって来た。それが決定打になったのは、灯辺がいつも通り私にそれを見せないようカンバスを仕舞いこんだ時のことだった。一瞬だけ、彼の手元に置いてあったスタンドミラーが、描いている絵の半分を映したのだ。


 そこには女の子らしき絵が、淡い水彩画のタッチで描かれていた。


 今まで灯辺が描くのは、風景画や、架空の世界の絵ばかりだった。色も荒々しく派手で、題名は「呪い」とか「みんな死ねだったら公募出せないかなぁ」と描いた本人が悩むような雰囲気だった。でも、いま彼が描いているのは淡く、砂糖菓子のように甘い色遣いだ。


 灯辺は、好きな女の子を描いている。


 直感的にそう悟ったとき、私の胸はぐちゃぐちゃに潰れたみたいに痛くなった。陸上が続けられないと医者に言われ時と同じ眩暈すら感じて、そこでようやく私は自分が灯辺を好きであることに気付いたのだ。


「公募の締め切りっていつだっけ。間に合いそう?」

「月末くらい。最悪持ち帰りも考えてる」

「それ電車乗れるの?」

「弓道の弓は大丈夫でS80のパネル許されないなんてことないでしょ」


 S80というのは、パネルの大きさの数値だ。確か正方形のスクエアの頭文字をとってSというらしい。ほかにもPやМというのがあり、それらは長方形とかそんな感じだったりする。


 こうした知識は、全部灯辺と会話をしてきたことで得た知識だ。でも今は、どことなく会話に入りきることができず、楽しく話がしたいのに一歩引いたような気持ちでいる。


 灯辺の好きな女の子が誰か気になる。誰か分かってどうするかもわからないのに。恩返しをしたいと思う。でも協力なんてできない。かといって邪魔なんてことは絶対したくない。


「灯辺、お前、ちょっといいか……」

「はい」


 体育の先生である彬成先生が工芸室の扉をがらりと開いた。先生は美術顧問だけど絵が描けなくて詳しくもないけど、努力はしていると灯辺が言っていた。だからか灯辺と接する時も、知識をなんとかものにしようと必死な顔をしていた。けど今日の先生は物々しく厳しい雰囲気だ。


「話がある。隣の展示室に来い。二十分は話をするから、絵が乾かないようにするかなんとかしておけ」

「わかりました」


 彬成先生はさっと扉を閉めた。所作こそいつもより落ち着いているものの怒っているのは明白だ。それは灯辺も分かっているのか、素直に頷き絵を片付けている。


「なにしたの」

「わかんない。行ってくる」


 そう言って灯辺は工芸室から出て行った。彼の姿が廊下を映す窓から消えるのを待ってから、私はすぐにロッカーへ向かう。


 今日、彼は秘密のカンバスをしまうロッカーの施錠をしていなかった。


 取りつかれたように扉を開くと、影が落ちていた場所に溶けだすように光が差し込み、キャンバスの全体が露わになる。


 そこに描かれていた女の子は、クラスや学年にいる誰でもない、美しく笑うあどけない少女だった。



 僕は椎葉さん、椎葉紗和しいばさわさんのことが好きだ。


 好きになったきっかけはもうどこか分からない。僕が絵を描いている時、椎葉さんが補習に来て話をしているうちに途方もなく惹かれてしまった。強いて言えば徐々にだ。


 今まで好きになった女の子がタイプなどと言う奴は大嘘吐きで、見た目を重視した言い方をオブラートに包んだだけだと疑ってしまっていたけど、本当に申し訳ないと思う。本当にその通りだった。


 彼女が僕に質問をして目を輝かせるところとか、笑ってくれるところとか、僕の作業を邪魔しないようなタイミングをちゃんと計って話しかけてくれるところとか、色を重ねて濃くなるように、いつのまにかはっきり気持ちが出来ていった。


 でも僕には、これといって特技がない。


 僕が得意で好きなものは絵を描くことだけど、椎葉さんの好むものは悉く嫌いだった。自分から汗をかきにいくなんて正気では無いとすら思っているし、それは今でもそう思っている。


