第2話 センセーのギャップ
――――――――
―――――――
―――――
―――
―
「もしもし、鶫下 真乃花(つぐみした まのか)さん」
「イヤ……私にさわんな」
「それは授業中に先生に言っていいセリフですか?」
「(授業中!?)」
ビックリして飛び起きる。目の前には黒板、周りにはクラスの皆、そして私の横には――
「なんだ、センセーか」
「なんだとはなんですか」
センセーは浅いため息をついて私を見る。そうだ、思い出した。ここは教室で、今は授業中で、授業内容は……
「英語だっけ」
「古典ですよ、鶫下さん」
そして私の隣でうるさく茶々をいれるのが、古典の教師、兼担任のセンセー。
名前を、末広 縁(すえひろ えにし)という。なんつーか、古典の教師っぽい名前。
「縁センセー、いま何ページ?」
「今からあなたは廊下に出るので知る必要はありません」
そして有言実行。私は廊下に立たされた。恨みがましく、窓から縁センセーを睨む。だけど縁センセーは私の視線に気づいている癖に、敢えて知らないフリを貫き通した。
――そして、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
キーンコーンカーンコーン
「はあ、廊下に出ると寝れないし足が疲れるな」
ガラッ
「あ」
「今の言葉、聞きましたよ」
「(しまった……)」
最悪のタイミング。教室から出て来た縁センセーは眼鏡の奥を光らせて、分厚い辞典を持ち替えて私を見た。
「放課後、ここに来なさい。あなたが来るまで待っていますからね」
「げぇ……」
ここ――と言われながら渡された紙には「生徒指導室」と書かれていた。端の方に、ご丁寧に「末広」と名字が書かれている。
「ラブレターってことでいい?」
「督促状ですよ。必ず来るように」
「へいへーい」
縁センセーは眼鏡をかけている。年は……いくつなんだろう。若いんだけど古典を教えてるせいか老け込んで見える。背は高い。足も長いし、手の指も長い。あと、髪は茶色。一見、暗く見える縁センセーだけど、モテる要素はある。そういう部分から密かにファンがいると噂で聞いたこともある。
でも、私が気になるのはホクロだ。
「(どうなってんだ、あれ……)」
両耳の後ろに一つずつ、そしてこの前、センセーが前髪をかき上げた時に見えた、前髪の生え際にもう一つ……。すごい特徴的な場所を選んでいるホクロの事が、気になって仕方ない。
「あの点と点を線で結んだら、どんな形になるんだろーな」
ふふと一人笑う。一人だけ。なんたって、私は友達がいないから。
あ、紹介が遅れた。
私、鶫下 真乃花(つぐみした まのか)。高校三年生。
センセーから「生徒指導室に来るように」と言われても、冗談で返せるくらいには生徒指導室に通いなれている問題児。誰かは私のことを不良といい、誰かは私のことを問題児という。場違い、なんて言われたこともあったな。
「(間違っちゃねーけどよ……)」
まあ、この高校は進学校だし?
