ラッセル「真理の知識」
天之奏詩
第1話
ラッセル「真理の知識」
天之奏詩
●日常言語の不完全性について
二十世紀前半に興った言語論的転回。すなわち、言語の分析を中心に据えることによりさまざまな哲学的問題を解決(または解消)しようとする動き。これは、哲学の分野で度々みられる「実在についての問いと思われていた表面上の謎」がその表現形式の持つ不完全性のためではないか、つまり、正しい言語表現を用いることでその大半は消滅するのではないかという主張の上に支持されている。ラッセルはこの点について次のように言及している。
実際ほとんどの伝統的な形而上学が悪しき文法のために生じた多くの誤謬を抱
えこんでおり、それらが関わってきた問題とその成果──と思われているわけで
すが──のほとんどすべては、(中略)「哲学的文法」と呼びうる分野でなされる
区別を、し損なったことによるのだと思われます。(バートランド・ラッセル
『論理的原子論の哲学』第 8 講義、邦訳 186 頁)
以下、日常言語が持つそのような不完全性についてラッセルの理論から提示することとする。
⑴ラッセルのパラドクス
以上三つに加えて、手持ちのテキストに登場した「床屋のパラドクス」にはすべて「自己言及」という共通点がある。
ここで、世界の全てを表現しうる二つの集合を考える。すなわち、「自分自身の要素でない集合(クラス1)」「自分自身の要素である集合(クラス2)」の二つである。クラス 1 に関しては直感的に想定が容易であるが、クラス 2 の可能性を得るには論理的な操作が必要となる。その点について、以下、三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』第三章の解説を参考にしつつ、『論理的原子論の哲学』第 7 講義、168 頁からの内容をまとめていく。
問題は、このようにあらゆるものがクラス 1 とクラス 2 に分類できることが示された上で、クラス 2 のような「自分自身の要素である集合」が導出可能であることが示されたことだ。なぜならば、これにより「あるクラスが自分自身の要素であるか否か」という問いが意味を持つためである。そこで、さらに集合を重ねて「自身の要素ではないすべてのクラスからなるクラス」を作ると、そのクラスはそれ自身の要素であるか否か、と問えるようになる。例えばこれが・・・
・「それ自身の要素である」→ それは「自身の要素ではないクラス」に含まれる。
・「それ自身の要素ではない」→ それは「自身の要素ではないクラス」に含まれない。
↳「それ自身の要素であるクラス」となり前提と矛盾。
つまり、それ自身の要素だとすると要素ではなくなり、要素ではないとすれば要素になる。これがラッセルのパラドクスである。ラッセルはこのような矛盾に対して、次のように述べている。
……[記述が不完全記号であるのと同様に]クラスもまた不完全記号である──
これ がどういうことかについては、いまからご説明したいと思います──とい
う事実です。つまり、一見クラスに関わっていると思われる命題を、その意味を
余すところなく表す言明に直すときには、結果としてどんな言明になるにせよ、
クラスはまったく言及されなくなり、クラスに関することは何も言われなくな
る。だからクラスがそれ自身の要素か否かを問うことは無意味なおしゃべりでし
かないのです。もしクラスに関する言明が、純然たるナンセンスではなく有意味
でありうるなら、それはクラスにまったく言及しない形式に翻訳可能でなければ
なりません。これは絶対に動かせないことなのですが、しかじかのクラスはそれ
自身の要素であるとか要素ではないとする命題は、そうしたやり方で翻訳するこ
とができないのです。(バートランド・ラッセル『論理的原子論の哲学』第 7 講
義、邦訳 170-171 頁)
⑵何があるのか?