 でも椎葉さんは別だ。彼女は好きなようにしていればいいと思うし、何をしていてもとても素敵な色を描いているように思える。


 でも他の運動部の奴らは汗臭いし僕ら文化系を見下す節があるし工芸室と美術室を汚く使うし補習のとき部員のように陣取って騒ぐから速やかに死んでほしい。でも彼女は例外だ。美術室をペンキまみれにした後、油絵流し込んでカッターで傷つけても許せる。僕が掃除する。


 ただ、椎葉さんを見ていると僕が陸上に触れていないことは、良かったのかなと思った。彼女は陸上や走りについて、間接的にでも触れると身体が強張る。授業で逃げ足の速い武将について触れた時ですらだ。その姿を見る度に守らなければと僕は身勝手に思っていた。


 日ごと椎葉さんに対して、増していく想い。その想いを彼女に伝えられたら幸せなことだと思う。


 でもそれは出来ない。しちゃいけないことだ。椎葉さんは放課後僕と過ごしてくれているけど、それは彼女が暇だからに他ならない。今まで陸上部の練習に出ていた時間が足を折ったことで余ってしまった。だから僕と話をして暇をつぶす。


 その暇つぶしの時間に、僕が「僕椎葉さん好きなんですよ」なんて言ったら、「うわキモ二度と来ない死ね」で終わってしまう。彼女はそんなこと絶対言わないけど、深層心理的には絶対に思う。僕の想いを伝えて悩みを増やしたくない。ただでさえ彼女は今まで続けていた陸上の道を断たれて、どうしていいか分からなくなっているのだから。


 もし今、椎葉さんが消えたら僕だって同じようにどうしていいか分からなくなる。


 いや多分部屋いっぱいに椎葉さんの絵を描いて、そこで首を吊って死ぬ。


 だから日ごと増す想いは、行き場が無いまま僕の中に蓄積されていくわけで。


 使わない紙をそのままにしていたら変色して黄ばむ。絵の具をそのままにすれば固まる。水だって悪くなる。


 それは僕の椎葉さんへの気持ちも同じで、彼女を見る度に僕の想いは歪んでいった。夢にまで彼女が出るようになって、僕はそこで沢山酷いことをした。端的に言えば性的な夢だ。本当に言ったら絶対引かれるえぐいやつ。なのに目が覚めると妙に清々しい気持ちで、このままじゃまずいと思った僕はその気持ちを吐き出そうと考えた。


 その方法が、椎葉さんと僕の家族を描くことだった。


 椎葉さんを描いた場合、それを彼女に見つかってしまったら、直球の告白へと変わるだろう。ただでさえ僕の描く絵は陰湿で暗い。にも関わらず彼女を描くときは明るく、絵本の表紙にできそうなほど優しい色遣いにしてしまう。


 だから僕は手元に鏡を置き、勉強をする椎葉さんを見て、僕と彼女の子供を想像して描いた。


 椎葉さんをそのまま描けば、すぐに椎葉さんと分かる。でもそこに僕の血が混ざればカンバスに描かれるのは僕と椎葉さんの子供だ。


 正直子供に興味はない。でも将来椎葉さんと結婚して、こういう感じの子供と遊園地に行ったりして、学校の入学式に行ったり、この子の運動会に行くのかと思いながら描けばびっくりするくらい筆は進んだ。


 カンバスが足りなくなって顧問の先生に「描きすぎ、部費を圧迫するな」と怒られたくらいだ。その時の僕は「好きに絵を描けって言ったのは先生だろうに」なんて思ったけど、勝手に僕の作品置き場にしていた展示室を改めて見て愕然とした。


 そこには椎葉さんと僕の家族がいっぱいいた。僕に似た女の子、椎葉さんに似た男の子だけじゃなく僕の瞳、椎葉さんの鼻を濃く受け継いだ子など様々、びっくりするくらいの量の僕と椎葉さんの子供がいた。ここは幼稚園? 小学校? 中学校? 高校? 大学? 会社? 老人ホーム? 人間博物館かな? と思うくらいいた。