さっきも授業止めちゃった時に、何人かが私の事を睨んでいた。でも、いいんだ。そいつらは、私にとってはただの他人だから。私には関係のない、ただのクラスメイトだから。
「生徒指導室かーめんどくさ~」
縁センセーから貰った紙をクシャと握りつぶす。だけど、捨てる気にはならなかった。
「ま、行ってやるか。家には帰りたくないし、ちょうどいい暇つぶしだし」
そういえば、さっきの授業で今日は終わりだったらしい。掃除もそこそこに、クラスの皆が鞄を持ってバラつき始めた。
ミーンミーン
「あっつ……」
窓の近くに立っている木に、一匹のセミが止まっている。今夏を生き抜くために、必死に土の中から這い出したんだろう。ただ鳴いてるだけのセミが、いやに必死に感じた。
そんなセミが見えるように、窓の近くに歩み寄る。そして「なあお前」と、セミに声をかけてみた。
「そんなに必死に鳴いたって、七日しか命がないんだよな?」
ミーンミーン
「もっと気楽に生きりゃいーじゃん。
ってか、私の命をあげられるんなら是非ともあげたいよ、お前に」
ミーンミーン……――ミッ
「あ」
鳴いてる途中だというのに、セミは重たそうな体を持ち上げて飛んで行く。まるで「お前の命なんて願い下げだよ」と、そんな風に言われたようだった。
「セミからも嫌われたのか。私らしーな」
曲がった背中を伸ばすために、両腕を天井に突きあげる。
「はー、しょーがね」
縁センセーの所に行くかな。
◇
「――であるからして、あなたはこれまで問題行動を重ねて来たので、この書類に目を通し署名していただきたいのです」
「はぁ……」
メガネをカチャリとかけ直して、私を見つめる縁センセー。眼光の鋭さに、嫌々ながらも返事をする。
思えば、縁センセーと生徒指導室は初めてだ。いつも違うセンセーには呼ばれてたけど……縁センセーは、授業中に廊下を立たせて、それで終わり。それが罰で、それきりだった。
けど、今日は――様子が違う。
「(今日は生徒指導室。ついに我慢の限界が来たとか?)」
これから、こってり怒られるのか――それは嫌だな。そんなことを思いながら、すぐにペンを走らせようとした私に、縁センセーが「待ちなさい」と紙を手で覆った。
「まずは全て読むことです。署名はそれから」
「……めんど」
明らかに面倒くさそうな顔をすると、縁センセーも浅いため息をついた。
「私だって面倒ですよ」
「っ」
ズキッ
そりゃそうだ。誰もこんな問題児なんて相手にしてる時間ねーもんな。時間が惜しいよな。
「(けど私だって、人並みには傷つくんだからな)」
まあ、今更だけどさ。
「ちゃんと読んでいますか?」
「(……はぁ)」
書類の内容なんて全く頭に入ってこない。せめて読んでいるふりをして、目を上下に動かして見せた。そしてやっと、署名をするためにペンを持つ。今度は縁センセーは何も言わなかった。
「はい、出来たよ」
「よろしい。この書類の内容は理解できましたか?掻い摘んでいうと、」
「いい。分かってる」
「言葉にしてみなさい」
「……学校でもいい子になりなさいって、そういう事だろ?」
「そうですね。あなたの場合は、家ではいい子らしいのですが、なぜか学校でのみ暴れて、」
「おい、言い方」
別に暴れてねーし。ただ授業のボイコットをしてるだけだろ。
「でも、親は私の学校での事を聞かねーよ?どうせセンセーらが電話してチクってんだろ?」
確信づいて言うと、センセーは首を振った。そして、「――いいえ」と、私の目を見て答える。
「私が鶫下さんの担任です。電話をかけるか否かは、私が判断しています」
「え……でも、だって……」
だって、学校にこんなに迷惑かけておいて、学校はずっとだんまりしてんのかよ。……いや、自分で自分のことを「迷惑」なんて言ってるけどさ。
でも、そうだろ。私みたいな存在は、学校からしたら迷惑そのものだろ?
「い、言えばいいじゃねーかよ、親に」
「もちろん、他の先生方から何度も助言をいただきましたよ。
電話をするのが怖いなら代わるよ、と言われたこともあります」
「なんだよ、それ……」
なんだ、単なるビビりかよ。私の親も、私同様に不良か元ヤンかって思ってんのか?
「だんじょーぶだって。私の親はさ、その……ま、他人には優しいって」
「他人には、ねぇ」
「そーそー」
「そうですか」
「「……はぁ」」
センセーも私も、同時にため息をつく。はあ、一体なんの話をしてんだか。
チラッ
センセーの背後に、時計がかかっているのが見えた。すぐに帰ろうかと思っていたけど、まだ17時か……。
「(あと二時間は学校にいられるか?)」
そう企んでいた時だった。縁センセーが「では、やっと本題に入れますね」と向かい合った机上で、またメガネをかけ直した。
「本題?って、なに?」
「こんな面倒な書類のために、あなたをここに呼んだのではありません」
「え、いま面倒な書類って言った?」
そっち(学校)が用意した書類だろ?
学校の規則だろ?
教師がそんな事を言っていいのかよ?
でもセンセーは「面倒って言いましたよ」と、また声に出した。
「だって面倒でしょう、こんなもの。学校というのは、とにかく余計なことが多すぎるんです」
はぁ――とため息をつく様子は、本当に書類を「不要の物」と思っているようで――私は安心した。
「じゃあさっき面倒って言ったのは、私の事じゃなくて、この書類のこと?」
――……めんど
――私だって面倒ですよ
すると縁センセーは「当たり前じゃないですか」と書類をパンッとはたいた。
「こんなものを生徒にかかせる暇なんてありません。私は忙しいのですから」
「なんだ……そっか」
ふっと笑みが漏れる。少なからず、その言葉で傷ついていた私がいたから……よかった。めんどいのは、書類のことか。
「しっかし、いいのかよ?センセー”面倒”とか、そんな事言って。爆弾発言じゃないの?」
「あなたになら言っても大丈夫ですよ」
「え」
ドキン
目を伏せながら、しれっとそんな事を言う縁センセー。その言葉に、不覚にも心が跳ねる。
「そ、それって、私のことを信頼してくれてるとか、そーゆー感じ?」
「……」
「……っ」
センセーと目が合う。すると縁センセーは目だけで「ニッ」と笑って見せ、また私を喜ばせる。だけど――
「何言ってるんですか。
友達がいないあなたなら、誰にも言う人がいないから安心――と、そういうことです」
「し、失礼すぎんだろ!」
「事実じゃないですか」
「言っていい事と悪い事があんだろ!」
机をバンバンと叩いて講義すると「じゃあ予め確認しますが」と、顔色を変えないセンセー。
「なんだよ」
「今から聞くことをあなたに言っていいのか悪いのか――それを教えてください」
「本人に確認する時点で聞いてんだろ、それ」
確信犯なのか何なのか……縁センセーは続けて口を開く。
「さっきの事も含めて、あなたに聞きたいことがあるのですよ」
「さっき?」
なんか話をしたっけ?
ダメだ、ろくな会話をしてねーから思い出せねー。
「(センセーは、一体何を聞きたいんだ?)」
ソワソワしたこそばゆい感じが、私の全身を駆け巡る。コイバナか?縁センセーはいかにも奥手そうだからな。落ち着いている雰囲気が、逆に暗すぎる印象に見えるのかもな。
あ!
そーだよ!眼鏡とればいんじゃねーか!
「しっつれー♪」
私はイソイソと、縁センセーの眼鏡に向かって手を伸ばす。だけど、そんな私を、センセーは手ではなく口を使って封じた。
「では、聞きます。
あなたの家庭環境のことです」
「!」
口を使った「言葉」という飛び道具――それは私を、容赦なく切り刻む。
「(今、家庭環境っつったよな……?)」
心臓が飛び跳ねたのが分かった。肩もだらしなくビクついた。私の周りだけの酸素が、心なしか薄くなっている気がする。
「な、なんでそんな事きくんだよ……っ」
強気に出ようと威勢よく答えたが、縁センセーは眉一つ動かさず「ビンゴですね」と言った。まるで何かのゲームしてるみたいな、そんな言い方に、私の眉間にシワが寄る。
「ビンゴならなんだよ。家庭環境が私の問題行動につながってるってゆーのかよ……っ?」
「概ねその通りです。鶫下さんは中学校まではすごく真面目だったと、中学の先生から聞いています。
だからこそ、この進学校にも余裕の成績で入れたのでしょう」
「は?中学のセンセーに聞きにいったのかよ?わざわざ?」
きっも――
だけど、私の言葉は縁センセーには刺さらない。飛んで行かない。私の周りに、私が発した言葉のゴミの山が積まれていく。学校でも、家でも――私の声は、届かない。
「そこで、です。このご時世ですが、一度家庭訪問をしようかなと思いまして」
「は?」
家庭、訪問……?
「どうですか?その日程を今日お伺いしようとお呼び建てした次第なのです」
「……――ッ」
喉の奥がヒュッと詰まるのが分かる。酸素が、ない。私の頭の中、霧でもやがかかっている。
「(くそ、クラクラしてき……)」
ガンッ
「鶫下さん!?」
珍しく必死な声の縁センセー。そりゃそうか。目の前で話していた生徒が、机の上にいきなり頭をぶつけたんだからな。
「ちょっと、意識ありますか?」
顔をグイッと強引に横に向けて、私の頬をペシぺシ叩くセンセー。地味にいてぇ……。
「や、めろ……」
「よかった、意識はありますね」
センセーは一応は安心しているようだが、表情が全然変わってない。授業している時と同じ、すました顔だ。なんだこいつ、鉄仮面か。
「いきなり頭をぶつけるから驚きました。するならすると一言言ってください」
「一言いえばやっていいのかよ。それ完璧に頭おかし―奴だろ…………はあ。
ただの貧血だよ。気にすんな」
「貧血?そういえば鶫下さんは昼食はいつもパンですね?お弁当は持ってこられないのですか?」
「弁当なんかねーよ。自分じゃ作れねーし」
「ご両親に作ってもらえばいいじゃないですか」
「……」
作ってくれるんなら、苦労しねーよ。間違っても「作って」なんていえねーし。くそ、なんで高校は給食がねーんだよ。
「鶫下さん?」
「あ?なんでもねーよ。親も忙しいんだよ。察しろよ」
「でも」
「パンでも総菜パン買えば充分に栄養がつくだろ。大丈夫だっての」
「でも、甚だ疑問なんですよね」
「何がだよ」
頭を起こして縁センセーを見る。その時の縁センセーは少しだけ笑っていて……その笑みが、とても悲しそうに見えた。
「鶫下さんのご両親、お父さんはサラリーマン、お母さんは専業主婦……ですよね?」
「は!?調べてんのかよ!」
本当にキモイな、お前!!
「担任ですから。クラス全員のそれらは、頭に入れとかなきゃいけないんですよ。
で、話を戻します。鶫下さんには、下に妹さんがいますよね?確か、穂乃果(ほのか)さん。この学校の一年生ですね」
「……それが?」
「私、昨日のお昼の時間、穂乃果さんのいる教室の前を通りました。
そこで穂乃果さんはお友達とおいしそうにお昼を食べていましたよ」
「!」
私の唇が震える。そんな私を確認した縁センセーが、「ビンゴ」と言わんばかりに続きを話す。
「でも真乃花さんみたいにパンではなかったですね。
そう、お弁当でした。真乃花さんは、料理がお得意なんでしょうかね?」
「……そうなんじゃ、ねーの」
ダメだ、本当に調子悪くなってきた。頭がグラグラする。吐き気もして……気持ち悪い……。
「そこで私、思ったのです。
まさか鶫下さんのお母さんが、妹の穂乃果さんだけにお弁当を作って、姉の真乃花さんにだけお弁当を作らないとか、まさかそんなことって……ってね。
だから、確認させてください。
お弁当の件――
私の思い違いであっていますか?
それとも、現実に起こっていることですか?」
「――」
縁センセーが、まるで探偵の真似をしている……ように見える。だけど、そんな茶番劇に、私の体調は付き合ってはくれなかった。胃の中のむせかえる物が、下から突き出るようにこみあげてくる。
「もう……ダメ……っ」
「え、ちょ、なんで私の服を引っ張るんですか?」
「た、助け……っ」
「鶫下さんー!?」
うぇ、気持ち悪……。
◇
その後は、散々だったらしい。
生徒指導室で見事に戻してしまった私は、そのまま倒れてすぐに保健室。保健の先生が言うには「問題ない」とのことだけど、ずっと眠りっぱなしだったために、汚物をぶっかけられた縁センセーも一人で先に帰るわけには行かず。
でも服だけは洗っておこうと縁センセーが席を立った――そんな時に、私はやっと眠りから覚める。
「あ、れ……私……」
周りは一面の白。
白、白……。
どこだ、ここ?
シャッ
「私と話している最中に嘔吐したのですよ」
「……」
そんな白の中に浮かぶ、ただ一つの「肌色」。そう、センセーは上半身裸だった。
「生徒の寝込みを襲おうってハラ?」
「冗談やめてください。一体誰のせいで上半身裸になっていると思っているんですか」
ムッとした表情をした縁センセーを見る。なんだか新鮮。
「メガネ、取ってる」
メガネがない分、いつもの顔の三割増しでかっこよく見える。コンタクトにしたら?って言おうかな。いや「余計なお世話です」って一蹴されるか。
「私に謝罪はなしですか?」
また浅いため息をつきながら、センセーは手に持っていたジャージを着る。
「着ちゃうのか」
「着ないと私の首が飛びます」
「ふ、それは私が困るかも」
縁センセーと今日初めて、こんなにたくさん話した。今まで面白みがないセンセーと思っていたけど、からかうとちゃんと反応があるし、私のしょうもない話にも付き合ってくれる。
このセンセーは、面白いかも――
私の本能が、嬉しそうに騒いでいるのが分かった。
「センセーがここを辞める時は、私も一緒に辞めるよ」
「……」
「ね」
お互いの視線がぶつかり合う。センセーの瞳からは、僅かな怒気が見え隠れしていた。
「あなたの場合、本気で思っていそうで怖いですね」
「へ?」
「何でもないです――ほら、もう大丈夫でしょう?行きますよ」
「行きますって、」
どこに?
すると縁センセーはポケットから車の鍵を取り出す。
「送ってさしあげます。あなたの体調不良の引き金を引いたのは、私ですから」
「……そりゃ、どうも」
縁センセーは面白い。一緒にいるともっと話したくなる。だけど、縁センセーだけには知られている。私がどんな人間で、心の中が、どれだけ荒れているかという事を。きっと縁センセーだけは、分かっているんだ――
「センセー」
「はい」
「もっと離れて歩いてくれよな」
これ以上に私の心が見透かされないようにと、虚勢を張るために伝えた言葉。
だけど、
「この学校の廊下が広くない事は、鶫下さんも知っているでしょう?広い廊下のある学校に編入したいなら勉強に付き合いますよ――もちろん古典のみで」
「……ぷっ、なんだそりゃ」
閑話休題。
このセンセー、やっぱおもしれぇや。
◇
「じゃあ動きますよ。シートベルトは大丈夫ですか?」
「あいあいさー」
黒の大きい車に乗り込む。運転席にセンセー、センセーの斜め後ろに私。おお、センセーの頭頂部が微妙に見える。そしていつも私が気にしている耳の後ろのホクロも見えた。
「先生のホクロって面白いよな」
「ホクロの形がおかしいと、悪い病気らしいですよ」
「いや、羅列がツボ」
「羅列……?」
少し首を傾げただけに終わった先生は、無言でアクセルを踏み込んだ。縁センセーらしい、緩やかなスピードで出発する。
「私、伏せてた方がいい?」
「一応学校に許可をもらい、お家にも連絡を入れているのですが……そうですね。妙な噂をされるのも面倒なので、伏せてもらっていいですか」
「(いま面倒って言ったな……)」
不服に思いながらも、外から見られないように車の窓枠の下まで身をかがめる。小さい頃は余裕でできていたのに、高校生になった今じゃちょっとキツイ。
「センセーが人気者じゃなくて良かった。きっと皆、気づかず素通りしてくれるな」
「ここであなたを降ろしてもいいんですよ?」
校門を出てしばらくしたので、体を起こす。するとミラー越しに、センセーと視線がぶつかった。
ドキッ
いつも辞書を片手に持っている先生が、今日はハンドルを持っている。しっかりと、両手で……。
「ぷっ」
「何ですか」
「いや、カッコいいーなーって、そう思っただけ」
「……大人をからかうもんじゃありませんよ」
両手でしっかりハンドルを握り、私の負担にならないようにゆっくりブレーキを踏んでくれ、ゆっくりアクセルを踏んでくれる。縁センセーの車の乗り心地は、とっても気持ちい。
「センセー、また私を車に乗せてくれよなー」
「イヤですよ、またあなたの汚物をかぶれって言うんですか」
「何回汚物ってゆーんだよ。これでも一応女子だからな」
フンッとふんぞり返っていうと、センセーはまたミラー越しに私を見た。
そして――
「知ってますよ。あなたが可愛い女の子だって」
それだけ言って、フッと笑う。
ドキッ
「(ん?あれ?)」
今日何回目かになるか分からない「ドキッ」が、私を襲う。
「なんか、まだ体調悪いかも」
「ちょっと、車を汚物で汚したらいくら何でも怒りますからね」
「車じゃなくて、私の心配しろよな」
ブーブー文句を言うと、センセーはいつもより余裕のない声で答える。
「いいえ、車の心配が優先です!納車したばかりなんですから」
「へぇ、やっとお金溜まったんだ」
キキキーッ
珍しく、先生の運転が乱暴になる。どうしたのか心配になったけど、先生はしっかりとブレーキを踏んだまま後ろを振り返った。そして赤い顔をして「悪いですか」――そう言った。
「教師二年目なんてそんなもんです。言っておきますが、私のお金遣いが荒いわけではないですからね?着々と貯金をして、やっと新車を購入できたんです」
「そ、そう……ですか……」
「それにねぇ、世の中にはローン払いというものがあるんですよ!」
「わ、わかったから前を向け!ちゃんと運転しろ!」
「もう」とか言いながら、怒ったような照れたような雰囲気のセンセーは大人しく前を向く。私は初めて見るセンセーの表情に、心臓がバクバクと音を立てていた。
だって普通にビックリした……。
「(けど、縁センセーでも照れることあるんだな)」
すると信号が青になったのを確認したセンセーは「動きますよ」と忠告してくれる。
「ねえセンセーさ、もしかしてこの車に乗せるのって、私が初めて?」
「何言ってるんですか」
「(なーんだ、違うのか)」
少し残念がった、次の瞬間。
「納車して少ししか経っていないんです。あなたが初めてに決まってるじゃないですか」
あ、ウソ。
私が最初?
しかも、しかもしかも、
「(あなた……だって)」
ドキッ
何だか大人な呼ばれ方をしたみたいで、慣れない事に心臓がまた跳ねる。
「(なんか今日は心臓が忙しいな……疲れかな?)」
その後センセーは何も言わなかった。どうやら安全運転に徹しているらしい。だから私も余計な事はあまり喋らずに、ただ黙って座る。
「(うん、静かなのも――いいな)」
二人だけの放課後ドライブは、なかなかに楽しいものだった。
◇
「もう、ここで降ろしてくれ」
「でも、あなたのお家はこの先ですよ?」
「いいから。もう歩ける、大丈夫」
「保護者の方にも”お家まで送る”と連絡済みです。だから送ってさしあげます」
「!」
そうだった、連絡してあんのか……。
「(けど、いや……やっぱダメだ)」
自宅までは、あと三分くらいで着いてしまう。家の前なんかで降ろされたら……縁センセーの顔も、車も――見られちまう。知られちまう、あいつに。
「いい。ここで降りる」
「強情ですね、いいから家まで、」
「ここでもう一回、オエッと吐くからな?」
「すみやかに降りなさい」
脅し文句を言って、ようやく先生は私を開放してくれた。
と言っても、
「周りに他の生徒がいないか、きちんと確認してからドアを開けなさい」
「へーへー」
私の心配というよりは、車と自分の身の心配をするばかりだったけど。
ガチャ
周りに誰もいない事を確認して、ドアの取っ手に手をかける。
「じゃ、世話になったな。ありがと縁センセー」
「……ちょっと待ちなさい」
パシッ
ドアを開けようと、手に力を込めた瞬間――センセーは私の手を器用に握った。運転席からここまで、どういう体の捻り方してんのか不思議だったけど、握られた手が熱く疼く。
「な、なに?」
「あなたに一言、これだけは言っておこうと思いまして」
「(あなた……)」
あなたって、また言った。その三文字が、どれほど私を緊張させるか――センセーは全く知らないんだろうな。
「これだけは……って。どうせ、しょーもない事なんだろ?」
すると縁センセーは「いえ重大な事です」と言う。真剣な目だ。
「ここに来るまでに公園がありました。大きくも小さくもない、普通の公園です」
「は?それが?」
「いえ、ただ……鶫下さんが、まだそこで遊ぶことがあるのかと思いまして」
「……ふん」
ドキドキして、損した。
「センセーがモテない理由が分かったわ。何でもかんでも包み隠さず暴こうとすんのは、女に嫌われるぜ?」
「私はただ、」
「はいはい。送ってくれてあんがと、じゃね」
バタンッ
半ば恨みも込めて、扉を閉める。センセーは車中から怪訝そうな顔して私を見たけど、すぐに音を立てて去って行く。だけど走り去る音さえも静かで……その静寂は、縁センセーそのものだった。
「はぁ。楽しかったな……」
久しぶりに、こんなに喋った。
しかも相手は、あの縁センセー。
「ぷっ」
どんな状況だよ。今更ながらに、ありえないシチュエーションに吹き出してしまう。
だけど――
「あら、真乃花」
「!」
その一言で、私の顔から笑みが消える。
この声は――
「た、ただいま――母さん」
「うん、おかえり」
振り返ると、そこには母がいた。笑みを浮かべて私に近づいてくる。その足取り、手の動かし方――全てを凝視してしまう。
今にも、あの手が私を――
次には、あの足で私が――
頭の中には、嫌な事ばかりが浮かぶ。だけど、私の目は更に、母の持っているカバンに向かった。母はいつも大きなカバンを持ち歩く。その中に、何が入っているのか――想像するだけで戦慄した。
「(包丁とかだったら、マジで笑えねぇ)」
冷や汗を垂らしながら、だけど、いつでも母から逃げられるように体に力を入れる。母にばれないように、こっそりと。心臓がトクトクトクと早打ちする。
クソ。親に会っただけでこれかよ、みっともねぇな……。
私の戦闘態勢にも気づかず、母はのんびりとした声で話す。
「家まで先生が送ってくれるって話だったけど、歩いて帰ってきたの?」
「え、あ、いや……途中まで送ってもらった」
センセーの車の中で必死に考えた言い訳を述べる。
「ほら、家の前って道幅が狭いから」
すると母はニコリと笑う。
「あら、じゃあ――先生のお車は大きいのねぇ?」
「!」
縁センセーの情報を、何一つ、母に渡したくない。渡したら、どう使われるか……。パズルを組み合わせるみたいに、頭の中で最適な答えをはめてみる。
「(……うん)」
よし――これだ。
「いや、そうでもなかったと思うけどな。ほら、センセーの車って乗るだけで緊張するし……マジマジとは見なかったよ。それより、どうしてここに?」
というより、いつからここに?
先生の車見た?
先生の姿みた?
私が聞きたいのは、こういうことだ。ソフトに、遠回しに、勘づかれないように――まるで世間話のように聞くことに努める。
「そろそろ真乃花が帰ってくる頃だと思ったのに、いつまでも声がしないから……まさか倒れてるんじゃないかって心配になったのよ」
「そっか、ありがと。ここで会えてよかった。すれ違いにでもなったら大変だしね」
「そうね」
「ところで、」
まだ情報を引っ張り出してやろうと、私が口を開いた時――
「あっれー?ママとおねーちゃんじゃん」
「穂乃花……」
妹の穂乃花が、私と母をジッと見ていた。
「ほのちゃん!おかえり~今日はどんな一日だった?」
「別にー。普通」
そう言いながら、帰りに買ったであろうジュースを、ストローでちゅうちゅう吸う穂乃花。私をチラリと見た後「あ、でもぉ」と怪しく笑った後に私を見た。
「お弁当、ちょーおいしかったよー。特に唐揚げが最高」
「!」
「本当?頑張って作った甲斐があったわぁ~」
穂乃花が褒めると、母は心の底から嬉しそうに笑う。だけど、反対に顔を歪めたのは私。そして、そんな私を嬉しそうに見るのは――穂乃花だ。
「(また、始まったな……)」
物心ついた頃から、なぜだか私は穂乃花に嫌われている。いや、きっと、暇なんだ。暇だから、やることがないから、私を邪険に扱う母に興味を示し、時には一緒になって私を奈落の底につき落とす。
「(さみしー奴だよな。穂乃花も)」
だけど、穂乃果は……人の表情を読み取るのがうまい。現に、私が今、穂乃花に対してよくない事を思っている事も、瞬時に読み取る。そして、即座に復讐の算段をたてるのだ。
「ねーおねーちゃん。おねーちゃんも、私と一緒のお弁当をママから作ってもらえばいいのにー」
「え……」
そんなこと、出来るワケねーだろ。
前に、穂乃花からそう言われた事がある。あの時は「ママがおねーちゃんのお弁当も作りたいと言っていた」とウソを言われた。そして――その言葉を鵜呑みにしてしまった私が「弁当を作ってほしい」と母に進言すると、張り手が飛んできた。その晩のご飯を抜きにもされた。その後、自室でみじめったらしく腹を鳴らしている私を、穂乃花はドアの隙間からほくそ笑みながら見ていただけだった。
母から手作り弁当を作ってもらえる穂乃花と、作ってもらえない私――
言葉にするとそれだけの関係で、だけど、実際は他の家庭では考えつかないほどの深い溝がある。
「ね、おねーちゃん?聞いてんの?」
「(あ、しまった)」
考え込んでしまっていた私を、穂乃花と母が正反対の表情で見ていた。笑う穂乃花と、眉間にシワを寄せる母。
弁当を作ってくれだって?
んなこと、言えるわけねーだろ。
「私はいいよ。今のままで」
言った瞬間、母の眉間からシワが消えて、代わりに笑顔が現れた。私は選択を間違えなかったのだと、ホッとする。
「じゃあ、帰りましょ」
「はーい」
「……」
「真乃花?」
「え、あ、うん。ごめん、帰るよ」
母に呼ばれるまで私が見ていたのは――目と鼻の先にある公園。
そこは、私の逃げ場所。
唯一の、心の支え。
「(今日も行くからな)」
縁センセーは、
――ここに来るまでに公園がありました。大きくも小さくもない、普通の公園です
――いえ、ただ……鶫下さんが、まだそこで遊ぶことがあるのかと思いまして
そんな事を言っていたけど……なんで、そんなことを知ってんだか。
「(厄介な奴が担任なのかもしれねーな)」
ため息を一つ吐いて、穂乃花と母の後を追う。家に着くまで、私が二人の隣を歩くことはなかった。
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