「理性的な人ならだれにも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。」ラッセルは『哲学入門』第一章の書き出しをこのような問いから行った。結論から言えば、ラッセルは、直接的な経験によって知られたことに関する言明はどれも間違っている可能性が非常に高く、注意深く議論を重ねない限り、完全に正しい仕方で言い表したとは確信できない、というように主張している。
例えとして、ラッセルは複数人で一つのテーブルに観察した際に発生する現象(色、形、触覚、などの変化)を挙げて、観察時の条件が変わればテーブルの形質も変化し、各人が収集した情報のどれが他より真実であるかは比較できないと述べる。仮に、たった一人でそのテーブルを観察した際にも同様のことが言える。テーブルの周囲を動き回りながら見たり、顕微鏡を通してみたりして得られる情報はどれもそのテーブルから得られたものに間違いないが、それらは互いに異なった情報である。このことから、テーブルがそれ自体としてある特定の色、形、触覚をもっていることを否定しなければならない。では、テーブルはどのようにして観察者に観察されるのだろうか。また、観察者はこのような状態からテーブルを観察可能であるのか。ラッセルはその点について次のように述べる。
テーブルを見るときには、普通こうしたことには気づかないが、それは、見え
ている形から「実在の」形を作り上げるよう経験が教えてきたからであり、生活
の中で関心がもたれるのも「実在の」形のほうだからである。しかし、「実在の」
形は見えるものではない。見えるものから推論されたものなのだ。(中略)感覚
はテーブルそのものではなく、その現象についての真理しか与えてくれないよう
だ。……(中略)実在のテーブルが存在したとしても、それはけっして直接には
知られず、直接知られるものから推論されなければならないのだ。(バートラン
ド・ラッセル『哲学入門』第 1章、邦訳 13-14 頁)
さらに、ラッセルは次のような二つの問いを立てる。
・そもそも実在のテーブルはあるか。
・もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。
これらの問いに回答するためにラッセルはそれぞれ以下のような用語を設ける。物的対 象(実在するもの)、感覚(直接意識している経験)、センスデータ(感覚によって直接的に知られるもの)。よって考察されるのは「物的対象とセンスデータとの関係」である。この点についてはまず以下のような土台を前提としてまとめられる。
五感によって得られるものはセンスデータについての真理にすぎない。
(私たちから独立な対象についての真理の取得は否定)
センスデータは私たちと対象との関係に依存する。
私たちが直接見て感じているのはただの「現象」である。
ここで現実において物的対象とセンスデータとの関係を考えた場合、物的対象はセンスデータを通してその存在を推論されるという形で私たちと物的対象との間に関係を持っているといえる。しかしながら、夢の中での物的対象とセンスデータとの関係について考えると状況は変わり、センスデータからは対応する物的対象が必ずしも推論できなくなる。ラッセルによる例えは次のようなものである。
確かに夢のセンスデータにも物的な原因が見つかる。たとえばドアのバタンバ
タンという音が原因となって、海戦に参加している夢を見ているのかもしれな
い。しかしこの場合、物的な原因があるとしても、現実の海戦と同じ仕方でセン
スデータに対応する物的対象は存在しない。(バートランド・ラッセル『哲学入
門』第 2 章、邦訳 28-29頁)
物的対象とセンスデータとの関係性を明らかにしたところで、ラッセルは「少なくとも視覚の場合には、センスデータそのものが独立な対象であるかのように、本能的に信じられるのだが、しかし議論を通じて、センスデータと独立な対象は同一ではありえないということが示される」(バートランド・ラッセル『哲学入門』第 2 章、邦訳 31 頁)という一つの事実を挙げ、さらに自分とその経験以外のものが存在していることは決して証明できないことを認めざるを得ない、とした。重要なのは、物的対象を根拠に基づいて論証することは出来なかったが、ここでまた新たに「物的対象の本性は何であるか」について問う必要が生じた点である。
物的対象について論証できなかったにせよ、何らかに原因をもってセンスデータは私たちの感覚に働きかける。では、そのセンスデータは何についての現象であるか。つまり、物的対象として扱われるものの本性がセンスデータとどのような関係を持っているのだろうか。
●面識について
いったん、テーブルについてこれまでに考察した内容から記述すると「これこれのセンスデータの原因となる物的対象」となり、したがって、いま私たちが知らなければならないのは「面識している物(センスデータ)とテーブル(物的対象)をつなく真理」である。現状において私たちは「センスデータは物的対象を原因として生じた」ということのみを知り、言いかえれば、私たちが知っているのは「その記述に当てはまる対象がただ一つだけある」ということにすぎない。こうした場合に私たちが物的対象について持っている知識を、ラッセルは「記述による知識」と呼んだ。