 絵は枚数をノルマ設定して描いているわけじゃないから、本当にびっくりした。こまで増えているなんて思わなかったのだ。そうして僕は驚きを感じるとともに、怯えた。この状態が顧問にバレたらまずい。それに下手にこの状態が椎葉さんに見つかれば、全体的な雰囲気から「自分に似てるのでは」と考え始めてしまう。


 僕の好意が気付かれてしまうし、椎葉さんへの劣情を「椎葉さんとの子供を疑似的に作ることで発散していた」という僕の高度な変態プレイがばれてしまう。通報ものだ。もし僕と彼女の娘に男が近づいて来てそんな変態プレイを披露していたら殺すしかない。


 だから僕は描いた絵をきちんとパネルから取り外して、一枚一枚丁寧に重ねて収納することにした。けれど問題がまた起きた。というのも、パネルから外したことで収納スペースがあまり、また彼女との家族を描けることに気付いてしまったのだ。


 僕は馬鹿だから、天啓を得たという一心でまた絵を描き続けた。そして――、


「いい加減にしろ灯辺! お前やっていいことと悪いことがあるだろ! 学校に穴開けるとは一体どういうことだ!」


 顧問の先生が展示室の天井を指差し、般若の様な形相で僕を怒鳴りつける。僕は絵を描き続けた。そしてパネルから外しまた絵を描くということを繰り返した結果、しまう場所がまた無くなった。


 どうしようか悩んでいたところ、最高の収納スペースである天井に気付いたのだ。


 天井には設置されているエアコンを取り外す為、一カ所だけ金具を取り外して天板の一部を外せる箇所があった。そこに脚立と工具を持っていき、天板を外すと、やっぱり丁度いい空間が広がっていて、僕はそこに絵をしまった。パネルは流石に重いから絵を重ねておいたのに、いつの間にか重さに耐えきれず、そこの部分だけ天井が抜けてしまったそうだ。


「お前、こんな、こんなになってるんだぞ!」


 彬成先生の言葉に視線を地面に向けると、砕けた板や電球がそこら中に散らばっていた。授業中に落下したらしい。とても大変だと思う。椎葉さんが巻き込まれなくて本当に良かった。


「すいません、先生。見られたくなかったんです」

「いい加減にしろ!! 怪我人が出るところだったんだぞ!? ったく……本当に誰もいない時でよかったものの、家に持ち帰るとかいくらでも――」


 先生はそう言って、床から集めた僕と椎葉さんの子供達に目を向けそして何気なく裏返した。


「なに……? 僕と椎葉さんの子供、八歳……? ヒッ」


 もう一枚、もう一枚と裏返して確認していく。そして無意識に手元から僕と椎葉さんの子供を滑り落とそうとした。危ない。間一髪僕がキャッチすると、一歩距離を置かれた。


「灯辺、お前、ちょっと先生は、しばらく勉強をするから、もう戻っていい」

「いいんですか?」

「ああ、ちょっと先生一人じゃ受け止めきれないから、悪いな。ただ天井に穴開けたりするのはもう絶対するな、けが人が出るから。いいか。学校の建造物に手を加えようとするな」

「わかりました、ごめんなさい」

「次から立体のものを展示してる机の下とか、何があっても人が傷つかない場所にしろ。約束できるな」

「はい。気を付けます」


 急速に顔色を悪くしていく彬成先生に頭を下げて、僕は工芸室へと戻ることにした。なんとなく廊下の窓へ目を向けると、陸上部やサッカー部、野球部やテニス部が練習に励んでいた。


 今まで一番嫌いな運動部はテニス部だった。楽しい美術の時間、美しい石膏像に向かって「おっぱい丸出しじゃん」「ハゲ」と侮辱した狼藉は到底許されることではない。でも最近は椎葉さん以外の陸上部員、皆死んでほしいと思う。


 特に部長、あなたは念入りに死んでくださいと窓際から祈る。つくづく僕は暗い趣味だと自覚はしているけど、最近は家でクロッキーをするとき、その場にいない陸上部員の惨殺死体を描いてしまう。本当に僕って嫌なやつだ。やめる気なんてないけど。


「展示室、穴開けてたみたい。椎葉さんしばらく行かないほうが――」


 ため息交じりに工芸室の扉を開いて、ぎょっとする。


 何故か椎葉さんは部屋の真ん中で、目に涙をためながらじっとスカートを握りしめ佇んでいた。なんだろう。また陸上部の部長が来て何かしたのかな。だとしたら許せないと中へ入ると、彼女の手に僕の禁断の最新作があることに気付いた。


 鍵をかけていた気でいたけど、隠すことが日常になりすぎてうっかり忘れてしまったのかもしれない。いや、かもしれないじゃなくて現に椎葉さんはカンバスを手にしている。まずい。バレた。逃げられる。僕はポケットに入れている鉛筆削り用のカッターを手に取った。まるで運命だったみたいに、彼女はくるりとこちらに振り返る。


「はは、ごめん、見ちゃった、可愛い子だね」


 それは僕と椎葉さんの子供だからね。当然だよ。椎葉さんによく似てるし。


「灯辺、この子が好きなんでしょう? ロリコンじゃん……」


 僕を茶化す様に笑う椎葉さんの目には、とめどなく美しい滴が溢れている。周りの景色を溶かしこみながら光を吸収して瞬く様な、美しい涙が。


 あまりの綺麗さに見とれて、ハッとした。今何て言った椎葉さんは。ロリコン? 僕はロリコンじゃない。僕は彼女が好き過ぎるだけの極めて健全な男子だ。幼児性愛者じゃない。


「違うよ椎葉さん。僕はロリコンじゃない。この子は椎葉さんと僕の子だから好きなのであって、性的な感情は抱いていないよ。別に幼い椎葉さんを妄想してるわけじゃないしね」

「は?」


 椎葉さんが溢れさせていた滴が、ぴたりと止まる。とても美しいものだったけど、彼女が泣いているのはやっぱり嫌だから、涙が止まって嬉しい。良かった。


「いやそのまま描くと僕が椎葉さんのこと好きだって分かるから、僕の顔混ぜて、椎葉さんと僕の子供みたいにして描けば大丈夫と思って」


 冷静でいようと努めるけど、僕はいま、墓穴を掘ったのではないだろうかと不安がよぎった。「あなたの幼少期を想像して描いていました」と、「あなたと僕を混ぜた新しい人間を描いていました」の、どちらが気持ち悪くないのだろう。というか、椎葉さん、「この子が好きなんでしょう?」と言ってきたのだから、僕が誰を描いているかわかっていない?


 おそるおそる椎葉さんの顔色を窺うと、彼女の目はまん丸に見開かれていた。


「灯辺、私のこと好きなの?」

「う、うん」

「だから私と、灯辺の子供描いてて、それでこの子が、そうってこと?」

「……はい」


 改めて尋ねられると、まるで裁判で供述させられているようだ。実際犯罪みたいなことしてるし。これって何の罪に当たるんだろう。脅迫……とかかな。なんか犯行予告みたいだし。結婚しないと怖い目に合わせるぞ、みたいな。いつも残酷な絵ばっかり描いてるし。


「あのさ、勘違いしないでほしいんだけど、椎葉さんを描けないからこうして描いただけで、脅迫とかじゃないよこれは。本当に他意はないよ」

「馬鹿じゃないの」


 それは重々承知してる。こんな変態プレイを本人に披露してしまうとは、自分でも考えていなかった。僕は馬鹿だと思うし、椎葉さんによって余計愚かになった気がする。


「……私も好きだよ、灯辺のこと」


 椎葉さんは怒るでも悲しむでもない表情をしている。


 まるで以前展示室で笑ってくれたみたいに。それでいて呆れたように。でも少し頬を赤く染めながら、彼女は笑っていた。

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