さて、物の認識の仕方には二通りある。すなわち、「記述や推論過程を介して意識する」もしくはそのような過程を介さずに「そのものを意識する」場合である。後者が想定しうるのは、センスデータが私たちにとって直接意識されるものであると明らかなためである。このような認識の体系を「面識」と呼ぶ。
面識が重要な意義を持つのは、或る面識関係を面識出来ている場合である。例えば、「テーブルを見ること」を面識するとき、私たちには「面識されるもの(テーブルを原因とするセンスデータ)」と「面識するもの(例えば、自分)」という二つのものが意識される。例えに従えば、「自分がテーブルを見ること」を自分で面識しているとき、面識されているのは「自我-面識-センスデータ」という事実全体となる。このとき、事実全体を面識するとき、私たちは「私はこのセンスデータを面識している」という真理を知る。
これまでの内容を、ラッセルはいったん次のようにまとめる。
私たちは、感覚するときには外的感覚のデータを、内観するときには「内的感
覚の対象」と言えるデータ──思考、感情、欲求など──を面識氏、また、記憶
しているときには、かつて外的感覚のデータであったものを面識している。さら
に確実にそうだとは言えないが、おそらく物を意識したり欲したりするものとし
ての自我を私たちは面識している。(バートランド・ラッセル『哲学入門』第 5
章、邦訳 63 頁)
では「私」と呼ばれている何かが面識されていないのなら、どのようにしてその真理を知りえたのだろうか。また、その真理の意味は理解可能だろうか。この問いについてラッセルは「おそらく自分自身を面識しているのだろうが、そうに違いないと断定するのは賢明ではない」とだけ述べている(ように思われる)。
●物的対象の本性について
ラッセルによれば、ものの「本性」は面識によって知ることができるものである。
ものの「本性」の意味するところが「そのものに関するすべての真理」であることはラッセル自身も認めている。しかしながら、「あるものの本性を知るためには、他のすべて のものに対し、それが持つ関係を知らなくてはならない」という意味で「本性」という語を使うならば、ラッセルによると「私たちはものの本性を知らないときでも、あるいは少なくとも完全には知らない時でも、そのものを知ることができる」とするべきだという。なぜならば、下線部のような意味で「本性」を使うときには「ものの知識」と「真理の知識」を混同しているためである。
具体的に「本性」がどのようであるかについてラッセルはそのものを示してはいない(ように思われる)。しかしながら『私の哲学の発見』第 18 章で次のように言及している。
経験的命題の事実への関係の本性は定義困難なものであるかも知れないが、事
実へ の何らかの関係が含まれていることを否定するようなことは、哲学で霧に
包まれてしまい(曇らされてしまい)、全く明白なことすらも忘れ去った人にし
て初めて可能なことである。(バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第 18
章 7 節 松下彰良 訳)
論点
正確な世界認識を可能とする体系はどのようなものだろうか?
見解
これまで見てきたように、ラッセルは何が明らかに存在するのかという点について直接的に「何か」を示すことはせず常にもの(と想定される概念)同士の「関係」を提示し、論理的な構造に還元した。では、論理的に言える最も単純な構造はどのようなものであろうか。ラッセルはそれを「原子文」と呼び、以下のような体系であるとまとめた。
(例)
「ソクラテスは/人間である。」
(名詞) / (述語)
これはもっとも事実を構成する最も単純な記述である。
物的対象の「本性」は一元論的にそのものが指示されるように成り立つのではなく、多元論的にいくつかの重なりのようなもので示されるものではないか。それは例えば、スピノザの「神と自然の重ね合わせ」、量子論の「粒と波の重ね合わせ」、超ひも理論の「ミクロとマクロの重ね合わせ」のような、容易にはイメージできないような新たな世界の解釈ではないか。
容易にイメージできないというのは、例えば超ひも理論を支える数式によればこの宇宙の空間次元は十次元でなければならないが、三次元に生きる我々にとっては四次元以上をイメージすることは非常に困難なためである。
また、「自我-面識-センスデータ」という体系においても「自我」が面識されるかどうかが問題となり、もしされるとすればだらに「自我を面識しているもの」が面識されるかどうかが問題となる。このことから、世界の真理を認識するにあたっても「ラッセルのパラドクス」ないしは「集合論」「タイプ理論」のような(多重構造的な)体系が示されていることとなる。
ラッセル「真理の知識」 天之奏詩 @yuttaritomio0413
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます