溺れるクラゲ
なすみ
本文
制服の衣替えから数週間が過ぎた頃。もう秋になったと感じる程、特に朝と夕は冷え込むようになった。早くも色付き出した植え込みと、その根元で茶色くなっているねこじゃらしを見て、華奈はブレザーの襟を手繰り寄せた。
吹奏楽部の奏でる音と、運動部がランニングする掛け声を背中に感じながら、速足で帰路を急ぐ彼女には、一緒に帰宅する友達はいない。だから登校時はあれほど人が多かった道も、帰るときには同じ制服を着ている人はほとんど見えない。
夕方には1桁まで下がる気温のため、殆どの生徒が何かしらの上着を着用して、登校している。しかしそんな防寒着すら持っていない彼女は、秋の風が吹く度に、寒さを耐えるように肩を寄せ、カバンを持ち直した。
昨日の夕方は、こんな寒い中、一度スーパーに寄って、重い買い物袋を下げながら家まで歩かなければならなかったことを思う。これでもまだ寒い思いをしなくて済む方かな。心の中で自分を慰めた。
そうして10分程歩いて、自宅の前に着く。その頃にはすっかり手足が冷え、さらに空腹で胃酸が過剰に出ているせいで、針でも飲み込んだかのように胃がきりきりと痛んでいたが、だからと言って帰宅しない訳にはいかない。
帰りたくないな。心の中で思いながら、冷たい門扉に手を掛ける。
自宅は、このあたりでもなかなか見ないような豪邸である。中学一年生の時に、初めて引っ越して来た際、華奈は驚きを禁じ得なかった。
以前住んでいた人は退去し、空き家になっていたらしく、それを家ごと父が買い取ったみたいだったが、華奈の記憶が正しければ、買取時、父は母と離婚し、一人だったはず。それがなぜこんなに大きな家を、と訝しんだものだが、今となっては何となく想像も付く。
あの父親のことだ。大方、見栄を張って、購入したのだろう。とにかく人からの見え方を気にして生きているような人だ。そのくせ、自分の娘からはどう思われていようとあまり気にしていない。
非常識とすら思える大きさの家に住み始めてから、華奈はすぐにそう思った。
それに、これほど敷地も広く、周りもレストランやビルが多い立地だ。普段の行いも、喧騒に紛れて周りに知られることがないだろう。
門扉を施錠して、庭の石畳を少し歩いてから小さな階段に足をかけ、やっと玄関にたどり着く。鞄の中から渡されている鍵を引っ張り出して、鍵を開ける。
華奈はそこで一呼吸ついてから、慎重に、中を伺う様にして開けた。
そうしないと、もし鎖が外れていた場合、飼っている犬の餌になってしまうから。
「ワンワンワンワン!」
ガシャガシャと、柵を揺する音。そして、華奈の方に向かって、鋭く尖った牙を剥く、ジャーマンシェパード。華奈はほぼ毎日のことながら、すっかり足が竦んでしまって、その場に立ち尽くしてしまった。
すると程なくして、階段の方から父の声が聞こえてくる。華奈はその声に、父が珍しく自分より早く帰ってきているのだと知る。そして、無意識に顔を顰めた。
「おい、うるさいぞ」
階段を下りてきた父は、そういって玄関の方まで来る。それを合図に犬は牙を剥き、唸っていたのを辞め、父の足元で座った。
警察犬として有名な犬種だからか、頭は良いらしい。
「すみません」
華奈は恐怖で唇を震わせながらそういうと、家の中に入って、そっと後ろ手に扉を閉めた。
別に何か、これまで犬にトラウマがあったわけではない。むしろ、この家に来てからそのトラウマを植え付けられた、というのが正確だろう。
恐る恐る、靴を脱いで端に寄せ、柵に手をかけ——。
「アックス」
華奈の動作に再び、警戒するように唸り出した犬、アックスを手早く静止して、父は足元を指さす。すると伺うように父を一瞥した後、アックスはようやく、警戒を解いたようだ。ゆったりと父の方へ歩み寄る。そうして足元に伏せて、耳を寝かせた。
その頃にはすっかり恐怖に全身を支配されていた華奈は、震える手でようやく柵を閉め、呼吸すら忘れていたことに気付く。
「あのな、いつも言ってるだろ」
アックスを従わせたまま、父は言う。
「いつもいつも、帰ってくる度に吠えさせるな。鬱陶しい」
「……ごめんなさい」
賢い犬というのは、主人が敵視している相手に対して、自らも牙を剥くのだという。どうやらアックスにすっかり警戒されている華奈は、この家に越してきてから早2年が経とうとしているが、それでも尚、帰宅の度に吠えられ、その都度父が止めに入る。というのが恒例になっていた。
他でもないその父が、アックスをそうさせている原因なのだが。
「とにかく、気を付けろ。お前と違って、俺は暇じゃないんだ」
鬱陶しそうにそういって、父は踵を返す。それに追従してアックスも、リビングへと向かっていった。
華奈は再び、軽く息を吐くと、柵が勝手に開かない様に閂をかける。そしてまだ震えている膝を感じながら、荷物を置くために2階へと上がった。
自室に入ると、カバンを下ろす。ブレザーをハンガーにかけ、この後のために持って帰ってきた教科書を机の上へ置き、机の傍へカバンを置く。
果たして勉強が出来るほどの時間が、就寝までに確保できるか分からないが、しかし用意しないでおくと、忘れて寝てしまいかねない。華奈にとって、学校で過ごす時間より、家に帰ってきてからの方がよっぽど忙しかった。
卓上の時計を見ると、18時を回った頃。これからすぐに晩御飯の支度をしなければならないが、洗濯機も回しておきたい。
普段からしていることなので、今に始まったことではないが、華奈は父が帰宅しているという事実に焦りを憶え、慌てて自室を出た。そして、急かされるようにして階下のリビングへと向かった。
扉を開けると、父が丁度、冷蔵庫からビールを取り出しているところだった。華奈は腕をまくりながら近づき、声をかける。
「あの、お父さん」
返事はない。嫌われている自覚はあるし、別に華奈も父を好いているわけではない。
ただ、普段なら父が先に帰宅していた時は、自室からアックスを大声で呼んで止めるところを、今日はわざわざ降りてきて小言を言ったりしていたことを思い出す。ひょっとして、少し気が立っているのだろうか。
「洗濯を回そうと思うんですけど、先にお風呂……入られますか?」
慎重に言葉を選びながら、華奈は口を開く。
しかし父は、目線も向けないまま無言で缶を開け、ビールを煽った。そして、勿体ぶった様に振り向く。
「わざわざ訊かなくても、それくらい分かるだろ」
「あ、えと……」
これには華奈も、言葉が詰まる。内心では、分かる訳がないと呟いた。
いつも父は夕食の、前か後に風呂へ入るのだが、その前に洗濯してしまった時は、酷く怒られた。
そして、前か後かは、その時の気分次第であると、少なくとも華奈は考えていたからだ。
返答に詰まる華奈を見て、父は不機嫌そうに舌打ちをすると、缶を手に持ったまま、ゆっくりと近づいてくる。そして手の届くところまで来たとき、父は缶の底で、華奈の額を小突く。思わず目を瞑り、過剰に身体が反応する。
「何も考えずに過ごしてるから分からねえんだよ。お前は気楽でいいな」
「……すみません」
「すみません、すみませんって」
鼻で笑って、父は持っていた缶をひっくり返す。
「わっ」
「風呂は後だ。俺がビール持って風呂に入ったことあるか? 考えてから喋り掛けろ」
頭を伝って、制服と身体を冷たいビールが伝う不快感を感じながら、華奈はしかし、何かを言い返したりするでもなく、ただ黙っていた。
こういう時、言い訳をしたり、反抗するよりも、ただ嵐が過ぎ去るのをじっと待つのが、父の怒りを鎮める最適解だと華奈は知っていた。
すると、やがて父はつまらなさそうに鼻を鳴らし、その場を去った。その後をついていくアックスが、フローリングを爪でカチカチと音を立てながら歩き去るのを待って、華奈はビールが目に染みて、手で拭う。
こういった扱いは、今日に始まったことではない。華奈も今更、腹を立てたりはしない。ただ、外気で冷えた身体に、追い打ちをかけるように掛けられたビールの所為で、僅かに身震いをするだけだった。
いつも風呂は父の後と言われているので、華奈は濡らしたタオルで手早く身体と髪を拭き、学校指定のジャージに着替えた。そして、そのタオルと水を張ったバケツを持って、床に撒き散らされたビールと自分の足跡を掃除した。そうしている間にも夕食の時間は刻一刻と迫っている。急いで支度をしなければ、また父に怒られてしまうだろう。そうなれば、次はこの程度では済まないかもしれない。これ以上、傷を増やしたくない。
洗面所でタオルを繰り返し濯ぎながら、指先が冷えて赤くなっていく。
果たして、何とか時間になって父がリビングに再び現れるまでに、料理の支度は間に合った。幸か不幸か、殆ど1人前だけ用意すればいいので、時間は思っていたよりもかからなかった。
無言で椅子に座った父に、華奈は声をかけて缶ビールをを差し出す。それをやや乱暴に受け取った父は、そのまま口も利かずに、目の前へ並んだ料理に箸をつけ始めた。
その間、華奈はというと、向かいに座って一緒に食事をする、訳ではない。
この家に来てすぐ、父に、お前の汚い食い方を見てると食欲が失せる。俺が食い終わった後、勝手に一人で食べてろ。そう言われて以来、父が食べ終わった後を見計らって、急いで食事を摂っていた。
なのでその間、華奈はというと、なるべく父の機嫌を損ねない様に注意しながら、アックスの食事を用意するのだった。
引き出しからドッグフードと皿を用意する。カラカラと音を立てて、餌皿にフードが満たされていく。華奈は、自分だけが食事すら厳しく制限されていることに、しかし腹を立てる気力も削がれていた。
昼食を持っていくことも、まして朝食を食べることも許されていない彼女は、いつもこの時間になると、胃酸を吐きそうな程、腹を減らしていた。あまつさえ昨日は父の機嫌を特に損ねてしまい、一日に一度しかない夕食すら、罰として食べさせてもらえなかった。ひょっとすると、今日の父が苛立っているのは、昨日の出来事をまだ怒っているのかもしれない。
餌を用意している華奈の傍、ではなく座っている父の足元で伏せているアックスは、待ち遠しそうに尻尾を振って、華奈の方を見つめている。しかし華奈は対照的に、出来上がった餌皿を持つ手が震え、今にも取り零してしまいそうだった。
何もしていないのにそんなことはあり得ない、と分かってはいても、もし餌皿をアックスの前に差し出した瞬間、自分の手に噛みついてきたら、飛び掛かって襲われたら、そう思うと、気が気ではなくなる。
新聞を見ながらゆっくり食事をしている父の足元に近づき、少し遠くの方から餌皿を滑らせるようにして差し出す。アックスは目の前に出されたフードこそ嬉しそうに尻尾を振ったが、警戒している人間が近づいてきたことに対して、ふっと立ち上がると、ぎろりと睨みつけ、口を閉じたまま小さく唸った。
その様子を横目に見ていた父は、意地悪く口の端を吊り上げる。
「ふん、アックス、噛みついてやれ」
「お、お父さん……!」
父のそれは軽口であったが、言われる華奈にしてみれば堪ったものではない。ここまで父の言うことを忠実に聞くこの犬が、冗談を命令と捉えて噛みつく可能性は大いにある。そう考えて、咄嗟に立ち上がり、後ずさりをする。
しかし父は、アックス以上に気迫のある顔で、そんな華奈を睨みつけた。
「なんだ、文句でも言いたそうだな。口答えか」
途端に、首筋にナイフでも押し当てられたかのような恐怖が華奈を凍り付かせる。
「違います。ただ、その、怖くて」
「怖い? 馬鹿を言うな。アックスがそんな程度で噛みつく訳ないだろ。お前よりよっぽど賢いんだぞ」
華奈が後ろに下がったせいで、より強く唸っているところを見て、とてもそうは思えなかったが、しかし父に早くしろと急かされて、華奈は再び、ゆっくりとアックスの前に、餌皿を置き、すぐに離れた。
直後、父の良し。という声で、飛びつくようにして齧り付いたアックスは、餌を貪り始める。
それを満足そうに父は見ていた。
「いい食べっぷりだな、アックス。お前は俺の言うことをちゃんと聞くし、駄目と言ったことはしない。本当に賢い犬だよ」
嫌味として聞こえた華奈は、胸を締め付けられる思いをしながら、台所の鍋を洗いに戻った。
これほどまでに、父と飼い犬から蛇蝎の如く嫌われている華奈が、それでも家を離れたり、それこそ然るべき機関へ助けを求めないのは、華奈に知恵や手段が無い訳ではなかった。
学校に通うことを許されず、座敷牢に閉じ込められるわけでもなく、通学を許されているし、学校で自分から告発すれば、自宅に捜査が入るのは確実だろう。
それをさせないのは、今際の際、母が彼女に言った言葉だった。
お父さんは、弱い人だから。
わたしは上手に出来なかったけど、あなたなら出来るはずだから。
それが母の本心だったのか、それとも娘を残してこの世を去ることに罪悪感があり、過去の思い出が美化されていただけなのか。華奈は、未だにその答えを見つけられていない。だが、少なくとも中学を卒業し、働ける様になるまでは、父の保護が必要不可欠だった。
施設での生活にも抵抗があった。華奈は、そこを刑務所のような所だと想像していた。
皆との共同生活は難しいだろうし、勉強するための環境だって、整っていないかもしれない。だったらまだ、この家でいくつかの不自由と暴力に甘んじている方が楽だと考えていた。
とはいえ、それで精神が摩耗しないわけではない。
父が夕食を済ませた後、今日は自室に戻らないらしい。リビングでテレビをつけて晩酌を始めた時、華奈はもどかしさを憶えた。
早くお風呂に入ればいいのに。
父の食べ終わった食器を洗いながら、彼女は父を一瞥した。
ソファに座って、足元にアックスを携えながら、退屈そうにテレビを見る姿は珍しかった。きっと父は、華奈が風呂に入るタイミングを気にして、わざとリビングに留まっているのだろう。
皿がカチャカチャと触れ合う音に交じって、空腹で腹が鳴る。華奈は耐え兼ねて、乾燥棚に置いたコップを手に取り、水道水を注ぐ。
それを、まるで人目を忍ぶようにして、一息に飲み干すと、すぐ流しの中へコップを隠した。
この家で華奈がする行為は、ほとんどすべて、父の気に障るといっていい。父は、何がそんなに気に入らないのか、それすらもはっきりと説明せず、華奈の行動に難癖をつけてくる。
冷たい水が空の胃袋へ流れていくのを感じ、華奈は不快感で顔を顰める。
洗い物が終わり、ふと父に目をやると、丁度父は飲んでいた缶を空にしていた。近くのごみ箱に放り込んで、冷蔵庫の方へ向かってくる。
華奈が使っている流しの奥に冷蔵庫があるので、彼女は慌ててタオルを掴むと、手と周りの水気を拭く。しかしその間にも、酔って顔の赤らんだ父が、フローリングをひたり、ひたりと近づいてくる。
一瞬、この場を離れるべきかと思ったが、すぐに思い留まって、華奈は冷蔵庫に手を掛けた。
その頃には父もキッチンへ入ってきており何もしないでいるとまた怒られそうだと考え、冷蔵庫からビールを取って父に手渡そうとした。
「邪魔なんだよ」
華奈が手渡そうとした瞬間、背後から伸びてきた手に髪を掴まれ、痛みを感じる暇もなく、その場に引き倒された。
二人が並ぶのも窮屈なキッチンで、華奈は横に足を踏み出すことも、手を着くことも出来ず、肩と頭を床に強く打ち付けた。
まるでスイカを膝程の高さから床へ落としたような、鈍い音が頭の中に反響し、耐え兼ねて呻き声を漏らした。肩にも鈍い痛みが走り、冷や汗がだらだらと流れる。
いっそ、このまま痛みに身を横たえたままにしたいと思った。
しかしこの家で、そんな悠長なことは許されない。
そのまま身体を起こし、四つん這いになった華奈は、悲鳴混じりの吐息を漏らしながら、這う這うの体で、必死にキッチンから逃げ出した。
その時、父は冷蔵庫から乱暴にビールを2本掴み、冷蔵庫の扉も閉め損ねたまま元の道を戻りかけていた。その目には、華奈を心配する色が微塵も見当たらない。
ごみ箱の隣で膝を抱え、恐怖に蹲る華奈を見て、父は見せつける様に隣のごみ箱を強く蹴り飛ばした。中身の生ごみや空のアルミ缶が散乱し、華奈の怯え切った悲鳴が狭いキッチンに響いた。
響いた。
「……」
父はがたがたと震え、顔を伏せて小さく呻く華奈の傍に屈む。空いている手で頭を押さえつけ、髪を引いて顔を上げさせた。目を固く閉ざし、大粒の涙を頬に伝わせ、歯をかちかちと触れ合わせている華奈。父はその顔を更に自分の方へ引き寄せる
「目開けろ」
低く唸った。しかし、パニックに陥り、命令に従う余裕もない華奈は、ただ首を小さく横に振るばかりである。
父は舌打ちして、掴んだ頭を手前に引き、そのまま後ろの壁に叩きつける。
またしても鈍い音が響き、父はそのまま、壁に頭を押し付けた。
「目を開けろって言ってんだよ。聞こえないのか?」
耳の奥がビリビリと痛むほどの大声に、華奈は小さく譫言の様に謝罪を口にしながら、恐る恐る目を開ける。その視界に広がっていたのは、無表情で冷酷な父の顔だった。
「すみません、すみません、すみません」
「いいか。俺の邪魔をするな。追い出されたいのか?」
「い、嫌です」
それだけは。というように手を伸ばし、華奈は必死で父の裾を掴む。
「だったらどうするべきか、分かるだろ」
呆れたように言い、手を離す。立ち上がりざま、背中越しに吐き捨てるように言った。
「晩飯、食うなよ」
それは罰として、父が良く口にする言葉だった。一日に一食しか食べることを許されていない華奈にとって、これはとても辛い罰であり、昨日から何も食べていない華奈にとっては、猶更耐え難い苦痛だった。
——また今日も?
驚きと焦りから、慌ててその場に手を着いて、父を呼び止める。
「待ってください。わたし、昨日もご飯、食べていなくて……今日も食べなかったら、本当に……」
それは育ち盛りの子供による、切実な叫びだった。
それを聞いて、父は足を止める。
「き、昨日のことは謝ります。すみませんでした。今度は洗濯物を干し忘れたりしません。約束します。誓います。今日のことも、もう二度としません。ですから」
華奈は四つん這いのまま、頭を下げる。
「お父さん、お願いします。ご飯を食べさせてください」
床に頭をこすりつけ、瘦せ細った手足を揃えて懇願する様は、とても惨めだ。涙と鼻水が混ざり、鼻の奥にツンと痛みが広がる。
父は果たして、そんな華奈の様子を振り返って認め、その場に缶を一本置いて、もう一本を開けながら、傍へ近づく。
そして、浅黒い足で、華奈の頭を踏みつけた。
「お前な。そうやって土下座したら、なんでも許してもらえると思ってんだろ?」
体重を乗せて踏みにじる。華奈は惨憺たる思いに襲われながらも、必死で謝罪を繰り返す。
「そんなつもりじゃありません」
「だったら乞食みたいに土下座する以外で、出来ること、あるだろ」
そういうと、父はようやく頭から足を離し、二階への階段を登っていく。
父の言わんとすることが理解できる華奈も、逡巡したのち、より一層暗い表情を浮かべ、父の置いていった缶ビールを手に持って、その後を追った。
先に部屋へ入って行ったらしく、閉まっている父の扉の前に立った華奈は、もう一度、考えた。これをして食事を貰うのは、今に始まったことではない。しかし、それは何度繰り返したところで気持ちの良いものではなく、むしろ、その後に食べる食事は、とても喉を通るようなものではなかった。
しかし、明日ももし食事を与えられなかったら。そう思えば、きっと、先か後かの問題なのだろう。華奈はそう自分自身を納得させ、曇らせた顔のまま、扉をノックしようと——。
「なにやってんだ」
背後から聞こえてきた父の声に、華奈は驚いて後ろを振り返る。
そこには父と、アックスがいた。
それに気づいた華奈は一瞬、腰が抜けそうになる。
「早く入れ」
不機嫌そうな父はそう言って、ビールを煽る。華奈は小さく返事をすると、急かされながらドアノブに手を掛ける。そして恐る恐る入ろうとしたところを、後ろから父に背中を蹴られ、転がるようにして入室した。
父とアックスが後に続き、彼らはそのまま、父の机へと向かう。アックスはいつもの定位置、机の左側にある犬用のベッドへ入る。何度かそのままぐるぐると回り、大きな爪でクッションを掘るような所作の後、尻尾を巻いて、落ち着いた。
父も椅子に深く腰掛けると、溜息を吐いて机に向かった。
華奈だけが一人、どうするべきかは分かっていながら、何とかならないか、等と淡い希望を抱いて、入り口の傍に立ち尽くしていた。
やがて父がそれを見て、口を開く。
「おい、さっさとしろ。いつもやってることだろ」
苛立ちを隠そうともせず、父は不機嫌に眉を顰める。華奈は今にも泣き出してしまいそうな程、胸の奥が痛んだが、必死に自分を押し殺して傍へ寄る。
「失礼します」
呟くようにそう言って、その場に腰を下ろす。それから、四つん這いで這うようにして、机の中、父の足の間へ潜り込む。
初めの頃は何度も机に頭をぶつけて、作業中の父に怒られたりもしたものだが、今では多少スムーズに入ることが出来る。
その様子を視界の端で捉えながら、父はキーボードを用意して、パソコンを動かし始める。不規則にタイピング音が鳴り、机の傍で丸まっているアックスの吐息を感じながら、華奈は諦めたような表情を浮かべ、そして父のズボンに手を掛けた。
チャックを開け、ボタンを外す。下着を少しずらすと、華奈は覚悟を決める様に固く目を閉じながら、それを口に咥えた。
不快な感触と匂いが口から鼻へ抜け、気持ち悪さから、嘔吐の前兆のように、唾液が口いっぱいに広がる。そして汗だろうか。若干の塩気を感じて、眉を顰める。
程なくして、その三割も口に入らなくなるほど屹立したところで、教え込まれたように、狭い隙間で正座を組み直すと、まだ中学三年生の、未熟な手と口を使う。
華奈が涎を垂らすまいと啜る度に、脈動するかのように蠢くそれは、初めのうちこそ父も余裕を持って、華奈の奉仕を受けていた。
しかし、その状態でしばらくしていると、やがて父はキーボードから手を離す。それはタイピングの音が突然鳴りやんだことで華奈も気付き、嫌な予感を憶えながら、口を広げてより激しく、動きを繰り返していた。
「アックス」
時々、華奈はこの犬が人語を理解しているのでは、と訝しむことがある。それほどまでにアックスは、父の言うことを聞き分ける。
響きからこういう動きをすればご褒美がもらえる、などという古典的条件付けではなく、それこそ言葉の意味を思考しているのでは、と思わせる行動が見受けられる。
「華奈が下手くそだったら噛みついてやれ」
その言葉の直後、耳を立てて牙を剥き出しにしたまま、低く唸り出す。それを横目に見て、華奈は酷く怯えた。
合図をすれば、ではなく、下手くそだったら。
もしかしたら、噛みつけ、という語句に反応して唸っているのかもしれないが、しかし今の華奈にはそんなことを考える余裕もない。パニックになりながら、目に涙を浮かべ、喉の奥深くまで使って口淫を続ける。
「うう」
下手くそ、だと思われない様に、一層奥まで咥え込んだ時、胃がひっくり返りそうになるような感覚と、それに伴って食堂のあたりに、野球ボールくらいのサイズが何か通ったかと思うようような激痛が伴った。
華奈は思わず顔を顰め、限界を感じて口からそれを離そうとする。この時にもまだ、全長の半分ほどまでしか唇が届いていなかったのだが。
しかしこの後、彼女の口腔内にはあまりにも不釣り合いなそれが、殆ど根元まで捻じ込まれることになる。
「下手なんだよ」
机越しに聞こえてきた声と、後頭部に触れた父の手。そして前屈みになっていたために丁度良い位置にあったふくらはぎにアックスの牙が突き立てられる、その全てがほぼ同時だった。
本来、そんな太いものを飲み込むように出来ていない華奈の喉に、先端の方は食道の入口にまで差し込まれた。その苦痛に耐えかね、強く顔を引き剝がそうと暴れるも、すぐに父は左手も使って頭を抑え込み、多少離れた華奈の小さな頭を、再び戻した。
そしてばたつかせた足もまた、いくらアックスにとっての甘噛みに少し力を加えただけとはいえ、それでもか細く痩せ細った肌に牙が食い込み、血が滲むのは必然だった。このまま噛み千切られてしまうのではと、華奈は恐怖に気が触れてしまいそうになる。
これまでは頭を抑え付けられて、無理矢理にされることはあっても、更に自分の右足をアックスに噛まれながら、ということはなかった。華奈はどうするべきか判らず、ただ胃液をゴポゴポと喉から漏らして、なけなしの抵抗をするより他、なかった。
当然、喉を塞がれているため、鼻からも呼吸をすることが出来なくなる。足をばたつかせた所で、アックスは振りほどかれんと余計に力を入れ、時々そのまま左右に首を振るばかりである。とうとう当たっている牙のほとんどが、華奈の足の皮膚を貫き、肉に刺さっていた。
父は、酔いと快楽で目を細め、股の間で粘ついた涎と胃液の混じったものを吐き出す華奈。その頭を乱暴に掴んで、まるで物でも扱うかのように愉しんでいた。
やがて、酸欠状態で判断力が鈍り、抵抗するための力も出せなくなってきた頃。父はようやく手を緩め、それに伴って、アックスも牙を引き抜いた。
ようやく、喉からそれをずるりと引き抜いた華奈は、そのまま背中を丸めてその場に蹲る。
赤くなった目を見開き、小さな両手を口に当て、込み上げてくる吐き気を必死に、堪えようとしていた。今ここで吐いてはいけない。そんなことをしてしまったら、きっともっと酷い目に遭わされるから。
そう理解してはいても、しかし生理反応に、そう長く逆らうことはできない。すぐにダムが決壊したように、力いっぱい抑えていた指の間から、だらだらと、吐瀉物が溢れ出る。
「……何してんだよ」
不幸中の幸いか、一昨日の夜、食事をしたきり、水くらいしか口にしていないため、出てくるものも淡黄色の、胃液と先ほどキッチンで飲んだ水が交じり合ったものだけであった。それが泡立った唾液と共に吐き出される。
背中を跳ねさせながら口を抑えて呻いている華奈を、父は椅子を引いて、冷淡な面持ちで見下していた。
そして数度の嘔吐を経て、息も絶え絶えになりながらようやく落ち着いた頃。華奈は、涙と鼻水、涎と胃液で顔中を汚しながら、父の方を向く。
「すみませんでした。この後、片付けま——」
「当たり前だろ」
遮るようにそう言って、父は椅子を後ろへ蹴り飛ばす。キャスターがゴロゴロと音を立ててフローリングを滑っていき、そのまま手を伸ばして華奈の襟首を掴む。
「す、すみません、ごめんなさい、離して、離して下さい」
焦りながら必死に抵抗するため、足を床に踏ん張って、机の下から引き摺り出されまいと試みる華奈であったが、しかし次の瞬間には、皮肉にも自分の撒き散らしたもので両足とも滑ってしまい、そのまま呆気なく、父の前に連れ出されてしまう。
「いや、やめてください、お父さん、もう嫌なんです」
首を激しく左右に振りながら、必死で懇願する。だが父は、そんなことまるでお構いなしだと言いたげに、ジャージの首元を掴んだまま、上へ引き挙げる。
首を吊ったかのように、力任せに上へ持ち上げられた華奈は、そのまま喉へ食い込む服の襟に手を差し込んで、必死で呼吸が止まらない様に藻掻く。
そうして華奈の顔を、父は自分の腰位の高さまで持ち上げると、それに再び、顔を近付けさせた。
「続けろ」
そう冷たく言い放ち、服から手を離す。
開放された華奈は、先ほどまで息が止まっていたこともあり、2、3度渇いた咳を繰り返しながら、縋りつくようにして父のズボンとベルトに手を掛ける。
「いや、いや、もうやめてください、お父さん、ごめんなさい」
まるで、年端もいかない子供の様に泣きじゃくりながら、華奈は父に必死で許しを請う。
だが。
「汚い手で触るな」
父は冷たく言うと、華奈の両手首に手をかけ、握り締めた。
「気安く触るな。殺すぞ」
言って、そのまま力任せに力を加え始める。すると華奈の細腕は、まるで万力で押し潰されんとしているかのように肉が圧迫され、骨までも軋み始める。
堪らず悲鳴を上げる華奈に、しかし父は両腕を持ち上げることで再び、腰の辺りまで顔を持ってきて、言う。
「いいか、こっちはお前の事なんか、娘だと思ってないんだ。あの女と一緒に俺の元から離れておいて、今更都合良く戻ってきて——この恥知らず」
分かったらさっさと咥えろ。
そう怒鳴り、尚も手に力を入れ続ける。
すると華奈も、先程までは許してもらおう、止めてもらおうと考えていたが、こうなっては痛みに思考も何も支配されてしまう。事実、両手首が千切れそうな程の痛みから逃れるかのように、再び奉仕を始めた。
それを華奈の頭を掴み、更に乱暴に続ける父。
今度は先ほどよりも早く嘔吐し、またしてもジャージを伝って華奈の下半身と床までもぐずぐずに汚れていくが、最早父は手を止めようともしない。絶頂が近いのか、目を細めて腕に血管が浮き出るほど力を入れ、獣のような呻き声を上げて暴れ続ける華奈の顔を、より強く抑え付ける。
何度も根元まで押し込まれ、その度に華奈の鼻が父の下腹部に叩きつけられていたためだろうか。緩やかに垂れた鼻血が、父のそれと、それを咥え込んでいる華奈の唇まで赤く染めていた。
そうして、最後。華奈が再び酸欠状態になって、意識も朦朧としてきた頃、父は段々と早めていた手の動きを、根元まで押し込んだ後に止め、そのまま喉の奥を感じるように上下左右へ華奈の頭を揺すり、果てた。
低く小さく唸った後、名残惜しそうに喉の奥からそれを引き抜き、そのまま用済みとばかりに虚ろな表情を浮かべた彼女を、床に放る。そうして机へ戻り、卓上のティッシュを数枚取って、血や涎を拭き取っている。その表情は、先程までのような恍惚とした物ではない。汚らわしいものを拭い去るように、不快感を顔に表していた。
一方華奈は、食道に流し込まれた精液を吐き出そうにも吐き出せず、とてつもなく不快な感触と匂いを憶えながら飲み下し、気管に絡んだ唾液の為、何度も咳き込み始めた。
丁度犬のお座りのような体制で噎せ続ける様子を、しかし父は微塵も気に留めず、その頃には丸めたティッシュを近くのごみ箱へと投げ入れ、部屋を出ようとドアノブに手をかけている。
「俺は風呂に入る。上がるまでにちゃんと、片付けておけよ」
そういって、父とアックスは部屋を去った。
残された華奈は、返事も出来ない程に胃酸で焼けて痛む喉を抑え、ただ自分の扱いを噛み締めていた。まるで奴隷のような、その扱いを。
父の部屋を片付けた後、華奈は父が部屋に戻るのを待ってから、リビングに降りた。
一つ部屋を挟んで隣にあるので、父が風呂を上がった後、戻ったかどうかは音で何となく分かる。これ以上父と鉢合わせになれば、次は何をされるか分かったものではない為、華奈はリビングに降りてきてからも、上階から聞こえる微かな足音にも怯えながら、急いでキッチンに立つ。
いつも晩御飯を作るときは、父の分を多めに作り、そこから少しだけ自分の分を避けて出しているため、炊飯器には一膳にも満たない白米が少し、それから鍋には、すっかり冷えて油が白く固まってしまった炒め物が、小鉢に少しの量だけ残っている。
それらを加熱しようともせず、食器棚から自分の箸を取る。そして皿にも移さず、そのまま箸を突っ込んで、口に掻き込んだ。
当然、冷えて味も落ちている炒め物を、どれがどれとも考えず、がむしゃらに口の中へ押し込んだ。大して咀嚼もせず、無理矢理に飲み込む。それから炊飯器を開け、保温も切っていた、冷えて硬くなっている白米にしゃもじを刺し、軽く一塊にした後で手に持って、そのまま飲むようにして食事を済ませていく。
保温を切っておいた理由は、こうした方が一秒でも早く、食事を終えられるから、というのもあるが、依然、父に一人で食卓に着き、皿に盛られたものを食べているところを見られたとき、酷く怒られたから、というのもある。
働きもせず、家に金も入れていないのに偉そうな態度だ、という言いがかりで、その時も酷い目に遭わされたことがある。
それ以来というもの、このような食事の摂り方で、普段の夕食は終わる。
初めのうちこそ、こんな食事とも呼べないような食べ方に惨めさも感じていたが、今ではすっかり麻痺してしまって、何も思わない。まだ人間の食べ物を食べられていることに、幸せすら感じていた。
華奈は無表情で淡々とそれらを済ませ、まだ口の中に白米を残したまま、慌てて流しへ鍋と炊飯器を突っ込み、上から水を灌ぐ。
と、その時。
トントンと、階段を下りる音が聞こえて、華奈は思わず飲み込もうとした物が喉に詰まりそうになる。胃が浮き上がるような緊張感を憶え、慌てて手で水道の水を汲み、食べ物を胃に送る。
どうやら用を足しに降りてきたらしい父は、落ち着かない様子で父を横目に伺いながら、洗い物をする華奈のことなど見向きもせず、まるでいないものでも扱うかのように、そのままトイレへと歩いて行った。
その影が見えなくなって、トイレの扉が閉まったとき、華奈はようやく小さな溜息を吐いた。
父が再び2階に上がる頃に食器を洗った華奈は次に、急いで洗濯機のスイッチを入れ、洗剤を投入してから蓋を閉める。そして、ジャージを着たまま、風呂場へと入った。
現在、ただの一着も私服を持っていないため、華奈は制服や体育の時間で使うジャージで過ごしていた。鼻血で汚れたそれらを脱ぎ、続いて、中に来ていた夏服の運動シャツに手を掛ける。
それを脱いで、汚れの具合を確認したところ、どうやら中にまで血が染みていたらしい。真っ白な化学繊維のシャツはすっかり胸の辺りが赤黒くなっていて、試しに水をかけてみたり、脱衣所に出て洗剤を少し掛けて擦ってみたりしても、落ちるはずがない。
華奈は諦めて、湯船にそれを置くと、今は自分の身体を洗うことにした。
湯を使わないというルール——父が華奈に言いつけたことは、何があっても守らなければならない。
つまり。
この肌寒くなってきた10月においても、父は暖かい湯船と温水のシャワーで、ゆったりと入浴を愉しめるのに対して、華奈は冷水のシャワーしか使えない。
温度調節のダイヤルを一番奥まで回し、冷水に切り替えた後、華奈は手に水を当てる。始めこそ父が使った後の残り湯が手を温めたが、それもすぐに突き刺すような冷水へと変わってしまった。
一度大きく息を吸い込み、目を閉じ歯を食いしばって、華奈は頭から一気に被った。途端、心臓が飛び跳ねるような刺激が全身を襲い、思わず身を捩ってシャワーから逃げてしまいそうになるが、そうしてもいられない。
入浴が長いと、それもまた父に怒られるためである。
何から何まで、父は華奈に節制を強要させる。そしてその度に、同居ではなく居候以下だと、寄生虫だと、そういって罵られる。
全身を流し終える頃には、華奈は胸まである髪の毛が身体に張り付いて余計に寒さを感じながら、奥歯をがちがちと震えさせていた。
元より不健康に痩せ細った手足は、より一層血色が失われ、唇も灰色の混じった紫色になっていた。その状態で、震える手をぎこちなく動かしてシャンプーを手に取ると、手早く髪を洗い、次いで石鹸で身体も洗った。
この家に来て間もなくからこの暮らしをしているため、これもまた彼女にとっては半ば当たり前の生活になっていたが、お湯でなく水で髪や身体を洗う分、余分に寒い思いをして、念入りに汚れを落とす必要があった。
それらが終わった後、もう一度凍える思いで頭から足のつま先まで水を流し、ぶるぶると全身が震え、唾も上手く飲み込めないくらい冷え切った状態で、華奈は目立つ汚れを流したジャージを手に、風呂場を後にした。そして、姿見に移った自分の裸体が、不意に視界へ飛び込んでくる。
成長期に十分な栄養を摂取出来ていないからか、母親と比べても体躯は小柄で、肋骨の浮き出た胴体から細く伸びる手足は、今や死人のような青白さと、浮き出た関節の骨が容易に見て取れた。小さな大腿骨の輪郭が伺える下半身は、恥骨すらくっきりと浮き出ており、痛々しさや貧相さを感じさせる。
そしてそれ以上に目立つのが、服で隠れる場所を覆うように広がった痣や傷。特にそれらは腹の辺りに痣、そして太ももやふくらはぎに、アックスの噛跡で抉られた傷跡が目立つ。
リビングの暖房に晒されて、血管が拡張しているからだろうか。徐々に血色が戻っていくのと同じく、右ふくらはぎにずきずきとした痛みが増していくのを感じて、華奈は顔を顰めた。
航空写真で見ると、この学校はコの字型をしている。その角にそれぞれ階段があり、全体で3階建ての構造になっている。階段に挟まれた部分が各教室で、左右の端には特別教室が配置されている。 1階が一年生、2階が二年生といったように学年が分かれており、華奈の教室は三年B組。左手に出るとC組の教室があり、その奥にはトイレ、さらに進むとD組の教室がある。
昼休み、当然ながら教室はどこも、昼食を取る学生が机を寄せ始める音が鳴り響き、授業中の水を打ったような静けさは消え、学校全体が活気に包まれる。
中には1階のA組を出てすぐ曲がり角の先にある購買部で、その日の昼食を買いに行く学生などもいるが、華奈だけは一人、それらの流れとは逆方向へ歩を進める。
D組の方へと歩き、階段を下りて2階。そのまま曲がり角を抜けると、人気のない家庭科室、そしてその奥に、教室2つ分の広さを占める図書館が見えてくる。
防音も兼ねているのだろうか。ここと職員室だけに使われている、スライド式のやや分厚い扉に手をかけ、華奈は力を入れて引っ張った。
ゆっくりと滑るように開いた先は、特に何も特徴のない、至ってどこにでもあるような図書室。天井まで届くほどの高い本棚が華奈を出迎え、そこには中学校に相応しい様々な本がおさめられている。
中に入って上履きを脱ぎ、置いてあるスリッパに履き替えると、華奈はその本棚の方へは近付かず、入り口すぐ右にある、貸し出しカウンターの中へ入った。
図書委員である華奈は、いつもこのカウンターに座って昼休みを過ごしている。勿論、そもそも昼休み時は図書委員も当然、昼食の時間であるため、ここに来る必要はないのだが。しかしいつも昼休みに食事もせず、ただ教室で本を読んでいるというのも、居心地の良いものではない。そんな華奈にとって、図書委員という役職と、この部屋は時間を潰すのに丁度良かった。
次の授業開始まで、あと40分と少しあることを、壁にかかっているシンプルなデザインの壁掛け時計で確認し、華奈は一番下の大きな引き出しに手を掛ける。
「今日は何読むの?」
と、その時後ろから声がして、華奈は振り向く。
そこには、国語の教師が華奈の肩越しに、引き出しの中を眺めていた。
華奈はずらりと並んだ大小様々な本の中から、文庫本サイズのものを抜き取ると、引き出しをゆっくり閉めた。
「これです」
椅子に座ったまま身体を捻り、華奈は表紙を向けた。
それを見た教師、轟は、いつも眠たげにしている目を少し見開いて、驚いた様子を浮かべた。
「これ、先生が進めた本だね。読んでくれてるの?」
「はい」
本当は感想を言うべきなんだろうな。と華奈は内心思ったが、あまり人と話すことが得意ではないため、すぐに身体を元に戻して、前に向き直った。
すると轟は、いつもの眠たげな調子に戻って、ゆっくりと隣の椅子を引く。そして、溜息を吐きながらそこに腰を下ろした。
華奈の昼休みは、いつもこうして始まる。飲食も限られた場所でしか許されず、私語も慎む必要があるが、彼女にとっては本と静寂に包まれるこの空間こそが一番落ち着ける場所になっていた。彼女にとって昼休みの図書室は、勉強よりもむしろ、一日の中で唯一心休まる一時である。轟が図書室で華奈と顔を合わせたのは、一度の偶然からだった。轟の担当クラスは一年生で、図書委員会議を通じてしか三年生と接点がなく、これまで華奈と直接話すこともほとんどなかった。しかし、ものぐさな轟は、かつて華奈に話しかけてみたものの会話が続かず、結局その隣で自分の本を読むことにした。 その諦めの態度が、実は人と話すのが苦手な華奈にとっても心地よいものだった。
だがこの日は少し様子が違っていた。
「何それ、怪我?」
轟は、華奈の左頬に大きなガーゼが貼られている事に気付き、その異変にとても無関心ではいられなかった。
「どうしたの、凄く痛そうだけど」
何気ない語調でそう言われた華奈は、しかし内心とても焦っていた。
何せ、今の今まで学校にこのガーゼを貼ったまま来ていることなど、すっかり忘れて過ごしていたのだから。
「あ、えっと。転んだんです」
もう屋内にいても寒い位の気温だというのに、華奈はすっかり背中に、冷や汗をかいていた。それがブレザーの下に来ているワイシャツに滲むのを感じながら、手に持っていた本を、平静を装って机の上に置く。
我ながら、まるで拙い言い訳だな。と直後に思って、付け加える。
「寝てたら、ベッド……から落ちて」
それを聞いた轟は、その言葉に少し違和感を憶えつつも、状況を想像して再び華奈の横顔に視線を向けた。
まあ確かに、場所が場所なだけにややガーゼの大きさが不自然すぎる気はするが。ただ、たまたま大きすぎただけかもしれないし、縦長く痣が出来たようだったら、これくらい大きく貼るのも無理はないだろう。
「なんだ、それなら良かった」
「はい」
声を震わせながら、華奈は何とかその場を凌いだと、再び本に手を伸ばす。
「てっきり、誰かに殴られたりでもしたのかと思ったよ」
あっけらかんとそういいながら、轟は自分の引き出しから、同じように読みかけの本を手に取って、ページをパラパラとめくる。
だけどこの生徒が、まさか人と殴り合いの喧嘩なんて、するわけないしな。
そう思って本に視線を落とす轟を、今度は華奈が目を見開いて見つめ返す番だった。
癖なのか、いつもそうしているように、くりくりと毛先の巻いてある頭をわしわしと掻き回してから、気怠そうに椅子へもたれ掛かって読書を始めた轟に向かって、華奈は恐る恐る、聞いてみた。
後になって思えば、華奈自身はこの時、無意識のうちに自分の抱えている秘密を暴いて欲しい、助けて欲しいと願っていたのだろうか。
決して誰にも知られてはいけない、家での出来事を。
「もし、誰かに殴られてたとしたら、先生ならどうします?」
轟と同じように本へ目を落とした状態で、彼女は問いかけた。
「えっ、まあ相手によるけど……助けるんじゃないかな」
活字を目で追いながら、轟は努めて、教育者として正しい発言を心掛けた。
轟にとって、学校での教師という自分の立場とは、あくまで労働。あくまで勤務だと考えていた。
元より面倒臭がりな性格であり、たまたま勉強がそれなりに出来て、たまたま教師の職に就いただけであり、轟の方こそ、職員室で皆が昼食だなんだと騒がしくなる中、居心地の悪さを避けてこの図書室にありついただけである。
なので、例えば仮に、隣のこの女子生徒が誰かに殴られて——一番可能性が高いのはいじめだろうか——傷が出来たと言ってきたら、と思うと、とても面倒なことになるな、と考えてしまっていた。
困っている人を助けるのは当たり前のことだとしても、それをだからといって、嬉々としてこなせるほど、自分自身が出来た人間ではないと理解している。
ただ。
だからこそ、こんな自分といつも一緒に読書をしてくれる華奈に対して、轟も多少の親近感を感じていた。
そして、もし本気でいじめられていたりして、殴られていたとした場合。それを本気で隠したいなら、学校を休んでしまえばいいのに。とも、思っていた。
次の授業は、昼休み後の5時間目を飛ばして、6時間目に1-Dだったので、轟は昼休みを終えて退出する華奈を見送った後、少ししてから職員室へ戻った。そして教材の支度と、この後やる授業内容の確認をしてから、時間になったので職員室を出ようとした時。二つある出口のうち、轟の席から遠い方のドアに、華奈の姿を見つけた。
机の上の缶コーヒーを飲み干してごみ箱に投げ入れ、何となくその様子を見つめていると、華奈はどうやら担任の教師に何度か頭を下げ、申し訳なさそうに廊下へ戻っていった。
その様子を見て、どうやら今日も体調不良だかで早退するらしいと思ったが、すぐに授業へ遅れそうなことに気付き、足早に職員室を後にした。
進学校、だからだろうか。普通の中学校なら、このようにして月に何度も繰り返し早退、もしくは遅刻する生徒に対して、教師は保護者へ連絡をしたり、理由を聞いたりして、なるべく出席日数を保たせようとするだろう。しかしこの校風はそうではない。
轟も赴任当時は驚いたが、成績が殆どすべて、その生徒を評価するバロメーターのようになっていた。なので、華奈のように早退しようと、遅刻しようと、出席日数さえ足りていれば大した問題にはならないし、教師の誰も、それを咎めようとしないのだ。
事実、成績がトップの生徒は、親が午後から体育などの時間割だった場合にそれを早退させて、塾に通わせることもあるらしい。だから先程の光景も、対して珍しい物でもないのだ。
授業で使うカバンを肩に、轟は華奈が下校していったであろう玄関の方を見て、あくびを漏らした。
帰宅した華奈は、いつものようにアックスから吠えられ、それを何とか宥めながら玄関を抜け、そのまま2階の自室へと向かった。
恐らく父が帰ってくるのが、今から3時間後くらいだろうか。リビングの時計は、14時を少し回ったところを差していた。
ここ数日間、一向に予習が出来ておらず、恐らく明日以降の授業では華奈の知らない範囲をやることになる。おまけに進学校だからか、授業の進むスピードもかなり速いものであるため、華奈は内心、とても勉強に対して不安感を抱いていた。
しかし今は、それどころではない。
「うっ」
自室の扉を閉めるや否や、猛烈な吐き気と眩暈に耐え切れなくなって、口を抑える。
まるで荒れた海を進む船の上に乗っているかのように視界はぐらぐらと回転し、それも相まってか、口の中に突然、大量の唾が湧き出す。
華奈は慌ててカバンをフローリングへ投げ出すと、走って勉強机の所まで駆け寄る。そして傍に置いてあったごみ箱を掴み、その中へ顔を突っ込んだ。
「お、ぇええ」
昨日の晩に食べた白飯だろうか。米粒が少量と、あとは黄色い胃液が泡立って口から零れて、スーパーのレジ袋の中へと滑り落ちていく。
しかし一度吐いた程度では吐き気も眩暈も収まらず、華奈はそのまま、2度、3度とごみ箱に向かってえずき、その度に唾と胃液が、空っぽの胃から搾り取られていく。
次第に全身の力が抜け、そのまま膝を折ってしゃがみ込むころには、多少吐き気こそ収まっており、代わりに喉が胃液で爛れた様に痛んだが、それでも多少は浅い呼吸を繰り返せるようになっていた。だが眩暈の方は相変わらず酷くなる一方で、恐らく立ち上がることが出来ても、まっすぐ歩けないだろう。そう思わせる程、視界は滅茶苦茶に揺さぶられていた。
華奈は口の中に残る飯粒を集めて、唾と一緒にごみ箱へ吐き出すと、手を机の縁について、身体を支えながらやっとの思いで立ち上がる。そして机の上にあるティッシュを手に取り、口を拭ってその中へと捨てた。
華奈は几帳面な性格である。その為、普段なら吐瀉物の入ったごみ箱など、すぐにでも片付けに行くのだが、やはり立ち上がった状態で視線を前に向けると、とても歩ける状態ではない。常に世界が右回転しているように映り、それは目を瞑ると余計に酷くなった。
いよいよ余裕が無くなって、そのまま覚束ない足取りで、よたよたと机を離れる。苦肉の策で、ベッドまで向かった。
本来であれば、早退をした以上、父が帰ってくるまでに家の掃除や、料理の下ごしらえ等をして、父に言い訳の材料を揃えておくのが唯一、怒られない手段であったが、それもこんな状態ではまともに出来ないだろう。
華奈自身、だからこうやって、何もせずに横になるなど、この後の事が火を見るよりも明らかだと理解した上で、マットレスの上に倒れ込む。
そしてそのまま、目を固く瞑った。
いつも華奈が就寝するのは、夜中の3時を超えた辺りである。
家のことが一通り片付くのは、大体23時を過ぎた頃。それ位になってやっと、家事や洗濯、掃除が終わり、それから自分の時間を使える。といっても、睡眠時間を考えれば、使えて1時間もないのだが。しかしそれでは勉強に追いつけないので、華奈はそこから夜中の3時まで、ひたすら勉強に励む。
元より、勉強自体が苦手で、それに教材も華奈にとっては教科書だけである。その為、環境としては決して整っている訳ではない。というのも、時間がどうしてもかかってしまう原因の一つではあったし、更に酷い時は、昨日のように父が慰み物として使ってくる日も少なくない。そうなれば、その日はとても勉強を出来るだけの時間も確保出来なかった。
だが父は、華奈の成績が悪くなれば、今度はそれを恰好の材料として、またしても華奈を虐げた。
成績を落とせば怒られ、かといって時間は確保出来ないような生活。おまけに、大体の人間にとって頼みの綱であるスマートフォンのアラームや、卓上時計といった物も、華奈には買い与えられていなかった。
そうして、まるで憂さ晴らしでもするかのように、華奈が何かにつけ失敗をするように仕向け、それを粒立てて虐待するのが、華奈の父だった。
現に、それから約3時間後。帰宅した父は玄関に入り、尻尾を振って嬉しそうに出迎えてくれるアックスの頭を撫で回している時、玄関に脱ぎ捨てられた、小さなローファーに気付く。
沢山撫でられて機嫌を良くしたアックスが、尻尾を振りながらリビングの床暖房が特に効く所へ戻っていくのを待ってから、父は小さく舌打ちをして、それを下駄箱の隙間へ蹴り飛ばした。
そして自らも革靴を脱ぐと、静かに怒りを湛えながら、リビングを覗いた。だが果たして、そこにはアックスがいるだけである。
目が合ったアックスは伏せの状態のまま尻尾を振り、主人の指示を待っている。しかし父は、そんなアックスに笑みを浮かべながら冷蔵庫へと向かい、いつものようにビールを取り、苛立ちを抑えるかの様に一口煽る。
無論、冷蔵庫やコンロにも夕食の支度がされている、ということはなく、今朝トーストを食べた後の皿やバターナイフも、流しにそのままにされている。
それを、口に缶をつけたまま一瞥し、小さく息を吐く。
そして二階へと続く階段を上がり、華奈の部屋の前に着く頃になると、いよいよ父は無表情ながらも、腸が煮えくり返るような心持ちであった。
これまで感じたことのないような激痛に飛び起きた華奈は、しかしうつぶせの状態から、身体を起こせないことに気付く。
初め、まだ完全に覚醒していないこともあり、それがどうしてなのか全く理解出来ずにいた。だがすぐに背中の辺りへ感じる重量と、上から降ってくる声から、父が自分の上へ馬乗りになっていると気付く。
「何寝てんだよ」
父は、掴んでいる華奈の腕に押し付けていた煙草を離し、口に咥えた。
華奈はそんな様子に、慌てて身を捩って逃げようとしたが、当然の如く、父はその程度ではびくともしない。煙草の火を押し付けられていた腕も、同じように鷲掴みにされていて、振り解けそうもない事を理解する。
華奈は湧き上がる恐怖で、言葉にならない悲鳴を上げた。そしてそのまま、半狂乱で叫んだ。
父はその様子を冷酷な表情を浮かべながら見下し、消えかかっていた煙草を吹かす。そして口に咥えたまま、髪を振り乱して暴れる華奈の後頭部を、マットレスに押し付けた。
今度は呼吸が妨げられ、くぐもった呻き声を漏らしながら泣き叫ぶ彼女の耳元へ、父は顔を近付けた。
「泣くな。殺すぞ」
地の底から響くような声でそう脅し、髪の毛を掴んで顔を無理矢理に上へ向かせる。すると、痛みと恐怖で泣き叫んでいた彼女は今や、更なる恐怖によって、涙こそ流していたが、必死で嗚咽を押し殺していた。
「で? なんで、寝てんだよ」
細く煙草の煙を吐き、父は再びそう告げた。
喉をしゃくり上げさせながら、華奈は大粒の涙をボロボロとシーツに零し、何とか唇を動かす。
「あ、あの。体調が、とても悪くて。それで、眩暈で立っていられなくて」
今更になって、腕の火傷がじくじくと、熱を持って痛み始めるのを感じつつ、華奈はなんとかそう告げた。
なるほどな。
父はそう短く言って、華奈の上から離れる。
途端、彼女は胸が圧迫されていたこともあり、渇いた咳をしつつ、相変わらず具合が悪そうにベッドの上にうつ伏せで蹲り、肩を震わせていた。しかし、何も安心できる状態ではない。華奈は次、いつ父が殴ってくるのか、それとも蹴ってくるのかと怯えて、その姿勢からどうにも動けなくなっていた。
例え、反抗しようとした所で父と華奈にはあまりにも体格差があり、たとえ今日のように体調が優れない日でなかったとしても、揉み合いになって勝てる相手ではない。今の彼女に出来ることといえば、精々父の機嫌をこれ以上損なわないよう、必死で立ち振る舞うことだけであった——とにかく従順に、命令の通りに動くことが、唯一暴力を最小限に留める術である。
「立て」
だからベッドから降りた父がそう言って来た時、華奈はびくりと肩を震わせ、もつれる足を何とか動かして、ベッドから転げ落ちるようにして降りた。
たかが数時間横になった程度では当然、眩暈は毛程も回復の兆候を見せない。それ故、マットレスに両手をついて何とか足を踏ん張り、歯を食いしばりながら立ち上がろうとした華奈は、次の瞬間には膝から崩れ落ちるようにしてその場へ座り込んでしまった。
「すみません、す、すぐに。すぐに立ちますから」
手足を震わせながら、怯え切った目で父を見上げた。こちらを冷たく見降ろしている目と目があった華奈は、殆ど過呼吸になりながら、再び立位を取ろうと試みた。
その二度目の試みが途中で失敗に終わった時、父は目を逸らし、つまらなさそうに溜息を吐いた。
それに肩をびくつかせた華奈は、もうその場に立つことは諦め、父の足へ縋りついた。
「お父さん、待ってください、待ってください。すぐ。立ちますから。本当なんです。本当に、眩暈が凄くて。し、信じてください。お願いします」
父の片膝に慌てて這い寄った彼女は、そのまま縋りついて父を見上げる。そして、再び涙をぼろぼろと流しながら、恐怖に満ちた目で父を見つめ。そしてそのまま、まるで頬摺りをするかのように父の足へ頭を寄せ、両手を回して抱き着いた。
「もう、殴らないでください。やめてください」
勿論、父にそんな命乞い染みたことをしたところで、それで父が心を痛める訳がない。事実、父はそんな様子に、より一層腹を立てたのだろうか。
咥えていた煙草を、まるで唾でも吐き出すかのように捨てる。フローリングが焦げることなど微塵も気にしていない様子だった。そして次の瞬間には、華奈の髪の毛を上から鷲掴みにし、力任せに足から引き剥がした。
ぶちぶちぶちぶち。そんな髪の毛が千切れる音と頭皮が剥がれるような痛みに、華奈は堪らず悲鳴を上げて父の足から手を離した。そしてこの後、何としてでも父にしがみついておくべきだったと、すぐに後悔することとなる。
「お前。やることもやってないのに、許して下さいってか?」
足から離れた華奈の腕を掴み、父はその場にしゃがみ込む。
力強く握られていることもあって、弛緩したその手を空いている方の自分の手で広げ、人差し指を握りしめ。そして。
ゆっくりと。
父は、人差し指が本来曲がらない方向へ向けて、力を加え始めた。
「あ」
一体父が何をしようとしているのか。華奈は一瞬、あまりのショックにその可能性を考えられなかった。しかし、今しようとしているのはどう考えても——。
そう理解した瞬間、華奈は指を掴んでいる父の手に上から急いで自分の手を被せ、必死で抵抗しようとした。
顔から一気に血の気が引き、全身に怖気が走る。普段父は、彼女を殴ることはあっても、蹴ることはあっても。
こんな風に虐げることはまずなかった。いくらこの2年半で虐待がエスカレートしているとはいえ、ここまでのことをされるとは、まさか華奈も思っていなかったのだ。
すでに指の角度は、手のひらに対して直角にまで曲がっており、指の筋には痺れるような痛みが走り始めている。華奈は更に力を入れ、今からでもなんとか父に止めてもらおうと、必死で足掻いた。
「お、お父さん。お父さん」
とてもつまらなさそうに、無表情で力を入れ続ける父に、華奈は必死で喋りかける。
「あの、わたし、もう二度と早退しませんから。遅刻も欠席も、お父さんがしろというまでは絶対に、しませんから。家事も炊事も、今まで以上に頑張ります。あの、私に出来ることなら、なんでもしますから。好きにしてくれていいですから。ですから」
頭をめちゃくちゃに振り乱して、華奈は父の機嫌を損ねない様に引き攣った笑顔を浮かべる。だが父は、そんな華奈の方には目もくれず、ただその掴んでいる指に視線をやり、ふう。と呆れたように息を吐いた。
「二度と、か?」
「あ。あ、あ、はい! 二度としません!」
希望を見出した顔で、華奈はようやく、安堵の表情を浮かべる。危うく本当に指を折られるところだった。そう思って、涙ながらに父へ約束した。
それを見て、父は顔色を一切変えないまま、華奈の指を折った。
絹を裂くような悲鳴が、華奈の部屋へ響き渡る。
華奈は痛む指を庇うようにもう片方の手で掴み、目と口を見開いてその場へ蹲る。ただでさえ視界はぐるぐると回り、視界の焦点すら定まらず、胃も唾すら飲み込ませまいとせり上がってくる来るというのに、更に指へ激痛が走る。恐らく骨と一緒に靭帯も損傷しているのだろう。折れた指は手の甲へ反り上がり、まるで自分の体ではないかのように、手が左右へ揺れる度、ぐねぐねと不気味に動いていた。
フローリングの継ぎ目を滲む視界で捉えながら、華奈は何度も、どうしてと頭の中で自問する。
これでも精一杯、やってるのに。
お父さんに言われたこと、なんでもやってるのに。
わたしは一度だって反抗してないのに。
これまで考えない様にしていた思いが、ここにきて堰を切ったかのように溢れ出してくる。気付くと華奈は悔し涙を湛え、痛みの中、父の背中を睨んでいた。
その頃父は、痛みに蹲る華奈をよそに、部屋の入り口付近に置いてあった飲みかけのビールを手に取って、ぐいと飲み干していた。そしてふと、華奈の方へ振り返ると、こちらを不遜な表情で睨み付けてくる娘と目が合った。
真っ赤に充血した目を細め、眉間に皺を寄せ、唇を固く結ぶ。そんな華奈の表情は、父もこれまで一度も見たことがなかった。もしかしたら、華奈の母と三人で暮らしていた頃なら、そんな顔を見ることもあったのかもしれないが、それはもう遠い過去の事で——。
「おい」
先ほどまでの冷たい表情から一変、父は片眉を上げ、抱いた苛立ちを全く隠そうともせずに華奈を睨み返した。
「何だ、その顔」
これまで自分の言いなりで、何一つ逆らうこともなく、まるで奴隷のように過ごしていた華奈。その彼女から向けられた、抜身の憎悪。
父は床を踏みしめながら華奈の方へ向かい、そのまま我を忘れ、初めて本気で、これ以上ない程の力を込めて華奈の側頭部を殴りつけた。
鈍い音が響き、華奈は勢い良く床を転がった。父はそれを追いかけ、こちらに腹を向けて頭を抱える華奈に、今度は足で蹴りを入れた。
酔っているから、あるいは激情で我を忘れているからか。これまで無意識の内に加えていた手心など忘れたかの様に、父は暴言を吐き続けながら、腹を蹴り、胴を踵で踏みつけ、衝撃で華奈が転がれば今度は背中を蹴り続けた。
素足では、父の手や足にも多少の痛みがあったが、それすら今の彼にとっては取るに足らないものだった。それよりも今は、自分が働いて得た金で家に住まわせ、食事を与え、学校にも行かせているこの娘が、自分を睨みつけてきたという事の方が許せなかった。この態度を、もう二度と取れない様にすることが先だったのだ。
自分という存在に、舐めた態度を取ったらどうなるか、教えてやる。
心の中で、父は叫んだ。
それからどれほど、華奈を痛めつけただろうか。流石の父も、肩で息をする程度には疲労を感じ、ようやく手を止めた。
ポケットから煙草を取り出し、火を着ける。そして煙を吹かし、眼下に転がる華奈を見た。
力任せに蹴り続けていたせいか、気が付けば父親は華奈を部屋の隅にまで追いやっていたらしい。うつ伏せに倒れ込んだ華奈は、ぐったりと身体の力が抜け、ぴくりとも動かない。鼻血だろうか。赤い水たまりに顔を伏せ、微動だにしなかった。血は床や壁だけでなく、華奈のシャツや父の足にまで付着していた。
父は汚らわしそうに顔を顰めると、それを踏みつけない様に一歩後ずさりをした。そして、異変に気付く。
鼻血にしては、量が多い。
まさか。
冷静を装おうとする父だったが、心の中は冷水を浴びせられたような焦りで満ちていた。さっきまで感じていた酔いも、呼気に漂うアルコール臭も、もう感じられない。今あるのは、部屋の空気が薄くなったかのような息苦しさと、心臓を鷲掴みにされるような不安感だけだった。
「おい、華奈!」
声を出してみるが、それがあまりにも弱々しく震えていることに気付いて、更に声へ力を籠める。動揺している自分が信じられない。
「おい、華奈!」
父は肩で息をする。短く、浅い呼吸しか出来ない。指先が氷でも触れた様に冷えていき、酸欠で視界がぼやける。
気絶しているだけだ。きっとそうだ。意識を失っているだけだから、ちょっと刺激でも与えてやれば、すぐにでも起き上がるはずだ。
自分を落ち着かせるためにそう言い聞かせ、父はその場へしゃがみ込む。そして、華奈の肩を掴んで、手前に引いた。
壁に顔を向けていた華奈の頭が釣られ、上を向く。薄く開かれた目からは、生気のようなものが一切感じられなかった。
「ふざけんなよ……。いつまで悪ふざけしてんだ」
考えなければならない事は山程ある筈だったが、父はすっかりパニックに陥っており、思考が纏まらない。服が血で濡れる事も厭わず、肩を抱いて華奈を部屋の隅に押し込む。
そこへ背をもたれさせ、恐怖でがたがたと震える手を必死に動かしながら、華奈の頬を力なく叩いた。
「おい、もういいから。起きろ」
しかし、あらぬ方向を向いた華奈の目は、叩かれても一切の反応を見せない。
その瞬間、父の中で何かが音を立てて切れた。すべてを忘れたくなった。悪い夢だと思った。早く目が覚めることを祈った。
魂が抜けたような、虚ろな表情を浮かべ、父はぐったりとうつむく華奈から視線を外す。足に力を入れて立ち上がると、口に咥えた煙草を吸い、思い出したように缶ビールを持って、部屋を後にした。
リビングの椅子に腰かけた父は、だらしなく開いた口に煙草の吸い口を突っ込み、煙を吸い込んではビールを一口飲む。その動作を、一体どれくらい繰り返しただろうか。
時々、思い出したように壁にかかっている時計へ目をやり、何かが脳裏を過りそうになるのを怯えた様に掻き消し、視線を泳がせる。そして、冷蔵庫へ新しい酒を取りに行ったり、煙草をキッチンの引き出しへ取りに行ったりした。
だが華奈の部屋を出てから、いくら経っても時間は遅々として進まず、ただ机の上に並ぶ空き缶と、灰皿の上に吸い終わった煙草の山が増えていくだけだった。
今の父は、何も考えていない。努めて何も考えない様にしていた。ただ、ひたすらにアルコールで脳を麻痺させ、ニコチンで精神を落ち着かせ、震えが止まらない両手が静かになる様にと、願うだけだった。
締め切られたカーテンの向こう側では、日がゆっくりと沈み、橙色がカーテン越しに部屋の中を染めている。やがて、部屋全体が夜の闇に包まれていく中。酩酊した父に、聞こえるものがある。
俺が悪いのか?
まるで自分のものではない声で、そう囁かれたような気持ちになって、父は慌ててその場で立ち上がる。周りを見渡すも、辺りには自分以外の誰もいない。アックスですら、傍にはいなかった。
俺は悪くない。
次にまた声が聞こえた時、父は恐怖に駆られ、椅子ごと後ろに倒れ込んだ。
背中と肘に鈍い痛みが走り、顔を歪める。しかしすぐに手を着くと、情けなく這いずって机から離れる。
深く酔いが回っているからか、全身が鉛で出来ているかのように重さを感じる。頭ずきずきと脈打ち、心臓が血液を流す度に痛みが響く。
そうだ、俺は悪くない。
またしても声が聞こえた時、ようやくそれが紛れもない、自分自身の思考であると気付く。
「俺は……間違ってない」
しかし、その考えを声にした瞬間、思いはすぐさま瓦解する。
それは自らの犯した罪を悔いるでもなく、他者へ責任を擦り付け、現実から目を逸らそうとする弱い心だった。父の内心はそんな、弱い人間だった。
悪い夢だ。
そう何度も呟いて、父は涙を流した。それを隠そうともせず、拳を握ると、何度も床を殴った。まるで、それをすれば過去に戻れるとでも信じているかのように、必死に、繰り返し。
数度で拳が裂け、血が滲む。それでも父はやめようとしない。獣の咆哮が如き叫び声を上げながら、左手も使って、ひたすら自罰的に床を殴りつけた。
それでも罪の意識は消えず、罪悪感が背中を這い上がる。
人殺し。
父は何も、刑罰を恐れているのではない。
ただ、人が人を殺める——その現実に耐えられる強さなど、彼には無かったのだ。
華奈が父の娘ではないと知ったのは、彼女がまだ小学4年生になったばかりの頃だった。
その日、いつものように会社に出勤していた父が、外出先で妻からの電話を取ると、錯乱状態の彼女から信じ難い話が告げられた。
華奈が交通事故に遭って、大怪我をした。
父は初め、それが何か質の悪い冗談だと思った。そうであってくれと願った。だが、妻の慌て様がそれを否定していた。事故のあった場所を聞くや否や、父はその場を飛び出し、全力で駆け出していた。
それからどこをどう走ったのか、いつ救急車に同伴したのか。あまりの出来事で記憶が定かではない。ただ、隊員に華奈の血液型を聞かれたとき、父は必死に華奈の血液型を伝えた。
わが子の事である。それもこんな事態だ。間違う訳にはいかない。父は、妻に聞かされていた血液型を伝え、輸血をする必要すらあるのかと、苦しそうに呻く我が子の手を握り続けていた。
やがて病院へ到着し、ストレッチャーに乗って、院内へと運び込まれていくのを見送りながら、父はただ、無事を祈った。
華奈がもし助かるなら、自分の何を差し出してもいい。だから命だけは。震える足で、そう祈ったのを憶えている。
幸い、華奈の怪我は深刻ではなく、出血も多量では無かった。ただ、念のために確認しただけだったと、医師に聞かされた時、心の底から父は安堵した。遅れて病院へ到着した母も、決壊した様に泣き崩れ、慰めるように背中をさすった。
長らく子供に恵まれず、何度も諍いを起こし、やっとの思いで授かった一人娘だ。今は何より、無事だったことが喜ばしい。涙を呑んで、父も胸を撫で下ろした。
だが数日で退院となり、母も働いているということでまだ時間に都合の付けられる父が一人で華奈を迎えに行ったとき、医師の告げた一言は、父の心に一抹の影を落とすことになる。
救急車が到着して、隊員が血液型を聞いた時、聞いていた血液型と、実際に調べた血液型が相違していた。
幸い、輸血はせずに済んだし、もしその必要があったとしても、きちんと事前に調べるから大事には至らないが、念の為に、きちんと把握しておいてください。
白髪の温和な医師は、そう言って血液型診断の結果が書かれてある紙を、父に手渡した。
そこに書かれていたのは、妻から聞いていたものと違う血液型だった。
そしてその日を境に、父は家族で食事をしているときも、退院した華奈が病院での出来事を話す時も、父は胸の中に何かが引っかかっているのを感じていた。
自分の血液型は、間違えようもない。父は会社で依然受けた健康診断の紙を引っ張り出して、確かめてみた。
次に、妻の血液型を調べようとして、今自分がしていることの意味を考え直し、何度も悩んだ。
この疑念は、晴らしていいものか。そう何度も自問し、何度も思い直し、そして事故から3か月がたった、暑い夏の日。
とうとう思い立って、妻が華奈を連れて出かけている日曜日。父は、意を決して、母子手帳を開いた。
そして、血液型の組み合わせについて、何度も何度も繰り返し調べ、数えきれない程自分の間違いを疑った。
自分が無知なだけだ。可能性は低くとも、血液型の組み合わせに例外があるはずだ。でなければ、説明がつかない。
そう心の中で何度も唱え、そうして、妻と華奈が帰宅するのを待って、確認してみた。
すまない。最低なことをした。疑ってすまない。
父は初めに頭を下げ、そして、核心に触れた。
果たして、妻は観念したのか、それを認めた。そしてその時、父の中で何かが崩れたのだろう。これまで汗水を垂らして守っていたものが、こんなものだったのか。そう思い、目の前が真っ暗になるような気分を味わった。
そしてその年の秋。
華奈には告げず、離婚の話が纏まり始め、慰謝料についても弁護士を雇ってすぐ。
ある日、父が仕事を終えて帰ってくると、ただ真っ暗なマンションの自室の中、リビングに父の名前以外記入された離婚届だけがぽつんと、置いてあった。
華奈を連れて、ある日、何も言わずに居なくなったのだ。
父は絶望した。
こんなこと、望んでいなかった。
金銭面で不安があったのなら、言ってくれたらよかった。
話し合いの中で何度も口論はあったが、それでも、こんな形で終わることになるなら。
華奈と再開するまでの間、父は何もかもを忘れるように仕事へ没頭した。朝も夜も、とにかく仕事の事だけを考え、それ以外のことを考える時間を極力減らした。
そうして出世を重ね、2年という速さでかなり上の地位まで躍進した頃。
華奈がこの家に、役所の人間と一緒に訪問してきた時、父は復讐の機会を誰かが自分に与えてくれたのだと思った。
2年という歳月は、父の憎悪を肥え太らせるには十分過ぎたのだ。
中学生になった華奈は、父への当てつけのようにあの女と同じような髪形をして、あの女と同じような顔をして、そしてあの女と同じように、またしても自分の金を寄生虫のように吸い取ろうとしてくる。少なくとも父の眼には、そう映って止まなかった。
だったら。
ここ以外、どこにも行くところがないこの華奈に、俺のされてきた行いを全て返してやろう。
怨むなら、俺ではなく、自分の親を怨め。そう思って、父は2年前の春。
華奈を家に招き入れたのだ。
それが、何故。
リビングに煙草の煙を充満させて、父は頭を抱えた。
すでに何度も考えた。どうしてこうなったのか。どうするべきなのか。何をすればいいのか。どうしたら今からでも、立て直せるのか。
「う……うう、ううう」
呻き声が真っ暗なリビングへ響く。
父はとうに枯れ果てるほど涙を流し、思い出したように机をまた叩いた。
そのただならぬ様子に、アックスも腹を減らしてはいたが、しかし一度リビングへ、あれから様子を見に来たきり。今は恐らく、ベッドで丸まって寝ているのだろうか。
赦してください。
父は目を固く瞑り、何度も頭の中で唱えた。
その言葉は、かつて華奈が何度も父に言った言葉だった。
許してください。
ごめんなさい。
もう二度としません。
もう声を聴けなくなったと理解した今でも、父の耳の奥では鮮明に、華奈の声でそれらの言葉が聞こえてくる。
さっきもそうやって、華奈は何度も謝って、泣き叫んで。でも俺は、それを聞こうとしなかった。
懺悔するかのように、机に額を擦り付ける。それでも思考は、一度始めた記憶の再生を止めようとしない。
すでに父の身体はこれ以上のアルコールを欲しておらず、今はただ吐きそうなほどの気持ち悪さと、酩酊の為に視界がぼやけ、ぐるぐると回っているかのような錯覚を覚える。それは皮肉にも、先程までの華奈が死ぬ間際に感じていた不調と相似していた。
酔いも醒め始めた頭で、父は記憶の中の自分を思い返す。ただ怒りに任せ、華奈の指を折り、苦痛に呻く姿に一時は気が晴れた。清々しい気分すら覚えていた。だが、それも束の間。すぐに華奈は、父を憎らしそうに睨みつけ、悔しそうに結んだ唇は、怨嗟でわなわなと震えていた。
それを見て、自分の行いを顧みるでもなく、自分はむしろ、余計に苛立ちを募らせた。反省していないと思った。俺が理解させてやらないと、と思った。こいつを痛めつけて、誰のおかげで今暮らせているか、教育してやらないと。そう思った。
だから蹴った。
吹き飛んだ、殆ど骨と皮だけになった華奈を追いかけ、また蹴った。
必死で痛みに耐えようと、いつもの顔——苦しみに表情を染め上げながら、恐怖で震えながら、しかしそれ以外を感じていなさそうな顔になった彼女を、今日こそは変えてやると思いながら、蹴り続けた。
俺は何を求めていたんだ。
父は少し考え、すぐに理解した。きっと、そんな顔をして欲しくなかったんだ。
初め、華奈が家に来た時からすぐに暴行を加えていたわけではなかった。初めは、華奈が何か指示したことをしていないと分かった時、父は部下へ注意をするように、華奈に口頭で注意をしていた。
だが、華奈とてまだ中学生になったばかり。当然、そんな風に自分の行いを責められて、社会人の手本みたく謝罪は出来ない。いや、口ではそんな言葉を言えたかもしれないが、心の内では、不満が滲んでいた。
それが父の癪に障った。
家に住むなら、あれをしろ、これをしろ——そんな華奈に対しての指示は初め、華奈の今後を思っての発言だった。それなのにそんな不服を感じさせる目を向けるとは。そう思い続け、終には手が出てしまったのだ。
顔を平手打ちしたのか、物を投げつけたのか。
記憶は定かではないが、しかしその時の顔だけは、思い出せた。
父のずきずきと痛む頭の中に、華奈の顔が浮かぶ。
不満を湛えていたあの目が、恐怖に染まり、全てを諦めて許しを請う様にこちらを見つめていた。まるで獣が、絶対に勝てないと理解した相手に見せるような、負けを、全てにおいて負けを認めるような顔。
初めの内は、父もそれで満足できていた。
だが、その満足すら長くは続かなかった。
家を出ていかせると言われたことに対して、ただ怯えているだけ。
食事を減らすと言われたことに対して、ただ怯えてるだけ。
痛みに対して、ただ怯えているだけ。
結局、根本のところで父が求めているような、住まわせてもらっていることに対しての感謝を、とうとう華奈から得ることが出来なかった事に対して、父は苛立っていた。一体誰のお陰で。そんな考えが爆発して、父は華奈のことを壁まで蹴り転がし、そして踏みつける度に、早く感謝を憶えろと、待っていた。そんな気がする。
だが。それで華奈を殺してしまうことになるとは、思ってもみなかった。
きっと、満足な食事を摂れていなかったせいで成長も阻害され、骨も脆くなっていたのだろう。父は気付いていなかったが、初めて華奈のことを本気で殴った後。
成人男性の体重で踏みつけられた華奈の肋骨は、その殆どが滅茶苦茶に折れ、肺や内臓に、刺さっていた。頬骨も折れていたし、背中を蹴られたときには背骨も一つや二つ、砕けていた。
それで死なない方が難しいくらいの重傷を負い、父が体力に限界を迎えて手を止めるかなり前から、華奈は瀕死だった。そこへとどめを刺すように、頭部からの出血と挫傷。
父は知らず知らずのうちに、華奈が死んだ後も。
その死体をしばらく、蹴り続けていたことになる。
がたん。
そんな音が2階からして、父は心臓が早鐘を打った。
時刻は深夜を回り、日付が変わった頃。未だにリビングから動けなくなっていた父は、酔いが醒めた後の酷く辛い状態で、しかし横にすらなろうとせず、気が付けば意識を失っていた。
眠っていたのかもしれないが、しかしその物音で飛び起きると、反射的に玄関の方へと目を向けた。
人を殺した。そんな分かりやすい罪を背負った父は、警察が家に来たのかと疑い、口で荒く息をしながら、瞳孔の開ききった目で、静かにその扉を見つめ続ける。
無論、自ら電話を掛けたわけでもないのにすぐ警察が家へ来ることなどなく、10秒、20秒と経過した頃、ようやくそれが、何ものかが家へ入ってきたわけではない音だと気付いた。
ほっと胸を撫で下ろし、自嘲的な気分になる。
人を殺しておいて、捕まらなくてよかった。そう思って安心した自分が、情けなくなった。
だが、だとすると今のは?
父は静まり返った部屋の中、身じろぎ一つせず、じっと耳を澄まして、音の主を探る。だが聞こえてくるのは、冷蔵庫の唸るような、コンプレッサーの駆動音だけである。少なくとも、先ほどのような、何かが落ちるような音はもう聞こえてこない。
一瞬、アックスが動いた音かと思ったが、いつの間に来たのだろうか。足元で眠るその姿を見て、それでもないことを悟る。
ひょっとすると、華奈の死体が何かの拍子に、血で滑ったりでもして頭が床に当たったのだろうか。次に父はその可能性を疑った。
考えられるものはそれしかない。
少し意識を失っていたお陰か、多少は楽になった頭で、父は妙に冷静な気分だった。まだ自分の罪を受け入れたわけでも、全てを諦めたわけでもないが、それでも事実を受け入れるだけの、心に余裕が出来ていた。
今更何に願おうと、華奈が生き返る訳でもない——現実的な思考が脳に沁み込んでいた。
父は椅子を引いて立ち上がると、まだ少しよろめく足を動かして、壁に手を着きながら階段の方へと向かった。
とす。とす。
電気も付いていない中、暗順応した視界で一人歩く家の中は、いつもより広く感じられる。父は幽霊の類を信じている質ではないが、しかし得も言われぬ恐怖を背筋に感じて、なるべく視界を絞るように、何も嫌なものがうっかり見えてしまわない様にしながら、階段に足を掛けた。
と。その時。
がたん。
またしても先ほどのような音が聞こえてくる。
今度こそ、父は大人げなく叫びそうになった。
すぐに思考が一瞬で駆け巡る。一度目がもしも、華奈の頭が床に転がった時の音だとすれば、二度目は?
今にも真っ暗な階段を昇る父の肩越しに、誰かが父の顔を至近距離で覗き込んでいる——そんな気味の悪い想像に、気がおかしくなりそうだった。きっとこれも、自分の犯した過ちのせいで精神が参っているからだろう。そう思い込み、荒く息を吐いて、手すりに手をやった。
階段を急いで昇り、父は真っ暗な廊下に出る。華奈の部屋は電気がついているのか、扉の隙間を縫って、光が這い出てきていた。
それに先ほどまでの恐怖心が一瞬和らぎ、そして恐ろしい事実に気付いて、腰を抜かしそうになった。
点けていない筈だ。
父は、華奈の部屋に入った時、まだ夕方にもなっていなかったから、電気を点けていないし、元から点いてもいなかった。華奈がそんな電気の無駄遣いをして、わざわざ父の機嫌を損ねることをする理由がない。
じゃあ、何故?
首筋から肩を通り、指先にまでゆっくりと怖気が伝う。毛が逆立つのを感じ、その扉から目を離せなくなってしまった。
呼吸すら忘れ、自分の生唾を飲む音が嫌に響く。
いよいよその場から走って逃げだしたくなったところで、何とか部屋の前に到着し、ドアノブに手を掛けた。
染みるような冷たさをしたそれを掴み、父は歯を食いしばった。
幽霊なんていない。
いるのは、死体だけだ。
そう心の中で一度唱え、力を込めた。
勢いよく、ドアを開け放つ。
華奈は慌てて、顔を上げた。
どうやら涎をシーツに垂らして、眠ってしまっていたらしい。不快な冷たさに飛び起きた彼女は、慌てて唇を手で拭う。
濃い赤色のベッドシーツは、顔をうつ伏せにしていたところへ染みが出来ており、思わず顔を顰める。
そして顔を上げ、辺りを見渡して、慌ててベッドから降りた。
がたん。
そんな音を立てて、部屋の窓に張り付いた彼女は、信じられないものを見るような目で、外の景色を見つめる。
すっかり夜の闇を湛えた外は、どう考えても華奈が帰ってきてから、何時間もたった後の景色である。それも、19時や20時といった、かわいらしいものではない。
きっと、もっと遅い。それ程の時間、どうやら眠ってしまっていたらしいことに気付いた時、華奈は胃がキリキリと締め上げられるように痛んだ。
幸い、仮眠——というには眠りすぎだが——を取った為か、帰宅時まで感じていたような吐き気も眩暈も、頭痛すら嘘のように消え去っていたが、これならまだ、それらが残っていてでも父が帰宅するまでに、せめて父が帰宅してすぐ起きたかった。
きっと、父のことだ。こんな時間まで惰眠を貪っていた自分のことをどうするかなど、目に見えている。そうなれば、また昨日のように暴力を振るわれるかもしれないし、そうなればせっかく回復した体調も——。
彼女はすぐ、父の晩御飯を用意しなければならない。そう思い立ち、窓から離れた。
生憎、華奈の部屋には時計が無く、今の正確な時刻は分からない。しかし華奈は今日の夕食を一切作った覚えがない。だからきっと、父は今頃自室かどこかで時間を潰しながら、腸を煮えくり返しているだろう。そう思って、余計に部屋から出たくなくなった。
何故こんな時間まで寝ている自分をそのままにしたのか。という点に関してはそれこそ疑問が残るけれど、それも意地の悪い父のことだ。きっと、放っておいたら何時まで寝るのか、と待ちながら、ストレスを発散する口実を得たと喜んでいるかもしれない
だとすると、ぐずぐずしていられない。
華奈は慌てて部屋の電気を点け、いつも通り教科書を机へ並べる。勉強が今日も出来るか分からないが、しかしこれは彼女にとって、帰宅時のルーティンのようなものだった。
慌てて教科書と筆箱を鞄から取り出し、机の上へ並べる。しかし余程焦ってしまっているのだろう。華奈は手を滑らせ、教科書を床に落としてしまう。
がたん。
華奈にとって大事な教科書、それも分厚い社会科の教科書が、運悪く背表紙の角から床へ落下し、大きな音を立てる。
華奈はとても嫌そうな顔をして、慌てて拾い上げる。こういった騒音を立てることに対しても父は煩く、すぐに怒ってくる。これ以上父の機嫌を損ねたくない華奈は、今度こそゆっくりとそれを机の上へ置き、鞄を横へやった。
そうして準備が終わり、もしかしたらジャージで降りた方がいいかな。などと、制服の汚れを心配しながら、しかしそんな時間も惜しいと思い直し、扉の方へ静かに急いだ。
怒られたくないな。
ドアノブを握りながら、心の中で独り言を呟いて、ため息を吐いた時。
「うわっ」
突然ドアが勝手に開き、華奈はバランスを失って廊下側へ倒れ込んだ。
「うわぁああ!」
しかし父は、華奈以上に驚きを隠せない様子で、その場に思わず尻餅をついてしまった。華奈はそんな父を見て、咄嗟に謝罪する。
「す、すみません、大丈夫ですか……」
しかし普段の行い故、華奈はおいそれと父へ駆け寄ることが出来ない。勿論父に懐いている訳ではないというのもあったが、それこそ近くへ駆け寄ったところで、驚かせたのが自分であるという自覚はある。だから殴られるのではと思い、どうにも足が竦んでしまった。
しかし、華奈がどうしたらいいかとあたふたしている時、父は華奈以上の恐怖と驚きを感じていた。
普段、我ながら、ちょっとやそっとの事では驚きもしない、肝の座った人間であると自負していた。それこそ、今や会社でも重要な役職についている彼の事である。多少の部下が犯したミスや、客からのクレームにびくびくしているような人間ではない。
だが、よもや自分のせいで死んだ娘が、扉を開けた先に立っているなど、誰が驚かずにいられようか。父は冷え切った廊下の冷たさを尻と手の平でしばらく感じていたが、やがて震える口を必死に動かし、言葉を絞り出す。
「ど、どうして」
言いたいことは、本当に色々あった。それに考えなければならないことも多々あった。
少なくともあの時、自分は確かにこの年端もいかない娘を蹴り殺し、その死体を部屋の中へ放置したまま、リビングにいた。その自分が離れている間に、生き返った?
そう思って父は華奈の姿へ目を向ける。少なくとも華奈の見た目上は、明らかに生きている。血色も良いし、まるで何事もなかったかのようにけろっとしている。
そこで父は、ふと華奈の頭部へ目をやった。
「どうしたんですか、お父さん。何だか……体調が悪そうですけど」
様子のおかしい父に異変を感じた華奈は、不審そうに眉を顰め、自分の顔色を窺うように覗き込んでくる。その目には心配の色が浮かんでいた。
俺には、そんな心配される価値すら無いというのに。
自嘲的になって、父は彼女の頭部に目を向けた。
鼻血も出ていないので、もしやと思ったが、案の定。華奈はその肉体から血の一滴も垂らしておらず、至って健康そうな姿で、そこに立っていた。
だが、それでは父の記憶とどうしたって食い違う。
少なくとも父が憶えている限りにおいて、華奈は確実に死んでいたし、それこそ指だって——。
そこで我に返った父は、突然に起き上がると、華奈の方へ歩き始めた。
驚いたのは華奈の方で、突然にこちらへ向かって歩みを進める父に、恐怖を抱かないわけがない。やっぱりこんな時間まで寝てしまっていたことに対して、大層怒っているのだ。そう思い込み、慌てて後ずさりをする。
「あ、あの。体調が、とても悪くて。それで、眩暈で立っていられなくて」
必死に言い訳を並べる華奈は、そうして万が一にも父が自分の容態を理解して、少なくとも手を上げることを止めてくれたら。と希望的観測に縋る他なかった。
しかし父は、そんな華奈の言葉すら聞こえていない。ただ、呆気に取られた表情でどんどん華奈との距離を縮めると、覆いかぶさるように手を伸ばした。
肩を竦め、覚悟を決めた様に目を瞑る華奈。その片腕に手を伸ばした父は、力任せにそれを自分の目の高さまで持っていくと、信じられないものでも、それこそ恐ろしい物でも見た様に口を震えさせながら、ただ見つめていた。
そんな、華奈にとっては意味の分からない時間がどれくらい過ぎた頃だろう。
恐る恐る、口を開いた。
「あ、あの、お父さん。痛い、です」
呼ばれて、父ははっと我に返る。そして自分が力を込めて華奈の手を握りしめていたことに気付き、慌てて手を離す。
「す、すまん!」
言って、父はそのまま華奈から距離を取るように2、3歩後ずさりをする。
言うまでもなく、父の胸中は穏やかではなかった。だが、それは華奈も同じことである。いや、父よりも、ある意味では恐怖や不思議を感じていたかもしれない。
離された手首を手で擦りながら、華奈は今の発言が、父にしてみれば到底言うはずもない発言だと思っていた。それこそ、まだ父が偽物にすり替わっている方が納得できる。
あの父が、謝った。
それこそ、手首を掴まれて持ち上げられた時より、ずっと恐怖していた。
「いえ、大丈夫です」
言って、華奈はどうしたものか、居心地悪そうにその場に立ち尽くし、手や足をもじもじと動かすくらいしかすることがなかった。そして父もまた、いつも通り、何事もなく動いている華奈を見つめ、果たして今自分の見ているこれが現実か夢か、分からなくなっていた。
そんな現実味のなさに立ち眩みのような眩暈を憶え、父は顔を手で覆う。
さっき、掴んだ華奈の手。確かに冷えて冷たくなっていたが、しかし確実に生きている人間の体温だった。それにあの指。
俺が確実に折ったはずの指は、何事もなく曲げられていたし、痛がる素振りも見せないことから、折れていない様に見える。
目を覆って上を向き、考えれば考えるほど何が何だか分からなくなっていく現実に、父は混乱を隠せなかった。
「お父さん、やっぱり体調、良くないんですか?」
そんな父に、華奈は心配そうな顔を浮かべる。先ほどから父は意味の分からない行動ばかり取っているし、今も辛そうに天井を仰いでいる。こんな時こそ、親切にしておかないと、機嫌の悪くなった時に何をされるか分からない。という打算と、単純に今日、今この瞬間の父が理解のできない行動ばかり取るため、華奈はどうするべきか分からなかった。それ故の表情である。
これがいつも通り、些細なことで言いがかりをつけ、怒ってくる父ならば、まだ理解できる恐怖だったのに。今の父は、何を考えているのか、微塵も伝わって来ない。
「とりあえず……ご飯ですか?」
言って、華奈は父となるべく距離を取るようにして回り込み、入り口の方へ向かう。そうして扉に手を掛けようとしたところで——。
「待て。待ってくれ」
背中越しに聞こえる父の声と、次いでこちらへ近づいてくる気配を感じ、足が恐怖に竦む。
慌てて振り返ろうとしたが、それすら恐怖のあまり出来なかった華奈は、父が背後に立ったまま、指先一つ動かせない。その顔は、今にも後ろから殴られたらどうしよう、蹴り飛ばされたら嫌だな。そんな恐怖が浮かんでいる。
父もまた、華奈の背中を苦しそうな面持ちで見つめ、絞り出すような声で尋ねる。
「お前、覚えていないのか?」
そう言われ、振り返った華奈。その表情は、相変わらず恐怖が染め上げていた。
父は構わず質問を続ける。
「俺が、さっきお前にしたことだ。仕事から帰ってきて、そのあと……」
言いかけて、父の頭にふと、一つの言葉が浮かんだ。
赦し。
あの時、気が狂いそうな程、赦して欲しいと願った。夢であってくれ、何かの間違いであってくれ。そう願った結果が、これなのか?
自分で蒔いた種だというのに、傲慢だと自嘲する気持ちと、それでもあれが無かった事になるなら、そういう二つの思いに、父はその先を何も言えなくなってしまう。
「いや、いい……」
そうして父は、目を逸らしてそう呟くと、華奈の肩越しに扉を開けた。
「それより……遅くなったが、飯にしよう」
果たして、華奈にこんな顔を向けたのはいつ以来だろう。
酷く引き攣った笑顔を作り、父は華奈の肩に手を置いた。
時刻はもう、日付が変わった頃だった。
未だ胸中穏やかではないのは、華奈の方である。
学校から帰ってきて、寝て、起きて、そうしたら父と鉢合わせ。それ以来、明らかに普段と様子のおかしい父に、華奈は嫌な想像ばかりしてしまう。
何せ、明らかに様子がおかしいのだ。普段ならば自分と目が合っただけで、不快害虫でも見つけたかのように眉を顰める父が、今はまるでこちらのことを避けているかのような。腫物でも触るかのような態度で接してくる。
かと思えば、時々何かを深く考え込むように止まって、難しそうな顔をする。
「後ろ、通るぞ」
言われて、華奈も深く考え込んでいたのだろう。すぐ後ろへ近づいていた父の声に驚くと、反射的に身体が飛び跳ねる。
父は冷蔵庫に飲み物を取りに行こうとしていたらしく、そのまま華奈の後ろを通っていたが、華奈は少ししてから、フライパンの淵に手が当たっていたことに気付く。
遅れて、火傷特有のじんじんとした痛みが手の甲へ広がる。
「熱っ……」
ぼそっと呟き、慌てて患部を手で押さえる。それに気付いた父は、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出しているところだった。
「どうしたんだ」
そう聞かれて、華奈は返答に少し悩んだ。普段なら火傷したことを伝えたところで、何かしてもらえる訳ではないどころか、流水で患部を冷やす、なんてことも十分怒られる理由になり得た。
曰く、水が勿体ない。お前がよそ見をしてたからそうなったんだろ。と言われ、無駄に怒られるだけである。
だから華奈は、火傷を手で隠しながら、誤魔化した。
「いえ、なんでもありません」
「何でもないわけないだろ。火傷か?」
父はそういうと、華奈の手を退ける。そして赤くなった火傷を見て、眉間に皺を寄せる。
「すみません」
申し訳なさそうに頭を垂れる華奈。父はその手首をおもむろに掴むと、ペットボトルを置いた手でキッチンに水を出す。そして患部を冷やそうと、手首を引っ張る。
だが、華奈は咄嗟に力を入れて、自分の方へ手を引く。
「ご、ごめんなさい」
蚊の鳴くような声に、父が華奈の方を見ると、彼女はとても怯えた様子で足を踏ん張り、手を引く父から必死で離れようとしていた。そんな彼女の行動自体は普段から見られていたため、こういう抵抗自体珍しいものではなかったが、しかし父は、ショックを受けた。
何せ、自分が華奈の火傷を心配して、患部を冷やそうとしたというのに、その行動を怖がられている。普段なら、それこそ父は激怒して、無理矢理に腕を引いたのかもしれない。華奈を殴りつけたかもしれない。
実際、一瞬だけいつものように、父は手を上げようとしている自分に気付いて、すぐにそれを止めた。
「やめてください……」
尚も足を踏ん張り、離れようとする華奈に、父は説明した。
「違う。俺は冷やしてやろうとしただ。安心しろ」
そう説明してやると、華奈は改めて父の方を見る。その目にはまだ恐怖が浮かんでいたが、しかし腕を引く力は緩くなる。それを感じて、父は改めてゆっくりと、水栓に手を近付けさせる。
水が華奈の手に当たった時、華奈は小さく身体を震わせたが、その後はただ大人しく、父にされるがまま、手の甲を冷やし続けていた。
その手首を掴み続けながら、父は改めて、思考を巡らせる。
俺はあの時、華奈を確かにこの手で——。だが今、華奈は確かに生きている。握りしめた手首からは確かに華奈の脈も感じられるし、こうして喋って、触ることも出来ている。だとすると、やはり何か超自然的な力が働いて、華奈が死んだという事実が無かった事になった? 記憶も無くして? それはあまりにも父にとって都合の良い出来事であるため、認め難いが、それ以外に何か説明の付けようもない。というのもまた事実である。
記憶も、どうやら全て失っているというわけではないらしい。それもまた不思議であるが、どうやら華奈の言葉から推測するに、起きてから死ぬまでの記憶がそっくりそのまま消えているらしい。
父は、結局何か見えない力のようなものが働いて、あの過ちが無かった事にされた。という結論に至るしかなかった。そして、その見えない力に、不安すら抱いていた。
「どうだ、少し良くなったか」
明らかにいつもと違う様子の父に、手を冷やされ続けて5分程経って、父は華奈に聞く。華奈は、今度は指先が悴んでじんじんと痛むのを感じながら、しかし久しぶりに触れた父の優しさに、それ以上の不快感を感じていた。
「はい、大丈夫です」
「ならいい」
手を離した父は、そのままペットボトルを持ってキッチンを離れる。その後ろ姿を目で追いながら、怪訝そうな顔を浮かべる。
普段なら、こんな風に水を無駄にしたら、絶対に怒るのに。どうして今日は?
そんな疑問を抱きながら、コンロに再び火を着けた。
フライパンの上で、刻んだ野菜と肉が音を立て始める。
その後も父の態度は、華奈にとって不自然としか言いようのない物ばかりだった。だが、それがどうしてなのか。それは華奈には全く予想出来ない。だからこそ、それが余計に恐怖心を煽る。
「お待たせ、しました」
時刻は深夜1時を回った頃。華奈はかなり遅くなった夕食を作り終え、食卓に座る父の前へ、皿を出した。
父はそれを黙って見ていたが、自分の手元に箸が並べられた所で、口を開いた。
「その……お前も食べるんだろ」
苦虫を嚙み潰したような表情で、言葉に詰まりながら父は華奈を見る。それは父にとって、精一杯怖がらせない様に質問したつもりだった。あまりに迂遠な言い方なので、華奈には当然伝わらなかったが。
「座りなさい」
そう付け加えて、ペットボトルの緑茶を一口、含んだ。
数秒の気まずい沈黙が、食卓に広がる。その間、華奈は頭を必死に回転させて父の言葉、その真意を探っていた。が、結局理解できず、質問を返す。
「わたし、ですか?」
「お前以外に誰がいるんだよ。食べないのか?」
父は対面にある席を指差した。
「そこに座って、一緒に食えばいいだろ。冷める前に」
気恥ずかしさから、父はぶっきらぼうにそういうと、箸を手に取った。その様子を呆然と見ていた華奈は、やがて父の指示には従った方がいいと考えを改め、急いで自分の分を皿に盛りつける。
父の正面に座った華奈は、しばらく父の様子をちらちらと、まるで視線を避けるようにして確認を繰り返す。そして、まるで悪いことでもするかのようにこそこそと、目の前の食事を食べ始めた。
通夜のような重苦しい静けさの中、いつも通り箸を進める父と、それを倣うようにして、ぎこちなく手を動かす華奈。
父は、食事を口に運びながら、頭の中では心を入れ替えて華奈に優しく接そう、もう手は上げないでおこう。そう心に誓って、振舞ったつもりだった。一度華奈の死を経験したことで、急激に考えが変わっていくのを自分でも感じていた。
どうすれば華奈に対して、自然に優しく、父親らしい振る舞いが出来るのかを考えていた。
一方華奈は、相変わらずこれまでと比べて、明らかに態度のおかしい父に、とてつもない違和感を憶えていた。これこそ華奈にとって普段から望んでいたような暮らしだったかもしれないが、実際にそうなってみると、何かイメージしていたものと乖離しているような印象を受けた。
火傷をしたら心配してくれて、ご飯も一緒に食べることを許してくれて。状況だけ見たなら、この家に来た初日よりも穏やかな一時を過ごせている筈なのだが。
「どうだ」
沈黙を破る父の声が、今まさに食事を口に運ぼうとしていた華奈の動きを止めさせる。
「その……。体調は。眩暈とか、しんどかったんだろ。良くなったのか」
言葉を一つずつ選ぶ、ぎこちない口調だった。
華奈も、それを尋ねられて何と返すべきか、分からなかった。これまで父に体調を心配された事は、一度も無かった。
「はい。もう、大丈夫、です」
震える喉から、蚊の鳴くような声を絞り出す。それが父にどう聞こえたのかは分からない。しかし父は、華奈の返答を聞いて、小さく息を吐いた。
そしてまた食事に戻る。
華奈はそんな空気に、苦痛さえ感じていた。目の前の食べ物も、まるで手の届かないくらい遠くに感じられた。食べ物に箸を伸ばすことさえ恐怖していた。
父は、口にしていたものを飲み込むと、先ほどよりは滑らかに言葉を発した。
「お前、もう少し楽にしたらどうだ。そんなに怯えなくていい」
言って、自分の発言に驚いた。父はすぐに口を堅く結ぶと、居心地が悪そうな顔をする。
そう言われた華奈は、感情が大きく揺れ動いた。込み上げてくるものが大きすぎて、目に涙が滲むのを感じた。それを何とか耐えようと息を止めるが、それでも両目が熱を持ち、鼻の奥に涙が染みてくる。呼吸の度に喉がしゃくり上げてきて、息を吸うのも途切れ途切れになる。
怯えなくていい。父は今そう言った。だが、どうして父へ怯えずに居られようか。これまでの仕打ちによって、どれほど華奈が身体と、それ以上に心へ傷を負ったか、この男は何も理解していないのだ。態度こそ、何故か急激に軟化しているが、それは少なくとも、今の華奈には受け入れられない。心の奥では、どうせまた同じことの繰り返しになる。そんな予感が、燻っていた。
「頑張ります」
誤魔化すように制服の袖で目頭を拭い、嗚咽混じりの声で答える。泣いているなんて、今の父には特に知られたくない。弱いところを見せたくない。そう思って、箸を急いで進める。
父はそんな華奈を少し見つめた。その目は、いつものように怒りで我を忘れたようなものではなく、何か違う、複雑な感情が灯されていた。しかしそれはすぐに無表情の奥へ消えていき、また黙々と食事が続いた。
かに思えたが、父は突然、音を立てて立ち上がった。椅子が床を擦り付ける不快な音が静かなリビングに響き渡り、華奈はまた肩を竦めた。驚きで涙も止まり、小さく息を吸う音が喉からなる。
父はそうして、何事かとこちらを伺う怯えた両の眼を見据え、決心したような表情で口を開く——がそこからなにか言葉が出ることはなく、一度噛み殺すように顔を強張らせた後、長い沈黙が後へ続く。
華奈はその間、蛇に睨まれた蛙のように、父の視線から目を逸らすことが出来なかった。だが見つめられ続けているのも心地の良いものではなく、今にも意識を手放してしまいそうな程の緊張が身体を凍り付かせた。心臓を直接に握られているような感覚に、呼吸すら浅く、早くな
どれほどそうしていただろうか。父は肩で一度息を吸うと、渇いた唇を動かした。
「すまなかった」
言って、父は視線を下に降ろした。その声は、普段の唸るような怒気を孕んだものではなかった。むしろ、何か後悔の念を含んでいるように弱々しく、くぐもっていた。
華奈は突然に謝罪の言葉を投げられ、ようやく肩の力が抜ける。もう後少し父が発言するのが遅れていたら、過呼吸でも起こしていたかと思う程、手先や足先がぴりぴりと痺れ、そこに再び血液が巡り出すようなこそばゆさを感じていた。
そして元の働きを始めた脳で、父の謝罪を改めて受け入れようとした。が、どうにもその真意が測れない。何せ、この家に来てから父が謝罪をしたことなど、ただの一度もなかったのだから。
果たしてこの謝罪を額面通り受け入れるべきか、それとも先ほどからの異様な態度を含め、ただ一時の気まぐれとして拒むべきか。彼女にはどうするべきか分からない。
だが、先ほどから直立したまま、何をするでもなくこちらの返答を待つ様にして、腰へ手を当てたり鼻の下を指で擦ったりしている父は、自分へ害を成すような人間には見えなかった。
弱い人。華奈の目には、そう映った。それを皮切りに、悔しいという気持ちも、怖いと思う気持ちも、まるで初めからなかったかのように冷静さを取り戻していく自分を感じていた。
「なあ、華奈」
沈黙に耐えかねた父は、再び華奈を呼ぶ。
「本当に、済まなかったと思ってる——今までの事、全部謝る。……だから」
華奈は父の雰囲気を身体で感じ取りながら、テーブルの一点を見つめ続ける。そうして、ゆっくりと口を開いた。
「だから、許して欲しい、ですか……?」
先ほどまで目を赤くして涙を浮かべていたとは思えない程、冷たく響く華奈の言葉。父は驚き、顔を上げる。
「そんなのっ……都合が良すぎるんじゃないですか」
思考はいくら澄み渡っていようと、身体は恐怖を憶えているのだろうか。それとも、目を合わせる必要すらないのだろうか。華奈は父の姿を視界に捉えようとせず、ただ淡々と喋る。
その冷たい語調が父の心を抉って、小さな苛立ちと無力感を抱かせる。
「な——ど、どうしてそんなことを言うんだ、華奈。俺はただ、反省して……」
予想だにしていなかった華奈の言葉に、父は戸惑いを隠せない。謝罪をしているこちらが、逆に責められているかのような気持ちになり、改心した所でどうしようもないという諦めも湧いてくる。
華奈は、何も言えなくなった父を感じ取りながら、ゆっくりと椅子を引き、同じように立ち上がろうとする。だがその動きは鈍く、まるでこの行動が正しいのか、迷いながら動いているようだった。事実、華奈はこうして謝罪の言葉をぶつけてきた父に、どうするべきか理解していない。
「もう、お父さんが何を思ってるのか、わたしには分かりません。でも、また同じことの繰り返しになるだけだと思います。……だから、もういいの」
その声は言い聞かせるように穏やかであり、悲痛さを含んでいた。父はそんな言葉をぶつけられ、無意識の内にまたしても拳を握っていたが、何かを言おうとした口からは華奈を引き留める言葉が一つも出てこなかった。
華奈はそのまま、迷いを感じさせつつ立ち上がると、踵を返してその場を去ろうとする。それを最早引き留めまいと唇を噛んだ次の瞬間、父は華奈がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。机に身を乗り出し、料理の乗った皿をひっくり返しながら手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。ガチャガチャと、皿の揺れる音が机の上で鳴り響く。
「待てっ! 待ってくれ!」
そう叫んだ父の声は、殆ど悲鳴のようだった。
腕を掴まれたと理解した途端、華奈は全身に怖気が走るのを感じた。すでに幾度となく感じてきたその恐怖は、未だに慣れることもなく、腕を掴まれただけで全身が動くことを本能的に拒絶する。視界がぐらぐらと揺れ、喉を締め付けられるような感覚に襲われた。
捕まった。
逃げられない。
また——同じようになる。そう思った。
「華奈、なんで逃げるんだ……」
荒い息を口の間から漏らし、父は振り返った華奈を見つめていた。しかしその目には怒りなど見られず、むしろ焦りや混乱で染まっているようだった。しかしそれとは裏腹に、父に掴まれた腕は、骨が軋むような痛みを覚える程の力でしがみついてきていた。彼女は2階へ続く階段の方へ身をやったが、すぐに元の場所より父の方へ引き戻されてしまう。
食卓は今や、皿などが割れてこそいないものの、茶碗が揺れに応じてごろごろと円を描いて転がり、平皿に盛られた野菜炒めは卓上に散乱している。味噌汁が零れ、机の端からぼたぼたと零れて床へ飛び散っていた。
——せっかく作ったのに。
華奈はふとそう思ってしまい、目に涙が滲みそうになる。だがすぐに気を持ち直すと、浅く息を吐いた。
「お父さん」
華奈は、必死な様相でこちらを見つめる父に目をやる。
「お願いします、もう、嫌なんです!」
その声は、ただ冷酷さを帯びて、父の心に突き刺さった。彼は驚いたように目を見開いて、思わず手の力が緩む。いや、無意識の内に緩めてしまったのだろうか。
急に支えを失い、背中から転んだ華奈は、ごろごろと床を転がる。それを見た父は、先ほど華奈の部屋でやったことがフラッシュバックして、言葉すら出なくなる。対する華奈は、結局心配の言葉一つかけようとしない父を、床に這ったまま見つめ、敵意を持って睨みつける。
視線を感じた父は、ようやく口を開く。
「ち、違う、今のはお前が……」
だがそう言いかけて、すぐに言葉を飲み込む。そもそも、華奈の手を無理に引かなければ、こんな事にはならなかったのだ。
今更、父が弁解できることなど何もなかった。何ひとつ、残されてはいなかった。
華奈は赤らんだ目で父を一瞥し、その場に手を着いて立ち上がる。そうして、足早に階段を駆け上がっていった。
階段を駆け上がる軽い音がリビングから遠ざかり、やがて扉の締まる音が遅れて、大きく響いた。
その音は、彼女が父に対して心を閉ざしたように聞こえ、耳の中で何度も反響するように感じられた。
散乱した食事をまとめてごみ箱に入れ、皿や茶碗を流しに置きながら、父は何度も、華奈が放った言葉を反芻していた。
もう、嫌なんです。
それが華奈の声で、あの冷たく吐き捨てるような口ぶりで繰り返される。その度に、父は自分の中にあるどす黒い何かが掻き毟られるような気持ちになった。
これまで身も心も掌握して支配していると思っていた子供に、自分の存在がずっと不快だったと、面と向かって言われているような気持ちになる。
「ふざけんな……」
ずっと、華奈のことを自分より弱い存在だと思って過ごしていた。だから父は思い通りにしてきたし、その代わりに守ってやっているという自負もあった。
それが、こちらが下手に出た瞬間、好き放題言いやがって。
不満がどろどろと湧き出し、やり直そうと思っていた思考を、怒りが染め上げていく。もう華奈に対して二度と振るわないと誓ったはずの拳を握りしめ、父は耐えきれず、それを振り上げた。
「ふざけんな!」
大声で叫び、父は床を拭いていたタオルを階段に向かって投げつける。勢いよく宙を飛んだそれは、水で湿っているためか、階段近くの壁に当たって鈍い音を立てる。
「やることもやらずに、戻りやがって!」
そのまま怒りに任せ、更に椅子を足で蹴り飛ばす。ガタガタと大きな音を立てて、華奈の座っていた椅子が壁の方へ吹き飛び、脚が一本、ぶつかった拍子に根元から折れる。彼はそれを見て、一瞬、華奈を手にかけてしまったときの事と重ねて考えてしまったが、すぐにまた怒りが沸き上がる。
あいつは結局、自分の事だけしか考えていない子供だ。
「降りてこい、華奈!」
上階に向かって、父は叫ぶ。だが勿論、返事はない。物音すら聞こえない。父は激昂して、理性を完全に手放したまま、階段を駆け上がる。
華奈の部屋の前に立つと、そのまま勢いよくドアノブを掴み、回した。
開かない。
見ると彼女は鍵をかけていた。
それを見た瞬間、父はドアを殴りつけた。
「おい、開けろ! 俺との話がまだ終わってないだろ!」
あくまで一般家屋のドア。それほど厚いわけでもない扉を、何度も殴る音が部屋中へ響き渡る。華奈は心臓が張り裂けてしまいそうな程の恐怖を抱き、現実から目を背けるように耳を塞いだ。そうして、ベッドの上で膝を抱え、目を固く瞑った。
勿論、華奈は父が心を入れ替えたなど考えてもいなかった。どうせ、すぐに元の調子へ戻ると分かっていた。しかし彼の暴力的な振る舞いが再び顔を出すのは予想以上に早く、そして予想以上に烈しかった。
どこにも逃げ場のない部屋の中、華奈はせめて父が疲れ果てるまで、ドアが破られない様に。それだけを祈って、真っ暗な視界の中で耳を塞いで震えた。
「好き勝手言いやがって、言いたいことはそれだけか? せっかく俺が、お前のためにどれだけしてやったと思ってるんだ!」
父は思考が纏まらず、ただ感情の赴くままに叫び続ける。ドアをひたすら殴りつけ、華奈はその時間が永遠にも感じられた。
一体、どれくらいそうしていただろうか。
華奈はふと、ドアを叩く音が止んだことに気付き、ようやく父が諦めて部屋の前から去ったのだと思った。恐る恐る目を開け、次に耳から手を離して顔を上げる。
そこには、息も絶え絶えで、額に汗を滲ませた父が立っていた。
拳からは血が滲み、目は虚ろで、歯は怒りを湛えて唇の隙間から見えていた。
華奈は、生まれて初めて感じる程の恐怖に晒された。全身から力が抜け、もうどこにも逃げられないことを悟った。
そして、やはり父は変わろうとしないことも、同時に悟った。結局、あれは一時の気まぐれだったのだろうか。
「何度も言わせるな。……俺の言うことを聞け。俺に逆らいやがって」
どこか遠くの方で父の声が聞こえているような感覚を憶えながら、華奈は拳を振り上げた父の目を見据えた。
「……そうやって、また殴るんですか」
その一言に、父の動きが止められる。彼女の言葉には、諦めと呆れが内包されていた。父は、恐怖しながらもこちらを冷たく見つめる華奈の表情に再び怒りを感じたが、何とか一度、拳を下ろす。
「何が言いたい」
唸るような声で、父は凄む。華奈はそれに身体では怯えて見せたが、その冷たい瞳だけは変えられなかった。
「殴ったって、何も変わらないじゃないですか……。もう止めてください」
父は怒りを湛えたまま、華奈の目を鋭く睨み返した。今すぐ殴りつけ、その諦めたような顔を苦痛で歪ませたい。支配し、黙らせたいと思ったが、華奈の言葉がその衝動を押しとどめるように耳の奥で響く。
その言葉を聞いた瞬間、父は、さっきまで自分をかろうじて抑えていた何かが音を立てて崩れる。視界が狭まり、自分の体が意思を無視して動くのを、まるで映像を見ているかのように感じながら眺めていた。
「お前が変わろうとしないだけだろ!」
怒号が部屋に響き渡る。
それに驚いた華奈が目を逸らした瞬間、身体が一瞬、宙に浮くような感覚を味わう。そしてすぐ、背中にマットレスの感覚を味わった。古くなったベッドのスプリングがぎしぎしと悲鳴を上げる。華奈は、視界一杯に広がる父の顔を見て、思わず視線を逸らす。
結局こうなるんだ。期待しない様に注意してはいても、一度優しくなった父を目の当たりにした華奈は、やはり心のどこかで期待を抱いてしまっていたらしい。だが今は、その分だけ裏切られたという気持ちが、鋭いナイフのように彼女の心を切り付けていた。
「俺は変わろうとした。お前に頭も下げた。それなのに、お前は!」
仰向けで倒された華奈は、叫びながらこちらへ腕を伸ばしてくる父へ必死の抵抗を試みた。だがそれも虚しく、数度顔の前で振り回した両手は、手首を父に掴まれ、頭の横へ抑え付けられる。
そうして父が華奈の腰辺りへ覆い被さる様に座ると、彼女はついに身動きが取れなくなってしまった。
「お前はそうやって被害者面で、偉そうに説教まで垂れやがって、何様のつもりだ!」
父の怒りは頂点に達し、その華奈を責め立てる言葉が一つ一つ、矢のように心へ突き刺さる。その苦痛に胸を痛めながら、華奈はひたすら、どうして私が責められなければならないのか。そう心の中で繰り返した。
父にとっては、こうやって押し倒して、両腕を掴んで怒鳴りつける。これはまだ暴力の範疇ではないのかもしれない。しかし華奈にとっては、裏切られたと感じるに十分過ぎる行いだった。
「お前を養ってやってるのは誰だ? 毎日飯を食わせて、この家に置いてやってるのは誰だ! どうした、言ってみろ!」
手首を握る力がまた強くなり、骨が軋む。きっと、父がもう少し本気で力を籠めれば、わたしの腕なんて、簡単に折れるかもしれない——その瞬間、耐え難い恐怖に襲われた。逃げられないと分かっていながら、それでも無我夢中で暴れる。
だが華奈が父の拘束から逃れようとすればする程、父も更に力を込め、無理矢理にベッドへ押し付ける。華奈の行動は、父の怒りをますます煽る事になった。
「言え! 言ってみろ!」
腕を掴んだまま振り上げられ、再びベッドに叩きつけられると、とうとう華奈は震える唇を動かした。
「お父さん、です」
擦れた喉から絞り出された声で、華奈は言う。恐怖に固く瞑られた目からは涙がとめどなく溢れ、こめかみを伝って垂れていく。
だがその返答を聞いても、父は怒りがまだ収まらない。華奈を殺してしまったときはあれほど後悔し、もう二度とこんなことはしないと誓った筈なのに、怒りに我を忘れた今は、華奈が自分へ二度と生意気な口を利けない様、とにかく徹底的に怖がらせる必要があるとさえ思っていた。
「じゃあ、さっきの態度は何なんだ?」
リビングで、自分がこんな子供に頭を下げたこと──それを思い返すだけで腸が煮えくり返り、華奈がそれを無下にしたことへの怒りが再燃する。父は両手を抑えつけたまま、殴りたい衝動を必死で抑えつつ詰問した
「誰に向かって口を利いたか分かってるのか? 殴らないと分からないなら殴ってやろうか!」
耳が痛くなるほどの怒号を浴びせられ、華奈は恐怖に全身が支配される。思考は完全に停止し、ただ繰り返し繰り返し、父に対して泣き叫び、首を必死で左右に振り乱す。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 謝りますから、もうしませんから!」
この2年半余り、華奈は父の暴力に心を蝕まれてきた。父が怒鳴り、その影がちらつくだけで、これまでのされてきたことが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
もう殴られたくない。もう蹴られたくない。その一心で頭が支配され、身体は言う事を聞かなくなっていた。
華奈は、父の怒鳴り声が上がる度に喉を枯らしながらひたすら謝罪を繰り返した。そうして、一体どれほどの時間が経ったのだろう。窓の外には朝日が差し込んでいる。
延々とと自分の行いを責められ、侮辱され、謝り続けた末にようやく、父は彼女を解放した。
「お前は結局、変わろうとしない能無しなんだよ。生きてるだけで俺に迷惑ばかり掛ける無駄飯食らいが。二度と俺に対してあんな口利くんじゃねえぞ」
静かにそう凄んだ父は、華奈の腰から立ち上がる。彼の支配から解放されるや否や、華奈は這いつくばるようにしてベッドを転がり降り、部屋の隅へ逃げ込むと、怯えた小動物のように膝を抱え、頭を伏せた。
身を小さくして肩を震わせる華奈耳に、父の言葉はもう届いていない。ただ、心の中には父の罵声が鋭い破片の様に突き刺さり、自尊心も何もかも、全て粉々に砕け散っていた。
迷惑。生きている価値がない。存在が鬱陶しい。邪魔。不潔。金食い虫。穀潰し。
父に吐きかけられた様々な言葉が彼女の頭の中をぐるぐると巡り、華奈の心を絞め殺す。無限の自己嫌悪に飲み込まれ、華奈は父にとっての嫌なことや、腹が立つこと、その全てが自分のせいであると信じ込む。
罵詈雑言がカビのように彼女の弱い心を蝕んでいく中で、自己の存在を自身で否定するような思考に溺れていく。
存在意義すら、感じられなくなっていた。
「う、うう、うぅうううう」
目を見開き、頭を滅茶苦茶に掻き毟りながら歯をがちがちと震わせる姿は、あまりにも痛々しく、彼女の中で何かが決定的に壊れた様子を表していた。
そんな様子を見て、父はベッドから降りる。その小さな足音にも華奈は反応し、恐怖に染まった目で音の方向を見据えた。そして父の姿が視界に移った瞬間、より激しく唸りながら、自分の髪の毛を掴み、力を込めて引っ張った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
すぐに父を視界から追い出す様に下を向く。枯れた喉から抑揚のない声を絞り出し、足をがたがたと震わせる。
「生きててごめんなさい、生きててごめんなさい」
見つめている景色すら、華奈は頭が理解を拒んだ。何もかも考えられなくなり、ただ自己の存在があってはならないものだという事だけ、理解を許されていた。生きている事が申し訳ない。今すぐ誰にも迷惑を掛けられずに消えることが出来るならすぐにでもそうしたい。自分の存在が父にとって、足枷でしかないと、心の底から信じ込んでいた。
父の歩みを進める音がやがて耳に入ると、華奈は謝罪の声を大きくして、それが聞こえない様にした。ただひたすら自分が生きている事への懺悔を続ける。
だが耳を塞ぎ、声を出すことで足音は聞こえなくとも、その振動は床を通じて伝わってくる。華奈は搔き乱した髪をまた手で掴んで引っ張りながら、せめて痛みで何も感じられない様に、そう願った。
「自分がどれほど俺に迷惑をかけている存在か、ようやく理解出来たか?」
冷ややかな言葉が、彼女の懺悔を遮る。視界に移る父の足が、華奈のすぐ近くで立ち止まっていた。
「お前なんて生きてる価値すらないのに、俺がそれでも情けをかけてやってるのが、ようやく分かったか?」
嘲笑する父に、華奈は全身の毛が逆立った。以前なら、こんなことを父に言われれば、悲しみを感じていたかもしれない。だが彼女が今感じているのは、申し訳なさだった。申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」
顔を見上げることも出来ず、華奈はひたすら父の足に向かって言葉を投げかけた。父はそんな華奈の胸中を知ってか知らずか、髪の毛を上から掴むと、無理矢理に上を向かせた。
力任せに首を傾けられた華奈は、しかしもう痛みすら感じない。ただ、視界に移る父の姿に、何かを感じた。
「あ、あ、う、ううう」
虫嫌いが虫を見たような。高所恐怖症が高所に登ったような。そんな、生理的な恐怖にも似た感情で、華奈は意識を手放しそうになる。身体が本能的にそれを見てはいけないと認識し、逃走反応を呼び起こす。
床に倒れ込むようにして、華奈は手を着いた。そしてそのまま、呻き声を上げながらでたらめに手足を動かし、慌てて父の傍をまた離れる。父はそんな様子を見て、嘲るように鼻を鳴らすと、部屋の扉を開けた。
そうして華奈の部屋を後にしようとする。が、去り際に振り返ると、何かを思い出したように華奈の方へ視線をやる。
華奈は父が一度退室しようとしたことすら気付いていない様子で、未だ床を見つめ、がちがちと歯を鳴らしながら謝罪の言葉を譫言のように並べていた。
「おい」
そんな父の低い声が響いた瞬間、華奈は恐怖で跳ね上がり、焦点の定まらない目で父の方へ顔を向けた。だが決して目を合わせようとはせず、あくまで足元を見つめている。
父は構わず続けた。
「生きる価値もないようなお前に、そういえばこの後、一つ頼みたいことがあったんだった」
この期に及んで、更に華奈のプライドを念入りに踏みにじる父の言葉。しかし華奈はその言葉を聞いた瞬間、濁り切った心の奥深くで何か明るいものが浮かんでくるのを感じた。こんなわたしでも、何か役に立てることがあるかもしれない。それは今の華奈にとって、無上の喜びだった。それが彼女の自己評価を、更に下げていく。
「な、なんですか? わたし、なんでもします。お役に立ちたいです、お願いします、どんなことでもしますから言ってください」
心の高鳴りを感じ、彼女は父の傍へ駆け寄ると、縋りつくようにして父の返事を待った。その胸はずっとストレスで締め付けられ、呼吸の度に凍てつくような痛みが襲っていたが、父に求められていると感じた今だけは、それを忘れてることが出来ていた。
父は、そんな従順になった華奈を見て、内心では安堵していた。
リビングで反論され、そのままこちらを見下していた華奈は、まるでそのまま父から離れて行ってしまうような態度に感じられた。華奈を自分の物にしたい。束縛して、手元に置いておきたい。そう願う父は、こうして再び自分の元へ戻ってきた華奈に対して、今再び優越感を抱いた。
結局、こいつは俺がいないと駄目なんだ。一人では生きていけないと、ようやく理解してくれた。俺の価値に気付いてくれた。父は足元に縋りつく華奈を、今や満足げに眺めている。
「お前は俺の物だ。そうだろ?」
そう言われた華奈は、胸の内に温かい何かが灯るのを感じた。もう自分は誰にとっても必要ではなく、その時が来れば捨てられるだけのような存在に思えていたところへ、父がこうして自分の物であると言ってくれる。華奈はその言葉を宝物の様に感じ取り、現実の痛みから目を反らして、それにしがみつく。
「はい……わたし、お父さんの物です。わたし、頑張ります。だから、これからも家においてください」
その場に座り込み、父のズボンを両手で握りしめた華奈は、媚びるような視線を父へと送る。
華奈は、今この瞬間、初めて愛というものに触れた気がした。それまでずっと、誰かから愛されていなかったと思えるほど、父から求められた瞬間が心地良く、父の言葉一つで、胸の中を埋め尽くしていたどす黒い気持ちも、霧消するようだった。
母を亡くし、行き場を無くしてこの家へ来て、辛い日々を過ごしていた華奈は、今も尚家を追い出されるかも、父に捨てられるかもという恐怖は感じているが、それでも父に所有される——それが唯一の安心感だった。
父はやがて、背を向けるとドアの方へ歩いていく。華奈は自分の元から去ろうとする父を見て、すぐにその背を追うように、手を着いて身を乗り出した。
「お父さん、お父さん? どこいくんですか?」
まるで飼い主へ必死に付き従う犬の様に、華奈はそのまま慌てて立ち上がると、後を追いかける。そうして父と一緒に、父の自室へ入った華奈は、父がベッドの淵へ座るのを見て、自分もその傍に立つ。
胸がずっと締め上げられるような痛みを訴えている。それはこうして父の傍へ立った時に酷くなり、やがて気管が狭くなったように息が上手に吸えなくなる。
「あっ、もうお休みですか?」
華奈は沈黙に耐え兼ね、口を開く。
「もう朝、ですもんね。でしたらわたしは……部屋に」
そう言いかけた華奈に被せて、父は一言だけ告げた。
「脱げ」
言葉が出てこなかった。ただその場で立ち尽くすしかなかった。脳が命令を理解出来ないまま、ほんの数秒、静寂が部屋を満たす。父は何故そんなことを言って来たのか、華奈には理解出来ない。いや、理解することを拒んだ。何故、服を脱げと言われたのか。服を脱いだら、その後どうなるのか。考えればすぐに答えが浮かび上がる。
胸の疼痛が酷さを増して、鼓動がどんどん早くなる。血の気が引いて指が冷たくなり、自分がまっすぐ立てているのか、分からなくなる。ぐらぐらと身体が動いているような感覚を憶え、気が付けば肩で息をしている。
無意識で華奈は父から視線を逸らし、自分の両足を見つめる。そうしていることで、何かが変わると期待しているようだった。
永遠にも思える数秒が過ぎ、父は小さく溜息を吐いた。その声が漏れたのは、父にしてみれば徹夜で今に至る疲れや、この後の事を想像して偶然漏れた程度の、特に意味を持たないものであったが、華奈にはそれが、父の苛立ちを感じさせた。
これは、命令だ。
父がそう言ったなら、それに従う他ない。そう思った瞬間、華奈の感情は悲鳴を上げて抵抗しようとするが、同時にここで父に見放されれば、もう二度と父の愛を受けることは出来ないだろう。家を追い出されるかもしれないし、また酷い目に遭うかもしれない。わたしはお父さんにとって、有用だと示さないといけない。役に立てる存在だと、証明しないといけない。この強迫観念が、華奈の感情を殺した。
華奈は暗い表情を浮かべ、ゆっくりと、躊躇するかのように手をボタンへかけた。
これまで何度も、それこそ昨日も華奈は父を相手に、口で相手をすることはあった。だが決してそれ以上のことはなく、華奈もそれすら耐え難い恥辱を感じていた。いくら血の繋がりがないとはいえ、華奈にとっては父親である。
それが今日、その一線すら踏み越えようとしている。
ブレザーがするりと、華奈の薄い肩から離れ、軽く畳んで足元へ置く。その間、ひたすら足元から視線を持ち上げられなくなっていた華奈は、しかし突き刺さるような視線だけは、感じていた。まるで自分の全身をくまなく、品定めするように撫でてくる父の目。思わず、泣き出しそうになった。確かに華奈は父に必要とされることを望んだ。父にとって、何かとても大事な物のひとつになりたいと、願った。しかし、果たしてこれは華奈が本心から望んだ扱われ方なのだろうか。これは本当に、愛されていると言えるのだろうか。
心の奥底で芽生えた、微かな違和感。華奈はそれに気付かない様に蓋をして、口を堅く結んだ。
髪の毛を避け、首の後ろへ手を回すと、リボンのホックを外した。それから続けて、シャツのボタンに指を掛ける。
「……早くしろ」
待ち草臥れた様子で、父はふと不満を漏らす。反射的に顔を上げ、父の方を見つめる。彼は足を組んで膝に腕を置き、まるで華奈の恥じらいなど微塵も興味がないと言った様子で、見つめ返していた。
その表情は、またいつものつまらなさそうな、無関心が張り付いていた。ただ、目だけが華奈を支配している事への悦びで鈍く光り、父の心を満たしている。
「すみません、すぐに……、脱ぎますね」
もう怒られたくない。
華奈は媚びるように口角を上げると、そのまま慌ててボタンを外していく。恐怖、焦燥、悲痛に依存。色々なものが綯い交ぜになり、とにかく父の機嫌を損ねない様に。ただそれだけを注意しながら、シャツを脱ぎ、続いてスカートのホックを外し、ジッパーを下ろす。それらを急いで丸め、先ほど脱いだブレザーとリボンの上へ落とした。
とうとう下着姿になって、初めて、華奈は途中から無我夢中で服を脱いでいた時に感じなかった羞恥心が、湧き上がってくる。
思えば、こんな姿を父に見られること自体、この家に来てからは初めてだ。小学校高学年になり、多少なりとも物の分別がついてきた頃には人並みの恥ずかしさを覚え、自分で下着を選んで買うようになってからは、更にこういった格好を人に見られることに、恥ずかしさを覚えるようになった。
無意味と分かっていながら、華奈は身を隠すように肩を巻き、小さくなる。父はそんな、せわしなくつま先を動かしたり、こちらへ隠すような動きに少しの苛立ちを覚え、思わず声に怒気を孕む。
「誰が隠していいって言った。ちゃんと立て」
言って、組んでいた足を解いてその場へ立ち上がる。華奈はそんな父の行動に、羞恥心を上から塗りつぶすほどの恐怖心を感じ、慌てて居住まいを正す。だがその姿勢はどこか不自然で、ぎこちなく感じられる。形こそ整った姿勢を装いながら、内心の恐怖がそこから滲み出している。心の中では、父にどう見えているのか、そればかり考えてしまう。
これでいいの? そう問いかけるような、必死の訴えが姿勢に現れていた。
父は一歩、華奈の方へ近づく。そうしてお互いのつま先がもう半歩も歩けば重なる程近くに立った。父との体格差は圧倒的で、肩辺りに、華奈の頭頂部が位置していた。それ故、こうして間近に立たれた華奈は、まるで目の前に壁が立ちはだかったような錯覚を覚える。本能的に敵わないと思い、膝が勝手に震え始める。強く足を閉じ、両手で強く身体を抑えた。
眩暈を感じた華奈は、思わず父を見上げ、視線が触れ合った。
父はこちらを軽蔑するように見下しており、その目は、支配者の如き冷酷さに溢れ、抵抗するなら今が最後だ。という決意は、音を立てて崩れた。
逃げられない。そう察したときには全てが遅く、それはもう始まってしまった。
父は腕を伸ばし、下半身を隠すように当てられた手を引き剥がす。次の瞬間には腕を引いて、ベッドへとその身体を投げ飛ばした。
マットレスも固く、スプリングがぎしぎしと音を立てるような華奈のものと違い、父のベッドは真新しい。華奈の身体を、ふんわりと優しく包んでくれる。だがそれ故、華奈は手を着いて逃げ出すことも出来ず、身体がまるで沼に飲まれていくようなもどかしさを感じた。
直後、部屋の蛍光灯を遮るようにして覆い被さってきた父は、生温い手を華奈の手首に添え、そして強く握る。
抵抗してはいけない。頭の中で何度もそう念じて、本能的に動こうとする自らの両腕を抑えていた華奈は、気が付けば頭の上で一つにまとめられ、父がそれを片手で封じていた。
「じっとしてろ。そうしたら、痛い事はしない」
低く唸る父に、華奈は声も出せず、ただ目を恐怖で泳がせながら頷く。直後、父のもう片方の手が華奈の背中とマットレスの間へ差し込まれた。
くすぐったさと、普段苦痛しか与えられていない父の手が素肌へ触れた事で、華奈は思わず高い声を上げる。すぐに自分の喉から出た信じられない嬌声に耳を疑い、明確に恥ずかしさを感じたが、それ以上に、父の手で触れられたことへ、不快感以外の何かを感じている自分が疑わしかった。
大きく、太い指が背中を滑っていく。胴がびくりと跳ね、また甲高い声を漏らしそうになって、思わず逃げるように首を横へ向けた。
やがて、背中を逸らした華奈は、胸を締め付ける下着が不意に張力を失ったのを感じる。父がホックを外したのだと理解したときには、背中から手が抜かれ、それはそのまま華奈の胸へと伸びてきた。
まだ成長途中の、小さな胸を掠め、下着を掴んだ手は、そのまま雑に華奈の顔の方へと移動する。するりと肩紐が肌を離れ、頭の上で一纏めにされている手の辺りで、落とされた。
恥ずかしさで思わず泣き出しそうになって、華奈は必死で涙を堪えた。ここで泣いてしまっても、父の神経を逆撫でするだけだろう。必死で目を瞑り、こちらを見降ろしてくる父と目を合わせないよう、華奈は暗闇の中へ身を投じた。
一方、そうして目を瞑ることで、神経がより過敏になる。次に何をされるか分からないという恐怖によって、肌はその瞬間を今かと待ち、無意識の内に呼吸が熱を持つ。
外気に晒された胸は、これまで感じたことのない、女として扱われる感覚に当てられていた。
父は一度、大きく息を吸い込むと、高鳴りで震える喉から息を吐く。その軟らかい温度が華奈の肌へ広がり、今度は手を、ゆっくり腰の辺りへ移動させた。
ふっと、彼女の肌に父の指が沈む。痩せて浮き出た腰骨をなぞり、下着の生地を掬い上げる。そしてゆっくりと、それが下へ降ろされていくのを感じた時、華奈は両足でマットレスを押し、微かに腰を浮かせた。その動作は、まるで父が脱がせやすいように協力したも同然であり、華奈自身、それを望んでいるかのようだった。
乗り気。という訳ではない。ただ、父から求められるためにこうするしかないなら。そう頭の中で何度も唱え、反応を繰り返す身体に言い訳をした。
太ももを伝い、膝の下まで捻じられながら降りていくそれを感じ、華奈はふっと息を吐く。何か、抗いがたいものが喉から込み上げて、息が詰まりそうになる。それは普段感じているような恐怖心からくる身体の強張りと似ていたが、どこかそれとは違うものを感じている。
ひたり。父が華奈の恥骨を覆う。その冷たい手はがさがさとして、華奈の身体とは正反対な存在のように感じられた。その違和感に少し身を捩って抵抗を示すが、まるで建前上の動きに感じられた。やがて父は、華奈の知らぬ間に電気を消した、部屋の薄暗がりの中、小さなその身体をじっくりと嘗め回すように見つめ、手にゆったりと力を籠める。
普段の父からは想像も付かないような、優しい手つきで何度か揉み解すような動作が繰り返され、やがて華奈は静かに湿り気を感じていた。それが体温の上昇に伴う汗ではないことを、本能的に理解していた。
太い中指を軽く曲げ、父は密着させた手をゆっくり、下から上へなぞり上げる。そこでとうとう、華奈は耐えきれなくなって、背中を浮かせた。
小さく胸を反らせ、小鳥の囀りのような声を漏らす。それが父の耳に入った時、彼もまた、耽溺した様に吐息を漏らした。
蕩けるような目は僅かに潤んで、天井を見上げる。口は微かに開き、熱っぽい息がそこから漏れている。父はそんな様子の華奈を見つめながら、ゆっくりとその入り口に指を掛けた。
微かな水音の後、入り口を湿らされたその中へ、父の節ばった指が吞まれていく。それは狭い道を進み、華奈の体格同様、浅い所で終端を迎える。華奈は初めて感じる異物感と、燃えるような熱を感じて、思わず声を上げた。
「っ……」
眉を寄せ、表情が苦痛へ歪む。父はそれを認めて、それ以上奥へは進もうとせず、指の腹へ心ばかりの引っかかりを感じながら、手の動きを止めた。
「痛いか、華奈?」
その声に思わず意識を取り戻した華奈は、熱っぽい視線を彷徨わせ、やがて父の顔を見た。その表情はいつもの怒気に塗れたものではない。まるで、愛おしい何かを見つめるように細められた目は、男としての父が顔を覗かせているようだった。
きっと。
華奈は火照る身体を感じつつ、その一方でどこか冷静な思考を巡らせていた。それは、きっと母も同じように父のこんな表情を見ていたのだろう。という、嫉妬によるものだった。
不意に、華奈の心の中で、一つの小さな何かが音を立てて燃え始める。それは瞬く間に勢いを増し、思考すら乗っ取らんとするばかりだった。
きっと、わたしにお母さんを重ねてるんだ。
そう気付いた時には、もう遅かった。
華奈は途端に、これまでされた仕打ちのどれよりも強い屈辱を、父に対して受けたような気になった。お父さんがわたしに対してこんな目を向ける訳がない、という現実的な観点。お母さんもこんな気持ちだったんだ、という共感。そして、父を独り占めしたい、という、ある種、父と同じような独占欲。
華奈は俺の物だ。という父の気持ちと、殆ど同じ類の感情であることに、14歳である華奈は気付けない。しかし、抱く気持ちにも、嘘偽りはなかった。
「大丈夫、です。続けてください」
気付けば、華奈は腕を伸ばしていた。いつの間にか父が緩めていた手を抜け、痩せ細った両腕を父の首へ絡める。そうして、せがむ様な声音で、父へ訴えた。
それは自らが置かれている環境への順応か。それとも。
華奈はその日、初めて丸一日、学校を休むことにした。
轟は昼休み、いつものように図書室へと足を運んだ。ドアを開け、靴を履き替えて中へ進む。いつも、昼休みになるとすぐにここへ来ていたが、今日は少し遅れての到着だった。
途中で購買部に寄り道して買ったパンを手に持ち、図書委員のカウンターを曲がり角から覗き込む。
「おはよー……」
いない。そう独り言ちて、肩を落とす。いつもそこに座って本を読んでいる筈の、図書委員、華奈。その姿がカウンターに見えない。少し遅れてくるのか、と思い、轟は手に持っていたパンをカウンターの上に置くと、中に入っていつもの席に着いた。
水を打ったように静まり返った図書室の中、椅子がぎしりと軋む音がやけに大きく響く。
そのまましばらく辺りを見渡したり、華奈が一度来て、トイレにでも行ったのかと訝しんで、痕跡を探す様に引き出しを開けたりした後、轟は背もたれに身を預け、だらしなく座った。
折角、いつも昼を食べていない華奈の為にと思って買ったパンだったのだが、これでは仕方ない。轟はそれに手を伸ばし、中身を一口食べて、読書を始めた。
勿論、館内は飲食厳禁である。理由は言うまでもなく、本を汚す可能性があるためだった。だが轟は、別に本が好きで昼間にここへいる訳ではないし、それに図書委員も、それが一番気楽そうな担当だったから立候補しただけである。普段、華奈が熱心に読書へ励んでいるから、自分も少し合わせて読んでいただけで、別に興味もそれほどない。
再びパンを齧り、時計に目をやる。珍しく一人で過ごすことになった昼休みの時間は、轟にとってどうも退屈だった。
結局、持ってきたパンの一つを食べ終わる頃には飽きて、いつもより早く図書室を後にした。退屈そうな足取りで職員室へ戻り、自分のデスクへだらりと座り込む。周りの教師数人は、そんな轟の方へ一瞬目をやるが、また元の喧騒が職員室を埋める。雑談に花を咲かせるもの。教育者としての悩みを相談するもの。勉強に、教える側が置いて行かれそうだと愚痴をこぼすもの。
轟は相変わらずやる気が湧かず、自分のデスクに置かれた書類の山と、そこから無造作に飛び出るカラフルな付箋に目をやる。まるでアクションゲームのステージみたいだな。と思い、そこをぴょんぴょんと飛び跳ねるキャラクターを妄想する。
そんな一人遊びに耽る一方、頭の片隅では華奈の不在が気になっていた。
——まあ、たまにはそんなこともあるだろう。
そう思い直し、無意識に華奈の担任を探していた視線を天井へ向けた。思い直そうと深く溜息を吐く。彼女がたまたま図書室に居なかったというだけで、わざわざ行動を起こそうなんて、自分らしくもない考えだ。年頃の少女が考えることなんて、自分のような朴念仁には理解出来ないが、たまには図書室以外で暇を潰そうと考えたのだろう。
だがその時、タイミングが良いのか悪いのか、華奈の担任である教師の方から、ちらりと気になることが聞こえてきた。
須々木さんも今日、初めて欠席してた。なにか風邪でも流行ってるのかな。
それはどうという事もない、ただの雑談だったのだろう。事実、轟が盗み聞きしている話題も、欠席が最近多く、体調不良者が続出している。という話だった。
それを聞いた時、折角意識の外へ追いやろうとしていた華奈への心配が、また浮き上がってくる。轟は、どうしてこう心配ばかりしてしまうのかと、自分の妙な性分を恨んだ。
無気力で、情熱などという言葉の対極に位置している様な性格の癖に、妙なところで色々と考えてしまう。今も、そうだった。どうしても昨日の華奈が頬に貼っていたガーゼと、轟も敢えて言及はしなかったが、ストッキング越しに見えていたふくらはぎの傷。後者について訊くのは、まるで轟が普段から華奈の足を見ているように思われても仕方ないので、敢えて触れなかったかったが。
轟は勝手に進んでいく思考を止めようと、椅子に深くもたれ掛かり、目を瞑る。
華奈なら大丈夫だろう。自分が何か行動を起こさなくても、問題無い筈だ。そもそも、こういうのは担任の教師が務めるべきで、ただ図書室で一緒に暇を潰す程度の間柄である自分が出張るものでもない。
そう何度も言い聞かせようとするが、頭から華奈の傷跡が消えない。考えたく無いと思っていても、無意識に心配する気持ちが浮かんでくる。そんなことを考えたところで、何か出来る訳でも無いだろうに。そもそも、人を思い遣るなんて、自分に合っていない。
——合っていないが、仕方ない。
眉を顰めて頭を掻き、轟は意を決して姿勢を正す。そして眠たげな眼を、女性教師が集まっているグループに向けた——華奈の担任が属しているグループだ。
「あの、すみません」
人とのコミュニケーションに慣れていない轟は、楽しそうに椅子を寄せて会話している華奈の担任の後ろへ立つ。ふと、自分の視界に影が差したことに気付いた彼女は、何事かと辺りを見渡した時、上から轟が覗き込んでいたことに気付く。
「きゃあ」
目が合った担任は、甲高い悲鳴を上げ、慌ててその場を立つ。轟は相変わらず、半開きの目を彼女に向け、長身を起こした。
「鯖江先生。突然すみません」
そういって申し訳なさそうにしたつもりだったが、鯖江と呼ばれた彼女は、まだ驚きで鼓動が落ち着かないのを感じながら、轟を見返していた。
轟よりも年の若い彼女は、今年で教師歴が2年になる、新米だった。しかし持ち前の明るさと人懐っこさから、教師生徒共に人望が厚く、身長も低くてかわいらしい見た目から、人気もあった。ある種、轟とは正反対である。
少なくとも、鯖江から見た轟は、長身痩躯。ゆるいパーマがかった髪の毛で、重たい前髪から覗く眠たげな目つきは、少なくとも自分とは正反対とすら思っていた。だからこそ、今日まで大した会話も行わず、敢えて接点を持とうとも思っていなかった。
その轟が、突然座っている自分の上へ覆いかぶさるようにして覗き込んでいたのだ。鯖江はようやく落ち着いてきた胸を撫でつける。
「は、はい。どうかしましたか?」
「須々木さん。今日、休んでるんですよね。いつも一緒に図書室で過ごすんですが、今日は居なかったから……なにか理由、ご存じですか」
轟は抑揚のない声で尋ねた。質問自体は至って普通、それこそ思い遣りのある発言だが、その場に漂う妙な緊張感と、彼の無気力そうな態度に鯖江は当惑した。普段、轟がこうして誰かと会話する姿を見かけない。特に、わざわざ誰かに生徒の事を尋ねるなんて。
「あ、はい、須々木さん。彼女、ちょっと体調が優れないみたいで。今日は家で休んでるってさっき連絡がありましたよ。特に深刻なことではないみたいですけど」
鯖江は努めて明るい調子で答えた。だが、緊張感が抜けない。轟はその言葉を受けて、少しだけ眉を上げた。だがそれは驚きや心配から来るようなものではなく、単に事実の確認をする為の、微かな反応だった。
「そうですか。わかりました」
不愛想とすら思える態度で、轟は鯖江から視線を外すと、踵を返してデスクに戻ろうとする。鯖江はそのあまりにあっけない態度に戸惑いを隠せないまま、その背中を見送る。
「びっくりした……」
蚊帳の外にされていた、鯖江の先輩二人が少し離れていたところから戻ってくるのを感じながら、鯖江は軽く笑みを浮かべた。だが、その表情とは裏腹に、彼女の心には轟に対する微かな違和感が残っていた。わざわざ須々木華奈の事を気にかけているというのは、彼女にとって不思議だったし、それ以上に轟の普段見ている態度——無気力で気怠そうな——と、わざわざ彼女の事を聞きに来た、という行動のギャップがあまりにも大きく感じられたからだった。
轟先生って、ああ見えて優しいんですね。
鯖江は先輩二人にそう言ったが、その二人とも、反対意見だというようにおどけて顔を顰めた。
自分のデスクに戻った轟は、華奈のことを気に掛ける一方、心の奥では未だ無関心で興味を持ち切れていない自分を感じていた。何も生徒が学校を休むというのは、珍しいことではあっても異常とまでは言えない。それを取り立てて心配するのもおかしな話だ。
では一体、何が引っかかっているのか。それは正に、あの傷だった。
頭を再び、痛々しい頬のガーゼと、ストッキングで隠された傷跡が過る。轟は気付かれないよう、目線を再び鯖江へ向けた。彼女はまた元のグループでの会話に戻っており、人懐こそうに笑っている。
足の傷を発見したのは自分だけかもしれないが、きっと頬のガーゼについては、他の教師も、生徒も気付いている筈だ。だが誰かがそれに気付いて、何か行動を起こしているような雰囲気は感じられない。心配性な誰かが声を上げたり、然るべき機関に通報でもしていれば、今頃職員室は、上を下への大騒ぎになっている筈。しかし、見渡しても特にこれといって何かがあるわけでもない。至って平常運転だ。
周囲を見渡し、轟は迷った末、静観することに決める。
次の授業で使う教材を引き出しから用意して、ずっと手遊び代わりに持っていたボールペンを、胸ポケットにしまう。
授業を進めながら、轟はそれでもふと、華奈のことが脳裏を過る。彼女と交わした、図書室での数少ない会話。ページをめくる音だけが響く静かな時間が思い出され、ふと、気にかけてしまっている自分に気付く。どうしたことだろうか。普段の轟なら、こんな風に誰かの事を、ましてや他の学年の生徒をこれ程考えることなど、そう無かっただろうに。
一度心配の棘が刺さってしまった心は、それを気にしない様に努めていても、じくじくと響くような痛みが続いている。
明日も、もし来ていなかったらどうしよう。そんなことを考え、チョークをふと手から落としてしまう。生徒たちの板書をする手がぴたりと止まり、轟はゆっくりとした動きで、それを拾い上げる。
「失礼。それで続きだけど、トロッコを押して昇る良平は、どうして——」
真剣な眼差しで授業を受ける生徒たちに轟は授業を行いながら、自分が一番、それに集中できていないことに気付いた。
もし明日も来なかったら、どうしようか。
そんな思いが、心の中を埋め尽くす。轟自身、理解している。これはただ、教師が生徒を思う程度の気持ちだと。しかし、それが何に由来しているのか、自分でもいまいち分からない。そもそも、轟はあまり人へ興味関心を向けるような人間ではない。そんなことよりも自分の生活に重きを置くというのが、ある種ポリシーのようなものだった。
授業が終わり、椅子を引く音や文房具を片付ける音、生徒たちの声で教室が騒がしさを取り戻す中、轟はすぐに教室を出て、迷った末、左手の階段へ向かう。恐らく、鯖江は上階で授業をしている筈だ。だから階段を通って、一度降りてくるかも。そう思って、左右ある階段の内、左に向かった。
果たして、丁度彼女が階段を降りて来ていた。轟とは違い、しっかりとスーツに身を包んだ鯖江が、パンプスが階段を叩く音をさせながら降りてくる。その隣には女子生徒が並んでおり、楽しそうに談笑をしていた。
いつも一人で、生徒からも半ば敬遠されている轟とは違い、彼女はいつも明るく朗らかで、男女問わず人気が高い。事実、轟が話しかけ難いと思ったその表情を見た女子生徒二人は、やや驚いたように眉を上げ、目を逸らす。それから遅れて鯖江が気付き、轟の顔を見て微笑む。
「先程ぶりですね、轟先生」
轟は黙して、軽く会釈をする。一瞬、そのまま何も言わずに立ち去ろうか。と、いつもの人付き合いを避ける悪癖が出そうになったが、堪えて口を開く。
「あの、鯖江先生。少しお話が」
階段を降りた轟は、身長差から鯖江を見下ろすようにして言う。それをきっかけに、両隣の女子生徒は蜘蛛の子を散らすようにその場を去った。
「美紀ちゃんまたねー」
長髪の生徒がそう言って、鯖江はおどけて怒る。
「こら、先生って呼びなさい!」
その微笑ましいやり取りを、所在なさげに見ていた轟は、鯖江が改めてこちらを振り返るのを待って、確認した。
「あの、須々木さんに届けるプリントとか、あったりしますか」
緊張で顔が強張り、相対した鯖江の目を見て話すことに抵抗を感じた轟は、目線を泳がせながら、口を開いた。
「宿題とか、連絡事項とか」
授業をしながら考えたプランとしては、彼女に何か届けに行くという名目で、住所を聞き、様子を見に行く。という、至ってシンプルなものだった。自分が担任ではない、というとても不自然に思われる点に目を瞑れば。
妙なことを聞いてきた轟に、鯖江は口へ手を当て、少し思案する。そして、そういえば進路相談のアンケートがあったことに気付いた。
それを伝えると、轟の眠たそうな目が、途端に見開かれた。
「本当ですか」
ぐらりと身を乗り出し、問い詰めてくる様子の轟に、鯖江は上体を反らして、首を無理な角度に曲げた。鯖江が低身長、というのもあるが、轟も170余りある。そして痩せているためか、動きがぎこちない。そんなこと、面と向かって言える訳もない位失礼なことだが、鯖江はまるでマリオネットが動いているようだな、と思った。
「それ、鯖江先生が持っていくんですか」
どうしても人と話すことに慣れていない為、詰問調になりながら、轟は確認する。鯖江は小さな身体を引き続き反らていた。
「そ、そうですね、わたしが持っていきますけど……」
「ご一緒させて頂いて、いいですか。何時ぐらいになりますか」
鯖江は担当している部活動もないので、18時位に持って行って、そのまま直帰する旨を伝えると、轟は更に身を乗り出した。
「ではその時間に、ご一緒させてもらいます」
食い気味に近づいてくる轟に合わせて身を反らせながら、鯖江はどうして須々木華奈にそこまで執着するのか、轟の性格を鑑みて少し不審に思ったが、しかしその真っ直ぐな眼差しは、教育者としての光に溢れているように感じられた。
轟と鯖江が、華奈の家に着いた頃、空はすっかり薄暗くなっていた。初め、何度も住所が間違っているのでは、と思って名簿に書いてある住所を見返したが、何度確認してもこの豪邸で間違いないらしい。しかし表札に書いてある苗字が、須々木ではない。そのことが余計に二人を困らせた。
未だ不思議そうに名簿の住所と表札を見比べては髪の毛に手を突っ込んで掻き回している轟の隣を、不意に鯖江が横切る。彼女はそのまま手を伸ばし、インターホンに指で触れた。
「さ、鯖江先生」
果たして本当にこの家かも分からず、また、心の準備も出来ていない轟は、驚きに満ちた表情でその小さい背中を見た。しかし振り返った彼女は、半ば叱責するように呼び止められたことに対して、不思議そうな顔をしている。
「どうしました?」
そんな様子の彼女に、轟は何か言おうとしたが、しかし諦めて目を逸らす。
「いえ、大丈夫です」
確かに、このまま悩んでいるよりも、押してしまった方が手っ取り早い。
ただ、目の前に立つこの鯖江は、鉄の心臓でも持っているのだろうか。轟は、高鳴る胸を抑えるように手を当てた。
少しあって、高い電子音が鳴る。インターホン越しに、低い男の声が聞こえてくる。
「……どちら様でしょうか」
警戒心を隠そうともせず、声の主は不審そうに尋ねる。鯖江がカメラに丁度映る位置に立ち直し、明るい声を出した。
「お忙しいところ申し訳ありません。私、須々木華奈さんの担任をしている、鯖江と申します。こちらは轟先生です」
はきはきと自己紹介をする鯖江の後ろで、轟は顔が強張るのを感じた。なんとか警戒されない様に、口角を上げる。
鯖江が続けた。
「本日、華奈さんにお渡ししておきたい書類がありまして……華奈さんのお父様で、お間違えありませんか?」
ややあって、男の声が返す。
「そうですけど?」
インターフォン越しに聞こえる声は、まるで迷惑だと言いたげな声音をして、鯖江の言葉を突き放す。轟はその気不味い空気を感じ取った。再び沈黙が訪れ、無遠慮な視線をカメラ越しに向けられている事が伝わる。
まるで臆さない様子で、笑顔を浮かべながら目線を反らさない鯖江と違い、轟は手に嫌な汗が滲むのを感じた。なんとか明るい表情を浮かべ、静かに深呼吸をする。
何かがおかしい。
体調が優れない娘に書類を届けに来たことに対して、ここまで警戒することがあるか? 轟は、またしても華奈の身体に出来ていた傷を思い返していた。
それは考えたくない可能性だった。
「書類。……郵送じゃ駄目だったんですか」
足元が竦む様な緊張を湛え、父は言葉を返してきた。だがその響きは依然、拒絶が色濃く出ている。鯖江だけが明るく、返事をした。
「はい、郵送も可能ではあります。ただ、進路相談についてのアンケートですので、出来るだけ早くご確認頂きたいと思いまして」
言って、少しの沈黙を挟んだ鯖江は、声を落として慎重に続けた。
「それに、華奈さんの怪我について、気になっておりまして」
そう言った鯖江は、先ほどまでの明るく無邪気な様子ではなかった。轟はその発言を聞いて、思わず目だけで彼女の方を見る。
てっきり、気にしているのは自分一人だけだと思ってた。増して、彼女がそれを気にしているとは思っておらず、それが自分も着いて行く、という行動に繋がっていた。
過小評価していたらしい。その小さい背中を見つめ、轟は自省した。
その言葉が発された瞬間、スピーカーの向こう側で何かが動く気配を感じた。鯖江、そして轟もそれを感じ取り、緊張の糸が張り詰める。
父は苛立ちすら感じさせる声で、突き返す。
「怪我だと? あれは大したことじゃない。華奈が言ったのか?」
先ほどまでの丁寧な語調すら崩れ、何かをひた隠しにしようとする父の言葉に、轟は喉が締め付けられる。鯖江は、再び元の明るい声になって、応答した。
「いえ、華奈さんから何かお聞きした訳ではありません。ただ、学校で頬にガーゼを当てていらっしゃったので、念の為、ご確認をと思いまして」
その言葉を最後に、スピーカーが切断されたような音を立てて、沈黙する。轟と鯖江は、無言で互いを一瞥した。鯖江の明るい表情はもうどこにもなく、ただ何か、轟同様に不審なものを感じ取っていた。
数秒後、遠くの方で扉が開く音がして、轟はその方向に目をやる。見ると、ドアの影から男が一人、ゆっくりと姿を現していた。その背筋は僅かに張り詰め、警戒心が姿勢に現れている。轟と鯖江の立つ門扉の前まで、距離を測るかのように慎重な足取りで、近づいてくる。
父のスリッパが石畳を擦る度、緊張尾がますます募る。薄暗さ故、その表情までは図れなかったが、何か家の中の事を探られまいとするような感情が見て取れる。そして門扉を開けたところで、轟は体格の良さに気付かされた。肩幅が広く、がっしりとした体躯は、圧倒的な威圧感に満ち溢れている。
その顔立ちは厳しく、眉間に深い皺が寄せられている。眼光は鋭く、視線が轟と鯖江の間を交互に行き来する。特に鯖江に対しては、身長が小さいためか、見下すような視線を向ける。
「で、何の確認ですか」
低く、抑えたような声で言った。鯖江は自分の足が竦むのを感じながら、一歩前に出て応える。
「お忙しいところ、申し訳ありません。先ほどもお伝えさせていただきましたが、改めて華奈さんの担任をしている鯖江です。そしてこちらは轟先生。お父様に直接お会いしたくて参りました」
そういって、鯖江は肩にかけていたカバンから進路アンケートの書類を取り出すと、両手で丁寧に差し出す。しかし父はそれにちらりと目を向けると、それを受け取ろうとはせず再び睨みつけるように鯖江を睨んだ。
「それはさっき聞きましたよ。わざわざ届けて下さるなんて、おかしなことをする先生ですね」
轟は、その瞬間、鯖江の小さく丸められた背中を横目で見ながら、彼女の言葉を待った。しかし鯖江自身、何を言うべきか悩む。
何かを隠そうとしているこの父親に対して、轟は次に打つ手を必死で考えた。
しかし鯖江は相当父の態度に当てられて、消耗していることは明白だった。父の方も、何か手掛かりになりそうなものを表そうとは決してせず、ただこちらへの敵意を剝き出しにしていくばかりである。
「ええ、華奈さんの怪我についても、少し気になっていまして」
鯖江は小さく声を震わせながら、気丈に振舞った。
父の顔が曇る。再び苛立ちを孕んだ声になった。
「怪我? そんなことですか。少し家で転んだだけですよ」
冷たい風が吹き抜け、僅かに落ちていた落ち葉を巻き上げる。足元を、くしゃくしゃと音を立てて通り抜け、鯖江の後ろで一つにまとめた髪を揺らす。父はその音に気を取られる素振りも見せず、ただ警戒を緩めなかった。
「華奈さんは」
轟が口を開く。
「今、部屋ですか」
鯖江のように丁寧な喋り方が出来ていないことも気付かず、問い詰めるような口調になってしまう。父は案の定、明確に顔を強張らせた。そして、重く響くような声で答える。
「ええ、部屋で勉強しています」
その言葉に間を与えず、轟は更なる疑問を投げかけたい衝動に駆られた。だが、身を乗り出そうとしたところで鯖江が横から手を伸ばし、それを静止した。
「はは、先生、ここは我慢するタイミングだったみたいですよ」
口の端を歪める父の言葉は、明らかに轟へ向けられたものだった。それから父は二人に視線を向ける。その目は改めて見下すような、そんな冷ややかさを帯びていた。
轟は、胸の中に自己嫌悪が滲んだ。問い詰めてやろうという自分の行動が、結果的には父にますます壁を作らせ、情報を引き出すことにも失敗した。
鯖江の伸ばした手も、轟を制止しようとしただけでなく、同時に轟自身を守ろうとしたものだという事も、すぐに気付かされた。彼女は自分の欠点までも見抜き、対話の場を壊すまいと最善を尽くした。それに対して、自分はただ短絡的に動き、踏み込むポイントを間違えた。
自分は思慮が浅く、気が短いのだという事に、改めて気付かされた。
華奈を守りたいという気持ちは確固たる信念へと変わっていたが、一方でこんな自分がこの場には不相応だという気持ちも感じていた。
「お父様。お時間も弁えず、失礼だとは存じます」
鯖江は意を決した様に、口を開く。自分の行いを顧みて猛省する轟の気持ちとは裏腹に、身を乗り出して父へ立ち向かったその姿が、彼女自身にも勇気を与えていた。
鯖江は続ける。
「しかし、わたし達は華奈さんが顔に傷を作って登校していることについて、見過ごすわけにはいきません。もし学校のトラブルであった場合、早急に手を打たなければいけないと考えています」
あくまで家での何かを疑っているわけではなく、責任を感じての行動だと、父が受け入れやすい言い方で伝える彼女の言葉。しかし父は、それとは別の何かを考えているようだった。しばらく黙って視線を泳がせ、何かを思案する。それは恐らく、この家まで来ている教師二人を帰らせるための文言だったのだろうか。しかし、父は一度強く目を瞑って考え込んだ末、諦めた様に肩を落とした。
ここで追い返した方が、後々面倒なことになりそうだ。
そう考え、立ちふさがっていた門扉から半歩横にずれる。
「入ってください。ただし、長居はしないでくださいね」
一方、驚いた表情を浮かべたのは鯖江だった。その後に続ける言葉も考えていた彼女にとっては、予想だにしないタイミングで許可が下りた。しかし、これでひとまずは家に入ることが出来る。鯖江は安堵の表情を浮かべた。轟もまた、その背後で鯖江の反応を見ながら、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
「ありがとうございます」
鯖江は丁重に頭を下げた。その様子を見て、轟も倣うようにお辞儀をした。
着いてこい。と言わんばかりに父は無言で歩き出し、鯖江は頭を上げると、一言断ってから門扉の中へ入る。轟も中へ入って、門扉をなるべく丁寧に閉めてから、早歩きで後を追った。
「ここで少し待ってください」
玄関前で、父は扉に手を掛けたまま、二人を制止した。
「犬を飼っているんですが、少々怖がりでして」
そういってはにかんだ父は、先ほどまでの険しい面持ちはどこへやら、すっかり優しそうな表情を浮かべていた。父もそれにすぐ気付いたのか、ひとつ咳払いをすると、また眉間に皺を寄せ、警戒をあらわにする。
そしてそれを聞かされた轟は、ここまでと比べても一層恐怖の色を滲ませる鯖江に目が行ってしまった。彼女は犬の存在を教えられた瞬間、肩がわずかに跳ねていた。
父が扉を開けると、奥からガシャンと、柵を揺らす音が聞こえる。続けて、主人の帰りを待ち侘びていたかのような鳴き声が聞こえる。
轟はその瞬間、無意識に鯖江の傍を通り過ぎ、前に立った。それは恐らく犬を怖がっている彼女を気遣っての事もあるだろうが、それ以上に轟自身、その犬を見たい一心だった。
自分にとって犬は親しみやすい存在であり、大きく高い柵越しに後ろ脚だけで立ち、薄い舌を出して喜んでいる様に、思わず笑みが零れる。
対する鯖江は、足がその場に根を張ったように、その場から前へ進めなくなる。
「アックス」
父が声をかけると、犬は名前を呼ばれたことで、更に激しく尻尾を振り始めた。轟はその愛らしい姿を見つめながら、背後で小さく息を呑む鯖江の声が耳に入った。
父もまたアックスの方を見つめているのを確認してからちらりと後ろを振り返ると、目を見開いて、身体を守るように両手で肩を抱いている。
轟は、慌ててアックスと父の方へ歩みを進めると、柵越しに手を伸ばし、アックスの首輪にリードを付けている父に話しかけた。
「ジャーマンシェパードですか?」
父は驚いた様子で振り返ると、轟にその日初めて、好意的な表情を向けた。
「そうだ、よく知ってるな」
轟は、しかし父の方よりもアックスに目を奪われていた。しばらくは、ここへ来た目的を思い出して我慢していたが、やがて口を開く。
「撫でてもいいですか」
父は思わず嬉しそうな反応を見せた後、態度が軟化してしまっている自分に気付いたが、少し考え込んで、首を縦に振る。
「構わないが、急に近づくと驚くからな。ゆっくり行くんだぞ」
轟はそう言われたことに対して素直に喜び、父が柵を開けるのを待つ。
ロックを外し、父がアックスを呼ぼうとしたとき、思わぬ事が起こった。
アックスはその大きな身体で柵を押し開けて、そのまま轟の方へ尻尾を振りながら突進してきた。
「アックス、待て!」
父が叫ぶが、その言葉に耳を貸そうとしない。轟は少し驚いたが、片足を引いて構える。アックスは嬉しそうに飛びつくと、そのまま自分を撫でてくる轟の手を舐め始めた。
「あはは、かわいいな」
轟は嬉しそうに言うと、ごわごわとした胴を触る。アックスは嬉しそうに身体を擦り付け、換毛期だからだろうか。轟の服を瞬く間に毛でいっぱいにしていく。
父はリードを引っ張って何とか引き剥がそうとするが、やがて轟が嬉しそうに撫でているのを見て、諦めた様子で手を緩める。
「申し訳ない、うちのアックスが」
肩を落とし、顔中毛だらけになった轟を見る。しかし、そんな父の心配とは裏腹に、轟は幸せそうに顔を綻ばせた。
「いえいえ、この子が喜んでくれたらそれが一番です」
実際、服に毛がつくことすら喜んでいた。
そして、思い出したように鯖江の方を見る。彼女はまだ微動だにせず、怯えた表情を浮かべていた。アックスが次は鯖江に撫でてもらおうと顔を向けたのを感じ、轟はまずい。と緊張が走った。
鯖江は、アックスがこちらを向いていることに気付き、その場から逃げ出してしまいたい程の恐怖を覚える。目を見開いて、こっちに来ないことをただ祈った。
「大丈夫ですか、鯖江先生?」
轟は、悩んだ末に口を開く。恐らく大の犬好きである父にとって、アックスを怖がっているというのはどう見たって印象が良く映らない。しかし、彼女もまた、それを押し殺して部屋に入れそうもなかった。
「す、すみません。ちょっと怖くて」
鯖江は泣き出しそうな顔で、アックスから目を離そうとしない。
轟は悩んだ末、アックスを依然として撫で続けながら、父の方を見上げる。
「お父さん、すみません。鯖江先生、この子が怖いみたいでして。この子も怖がるといけないから、少し奥の方までアックスくん、離れさせて欲しいです」
言葉遣いこそ、鯖江のように礼儀正しいものではないが、父は心から楽しそうにアックスを撫でていた轟の気持ちを汲んだ。
頷いて返すと、リードを軽く引く。
「アックス、着いてこい」
呼ばれたアックスは、少し名残惜しそうに轟の方へ顔を向けたが、一度手を舐めた後、尻尾を振って父の方へ駆け寄る。轟はその様子を見て、名残惜しさを感じたが、安堵で胸を撫で下ろす。
父はそのまま廊下を進み、リビングのドアを開けてアックスとその中へ入る。そして一人で出てくると、こちらへ戻ってきた。ドアのすりガラス越しにアックスが扉を爪で何度か引っ搔いていたが、やがて諦めた様にその向こう側へ去っていく。
「鯖江先生」
轟に呼ばれ、はっと我に返った鯖江は、少し驚いた表情で彼を見上げた。いつの間にか自分の前に立っていた轟は、不安そうな面持ちで彼女を覗き込んでいたが、鯖江はすぐに自分のやるべきことを思い出し、奮い立つ。
「大丈夫ですか。アックスは離れましたから、大丈夫ですよ」
轟はそういって、再び玄関の中へ入る。鯖江も軽く息を吐くと、気を取り直して後を追った。彼女は心の中で、ここへ来た理由を思い出した。
華奈に何があったのか。どうして今日学校を休んだのか。それを轟と確かめるため、ここに来たのだ。
父は柵を開け、二人を中へ招き入れる。そして、轟の方を向く。
「華奈は2階だ。そこまで案内しよう」
轟は頷き、歩みを進める。鯖江も後に続きながら、再び重苦しさが空間を満たしていくのを感じた。
階段を上がり、静かな廊下を進む。外見から予想は着いていたが、この家は正に豪邸と言うに相応しい広さと造りを持っていた。一方で、どこか物悲しい印象を感じてしまう。
壁は美しいクロスで仕上げられ、無駄のないデザインが細部に見て取れる。しかしどこか人の温もりが感じられない。生活感があまりなく、まるでこの家を内見でもしているかのような気持ちにすらなる。廊下の突き当りにあるキャビネットや、階段の途中に置いてある調度品なども整然と配置されてはいたが、どれも無機質な印象を与え、居心地の悪さすら感じさせる。冷ややかな雰囲気が漂い、根拠こそそこには無いが、この家では何か良くないことが起きていると直感させた。
「華奈、いるか」
父は廊下を進んでいき、扉が並ぶ、そのうちの一つ。そこで足を止めると、声をかける。鯖江は改めて襟を正し、轟は固唾を呑む。
程無くして、扉が開けられる。暗い部屋の中から華奈の嬉しそうな顔が飛び出してきた。しかし、華奈の目には轟と鯖江の姿も映る。彼女の表情は、一瞬で驚きと疑問に変わった。
「どうして……」
そう言葉を漏らし、彼女は扉に手を掛けたまま、気不味そうに視線を床に向ける。心当たりは、あった。きっと今日学校を休んだからだ。華奈はそう思った。これまで何度も早退をすることや、遅刻をすることはあった。それをしてもこうして家に来ることはこれまでなかったから。しかし、欠席してしまったから、二人とも心配して来たのだろうか。
華奈は視線を感じ、どうするべきか困り果てた末、父に目をやる。
父はその反応に苛立ちで眉を顰めたが、すぐに冷静さを取り繕う。
「お前の怪我について、話を聞きに来たらしい」
轟と鯖江の手前、父は口が裂けても華奈にいつもの調子で接するわけにはいかない。お前のせいで。という怒りを押し殺し、淡々とそう伝えた。
華奈はその言葉に動揺を隠し切れない。思わず頬に手を当てたが、そこには、昨日のガーゼはない。
鼓動が早くなり、血の気が引いていくのを感じながら、華奈は轟と鯖江を交互に見る。彼女らは不安そうな面持ちで彼女を見ており、その胸中を察しようとしているようだった。
だが今の華奈にとって、それこそ迷惑という他なかった。
「華奈、その怪我はどうやって出来たんだ?」
低く唸るような声が静寂を破る。
華奈はそんな父の声に対して、反射的に肩がびくりと跳ねる。その怯えた様子を見逃す轟と鯖江ではなかったが、華奈の言葉を待つことにした。
父もまた、華奈を無表情に見つめており、華奈は今まさに、喉元へナイフを当てられている様な気持ちになる。
「えっと」
華奈は喉が震えるのを感じた。
「転んでしまって」
そういって、父を見る。その表情に変化がないところを見ると、うまく父と口裏を合わせられたのだろう。華奈は少し安堵を感じた。
一方、身を乗り出したのは轟だった。
「転んで? それだけでこんな大きな傷が出来たの?」
先程の反応といい、明らかに声が震えている事といい、彼女は間違いなく嘘を吐いている。そう直感しての発言だった。
それを言った後で、また一歩踏み込んでしまった。と思ったが、今度は鯖江も制止しなかったところを見るに、彼女もまた、同じように疑問を抱いたのだろう。
轟の視線は、華奈の小さい顔。その左側を頬骨と顎まで覆いつくすようなガーゼがあった場所へ向けられている。彼女はその目に耐え兼ね、再び視線を落とした。
これ以上の追及は、彼女にとって心臓が張り裂ける思いだった。
「はい、そうです。足元を見ていなくて」
華奈は引き攣った笑みを浮かべようとして、痣が痛むのを感じる。そのせいで余計にぎこちない笑顔となってしまう。
その時、鯖江がその場に膝を折ってしゃがみ込むと、華奈の顔を下から覗き込んだ。
「華奈さん。もし何かあったなら、私たちに話してくれてもいいんですよ。わたしたち、華奈さんの味方ですからね」
その声は柔らかなものだった。華奈に届いていたならば。
彼女はただ、父の目だけが気がかりで、これ以上何も聞いて欲しくなかった。
「そんな事はしなくていい。お前は大丈夫なんだろ?」
父は割って入ると、華奈を見下した。その声は隠しきれない苛立ちが滲み出しており、またしても華奈は肩を竦めると、慌てて首を縦に振る。
「はい、わたしは大丈夫です」
その返答は、単に父から後で何をされるか分からない、という恐怖心から出ただけの言葉だった。彼女は自らを守るため、すぐ目の前まで垂れている蜘蛛の糸に縋ることが出来ずにいた。
轟と鯖江は、打つ手が無い事をもどかしく思った。どう考えても華奈は普通ではない。何かを隠している。その内容も、殆ど想像が付く。だが、これを掘り進めていけば、華奈自身が無事では済まないのも、理解していた。
鯖江はせめて、自分から助けを求めてくれたら。そんな淡い期待を抱いて、再び華奈の目を見つめる。
「本当に大丈夫ですか? 言い難いことがあるんだったら、わたし達だけで話しましょうか」
その発言に轟も、そうするべきだと頷く。しかし華奈の反応は芳しくない。
「もう、十分でしょう」
その間に入るように、父が怒気を孕んだ声で言う。
「華奈はもう大丈夫だと言っているんだ。これ以上何を言わせたいんです?」
その言葉は、轟と鯖江を黙させるのに十分だった。当人の華奈が助けを求めようとせず、父も引き剥がそうとしてくる。轟は、こうして父と対立していくことが、彼女に更なる苦痛を齎すのではと思い、どうするべきか分からなくなっていった。
「轟先生、鯖江先生」
ふと名前を呼ばれて、二人は華奈を見る。彼女は、何かを決心したような面持ちで、二人を見つめていた。父を含めた3人に、緊張が走る。
ようやく解決の糸口が見えた。そう思って肩を落とし、安堵の表情を浮かべる二人に、華奈は口を開く。
「すみません。今日はもう帰って頂けますか?」
彼女の声は冷たく、表情も何かを諦めた様に視線が外されていた。
轟は驚き、鯖江は言葉を失う。
華奈が自分の意思で自分たちを追い返そうとしている。そのことが信じられなかった。今や華奈は、完全に心を閉ざしていた。
「華奈さん」
喉に言葉が詰まりながらも、何とか彼女の名前を絞り出した鯖江は、しかしすぐに口を閉ざすこととなる。
「わたしが大丈夫って言ってるんです。迷惑なので、帰ってください」
その目にはもう、何の希望も映っていなかった。
今度こそ完全に打つ手が無くなった鯖江は、何かを言おうとした口をゆっくりと閉じる。轟は、目の前が暗くなっていくのを感じ、悔しさに歯を食いしばった。
「わかりました。無理にお邪魔するつもりは、ありません」
鯖江はやがて、悲しそうに目を細めると、華奈を見つめた。それから膝に手を着き、立ち上がる。父はそんな二人を一瞥すると、華奈を見た。
華奈もまた、視線を感じて一度父を見つめたが、またすぐに足元を見つめた。
「玄関まで見送りましょう」
冷ややかな声で父が告げ、二人はいよいよその場にも居られなくなった。諦めた様子で、来た道を戻っていく姿を、華奈は部屋の傍から、ずっと見送っていた。
二人は背後に父の苛立ちを湛えた歩みを感じながら、それぞれ無念とやるせなさで顔を顰める。
すぐそばに解決しなければならない、救わなければならない存在がいるというのに、それに対してどうすることも出来ない自分への呵責。轟は、無意識の内に拳を握る。
やがて門扉の前まで来た所で、腕組みをして仁王立ちをする華奈の父親を視界に入れる。その表情は、初めて会った時と同じく、眉間に深く皺を寄せ、口を堅く結んでいるが、何かを隠そうとしている様な雰囲気はない。代わりに、これでもう探りを入れられずに済む。というような、どこか勝ち誇った雰囲気を感じた。
鯖江は一瞬、父の視線に不快感を憶えて目を伏せようとしたが、自分の立場を思い出し、気を持ち直す。
「本日は、貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
丁寧な口調でそういうと、頭を下げる。
「こちらこそ、お忙しいでしょうに。うちの華奈を、揃いも揃って見に来てもらって、光栄ですね」
対する父は、敵対心を最早、隠そうともしない。まるで早く帰ってくれ、と言わんばかりに門扉の取っ手をちらりと見つめると、小さく咳払いをした。
「では、こちらのプリント、華奈さんと目を通しておいて下さい。失礼します」
まるで涙を堪える様に震えた声でそういうと、目配せをする。轟は小さく頷き、後を追って敷地の外へ出た。その瞬間、まるでもう二度とこの空間へ立ち入ることは叶わないのだろう。という直感が胸を刺す。
鯖江の手から奪い取るようにクリアファイルを奪い取った後、背中で父が門扉を乱暴に閉め、見せつけるように錠を落とす音を響かせたのを感じる。それにますます精神が摩耗して、轟はとても暗い表情を浮かべていた。
前を歩く鯖江もまた、弱々しく背中を丸め、繰り返し鼻を啜っている。
「鯖江先生……」
轟は、こういう時どうするべきか、考えても分からず、ただその後ろをゆっくりと、彼女の歩調に合わせて着いて行くことしかできなかった。
華奈は、轟と鯖江が自宅のインターホンを鳴らしたすぐ後、その姿を確認した父によって、部屋で待機しているように言われていた。そして、二人が帰るからと一緒にその場を離れた父を待ち、今もまだ部屋の中で、なにやら落ち着かない様子で歩き回っていた。
一体、どうなったのだろうか。父はやはり、なにか疑いを掛けられているのだろうか。自分の反応に、ミスはなかっただろうか。そんな思いが次から次へと湧き上がり、答え合わせの出来ない不安だけが募っていく。
自分は一体、これからどうなるのだろうか。そんな心配が頭を擡げ始めた時。
「華奈」
低く、唸るような父の声が扉越しに聞こえてくる。華奈は一瞬、心臓を下から鷲掴みにされたかのような不快感を憶え、全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。暖房も蛍光灯も、父に怒られてしまうので点けていない。その為、部屋はとても寒く、10月の冷気が充満していたが、それでも今着ている服が途端に暑苦しく感じる。
二人が、戻ってきた?
華奈はまた先程のように、扉を開けた先に父以外の誰かがいるのでは。そんな予感が頭を過る。
先程はあんな風に、我が身可愛さ、保身の為に二人を突き放した華奈だったが、何も本心が全て、父に傾いている訳ではない。華奈とて、この地獄から救い出して欲しいという気持ちが、全く無いでもなかった。それに、あんな態度を取ってしまった事に対して、華奈はとても申し訳なさを感じていた。
だが、そんな希望はいとも容易く打ち砕かれる。彼女らがこの家に戻ってくるわけがない。落ち着いた様子で華奈を呼んだ父の声音が、それを確信させた。
華奈は観念した様子で、扉へ近付く。そして、恐怖に震える手を緩慢に伸ばした。
ドアを父の方へ開けると、廊下の明かりが筋になってこちら側へ漏れる。暗くなった部屋に切れ込みを入れ、華奈はそこに立っているであろう父の影を見た。
彼女ののんびりとした動きに気付いた父は、苛立ちと呆れを含んで大きな溜息を吐く。そして次の瞬間、無理矢理その隙間に手を差し込み、力任せに扉を開け放った。
鈍い音を立て、壁にぶつかった扉は、ぐわんぐわんと小刻みに揺れている。
「何をしてるんだ」
驚いて後ずさりをした華奈を追う様に父は部屋へ入ると、壁のスイッチへ触れた。部屋がゆっくりと明るさを上げていき、華奈は眩しそうに目を細めた。
「質問に答えろ」
父は再び華奈を見据え、強く言い放つ。
「お前、俺に隠れて何を企んでるんだ?」
その言葉に、華奈は言葉を詰まらせた。何を企んでいる? 何も企んでいない華奈にしてみれば、どう返答するべきかこれ以上困る質問もなかった。それに加えて、明らかに怒気を滲み出している父の態度にも、思わず身体が萎縮する。
思わず、華奈は本能的に一歩後ろへ下がり、逃げ道を探すように目線を一瞬、泳がせた。
その動きを、しかし父も見逃さない。彼は再び、呆れた様に目を余所へやり、大きく溜息を吐く。そして、ゆっくりとした足取りで華奈の方へ歩み寄っていく。
華奈もその動きに恐怖し、足を後ろへ出した。靴下がフローリングを滑り、小さな音が響く。しかしその音すら聞き取れてしまう程、他に何の音も感じられない部屋の中、華奈は一歩、また一歩と壁の方へ追い詰められる。
父は、自分から目線を反らし続ける華奈に苛立ちを覚え、華奈を部屋の隅へと追いやりながら、勉強机の上にあるペン立てが目に留まる。それを無造作に掴むと、近くの壁へ投げつけた。まるで威圧感を見せつける様に宙を舞ったそれは、壁に強くぶつかると軽い音を何度か立て、中身諸共床へ転がる。古くなっていたペン立て自体も割れてしまっていた。
「答えろ!」
とうとう父は声を荒げ、華奈はそれを合図に踵を返すと、背後の空間に向かって縋りつくように逃げようとする。だがその時にはもうすでに、逃げ道などなかった。背後には部屋の角が待ち構えており、慌てた華奈は再び父の方を振り返る。
目の前に立ちはだかる父は、怒りを露にした表情で、冷たく華奈を見下ろしていた。彼女の目が怯えた様に見開かれ、足が竦むのを感じる。
「……ごめんなさい」
凍り付いた表情で、華奈は声を震わせた。そして喉から、謝罪の言葉を絞り出す。しかしそんな言葉一つでは、父の怒りを鎮められない。
「お前、いつもそれだな。何か聞かれても、それだけ言ってたら済むと思ってるのか?」
父は鋭く叱責して、更に華奈へ詰め寄る。
華奈は今や、部屋の角に背中を擦り付け、小さく開いた口で短く息をしながら、じっと父の様子を怯えながら見つめることしか出来ずにいた。
父は、じっと華奈を睨みつけた。彼の中で、昨日の記憶が鮮明に蘇っていた。華奈が彼に対して忠誠を誓い、自分の為に何でもする。といったあの瞬間。その後、まるで契りのように華奈を抱いたこと。あの一時は、彼にとって心地の良いものだった。ようやく求めていた物が手に入ったような充足感に満ち溢れていて、父自身、それから先程に至るまで、彼女の待遇を見直したかのように自由を許して過ごさせていた。ようやく、何かがこの家で変わりそうな予感を感じていた。
しかし、今目の前にいる華奈。その態度は、そんな自分の厚意を仇で返すように感じられた。こちらの質問に対しても答えず、ただ決まりきった文句を口にするその姿に、怒りが立ち込めた。
「いい加減にしろよ。俺に隠れて、何を企んでるか知らないが、気付かないとでも思ったのか? 馬鹿にしやがって」
父は華奈へ苛立ちをぶつける。その内心では、華奈が自分をまるで軽視している様な気持ちに、苛立ちを覚えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
華奈は譫言のように父を真っ直ぐ見据え、思考が鈍る頭で必死に怒りを収めようとする。しかしその言葉が、余計に父の苛立ちを助長させた。
「黙れ、お前の謝罪なんて聞き飽きたんだ」
怒号が響き、華奈は反射的に後ろへ歩を進めた。すでに進めないことが分かっていながら、身体は無意識に壁へ背中を擦り付けさせる。
父の心の中で、何かがもう少しで千切れてしまいそうだった。昨日、華奈が自分に対して誓った言葉。そして、今の何かを華奈が隠しているだろうという確信。彼の理性は危ういバランスで保たれていたが、今、それが音を立てて崩れそうになっている。
再び、華奈は途切れ途切れの声で何かを呟く。父はそれを聞き、またしても謝罪の言葉を、ありふれた言葉を吐いたと気付いた瞬間、それはぶちぶちと千切れてしまった。
「お前も俺を裏切るのか!」
彼は顔から血の気が引くのを感じ、無意識に振り上げた手に気付いた。それは一瞬、動きを止めたが、次の瞬間には父自身の意思で、強く振り下ろされてた。
せめて握りしめていた拳を開く位の理性は、父にもまだ残っていたらしい。華奈は左耳で強い破裂音を耳にしたかと思うと、次の瞬間、耳に異物でも入ったのかと思うようなとてつもない痛みが、頭を突き抜ける。頬を張られたのだと気付く暇もなく、そのまま壁に頭をぶつけ、その場へ崩れ落ちる。
耳の奥が抉られたような痛みと、今再び振るわれた暴力による恐怖。身体が自分の物ではないかのように動かせず、ただ涙が滑り落ちる。
しかし、呻き声すら漏らすことは許されなかった。ただ部屋の中には父の荒々しい呼吸だけが響き、重苦しい沈黙が流れている。
父はただ無言で涙を流し、上目にこちらを怯え切った目で見つめてくる華奈に、一瞬だけとてつもない悔恨の念を抱いたが、それはすぐに怒りで書き換えられる。
「お前が俺に、ふざけた態度を取るからだ……」
父はまるで誰かに言い訳をするかのように呟くと、眼下で蹲る華奈を見つめる。その目はとても冷ややかで、華奈は心臓が今にも止まってしまいそうな恐怖に晒される。
「お前の事だ。どうせ裏であいつらを家に呼んだんだろう? 俺を出し抜こうなんて、生意気な真似しやがって」
否定をしなければ。そう思って口を開こうとする。しかしその瞬間、再び左耳に鋭い痛みが走る。それと同時に視界がぐらぐらと揺れ始め、耳からなにか生温い物が垂れていることに気付いた。
庇うように手を当て、ずるりと滑った手の平を視界に入れる。その手は、真っ赤に汚れていた。
「泣きついたのか? 家に来てくれ、助けてくれとでも言ったのか!」
父は我を忘れて華奈へ怒鳴り散らす。華奈はその言葉が、しかし右耳からしか上手く聞き取れずにいた。まるで左耳だけ、何か耳の中に水でも入ったようにくぐもって、上手に聞き取れない。
背中を冷たいものが走った。もしかして、鼓膜が破れたのだろうか。
「お前を愛してると言っただろう。それなのに、どうして俺から離れようとするんだ!」
狂気染みた声で叫んだかと思うと、父は華奈の髪へ指を絡め、無理矢理に顔を近付ける。華奈は痛みと恐怖で何も考えられなくなり、必死で藻掻く。
「やめて、お父さん! お願い、やめて!」
震える唇を何とか動かして、華奈は助けを求める様に父の肩や顔を手で押し退けようとする。その時、父は空いている手を不意に突き出してきたかと思うと、そのまま自分の喉へ絡みつくのを感じる。
「どうすれば俺の気持ちが伝わるんだ!」
細い首に、父の浅黒い手が僅かに沈む。華奈は顔に血液が昇る感覚を味わい、いよいよ本気で両腕を暴れさせ、必死で父の殺意から離れようと試みる。しかし体格差は歴然である。華奈はすぐに全身の力が抜けて、視界が端から暗く蝕まれ始めていく。耳の痛みも感じなくなり、唇だけが酸素を求めて、何度も開閉を繰り返す。
「死んだら、またお前は元に戻る。元通りになるんだ」
意識を完全に手放す数秒前、華奈はその言葉を耳にしながら、まるで深海に沈んでいくような気持ちになる。身体は冷たくなり、意識も朦朧として、思考も纏まらない。痛みも恐怖も感じられなくなり、ただ瞼が重くなっていった。
がくん。華奈は意識を失ったのか、首が力なく後ろへ傾く。父は意識を完全に消失した華奈を見つめながら、しかし首から手を離そうとはしない。そのまま力を入れ続け、やがて握っている手にも温度を失って、死体になりつつある華奈の感触が伝わり始めると、歯を食い縛った。
そして、とどめを刺すかのように再び力を込めた時。肉に包まれた枯れ枝が折れるような、とても嫌な感触を手に感じ、父は嫌悪感に顔を歪めながら、ゆっくりと手を離していく。
華奈の首は、まるで自分の意思を失ったかのように不自然な曲がり方をして、骨が折られたことを示すかのように、青白い肌の下に鋭い角度が浮き上がる。恐らく、折れた骨が浮き出ているのだろう。父が渾身の力を込めて握っていた所に、くっきりと痕が残っていた。
顔は充血して膨れており、手を離したことで血がすでに手遅れながら巡り出したのだろう。ゆっくりと血の気が引き始めた。まつ毛は涙で濡れ、頬とこめかみに涙の痕が残っている。僅かに開かれた目は、どろんと濁っていた。
父はその様子を、しばらく呆然と見つめていた。しかし、やがて興味を失ったように突然立ち上がる。
扉がゆっくりと閉められ、父の足音だけが部屋から離れていった。
ふと、ベッドの上で目を醒ました華奈は、違和感を憶える。
見慣れた天井を、仰向けのまま見つめ、不思議そうに眉を顰める。おかしい。わたしは確か、お父さんの部屋で寝ていた筈。
華奈は眠りにつく前、明け方頃、確かに父と強く愛し合ったのを思い出す。脳が痺れるような多幸感と、覆いかぶさる父の温もり。太く、ごつごつとした腕。それに強く抱きしめられた時に感じた、得も言われぬ感情。
思い出すように目を瞑り、華奈は深呼吸をする。今や彼女にとっての父は、恐怖の対象では無く、自分の全てを捧げて尽くすべき対象へと変わっていた。それが世間一般の愛とはかけ離れていることに気付く術を、彼女は持たない。ただ、父にああやって愛される日々が続けば、自分という存在はその庇護下に置かれる。それだけを理解していた。
だが、微睡から覚醒するにつれ、彼女はやはり、就寝した場所と今の場所。それが違うことに違和感を抱く。いや、違和感がそれだけなら、彼女も恐らく父が連れて来てくれたと思うかもしれない。しかし、他にも不審な点がいくつかあった。
部屋はすでに夜の静けさが広がり、開けられたままのカーテンからは、薄い星空が広がる。冷え切った風が窓を微かに揺すって、部屋の中へ流れ込む。
華奈は心の中へ広がった、得体のしれない物悲しさを感じ、途端に不安が襲い来るのを感じた。父の愛を一心に受けた後に感じた一人の部屋は、まるでまた、関係性を含む何もかもが元の通りに戻ってしまったかのような焦燥感を彼女に味わわせた。
「お父さん……」
彼女は丁寧に掛けられた布団と一緒に上体を起こし、小さく口にしてみる。それから部屋をぐるりと見渡すが、そのどこにも父の姿はない。胸が孤独感で締め付けられ、今にも寂しさで泣き出してしまいそうな気分になる。
この間まで、そんなことなかったのに。華奈は心の中で呟き、急ぐようにベッドから降りた。そして冷え切ったフローリングを足の裏で感じながら、足早に部屋を後にした。
廊下に出ると、電気の眩しさが目の奥を刺激し、思わず目を細める。普段なら当たり前のようにあるその明かりも、今はまるで家全体の静けさを強調させるかのようだった。華奈は思わず早くなる呼吸を感じながら、ゆっくりと廊下を進む。
「お父さん?」
小さく、父を呼んでみる。その声は無機質な明るさを抱えた廊下に吸い込まれ、消えていく。そしてふと、自分が制服を着ていることに気付く。
それもまた、普段であれば当然であり、彼女も意識することすらしない。しかし、記憶を遡った彼女は、またしても強烈な違和感を憶えた。
確かに父の傍で目を閉じた時、華奈は一糸纏わぬ姿だった。心地良い疲れが全身を支配する中、汗ばんだ身体を父に抱きしめられながら眠ったのを憶えている。しかし今、まるで時間が遡ったように、皺のついていない制服を身に纏い、身体にべたつきも感じない。
もしかして、お父さんが拭いてくれて、寝かせてくれた?
華奈はその可能性を考え、信じられないながらも、それ以上に現実的な他の可能性が思い浮かばなかった。
程なくして華奈は、父の部屋の前に立つ。一つ呼吸を整えてから、意を決して扉を叩いた。そして、いつも通り返事のないことを確認して、華奈はゆっくりとドアノブに手を掛けた。
まるでなにか怖いものでもその先に待ち構えているかのように、華奈は無意識の内に息を殺し、恐る恐る扉を引いていく。
ゆっくりとその陰から父の部屋が見えてきて、やがて机に向かう父の横顔が見えた時、華奈は思わず安堵で肩を落とした。
「失礼します」
そう一言告げて、華奈は部屋へ足を踏み入れる。その瞬間、父の様子が思い浮かべていたものと違うという直感で、足が竦む。
パソコンに向かって何やら作業をしている父は、肩に力が入って、眉間に皺が寄っている。まるで、今朝の事が嘘のように、これまでの暴力的で、すぐに怒鳴るような、怖い父親がそこに座っていた。
「お父さん……?」
華奈は頭が混乱する。どうして、父はまた元に戻ってしまっているのだろう。もしかして、あの穏やかに愛してくれた父は、一時の気まぐれから来るようなものだったのだろうか。また、いつもの父に戻ってしまっているのだろうか。
華奈は胸がきつく締めあげられるような感覚を憶え、それを振り切るように父の元へ近付く。すると、足音に顔を華奈の方へ向けた父と、目が合った。
「起きたのか」
父は短くそう言うと、再び興味無さげに視線を元に戻した。だがその口元は、先程までよりも強く怒りを感じさせた。
華奈は、父が何に怒っているのか。それが理解出来ないまま、何か嫌な予感を胸に答える。
「はい。すみません、こんな時間まで……」
そう言われて、父は画面の右下にある時刻表示に目をやった。華奈を殺した後、自室に戻ってすることもなかったので仕事を始めたのが、つい10分前。それほど長い時間とも思わなかったが、しかし華奈が反省の色を見せている以上、それを否定する程の優しさは持ち合わせていない。
「本当だな。どうせすぐ動き出すんだから、次からはもっと早く起きてこい」
苛立ちを隠そうともせず、父は視界の端で立つ華奈に言った。
「それと、あの教師二人。もう二度とこの家に来ない様にしろよ。お前がもう二度と学校に行きたくないなら、別だがな」
そういって、疲れた首をぐるりと回す。
再び、重苦しい沈黙が満たされた部屋に、タイピングの音が不規則に鳴り出した。
用事はそれだけか。済んだらさっさと自分のやることをしろ。父はそう言おうと、再び華奈の方へ、次は身体ごと向き直ろうと、区切りの良い所まで資料作成を進めようとした、その時。先に口を開いたのは華奈の方だった。
「あ、あの。何のことですか?」
華奈は心の底から、父の発言が理解出来ない。といった顔で問いかける。画面から目を離さないまま、父は一瞬、驚きに目を見開いて、それから眉を大きく歪めた。
机を拳で叩いた衝撃で、置いてある金属製の灰皿が、軽い音を立てて揺れる。
「おい、もう一度言ってみろ」
液晶を見つめたまま、父は低く凄む。華奈はそんな反応を見て、何かが父の機嫌を大きく損ねたと気付いたが、しかし本当にどれだけ思考を巡らせても、それらしい心当たりがない。
そもそも、教師二人がこの家に来る、というのが理解出来ない。誰と、誰の事だろう。
もしかして、自分が寝ていた時に誰か来ていたのだろうか。ふとそんな考えが過り、そのまま確認してみる。
「あの、わたしが休んでいた間に、誰か来たんですか?」
その発言を受け、父は灰皿に置いていた煙草を咥え、大きく吹かす。
そして手を止めると、机の上へ置いてあったクリアファイルを手に持ち、椅子から立ち上がる。
華奈はそんな父の行動を受け、反射的に後ずさりする。なにか良からぬことが起きようとしていることを察知し、いち早くその場から逃げ出そうとする。しかしそれより早く近づいてきた父は、そのまま華奈の目の前まで近づく。そして、手に持っていたクリアファイルを乱暴に華奈の身体へ押し付ける。
「これを渡しに来たとか言って、勝手に家へ上がり込んできたあいつらの事だ! まさかもう忘れたのか!」
それを押し付けられた華奈は、反射的にそれを受け取ろうと腕を前に回す。しかし父は尚も、華奈の胸にそれを押し付け、何度も突き飛ばす。
「忘れたとは言わせないぞ! 嘘を吐くにしてももう少しましな嘘を吐け! 俺を馬鹿にしてるのか!」
やがて華奈は後ろ向きによろめいて、その場に座り込む。父はそんな華奈の足元まで近寄ると、怒りに満ちた顔で見下した。
その視線に当てられ、華奈は恐怖を感じる。しかし一方で、本当に記憶のどこを探っても心当たりのないことで怒られているという不満も、感じていた。
「でも、わたしそんなの知らないです」
不服そうに目を逸らし、華奈はぽつりと呟く。普段なら絶対に不平不満を漏らさない華奈であったが、しかしつい眠る前まで父と愛し合ったという記憶が、彼女に若干ではあるが、気の緩みを齎した。
父は一瞬、身体の動きが停止する。そして次の瞬間、右足を後ろに引いたかと思うと、横に薙ぐようにして華奈の肩を蹴った。
「お前、誰に向かって口を利いてるんだ!」
勢い良く蹴られた方向に倒れた華奈は、骨まで響くような鈍痛に顔を顰め、そのまま小さく悲鳴を上げると、身を守るように横たわって蹲る。父はそんな姿を眼下に収めながら、荒い息を漏らしていた。
「す、すみません。お父さん」
痛みで呼吸も絶え絶えになりながら、華奈はそのまま蹲っていたいという欲に駆られたが、そんな状態では次に何をされるか分かったものではない。慌てて床に手を着いて上体を起こすと、その場に立ち上がりながら、父に謝った。
しかし、知らないことを責められたとて、華奈はどうすることも出来ない。迷った末、正直に父へ聞いてみることにした。
「あの、教えてください。わたしが寝ているときに、誰か来たんですか」
擦れる声を絞り出して、華奈は恐々と父に問う。一方、父はそんな華奈の反応に、何か引っかかるものを感じていた。
華奈は別に記憶力が悪いわけではない。むしろ、うっかり何かを忘れるという事で自分を怒らせるようなことはしたことがない。
父は、本当に何を言っているのか分からない。という様子の華奈を見つめ、どうも嘘を吐いていたり、誤魔化そうとしているような雰囲気は感じられなかった。
「お前も起きて、話してただろ。あの背が低いスーツの女と、長身の女だ。お前が学校を休んだから、心配して家に来たとか言ってたあいつらだよ。まさかもう忘れたのか?」
父は何かを確かめる様に、そう説明する。
華奈は、その説明を聞いて、恐らく担任の鯖江と、いつも図書室で一緒に過ごしている轟の事だと思った。だが、その二人が家に来た? それも、自分が対応していた?
「あの、わたしも話してた、んですよね」
「だから何度も言わせるな。そうだと言ってるだろ」
華奈が確認する。父は苛立ちを浮かべながら、それを肯定した。
わたしが話していた。その二人と?
華奈は頭の中で混乱が広がった。担任の鯖江と、親しい轟が自分の家に来ていたという事実。そして、その二人と直接話していたという父の発言が、どうしても信じられない。自分が何を話していたのか、その記憶も全く思い当たらない。華奈はまるで記憶喪失にでもなったかのような恐れを抱いていた。
「お前が顔にガーゼを貼って登校してたから、心配だとも言ってたな。そんな目立つことをしたら、何事かと不審がられることくらい分かるだろ」
父は手にしていた煙草を一口吸い、灰を落とすために一度机に戻る。華奈はそんな父からの暴力に依然として怯える一方、ガーゼを貼って登校して、確かに轟からどうかしたのかと訊かれた事については思い出していた。しかし、相変わらず記憶がない。まるで、父の言う通りにその二人と会話でもした後、記憶を何かのはずみで失ったとしか、考えられなかった。
「すみません……」
華奈は迷った末、自分がそのことをすっかり忘れてしまっているのだと結論付けた。きっと二人と会話もしたのだろうし、自分が起きている間に二人が来ていたのだろう。
押し付けられたクリアファイルにふと目を落とすと、その中には進路相談のアンケートが入っていた。きっと、それを届けに来ていたのだろう。
煙草を揉み消して戻ってきた父は、華奈を見つめて、呆れた様に溜息を吐いた。
「お前、逆にどこまでなら覚えてるんだ?」
その言葉は、物覚えの悪い華奈を嘲る様な調子であった。華奈はそれに胸が締め付けられながら、何とか思い出そうとする。
「……お父さんと、一緒に寝たところです」
「お前——まだ朝方じゃないか。それから起きるまで、全部忘れてたのか?」
父は一瞬、思案するような顔を浮かべた後、すぐに元の語調に戻って嗤う。まるで、出来の悪いものを馬鹿にするような態度だった。華奈はそんな扱いを受けていることに対してとても不満を感じたが、しかし何も覚えていないのも、また確かである。結局口を噤んで、押し黙るしかなかった。
「じゃあ何か? お前は朝寝て、今起きてくるまでの丸々、全て忘れてるのか?」
含み笑いを浮かべ、父は問い詰める。華奈は恥ずかしさで耳が赤くなるのを感じ、口を堅く結んだまま、小さく頷いた。
「はっ、傑作だな。お前、どんだけ頭弱いんだよ。まだ嘘でも吐いてたって方が良かったんじゃないか?」
その言葉は、華奈の自尊心を強く傷つけた。
屈辱を味わい、言葉を失ったままそこに立ち尽くす華奈を見つめながら、父は内心では、この奇妙な現象に思案を巡らせていた。
父の推測では、華奈が死んで、こうして生き返った時、身体の傷はまるで巻き戻しを行う様に治癒する。そして記憶もまた、その巻き戻される時点の状態に戻ってしまうらしい。これが、華奈の記憶と自分の記憶に齟齬が生じている原因だと父は結論付けた。
そして、巻き戻される地点とは恐らく、華奈が最後に睡眠を取った時。
父は、ふと我に返る。そして何事も気付いていないように振る舞い始めた。この事実は、勿論華奈に隠しておく必要がある。少なくとも二度、父は華奈をこれまで殺害しているが、しかし華奈自身にその記憶がないのであれば、それは父にとって好都合だった。華奈が外部に助けを求めようと画策したところで、一度殺して記憶のリセットを行ってしまえば、それを防ぐことが出来るし、一日二日で治らないような怪我をさせてしまっても、一度殺してしまうことで、元の状態に戻すことが出来る。
さながら、ゲームのリセットボタンを押すが如く、便利に活用出来ると父は考えた。
「とにかく」
そんな父の声に、華奈は顔を上げる。父は新しい煙草に火を点けながら、こちらをじっと見据えていた。
「お前がどれだけの馬鹿かなんて俺には知ったことじゃないが、俺の言う事だけはしっかり聞いておけ。もうあんな連中を、勝手に俺の家に入れさせるな」
そう言われて、華奈は静かに首を縦に振る。すっかり自分の無力さ、そして記憶すら満足に保持できないと思い込んで、無能さを嚙み締めた。
「もし今後、同じことがあったら俺がどうするか。分かるだろうな」
低く唸る父に、華奈は背筋が震える。全身から嫌な汗が吹き出し、返事すら紡げない程の緊張が走る。
ゆっくりと近づいてきた父は、吸い込んだ煙草の煙を、まるで華奈との力関係を示すかのように、彼女の顔へ吹き付けた。
煙が目に沁み、そして屈辱を感じて顔を顰める。そして小さく咳き込んだ。心臓が高鳴り、屈辱に奥歯を噛み締める。
その様子を見下しながら、父は突然に声を和らげた。
「安心しろ。お前が俺の言うとおりにしてる内は、俺もお前を捨てたりしない」
その言葉が華奈の心に響く。依存の感情が次第に強くなる一方、彼女はその言葉に潜む恐怖も感じていた。しかし、父の信頼感もまた、同じくらい強く感じる。
父の言うとおりにしていたら、捨てられない。それは彼女にとって、この上なく安心出来ることだった。
「わ、わたし……頑張ります。頑張って、お父さんの役に立ちます」
様々な感情が入り乱れ、彼女は泣き出しそうな顔で父へ縋るように見上げる。その痛々しい姿勢に父は、口角を歪めた。目の奥には、冷淡な支配が爛々と光る。
「そうだ、お前は賢いな。俺は馬鹿じゃない。役に立つお前を捨てたりしないから、安心しろ。俺の望むことだけを考えていればいいんだ」
その言葉は、彼女の思考に刻まれる。父に従属すれば、愛してくれる。そう心から信じることで、彼女は自分の居場所を父の中に見出していた。
しかしその居場所は、明らかに健全なものではなかった。華奈に父が求めているのは、自分の意思や感情を無視したものであり、彼女が本当に欲している愛情とは似て非なるものだった。しかし彼女はそれに気付いていながら目を逸らし、ただ与えられた自分の役割に縋り付こうとしている。
次第に、彼女の心から、自分が何を感じているのか。自分が何を望んでいるのか。それが父という存在に希釈されていくのを感じる。その存在が彼女にとって唯一安心できる場所となり、そこに足を捕られて逃げ出せなくなっていく。
華奈の目からは中学生らしい純粋さが消えていき、どんよりとした濁りを、そこに湛えていた。
父が食事と風呂を済ませ、2階に上がるのを眺めながら、華奈は部屋の隅に置かれた、廃棄予定の椅子に目をやる。
昨日、申し訳なさそうに頭を下げてきた父に対して、まるで煽る様な事を言ってしまった後、父が怒りで壊してしまったらしい。それを眺めていると、父の思い通りに動けなくなったら、自分も同じように捨てられるのかな。そんな考えに至る。華奈は度重なる父からの暴力、暴言、そして記憶の巻き戻しにより、父との記憶に齟齬を生じているという事実から、自分自身への信頼も何も、感じられなくなっていた。
「嫌だな……」
ぽつりと呟き、流し終えた皿を乾燥棚へ立てかける。その心には、捨てられたくないという、強い孤独への不安と、どうすれば父が、自分を有用だと認めてくれるかという渇望が渦巻いている。
普段であれば、この後華奈も食事と入浴を済ませ、そのまま自室に籠って勉強に励むのが日課になっていた。それが華奈にとって、唯一心休まる時間だった。尤も、華奈にとっての娯楽と、それをしても怒られない普通の環境があれば、それ程勉強にのめり込むこともなかっただろうが。生憎、この家にはそのどちらも無い。
だからペンを握って、無我夢中で知識を付けている間だけは、嫌なことから目を背けることが出来たのだが、こうなってしまえばそれすら、父に媚びていない時間に感じられた。
もっとお父さんに可愛がられなければ。
もっとお父さんに使ってもらわなければ。
でなければ、こんなわたしは、すぐに家から追い出される。
震え始めた手をなんとか動かして、最後の皿を棚へ突っ込むと、タオルで手を拭く。
それから少し追い詰めた顔をして、華奈は小さく息を吸い込む。決心して父の部屋へ向かうことにした。自室で気楽に勉強をするより、父に怒られるかもしれないが、自分の存在価値を示す道を選び、階段を重い足取りで進んでいく。
「失礼します」
ノックをした後、少しの間を開けて華奈は扉を開く。部屋の中では、父が相変わらず難しそうな顔を浮かべ、パソコンの画面を睨んでいた。その目は一瞬だけ華奈の方を向いたが、また元の向きへ戻っていく。
音を立てないよう、丁寧に、ぎこちない動きで扉を閉め、再び父の方へ向く。先程までの決心は、瞬く間に揺らいでいた。
これまでの仕打ちを経て、父の姿を見るだけで呼吸が上手く出来なくなっていた。まるで部屋の酸素が薄くなったかのように、どれだけ肩で息をしても、頭に靄がかかったようになる。
「あの、お父さん」
華奈は無意識の内に視線を下へ向けてしまっていたが、それを無理矢理に父の方へ向ける。身体は恐怖を感じ、スカートの生地をきつく握りしめていたが、華奈は何とかそれを顔には出さず、ぎこちない笑みを心掛ける。
そうして絞り出した声は、しかし父の耳に届くことはない。決して華奈の方を見ようとせず、ただ黙って液晶に顔を向ける。まるで、話しかけるなと無言の圧力をかけているように。
それが華奈にとっては苦痛だった。自分という存在は必要ないのだと、言外に示されている様な気持ちになる。すぐにまた俯き、その目にじんわりと涙が浮かぼうとしていた。
「あの……お父さ、ん」
喉が震えるのを感じながら、もう一度父を呼ぶ。今度こそ父は大きく溜息を吐き、上体を椅子に預けた。そして目だけで華奈の方を向いた。
その視線を感じた時、華奈は思わず心が温まるような気持ちを憶えた。父が反応を示してくれた。わたしの方を向いてくれた。そう思うと、先程までとは違う涙が溢れそうになる。華奈は父が再び液晶に向き直らない内にと、急いで言葉を紡いだ。
「あの、あのっ。わたし、何かお手伝いを……させて欲しいです」
言葉が続くにつれ、弱々しくなりながらも、華奈は必死に自分の考えを伝えた。
「お父さんの、役に……立ちたい、です」
言い終わった時、ぼやけていた視界が急に晴れ、目から一粒の涙が床へ垂れる。父はそんな様子の華奈をつまらなさそうに見つめていたが、やがて卓上の酒を手に取ると、それを一口飲んでから応える。
「例えば?」
その言葉には、何の感情も含まれていなかった。ただ冷ややかに、期待も何も込められていない単調さで、父は尋ねる。
華奈は、お前が役に立つなんて無理だ。などと父に一蹴されるかも、と気がかりであった為、喜んで顔を綻ばせる。しかし、嬉しそうに開いた口からは、何も次の言葉が出てこなかった。
やがて視線を泳がせたかと思うと、少し何かを考える様に下をまた向き、沈黙が続く。その様子を見ていた父は、大きく溜息を吐いて、呆れた様に言った。
「お前な。そういう、その場凌ぎのご機嫌取りなんかしてる場合か?」
酔って顔が赤らんだ父は、そういうと華奈の方へ椅子ごと向き直る。華奈はその声に肩を跳ねさせ、歯痒そうに顔を顰めた。
「そういうことを聞くんなら、せめて何か自分に出来ることの一つや二つ、考えてから来るもんだろ。それとも、俺が丁度助けを求めてそうだと思ったか?」
父は苛立ちを感じ始める。この娘は、どこまで行っても受動的で、ただ何も考えず、媚びを売りに来たとしか思えなかった。その態度が、父にとっては腹立たしい。
小さく舌打ちをして、父は机の上にある煙草を手に取ると、その内の一本を口に咥える。そしてライターを探すように、机の上へ視線を走らせた。しかし、先ほどまでそこに置いてあった筈のそれが、どこにも見当たらない。
そうして父は、ズボンのポケットを手で押さえたり、辺りを見渡すが、どこにもそれが見当たらない。
「……アックス」
そう小さく呟くと、机の足元に置いてある犬用のベッドで寝ていたアックスが耳を立て、尻尾を小さく振る。やがて、父と目が合うとその場で立ち上がり、傍へ近寄ってきた。その大きな身体が動くたび、華奈は反射的に身構え、恐怖を隠しきれない様子で一挙手一投足を見つめる。
父はアックスが離れたベッドを見て、やはりそこにもないことを確認した。
「無いな。すまんアックス。戻っていいぞ」
その言葉が理解出来ているかのように、アックスは軽く身体を震わせると、再びもといた場所へ戻る。それから、ようやく父が口を開いた。
「おい、華奈」
ずっとアックスの方ばかりを警戒して見つめていた彼女は、突然名前を呼ばれたことで心臓がひやりと冷たくなる。そして、慌てて父を見つめた。
「ライターが無くなった」
煙草を唇から離した父は、腹立たしそうにそう告げる。しかし華奈は、その言葉を受け、伺う様に父の次に発される言葉を待っている。
それから、華奈も同じようにその場から動かず、父の辺りを見渡し始めた。
数秒の沈黙の後、父は思わず、火を着ける前の煙草を握りしめた。手の中で微かな抵抗を感じて、二つに折れる。
「……取ってこいって言ってるんだ。お前は馬鹿なのか?」
アックスを驚かせない様に、父は怒りに満ちた声を喉から絞り出す。華奈はその言葉を受け、ようやく気付いた様子で足を動かすと、慌ててドアノブに手を掛ける。そして開け放つと、転がるようにして部屋を出た。
そのまま、階段を駆け下りる騒々しい音を感じながら、父は一つ溜息を吐いて、手を開く。もう吸えなくなってしまった煙草を不愉快そうに見つめ、それをごみ箱へ捨てる。
程無くして、息を切らしながら戻ってきた華奈は、泣きそうな顔で父の元へ近づくと、手に持ったそれを差し出した。
「すみません、お待たせ、しました」
しかし父は手を伸ばそうとせず、その代わりに冷酷さが宿る目で、華奈を睨みつける。
「遅いんだよ」
その言葉は棘のように、華奈の心に鋭く刺さった。咄嗟に視線を足元へ移し、緊張が走る。また何かされるのでは。という予想が、再び呼吸を妨げた。
「すみません……本当にすみません」
消え入るような声で謝罪を繰り返し、華奈はその場に立ち尽くた。父はそんな彼女から乱暴に引っ手繰ったライターで煙草に火を着け、煙を深く吸い込む。静まり返った部屋に、火が燃え進む僅かな音が立つ。煙が筋になって揺らぎながら立ち上る中、華奈は相変わらず、眉を顰めて、自分が未だ父の役に立てていないことを痛感していた。
こんな、物を一つ取ってくることすら、父の怒りを買わずに済ませられない自分が、とても情けなく感じられる。これでは父の役に立とうと動く傍から、父にとって必要のない存在であることが露呈していくような気がして、焦燥に駆られる。
「泣きそうな顔するな。鬱陶しい。同情を買うことが目的か」
煙草の灰を灰皿に落とし、父は苛立たしげに吐き捨てた。その言葉に父を見た華奈は、しかしまたすぐに床へ向き直る。一瞬だけであっても、華奈は父と視線を合わせることにとてつもない抵抗を感じていた。きっと、今は父に何か言っても無駄だと感じられる。しかし、それでも自分がまた無視されたり、役立たずだと思われて見捨てられることの可能性が、強く華奈の恐怖心を煽る。何とか口を開き、必死で父の目を引こうと努力する。
「あの、お父さん」
「なんだ」
「何か、他にお手伝いできることは……」
口籠るようにそう言いながら、華奈は必死に鼓動を落ち着かせようとする。役に立たないと。役に立たないと。繰り返し、頭の中で自分の声が叫ぶ。
「他に?」
父はしかし、嘲る様に口の端を吊り上げ、鼻で笑った。
「お前なんかに、他に何が出来るんだ? 教えてくれよ」
その冷たい発言には、華奈への期待が微塵も存在していないことを告げていた。
「わたし……は」
必死に続きを紡ごうとするが、しかし何も言葉が出てこない。自分はもしかして、もう父にとって用済みだろうか。役立たずだろうか。一度抱いた疑念は、次の瞬間には惨めさとなって膨れ上がっていた。
もしかして、わたしは何も出来ないのでは。
「何か、何でも……」
華奈はまた、劣等感に苛まれ、涙を溢す。次から次へと、止めどなく溢れる涙を頬から床へ落としながら、必死に父の目を見つめた。
「お父さんの、お役に立ちたいです」
その顔を見た父は、胸の奥でより強く、この娘を自分の物にしたいという支配欲が沸き上がった。
「そうか。お前はそうまでして、俺に必要とされたいのか」
椅子から腰を浮かせた父は、そのまま華奈の前へ立つ。そして、また怯えた様に立ち尽くし、微かに声を漏らしながらしゃくり上げて泣き続ける華奈の頭に手を置いた。
そして顔を耳に近付ける。
「役立たずって思われて、棄てられるのが怖いもんな」
挑発するかのようにそう言って、父は華奈の頭を抑える。まるで上下関係を今再び示すようにそうされて、華奈は首を上げられない。しかし力を込めて抵抗することは、父に対して逆らうことと同義だと考え、無抵抗のまま、父にされるがままになる。
父はそのまま、乱暴に華奈の頭を揺する様に動かす。
「俺に棄てられたら、お前はもう行き場を失うもんな。誰も、お前みたいに何もできない、物覚えすら悪い奴を食わせるなんて、したくないだろうしな」
それとも。父はそう言って続ける。
「誰かお前を必要としてるやつがいる。なんて勘違いしてないか?」
心臓を握られたような寒気が、華奈を襲う。父はそのまま、言葉で華奈を詰る。
「いいか。お前は誰にも必要とされてないんだ。だからこの家で、俺が匿ってやってるんだろ? 今日来てた教師も、本当にお前の事が大切で、お前を救いたいなら、有無を言わさず連れて行けば良かったのに、それをしなかった。どうしてか分かるか?」
華奈に言葉を返す間を与えず、父は責め立てる。
「お前なんかより、自分の人生の方が大事だからだよ。分かるか? お前がどうなろうと、誰も気にも留めないんだ。だからお前は、教師からも、誰からも救われないんだ。俺がこうして家に置いてやってるのも、お前が役に立つと思ってたからだ。だがどうだ? 最近のお前は、俺に迷惑をかけてばっかりで、役に立ったことなんて、一つもないだろ?」
とうとう華奈はしゃくり上げ始め、更に大粒の涙を流す。父の一言が発される度、丁寧に存在価値を否定され続ける。
「こうなったら、俺がお前を家から追い出すのも、時間の問題かもな」
その言葉がとどめになった。父が頭から手を離すと、華奈はすぐ背中まで迫ってきている本能的な恐怖から逃れるかのように、父へ縋りついた。
「お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、役に立ちますから、頑張りますから、捨てないでください! わたし、お父さんに見捨てられたら、どうしたらいいか……」
父の言葉に当てられ、目の前にいる悪魔のような存在が、華奈にとっては唯一の救いに映っていた。父は、彼女の目に、暗く依存の光が宿るのを満足そうに見つめた。
そして小さな体躯が自分を求めて縋りついているのを感じ、支配欲が満たされていく。勝利を確信したかのような満足感が、心を潤わせていた。
「他の奴らは、お前を見捨てるだけだ。じゃあ、誰の事を一番に考えたらいいか、お前の足りない頭でも考えたら分かるよな?」
華奈は喉の渇きに苦しむように、苦痛を剥き出しにした表情で父に訴える。
「お父さんです、お父さんだけ、わたしを助けてくれるから、お父さんのことだけ考えます」
口を開け、苦しそうに喘ぐ。父はそんな華奈を、細めた目でしばらく見つめていたが、やがて口を開く。
「じゃあ、俺の役に立つ機会を与えてやるよ」
そういって、父は離れようとしない華奈の温い体温を感じながら、横目にアックスを見た。
「あいつ、最近毛が絡まっててな。可哀想だろ?」
華奈はそう言われ、父の目線の先を見る。落ち着いた様子で身体を丸め、しかしこちらを伺う様に見つめているアックスは、じっと華奈の目を見据えていた。その目は鋭く、近付くだけで噛みつかれそうな威圧感を感じる。
嫌な予感を感じる華奈に、父は言い放った。
「あいつのブラッシングをしてやれ。分かったな?」
華奈は手渡されたブラシに目をやる。いつも父がアックスにしてあげているのだろう。掃除し切れていない毛が数本、根元の方に絡みついていた。
「アックス、いくぞ」
父が腕を振りかぶると、アックスは顔を床に伏せ、尻を突き出して待ち構える。そして、父が放り投げた餌に向かって飛びついたかと思うと、そのまま空中で口の中へ捉え、大きな音を立てて床に着地する。そして味わうこともせず、殆ど丸呑みしてしまう様を父は優しそうな目で見つめていた。
その面持ちは、普段華奈が向けられている様な鋭い目ではない。まるで、我が子を愛おしそうに見つめる父の顔、そのものだった。
華奈は胸が苦しくなる。自分は母の代用品が如く扱われるのが精一杯。それでも父が可愛がってくれるなら。と自分を納得させて、身体を許したものの、こうして本来なら自分にも向けられている筈の目を、こうも見せつけられる。これまでは、そんな父の穏やかに微笑む姿に、何の感情も抱かなかった華奈だったが、父に対して愛されたいと願い、自分で自分の存在価値が分からなくなってきた今。まるで身を切られたかのように、心が痛んだ。
ただ強く、嫉妬していたのだ。
「アックス、お前は本当に利口だな」
そう言った父は、華奈の方を見ようともしない。それはいつものように、華奈へ劣等感を抱かせるための発言ではなく、純粋に愛犬であるアックスを讃えるようなものだった。しかし、それに目敏く気付いてしまった華奈は、余計に胸が苦しくなる。
これならまだ、比較されて罵られた方が良かったかもしれない。そう思って、ブラシを握りしめた。
「ア——アックス」
もう一粒おやつを貰って、嬉しそうに尻尾を振りながら父の方を見つめるアックスに、華奈はその場から動かず一言声をかける。すると、アックスは態度を瞬く間に変え、華奈の方に顔を向けた。
犬は尻尾の動きが、感情を表しているという。その尻尾は今や、先ほどまでのように嬉しそうな振り方から、右へ左へ振り回すようなものへ変わっていた。手足を伸ばし、唸りはしないまでも、歯を僅かに口の隙間から剥き出して、じっと華奈の動きに目をやる。その様はどれほど華奈を警戒して、そして敵視しているのかを如実に表していた。
「おい」
横から父の声がする。華奈はその方向を向くと、椅子に座った父が煙草の煙を燻らせながら、こちらを不愉快そうに見ていた。
「アックスが怯えてるだろ。お前がそうやって怖がると、こいつにもそれが伝わるんだから、気を付けろ」
自分の大切にしている存在にストレスを与えるな。と言いたげな様子の父に、華奈は小さく謝罪の言葉を口にする。内心では、普段からアックスを自分に嗾けているというのに、怯えない方が不自然だと思ってしまうが、すぐにその反抗的な考えを振り払う。
そうして、未だ収まらぬ恐怖心を抱えながら、華奈はゆっくりとアックスに向かって、一歩を踏み出した。普段、生活していても、華奈の方からこの様にアックスへ近付くことはない。彼自身も利口で、父の命令がなければ華奈へ噛みつくことは決してないように調教されてはいるのだが、華奈にとってはそんな躾など、普段からされていることや、鎖に繋がれていないという事実と比べてみれば、毛程の安心感にも繋がらなかった。
だからこうしてブラッシングをするのは、この家で数少ない、華奈が出来ない仕事のひとつだった。
事実。
「ゥウウ——」
アックスは近づこうとした華奈に、それ以上近づくなと言わんばかりに唸り声を上げ始める。まるで見えない境界線がそこにあるかのように、華奈は慌てて踏み出した一歩を下げる。するとアックスもまた、その唸り声を止めた。
代わりに父が口を開く。その目元は笑みを浮かべていたが、それは先程までとは毛色の違うものだった。まるで、華奈が怯えていることを愉しむように、軽く肩を竦める。
「何をしてるんだ、お前は。さっさとやれ」
そうして、味わう様にゆっくりと煙を吐き出す。塊となったそれは空気と混ざり合い、ゆっくりと消えていく。父は自らの嗜虐心が満たされているのを感じ、口元を微かに歪めた。
彼女は返事をする余裕すらなくなり、歯を固く食いしばる。父がアックスに怯える自分を見て悦んでいることに気付きながら、しかしそれを口に出すことなど、到底出来ない。覚悟を決めた様にひとつ息を吸い込むと、そのまま再び一歩を踏み出した。その振る舞いは、先程までよりも堂々としたものだったが、しかしアックスは華奈の恐怖心に共鳴して、唸っているばかりではない。
父が華奈にそうしているように、アックスもまた、華奈に対して敵対的な感情を持っていた。それは飼い主である、つまり自分よりも上の立場であると認めた父が敵視しているから、という動物ならではの本能に基づくものであった。
背筋を凍らせるような唸り声が、再び口元から発される。今にもこちらへ飛び掛かってきそうなその姿に、彼女は本能的な忌避感を憶えたが、いつまでもこうしていられない。折角、父が与えてくれた仕事なのだ。これを出来なければ、華奈はまた父にひとつ見限られ、役立たずの烙印まで歩を進めることになる。
それだけは避けたい。そう心の中で叫び、半ば投げやりな気持ちで、歩みを進めた。
気が付くと、華奈は背中にびっしょりと汗をかきながら、しかしアックスのすぐ傍まで近づいていた。
唸り声はすでに止んでいたが、その顔は正確に華奈の顔を見つめている。華奈もまた、こちらを睨んでくるアックスを見下ろすようにその場へ立ち、手に握りしめていたブラシを、ゆっくりと突き出す。
これなら、上手く出来るかもしれない。華奈はそこで初めて、アックスに対してどこか、僅かではあるが心が開けたような気持ちになる。これまでずっと近づくことすら許されなかった彼女にとって、伸ばせば手が届く位置にアックスがいる、というのは、なけなしの勇気を齎した。
それが命取りだった。
「ワンッ!」
突然、アックスが鋭く吠えた。
その瞬間、華奈の心臓は自分自身で感じられるほどの強烈な鼓動を打ち始め、一瞬にして全身が硬直する。結果的に、自分に向かって噛みついてきてはいなかったものの、その吠え声だけで、これ以上何もするなという明確な警告が伝わってきた。
父に向けられるものとは違う、より強く命の危険を感じさせる恐怖。華奈はそうして身体が凍り付いたまま、何も出来なくなってしまう。もう一度、ブラシをアックスの方へ向けようと思考するが、それすら気取られてしまうのだろう。アックスはぴくりと、鋭い犬歯を剥き出しにした。このままでは、手を伸ばした瞬間、良くて手や足。最悪の場合、命を狙って喉に噛みつかれてしまうのでは。そんな恐怖で頭が支配される。
父が椅子を引く音がして、彼女は目だけでそちらを見た。父は忙しなくひと吸いしてから煙草を揉み消し、呆れた顔でこちらを見つめていた。
「お前には、これすら無理なんだな」
期待の色が込められていないその言葉は、華奈の胸を深く抉った。
咄嗟に、彼女は父に向かって叫んだ。
「出来ます……出来ますから……!」
父に見捨てられそうになると、華奈は全身が炙られたような焦燥感に駆られる。震える手を何とか持ち上げ、狙いを定めて、アックスの背中にブラシを当てた。しかし、その一瞬でアックスがより威嚇を込めてこちらを睨みつけてきたのを感じ、またしても動きが鈍る。だが、それを押し隠し、無理矢理に手を動かそうとした。
その時、アックスがほんの一瞬。父に向かって助けを求める様に視線を送ったのを、彼女は視界の端に感じた。父はそれに気付くと、華奈に気付かれないよう、僅かに頷いて目配せをする。
許可が下りたのだ。
アックスは迷うことなく、華奈の右手に歯を立てた。
「——っ」
しかし、アックスは狂犬ではない。警察犬として採用される程、頭の良い犬種である。力加減は心得ており、今回は華奈の手に歯こそ立てたが、しかしそれが肉を食い破らない程度の力ではあった。精密な力加減は、アックスにしてみればお手の物である。しかし計算が及ばなかったのは、華奈がその瞬間、力強くアックスの口から手を引くことであった。
犬や猫、爬虫類や魚に至るまで、動物の牙というのは殆ど、引っ張られた時に深く刺さる様な構造をしている。それは今回の様に、逃れようと暴れたものを咬み続けておく必要があったための進化と考えられているが、正に華奈は自ら傷をつけてしまったのだ。
一度皮膚に裂け目を生じさせた歯は、そのままであれば線を引くように裂傷を引き起こしていただろう。アックスは咄嗟に口を開け、華奈の手に意図しない傷が出来るのを防いだが、しかしそれでも。
手を見た華奈は、アックスの歯形が残り、そこから球のように血が滲み出してくるのを見ていた。
息を呑む華奈の横で、父はその様子を冷たく見降ろしていた。そして、彼女の傷などは些細なことであると言わんばかりの無関心な目を向ける。
「自業自得だな」
小指球の辺りから、依然として血が滲んでいた。華奈は近くにあったティッシュ箱を手繰り寄せ、まずは血がアックスに付かない様にする。そして、左手で傷口を押さえながら、再びブラシを握り直した。その間、アックスは不満げな表情を崩さず、華奈の方を静かに睨んでいた。
しかし、ふと父の方を見つめると、彼は口を結んで、腕組みをしている。その静観するような態度に、アックスも落ち着きを取り戻すと、我慢するように顔を床へ伏せた。
華奈は、脈の度に疼く痛みを感じ、顔を顰める。握りしめたブラシに視線を向け、また噛まれるのでは。次はもっと深く噛みつかれるのでは。という不安が募る。しかし、父に見捨てられることも避けたい。小さく息を整える。
「すみません。次は、もう、大丈夫です」
言い聞かすように呟き、恐怖と痛みで震える手を無理矢理に動かして、慎重にアックスの背中を狙った。
固い毛に、ブラシがそっと乗る。アックスは、やはり華奈の恐怖心に共鳴するかのように身体をびくつかせたが、父がまだ耐えろと言わんばかりに黙っているのを見ると、すぐに上げた顔を伏せる。華奈もまた、その様子を見て安堵の溜息を吐くと、震えながら、何とか動作を続けた。
少しずつ、少しずつ。ブラシが毛の流れに沿って動かされる度、換毛期の身体からは大量の抜け毛が絡め取られる。
その大きな背中を整える内、ようやく華奈にも少しの安心が動きとして現れる。
華奈は、やがて手の痛みを忘れる程、それに集中していた。抜け毛と新しい毛が混在して、少し清潔感を失っていたアックスの身体は、ブラシをかけていったところから段々と毛並みが整い始め、徐々に元の凛々しい姿を取り戻していく。
時々、ちらりと父の方へ目を向けると、彼もまた、そんなアックスの姿を喜ばしく見やりながら、パソコンに向かい合っていた。華奈はそれを見て、自分が少なからず、役に立てていると知る。
ブラシに絡みついた毛を取っては丸め、傍に置いておく。ごっそりとした毛が、床の上へ次々と積み重なっていく。
アックスはその間も、華奈の動きに対して警戒心を隠そうとはせず、少しでもブラシが皮膚に当たると、その度に毛を逆立てた。それはアックス自身の怯えから来る反応であったが、彼女もそれに怯みつつ、少しでも安心させようと心の中で呟く。慎重に、毛の流れに逆らわない様に、そして絡んで毛玉になった部分を無理に引っ張らない様に細心の注意を払いながら、ブラシを滑らせる。
これまで、父に見せつけられたアックスの気性を思い出しながら、少しずつ、少しずつ、ブラッシングを進めていく。その内、アックスの背中が落ち着きを取り戻し、心地良さそうに目を細めるのを認めると、ようやく華奈も冷や汗を手で拭い、心を落ち着かせることが出来た。
やがて、長い時間をかけて、背中の毛が綺麗に整えられたのを見て、華奈は胸を撫で下ろした。アックスも不満そうに華奈を見つめていたが、不快感だけを感じていたわけではないらしい。少しだけ気を緩めたのか、それとも役に立つと思われただけなのか。伏せたまま、視線を反らしていた。
その時、父が低く溜息を漏らして、口を開いた。
「まあ……お前にしては良くやったんじゃないか」
何気なくそう言うと、肩こりを解す様に首を回す。
だが華奈は、父の反応とは対照的に、とても喜ばしさを感じていた。普段、華奈が成績で優秀な順位を示そうと、父の好物を作ろうと、一切何の興味も示さない。その彼が、今、華奈の事を明確に褒めた。普段どれほどの仕打ちを受けていようと、こうして一度父に褒められてしまえば、心臓が高鳴るのを感じる。顔が耳まで熱くなり、妙な照れ臭さと、素直な喜びが交じり合う。
「あ、ありがとうございます……」
気恥ずかしさを感じ、華奈はアックスの傍へ屈みこんだまま、顔を伏せる。その様子を見た父は、しかし次の瞬間にはまたいつもの語調へ戻っていた。
「ただ、時間がかかりすぎだな。まだ腹や手はやってないだろ」
その言葉に、華奈はどきりとする。その部位を忘れていたわけではない。全身にブラシを掛けなければならないと、分かってはいた。
しかし、背中と違い、腹や手足を触られて嫌がる犬は多い。アックスもその例に漏れないことは、華奈も知っていた。だから、あえて知らぬふりをしたのだ。
父はアックスに視線を向けた。
「まあ、後は俺がやるから置いておけ」
その言葉に、華奈は胸を撫で下ろした。自分の怠慢だと思われてしまえば、また何をされるか分からなかった。それを父自ら買って出ようとしてくれている。華奈は自分の中で父に対する忠義のようなものが膨らむのを感じた。
元はと言えば、警戒されている彼女に、無理を言う形で当てがった仕事である。それを免除されたくらいで揺らいでしまう程、華奈は父に陶酔していた。
そうせざるを得ない程、華奈はこの家で追い込まれ、蝕まれていた。
「ありがとうございます」
華奈は小さく礼を告げる。しかし父は、そんな様子を見て、言葉を付け足した。
「思い上がるな。お前がこれ以上アックスの嫌がる部分に触れたら、こいつが可哀想だろ」
そうしてアックスを見る視線は、またしても家族に向ける暖かいものだった。華奈は、それが自分には向けられたことがないことを思い、再び心が重く沈んでいく。
「あの、後は何かわたしに……」
そう呟いた華奈の言葉に対し、父は鬱陶しそうに顔を顰める。そして、苛立ちの込められた声で遮った。
「あのな、俺も暇じゃないんだ。お前がどうすればいいか、自分で考えて動け。いちいち人に聞きやがって。お前みたいに時間を持て余してるんじゃないんだ。それくらい分かるだろ」
つい先程までの父はどこへやら、またいつものように腹を立てている、恐ろしい表情となって、そう言った。華奈はそれを受け、踏み込みすぎたと思った。ただその場に立ち、父から発される矢の様に鋭い言葉を受け、黙っている。
「……すみません」
折角お父さんの役に立とうとしたのに。どうしてわたしはまた、怒られてしまっているのだろう。華奈は自分が父に対して、何か役に立ちたい、助けになりたいという気持ちを抱いても、こうして裏目に出てしまう悔しさに、涙を浮かべた。
もっと父に求められたい。もっと愛されたい。そう思って行動しても、結局全部無駄になってしまう。
ブラシを胸の前で抱えるようにして、華奈は小さく鼻を啜ると、袖で涙を拭った。そうして喉をしゃくり上げながら、部屋を後に——。
「そうだ」
父は華奈を呼び留める。背中越しにでも分かるほど、傷心している華奈に対し、しかし父は毛程も興味を示さない。まるで、華奈が喜んでいようと傷ついていようと、お構いなしだと言った様子である。
「一つだけあった。お前、煙草買ってこい」
それ故、華奈では当然それを遂行できないことなども、父は意に介さない様子だった。
靴を履いて玄関から外へ出る。軽く雨でも降ったのだろうか。濡れた芝生と石畳を見ながら、どうして今日は特に冷え込んでいるのか、すぐに合点がいく。
10月の初めだというのに、今年は嫌に気温が低い。とても今の華奈がしている様な服装——冬服のブレザーとスカート、黒のストッキングだけでは、乗り切れない寒さであった。
しかし、華奈に防寒着は無い。私服すら数える位しかなく、普段はいっその事と、制服やジャージで過ごしている位である。当然、上から羽織るコートなどなく、そのまま諦めて一歩を踏み出した。
氷でも触っているかのように冷たくなった門扉をゆっくりと閉め、手に着いた水滴を地面へ払う。それだけでまた一段と指先が凍え、じんじんとした痛みを感じた。夜の通りはとても冷え、時々ヘッドライトを明るく灯した車が、静かな通りを走っていく。それを追う様に周りを見渡せば、家々の明かりも殆どが消え、町はもうすっかり夜の静寂に包まれていた。
ふと、思い出したように心へ不安が募る。こんな寒い中、人通りも少なくなった夜道を一人で、中学生の少女が制服を着て歩く。それがどれほど危険で、心細いか。足取りが無意識の内に速くなった。ブレザーとシャツの隙間を縫うようにして夜風が入り込み、後ろで二つにくくった髪の毛を、ふわりと持ち上げる。肩を抱いて、恐怖心で押しつぶされそうな身体を抱き寄せる。
早く買って帰らないと。
焦燥感に駆られ、コンビニへと急ぐ。途中、街灯の傍でバスでも待っているのだろうか。背の高い男性とすれ違う時、得体の知れない恐怖を感じて、距離を取るようにして過ぎ去る。その男性も、こんな時間に制服を着た少女が一人で歩いている事への異様さに、腕時計で時刻を確かめる。足早に自分の方を歩き去る彼女は、どう見てもこの夜更けに不釣り合いだった。
華奈は、身体が小刻みに震えだす。身体の表面ではなく、芯から冷えているように、逃れられない寒さに身が凍えている。思わず一度、家に戻って防寒着を借りることを考えたが、その行為自体が父の怒りを買うだろうし、それに時間も無駄になる。父に頼られたい、役に立ちたいという思いが強く、父の期待をこれ以上裏切るのは避けたかった。
ふと前を見つめ、信号を超えて右に曲がった先に見える、コンビニの明かり。それを想像し、震える息を何とか吐く。濡れて冷えたアスファルトから冷気が広がり、それがスカートの中にまで入り込む。ぽつぽつと灯る街灯の下を通り過ぎる度、もしも今、自分の事を攫おうとする人がいたら。すぐ後ろまで、危害を加えようと誰かが近づいていたら。そんな妄想が勝手に広がり、背筋がぞくりとする。
どこまでも冷え込む夜道。また一台の車が華奈の傍を、後ろから追い越すようにして走り去る。濡れたアスファルトをタイヤが転がる音は、ゆっくりと遠くなっていった。
そのまま無我夢中で、永遠に思われる道を歩いていた華奈は、気が付けば蛍光灯の明かりが自分を照らしていることに気付いた。目的地のコンビニの傍を通り過ぎようとしていた事に気付き、慌てて引き返して敷地へ入る。
色々と嫌な妄想が頭の中を巡り、それに背筋を震わせていた間に、どうやら意外とあっさり、到着していたらしい。
人気の少ない店内をガラス越しに見つめ、自動ドアの前に立つ。それは軽いモーター音を立てて開き、店内放送で賑やかな空間へ、華奈を誘い込む。暖かい空気に身体が包まれるが、それすらも居心地が悪い。寄り道せず、一直線にレジの前へ向かうと、棚の煙草に目を走らせる。図書室の本棚よろしく、色とりどりな箱が並ぶ棚の中に、父のいつも吸っている煙草が目に入る。店内に客は少ない。店員と目が合うと、胸が緊張で苦しくなる。
「すみません」
意を決してレジの前に立つ。カウンターは華奈にとっては少し高く、店員はその向こう側から、何か困っている中学生かと、心配そうに華奈を見つめる。しかし、次の言葉を聞いて、心配が一気に警戒へと変わった。
「72番、ひとつ下さい」
あまり初対面の人間と話すことに慣れていない彼女は、絞り出すように声を出した。一方、店員は眉間に皺を寄せ、一瞬、厳しい表情になった。年は20代。大学生くらいの彼は、すぐにもう一度、彼女の姿を見つめ直す。
夜のコンビニで、どうみても制服姿の中学生が煙草を買おうとする姿は、何度見ても変わらない。年齢確認でもしてみようか。と思うが、すぐに、そんなことをする必要すらないと思い直す。それ程、誰がどう見ても未成年に見える。こんな時間に外を出歩いている事自体、そもそも問題だ。
華奈は怪訝そうにこちらを見つめる店員の視線を感じ、やはりそうか。と冷静に納得しつつも、売ってもらえないと分かっていながら頼む事しか出来ない自分に歯痒さを感じる。
それはやがて、羞恥心へと変わった。緊張で耳まで赤くなるのを感じ、冷えた身体が今度は熱を持つ。緊張で汗が背中へ滲む。
やがて、店員は少しの間を置いて、華奈との視線を合わすようにして膝を曲げた。
「ごめんね。君、中学生でしょ? 煙草は売っちゃいけないって言われてるんだ」
平静を装い、華奈は店員と一瞬、目を合わせる。しかしすぐに気不味さから視線を外し、小さく頷いた。どうして自分はこんな無謀としか思えない事をしているのだろうか。きっと変わった客だと思われているだろう。そう考えると、もう恥ずかしさで一刻も早くここから逃げ出したくなる。そして同時に、父の顔がちらつく。またあの期待を裏切ってしまった時の、落胆した目で見られ、罵られることを考えると、気持ちがどんどん淀んでいく。もしかしたら、また殴られるかもしれない。結局、父がどれだけ華奈に対して一時の愛情を注ごうと、それが気の迷いのようなものだと、どこかで理解していた。
一瞬、父の事を伝え、同情でも買おうか。と思考が巡ったが、それもすぐに諦める。もしそんなことをして、警察に通報でもされてしまえば、華奈は一時的にはこんな目に遭わなくて良くなるかもしれない。しかし、華奈は父と一緒に居たいとすら思い始めていた。見捨てられない様に気を付けて、庇護下に置いてもらわなければ。そんな損得勘定が、またしても助けを求めようとする華奈の思考を中断させた。
どうしようか。いよいよ途方に暮れた時、ふと店内の明かりが遮られる気配がした。カウンターに影が差し込み、反射的に顔を上げる。振り返った先に居たのは——轟だった。
彼女は不意に現れ、華奈の様子を後ろから覗き込むようにして、黙って見つめている。店員を含めた三人の間に、長い沈黙が訪れた後、轟は無表情で店員に顔を向けた。
「あの、わたしが保護者です。煙草、いくらですか」
店員は轟と華奈の顔を交互に見つめる。無表情にこちらを見つめる、自分より少し年上くらいの女性。そして、制服の中学生。一体どういう保護者なのか、計り知れなかったが、しかし成人が煙草を買おうとしているのを止める程の正義感は、彼にはなかった。
面倒事を避ける為、彼は後ろを向いて棚に手を伸ばす。それと同時に、華奈は改めて後ろに立つ轟を見る。
「あの、轟先——」
「華奈。後でね」
先生。と続けようとしたところで、華奈は轟に言葉を遮られる。そのまま前に歩み出た轟は、店員に千円札を差し出した。
「これで、お願いします」
女性でありながら、自分より身長の大きい彼女に威圧感を憶えながら、店員はそれを受け取る。レジのボタンを数回押し、釣銭を渡した。
「ありがとうございます」
店員がそう言って煙草を差し出す。轟はそれを受け取ると、ぎこちなく会釈をした。出口に向かって進む。華奈もまた、その後を追った。
外に出ると、寒さが一層華奈の身に沁みた。肩を竦めながら、轟に従って歩く。しかし、胸中穏やかではなかった。どうして轟は自分を助けるような事をしたのだろう。その理由が気になる気持ちと、轟の真意を測りかねる気持ち。そして、父が言っていた、自分には存在しない記憶についても思い出していた。
「寒い、ね」
轟がぽつりと、振り向きながら呟いた。その表情は、何か言いたそうにしていた。しかし彼女は口を閉ざした。ポケットの中に手を入れると、近くの車が電子音を立て、ロックが解除される。
「取り敢えず、乗ったら?」
華奈はそんな轟を見つめ、首を横に振った。
「いえ、早く帰らないといけないので。すみません」
それよりも、流れで轟が購入した煙草こそ、彼女が求めているものだった。それをどのようにして伝えようか思案していると、轟は困ったように顔を僅かに顰めた。
「深夜徘徊している生徒を、このまま見過ごす訳にもいかないから。乗って。……くれると、助かるかな」
慣れないながらも、精一杯柔らかな口調でそう伝え、轟は歩き出した。その内心では、華奈がこの程度の説得に応じる程、単純で利口な性格ではないと、夕方の訪問で理解してはいた。その為、轟もどうするべきか、とても悩んでいた。しかし後ろから自分を追いかける足音を聞き、少し安心する。
「どうぞ」
助手席の扉を開け、華奈を中に招待する。そして乗り込んだのを確認して扉を閉め、自らも運転席へ座る。
沈黙が車内を埋める中、轟はすぐにボタンを押してエンジンをかける。車内に始動音が小さく響き、メーターやコンソールが光り出す。ファンから吹き抜ける暖かい空気が華奈の全身に当たり、悴んだ手をゆっくりと温めていく。
「とりあえず、これ」
轟はそう言って、隣に座る華奈へ煙草を差し出す。華奈は驚き、そして安心した。これで、目的の物は手に入った。
それを受け取り、華奈も財布から慌ててお金を取り出して轟に返す。轟は一瞬、それを遠慮しようとしたが、華奈が必死に渡してくる様を見て、渋々受け取った。金額が合わなければ、それこそ父に華奈が疑われかねない。
「まさか、華奈が吸う訳じゃないよね」
轟は軽い口調で言い、少し微笑んだ。
「お父さんのお使い?」
華奈は軽口に少しリラックスしたように笑みを浮かべた。首を縦に振る。
轟は、その様子を見て少し考え込む。まず、この寒空の中、制服姿で彼女がコンビニへ、あまつさえこんな時間に行く事への異常さ。それを注意しない父の考え。それらを考えたが、まずは目の前の問題から片付けていく事にした。
夕方の訪問時、華奈が投げかけた言葉が思い出される。彼女は悲しそうな目をして、轟と鯖江に、迷惑だから帰ってくれと、そう言っていた。しかしあれが彼女の本心だとは、到底思えない。顔の傷も、今は華奈の頬から消えているが、しかし学校に大層なガーゼを付けて登校するというのは、無意識の内に助けを求めているのではないか。轟はそう考えて、口を開く。
「その……。夕方の事なんだけど。ごめんね。急に家まで押しかけて」
轟はそう言って、目を伏せる。轟自身も気付いていないが、華奈に冷たく接されたことが、多少なりとも心の傷として残っているらしかった。それを謝罪した時、ちくりと刺すような痛みを感じた。
しかし華奈は、その言葉を受け、何かを考える様に視線をフロントガラスへ走らせる。恐らく、これもお父さんが言っていた、先生たちが家に来た時の話だ。華奈はそう思い、内心で焦燥感を憶える。慌てて脳内の記憶を辿ろうとするが、何も全く覚えていない。それらしき記憶すら、何もない。ただ寝て起きたら父が怒っていて——。
「いえ、大丈夫です」
華奈は逡巡した後、話を合わせるようにした。元より、あまり口数が多い方ではない。
轟は肩を落としたまま、続ける。
「やっぱり、迷惑だった、かな。でも、どうしても放っておけない、と思って。華奈、何だか、助けて欲しそうだったから」
轟は目線を落としたまま、続ける。
「顔のガーゼも、足の傷跡も……助けて欲しそうに見えた、から」
その言葉に、華奈は動揺を何とか隠す。顔の方は、傷が見えるよりは、という苦肉の策だった。しかし、足の傷。まさかそれも見透かされていたとは、思いもしなかった。まさかそこまで肉薄されていたとは。
華奈は、そのまま全てを暴いて、助けて欲しいという気持ちと、何事も無いように振舞って、この先も父との暮らしを続けて居たい気持ちが交錯する。
「だから、この先も、助けて欲しいって思ったら、遠慮なく言って欲しい」
そう告げた轟は、顔を上げて華奈を見る。その目は悲壮感を湛えており、何も言えなくなる。
「わたしと、鯖江先生は、華奈の味方だから」
華奈はその言葉を受け、膝に目を落とす。手には汗が握られており、今ここで全てを離せば、この地獄から解放される。そう思って、思わず全てを轟に打ち明けそうになる。しかし後一歩の所で、喉に何かがつかえる。
結局、華奈は黙って首を縦に振り、轟もその様子を見て、ハンドルに手を掛けた。彼女の心に広がる葛藤を感じながら、轟もどうするべきか、同じように悩んでいた。このまま強引に彼女を助けることは、容易い。しかし、それでは華奈自身が望む様な助かり方とは、恐らくかけ離れた道を辿る事となる。華奈の胸中は分からないが、闇雲に救ってしまうことが、却って彼女を苦しめる結果になるなら。
「華奈、家まで送るよ」
轟は悩んだ末、車を動かす準備を始めた。
「え、でも」
華奈は驚きの表情を浮かべる。しかし轟の真剣な眼差しに気圧されて、何も言えなくなる。彼女の心の中には、まだ葛藤が重く圧し掛かっていたが、轟の優し気な声音がそれを少しだけ和らげる。
ブレーキが離されると、車は滑り出す様にゆっくりと走り出す。歩いてきた街の景色が流れ、彼女は色々と考えながら、ハンドルを握る。そしてちらりと、華奈の方へ目を向けた。
「大丈夫。ちゃんと家まで送るから」
轟は静かにそう告げる。華奈は微かに頷き、車窓の外を見つめた。
行きはあれ程苦労したが、帰りはあっという間だった。轟は車を家の前へ着け、ハザードランプを付ける。華奈はドアを開け、降りようとする。
「ありがとうございます。轟先生」
華奈は感謝の気持ちを込めて言った。轟はその表情に隠れる、華奈の真意を探ろうとしたが、相変わらず読み取れない。
そうしてこちらへ背を向け、門扉に歩いていく華奈を見ていた轟は、思わず反射的に華奈を呼び留めてしまった。
「待って」
その声は静かな通りへ、嫌に響いた。華奈は驚いて振り返る。その顔を見た轟は、しかし何を言うべきか悩んだ末、本当に言おうとしていた言葉を飲み込んでしまう。
「……また月曜日。図書室で、待ってるから」
華奈は一瞬驚いたが、轟の言葉を受け、胸が暖かくなるのを感じた。月曜日、図書室で、自分の事を待ってくれている人がいる。そう思うと、胸のつかえが一つ、取れたような気持ちになる。
「はい、わかりました」
華奈は無邪気に笑うと、轟も一先ずの安心を得た様に息を吐く。そして、再び門扉を通り、家の中へ消えていく華奈を、見えなくなるまでそこで見つめていた。
華奈がやがて、玄関を開けて中に入ると、轟はハンドルを強く握った。その心の中には、あのまま帰らせて良かったのかという気持ちが強く犇めいていたが、やはり力任せに彼女を救い出して良いものか。という悩みもすぐに顔を出した。
どうにかしたい。
彼女は一人になった車の中で、呟く。彼女がさっきのように、年相応の無邪気さを持って過ごせるために、どんな手段でも使いたいと願った。その為なら、手を汚すことさえ、いざとなれば自分は躊躇わないだろう。そう思い、彼女の父親に対して、胸の中で小さな炎が灯るのを感じる。
日曜日。
華奈は一週間の中で、この日が一番嫌いだった。父は隔週で、土曜日も出勤する。その分帰りはいつもより早いのだが、それでも華奈は家で一人の時間を持てる。それが日曜日となると、一日中父の顔色を窺わなければならない。華奈にはそれが耐え難かった。
しかし、同時にこれはチャンスだとも考えている。父に評価してもらう、絶好のチャンスだと。華奈は内心、父にどれくらい見限られているのか、想像は付かないまでも、きっとあまり信頼されていない、役にも立てていないと考えていた。それをひっくり返すための機会だと、今朝から張り切っていた。
リビングに降り、手際よく食パンをトースターに入れる。それが動いている間に皿を出し、続いて冷蔵庫からベーコンと卵、ソーセージを用意する。それらをフライパンで調理して、飲み物をコップに注いだ。
時刻は朝の9時。あっという間に朝食が出来上がり、いつもなら父はもう少し早起きをするが、仕事が休みの日は、その起床が2時間程遅れる。華奈は腕まくりをしていたシャツを下ろしながら、階段を駆け上がる。その顔はやる気と、父に対して褒められたいという気持ちで満ちていた。
「失礼します」
ノックをして、扉を開ける。父は丁度、少し前に目を醒まして、眠そうにカーテンを開けているところだった。
「お父さん、おはようございます」
普段ならそんな風に、華奈が自分から朝の挨拶に来ることなどない——父もそこまで望んでいない——に、父は寝ぼけ眼を少し開いて、彼女の方を見つめる。しかし鬱陶しそうに眉間へ皺を寄せると、顔を反らした。
彼女は心が折れそうになったが、粘り強く続ける。
「あ、あの、朝ごはん出来てます。良かったら……」
眠たそうにあくびを漏らした父は、腕をゆっくりと上にあげて伸ばし終えると、口を開いた。
「珍しいな。わざわざ自分からそんなことを言いに来たのか」
父にしてみれば、それは何気ない一言だった。どちらかと言えば、皮肉というよりも、素直に関心していた。しかし華奈は、そんなつまらないことを言いに来たのか。と言われたと捉えてしまう。明るかった顔が僅かに曇る。
「すみません」
勢いを殺され、少し項垂れる華奈を感じた父は、振り返ると机に置いてある煙草を手に取り、歩き出す。進路上に立っていた華奈は咄嗟に横へ避け、道を譲る。父はそんな華奈を一瞥し、少しだけ柔らかい表情を浮かべた。
「良い心がけだな」
そうぽつりと言って、部屋を後にする。華奈は一瞬、父が言っていた言葉の意味を理解出来ずにいたが、それが自分の行いを称賛するものであったと理解した瞬間、暗くなっていた表情が、一瞬で明るくなった。華奈の顔に笑みが広がる。父からこうやって褒められることはこれまで殆ど無かったし、自分が父の役に立てたと実感するのも久しかった。
上から目線だとか、もっと別の言葉があるのではとか、そんな事は華奈にとっては些細な問題であった。
駆け足で父の後を追い、大きな背中が階段を降りていくのを見つめる。胸の中では、この調子で父に好まれることをしよう。もっと役に立って褒めて貰おう。そんな考えを抱く。
ソファに腰を下ろし、灰皿を引き寄せて煙草を吸い始めた父を見ながら、華奈は台所でまとめて置いていた朝食を持ち、ゆっくりと父の方へ歩み寄る。それを目の前に並べると、父は無言でそれらを見つめ、少しだけ眉を顰めた。華奈は緊張しながら、どうか父の口に合う様に。と、いつも通りに作った朝食に対して、一抹の不安を憶える。
父はやがて、パンを手に取ると2つに裂き、ナイフとフォークを持つと、ベーコンを上に乗せてから齧り付いた。
こんがりと焼かれて、上にバターを塗られたパンが、小気味のいい音を立てて父の口の中へ入っていく。強火で火を通した、父の好みに焼かれているベーコンも塩気が利いていて、寝起きの身体に力が漲るようだった。
上品な動作で、それらを行った後、父は目玉焼きに目をやる。もう片方のパンにそれを乗せ、こちらも齧り付く。丁寧に両面を焼かれたそれも、父の好みの通りに火が入れられている。
ちらりと父は華奈を見上げる。その瞬間、隣で立っていた華奈は、心臓が高鳴るのを感じる。父のその視線が、まるで自分を評価するようなものに感じられて、生唾を飲み込んだ。
「……まあ。悪くないな」
その言葉に、華奈は思わず父の視線も忘れ、安堵の溜息を漏らす。自分がまた少し父に認められたと感じると、それまで張り詰めていた緊張の糸が一瞬にして緩み、肩から力が抜けていく。
父にとってはほんの些細な一言。それが彼女にとっては心の支えになっていた。
父もまた、そんな華奈を横目で見やり、小さく口の端を持ち上げる。従順な姿勢で、自分の所作ひとつひとつに一喜一憂している華奈の態度が、どこか心地良いものに感じられた。自分の一言で華奈が思う通りに動き、決して逆らおうとしないその態度に、満足感すら覚える。しかし父はそれを決して表には出さない。再び静かに食事へ戻った。
やがて、食べ終わった父は煙草に火を付け、休日の朝を満喫していた。ここ数日、華奈を殺めてしまったり、家に教師が来たりと、父にとっては決して気の休まるものでは無かった為、今日こそは家でゆっくり過ごそうと、そう決めていた。
台所で洗い物をする華奈もまた、数日間、父に怒鳴られない日は無かった——無論、これまでも怒鳴られて、あるいは殴られている日の方が多かったが、今日こそは。と思っていた。何せ、学校が休みである、という事は、その分だけ二人きりで過ごす時間がいつもより多くなるのだ。その分だけ、華奈の何かが気に障ることもあるだろう。それを少しでも減らして、この後も父に褒めてもらいたい。そう思いながら皿を洗っていた。
その時、上階からカチカチと爪を鳴らす音が聞こえ、華奈は小さく恐怖を感じながら、音の主へ目をやった。それはアックスが階段を降りてくる際に爪が床を叩く音であり、急いで水を止める。アックスから目を離さない様にしながら、手元にあるタオルを手繰り寄せる。
「あ、アックス」
か細い声が名前を呼ぶ。アックスはその声に振り返ると、ゆっくり尻尾を振り、耳を立てて、キッチンの方へ歩いていく。
華奈は急いでその場へしゃがみ込むと、ドッグフードの用意に取り掛かった。
カラカラと、プラスチックにそれが注がれる音を聞きつけ、アックスは急いで華奈の元へ走り寄る。彼にしてみれば、単に食事へ早くあり付きたいという一心。しかし華奈は、勢いよく近づいてきたアックスを見て、小さく悲鳴を上げる。肩が強張り、心の中では繰り返し、噛まないで、噛まないでと唱え始める。
震える手で、何とか分量を量り終え、戸棚を閉めるのも後にして、すぐさま足元へ皿を置く。そしてその場から飛ぶようにして後ろへ下がる。アックスは、そんな華奈の様子には最早目もくれず、まるで飢えた獣かのように皿へ顔を突っ込んだ。
強靭な顎は、ひと噛みで歯に当たったフードを嚙み砕く。そして飲める大きさにした傍から、喉へ流し込む。剥き出しになった白い歯が唇から覗き、皿の中はあっという間に減っていく。その様子を、華奈は洗い物を中断して、ただ冷蔵庫の辺りまで下がって見ているしかなかった。
ふと、父がキッチンの方へ顔を向ける。そして、いつもはリビングの方で食事を取っているアックスが、何故か随分と窮屈そうな場所で食べていることに疑問を抱いた。
その実、華奈が昨日ブラッシングをしたお陰で、アックスも少し気を許し、食事を用意している華奈の方へ近づく、という関係性の進歩があった為、華奈が急いでキッチンの狭い場所で食べさせていたのだが、父はそれに気付かない。ただ、アックスが狭苦しい場所で食べさせられていると思ったのだろう。怪訝そうに眉を顰め、煙草の灰を灰皿へ落とした。
「おい、華奈」
低く、良く通る声がリビングから聞こえ、華奈は慌ててダイニングキッチンの、カウンターから父を見る。
「はい」
「お前、なんでそんなところで食べさせてんだ?」
怒っているというより、疑問に思ってそう質問を投げる。しかしそんな父の思いとは裏腹に、華奈は怒られると直感的に判断した。
「ごめんなさい……」
そう呟いて、顔を曇らせる。その態度に父は、気持ちが穏やかだから、というのもあるが、訂正の言葉を返す。
「違う。別に怒ってない。ただ、どうしてそんな狭い所で食べさせてるのか聞いてるんだ。お前だって、アックスが怖いんじゃないのか」
質問に答えない華奈が少しだけ父の怒りを買ったが、それはすぐに治まりを見せる。
「その……はい。怖いです。ごめんなさい」
華奈はどう応えるべきか悩んだ末、正直に自分がアックスに対して思っている気持ちを伝えた。父の可愛がっている彼を、怖いと表現する事は、失礼に当たらないか、と思わないでもなかったが、嘘を吐いてもどうせ露呈する。そんなことを考えていたからだろうか。またしても、どうしてという問いには答えを返せなかった。
父はそんな、会話が途切れ途切れにしか行えない華奈に対して何か言ってやろうか、と心の中の苛立ちが刺激されたが、すぐにそれをしまい込む。呆れた様子で静かに溜息を吐く。
「……まあいい。おい、アックス」
父が声を張って呼んだ頃、彼は丁度フードを食べ終え、空になった皿を舐めているところだった。その声に反応して耳が父の方を向き、次いで顔が父の方を向く。尻尾を激しく振り回しながらその場で身体を捻ると、小走りで父の方へと走り去った。
そこでようやく、金縛りが解けた様に動けるようになった華奈は、安心感で肩を落としながら流しの前へ戻った。床に置いてある皿を手に取り、涎でぬるぬるとしているそれを、流しの中へ入れる。
ちらりと父の方を見ると、大きなアックスがソファの足元に丸まって座り、それ以上に身体の大きな父が、ソファへ腰を深く沈め、煙草を吹かしていた。
その姿をふと見つめている内、華奈は考えてしまう。アックスは父に気に入られている。それは当然、彼が犬だから、愛玩動物だから、というのが大きいだろうが、しかし父の性格を鑑みるに、従順だから好いているのでは、と。
事実、アックスは常に父の声に反応して嬉しそうに駆け寄ったり、邪魔にならないように立ち振る舞ったり。犬としては当然と思われるその動きに、自分が気に入られるヒントが隠れているのでは。そう思いながら、父の足元で寝息を立てるアックスを見る。
わたしも、あんな風に気に入られたい。
「おい、華奈」
ふと、思慮に耽っていた華奈は、父の声で現実に引き戻される。
慌てて顔を上げると、眉間に皺を寄せ、ソファにふんぞり返りながらこちらを見つめている父と目が合う。
「水」
機嫌の悪そうな表情で、父は冷たく吐き捨てる。華奈は一瞬、父が飲み水でも欲しているのかと思ったが、違った。
洗い物を始めようと出した水が、華奈が手を止めている間も絶え間なく流れ続けているのに気づいて、彼女は慌てて蛇口に手を掛ける。
「ったく、水道代も払えない癖に」
小さく呟いた父の言葉は、華奈にアックスと自身を比較させ、彼よりも明らかに劣っていると決定づけさせるのには十分過ぎるものだった。
「ごめんなさい」
華奈は何も言い返せず、ただ静かに自分の行いを反省した。確かに、水道を出しっぱなしにするのは、良くないことだ。それは華奈も理解出来る。ただ、あのような言い方をされると、仕方ないと理解してはいても、胸が締め付けられる思いにはなった。
そして、一度反射的に止めた水道も、やはり洗い物をするためには出さなければいけない。彼女はまた何か言われるのではと怯えながら、父の顔色を窺うようにして、再び水を流し始めた。
ゆっくりと流れ始めた水で、泡の付いた皿を流しながら、華奈は考える。やはり、自分はアックスと比べて、父の役に立てない存在なのだと。彼は自分の様に家事も炊事もせず、ただ父の傍に立って、尻尾を振っているだけだ。しかしそれでも父に好かれている。片や自分は、精一杯父の為になればと思って動いても、それが少しでも失敗すれば、父に怒られてしまう。
やがて華奈は、アックスに足りていて、自分に足りていない物について、深く考え込む。
その結果、華奈はこれまでにない感情に突き動かされるようにして、父に向かって媚びるような動作を試みる事にした。ほんの些細なこと——例えば、父にすり寄って会話してみたり、目線を合わせるようにしたり。まるで自分がアックスと同じように振舞えば、父に愛されると思ったかのような——それは正しく、アックスの対抗心にも似た、幼い感情の表れだった。
それを実践するべく、洗い物を終えた華奈は、服の皺を伸ばしながら、ゆっくりと父へ近づく。しかし足元ではアックスが落ち着いた様子で丸まっていた為、テレビと父の間を横切って、父の右手側から回り込む。
父は、近付いてきた華奈を目で追いながら、しかし何かを言うでもない。ただ、黙ってスマートフォンに表示された新聞を読む動作に戻る。華奈はその様子を見ながら、そのまま近づいて、その足元にそっと座り込んだ。
「あの、お父さん」
視界の端で、正座をして座る華奈が見え、父は少し驚いた様子で彼女を見る。華奈は、しかし構わず父を上目遣いで見つめる。
「今、お邪魔してもいいですか……」
内心、これまで父に対して自分から近づくという経験が浅い彼女は、とてつもない恐怖を感じていた。足元に座って見上げた父は予想以上に大きく映り、その威圧感とこれまでの仕打ちから、息も詰まる思いだった。しかしなんとか言葉を振り絞った甲斐はあったと、すぐに思う事となる。
「なんだ」
ぶっきらぼうに応えた父は、しかし自身を相手にする時にしては珍しく、手に持っていたスマートフォンを机の上へそっと置く。姿勢こそそのままだが、華奈を見つめた。その見下すような視線に背筋を冷たいものが通り抜けていくのを感じながら、華奈は必死で父の目を見つめ返す。
これを千載一遇の機会だと思い、華奈は言うべきか悩んでいたことについて、伝えてみることにした。
「えっと、最近、寒いですね」
言われて、父は外を見る。庭に植えてある錦木は、すでに緑の葉に赤いものがちらちらと見え始めており、実際に仕事へ向かう際も、厚手の上着を着ていかなければ肌寒い日が増えてきたことを思い返す。
だが、華奈がいきなり、そんな社会人の会話に困った時のような話を振ってくるのが不自然だと思わない訳がない。何を言おうとしているのか、父は探るようにその目を見つめる。
「あの。もし、捨てる予定のコートとかが、あればでいいんですけど」
華奈は心の内まで全て父に見透かされるような気持ちを抱きながら、震え始める声を押さえて言う。
「貰えないかなって、思いまして」
父はそんな華奈の言葉に、薄く唇を歪めた。
「なんだ。何を言い出すかと思えば、そんな事か」
父は、まるで嗜虐心を満たすかのように、華奈へ顔を近付けた。彼女はそれだけで身が凍り付くように動けなくなる。
父はそのまま、氷のように冷えた言葉を投げる。
「お前も随分と、わがままを言うようになったな。対して俺の役に立ってもないのに」
父の言葉に、自分が今朝から父の機嫌を取る事が出来ていると思い込んでいただけで、父にしてみればまだまだその閾値を超えられていないのだと悟った。全てを父に認められた、とは思っていなかったまでも、多少は父の評価を得られたと思っていただけに、この返答は心を強く傷つけた。
「何もしていないのに、欲しい物だけねだりやがって」
てっきり、華奈は父の所有物、それも捨てるものを欲しいと言えば、それが父にとって忠誠心の表れになるのでは、それを感じ取ってくれるのではと期待していたが、却って裏目に出たと知る。勿論、防寒目的もあるが、それ以上に、わたしはあなたに取って不要になった物でも欲しいです。という気持ちは、伝わらなかったらしい。
華奈はすっかり言葉を失って、ただ怯えた目で機嫌を損ねたらしい父の目を見つめるしかなかった。目線を外そうと思っても、身体は恐怖で硬直し、視線を外せばまた何を言われるか分かったものではない以上、安易に余所見も出来なかった。
「お父さん、わたしは……」
何とか絞り出した言葉すら、尻すぼみになる。言わない方がいいだろうか。という気持ちが、ブレーキを掛けた。
だが父はそんな、漏れかかった華奈の本音を見逃さない。
「なんだ、言ってみろ」
意地の悪い笑みを浮かべ、父は華奈に詰め寄る。彼女の感情とは裏腹に、言葉は勝手に口をついて出てしまう。父に命令されると、それだけで自分の意思より、それを優先してしまう悪癖が、彼女には染みついていた。
「あの、ただ、寒い思いをしたくなくて」
言葉は震えながらも、華奈はせめて真摯に父へ気持ちを伝えようとした。言ってしまった以上、もう後戻りはできない。これから後少しでも父の機嫌を損ねれば、どうなるかは目に見えている。まるで王手のかかった駒を動かすが如く、心の中は警鐘が響いていた。
「寒い日も増えてきたし……去年も、そんなに暖かく過ごせなかったから……」
言い終わると、余所を向いていた父の目線が再び華奈に向けられる。華奈は父の表情に何かしらの変化があることを期待したが、その目は依然として冷たい。
父は嘲るように鼻で笑った。
「それはお前の自業自得だろうが。快適に過ごしたいなら、やることをやれ。いつも言ってるだろ」
確かに華奈はいつも父に言われていた。風呂の湯を使うなと言われた時も、食事を減らされた時も、私服を全て捨てられた時も。何かしら華奈が失敗をしたり、父の期待に沿えなかった罰として、父は華奈にそれをした。そして冷たく言い放ってきた。
やることをやってから言え。
「それに、あんな草臥れたコートじゃ、お前が暖かくなるとも思えないがな」
そう付け加えた父の言葉に、一瞬、華奈は心の中で小さな希望を見出した。父の発言ひとつひとつに、自分の気持ちが良くも悪くも揺さぶられるのは良い気持ちがしないけれど、その僅かな希望にすら、縋りたい気分だった。父が頭の中で、捨てる予定のものを探してくれたと感じた。
その希望すら打ち砕くように父が立ち上がるまで、華奈はとても喜びを感じていたのだ。
「お、お父さんっ」
無言で上体を起こし、どこかへ立ち去ろうとする父に反応して、華奈は引き留める様に腕を伸ばす。しかしそれは空ばかり掴み、父は振り返りもしない。そのまま華奈の傍を通り抜けると、階段の方へ向かって歩いていく。
その背中を見つめながら、華奈は今にも泣き出してしまいそうだった。結局、自分が良かれと思って父にした行動は、殆どこの様に父の機嫌を損ねるきっかけとなる。きっと、父にこんなことを言っていなければ、ただ黙って機嫌を取り続けていれば貰えたかもしれない上着も、自分がすることをせずに父へねだったから。
自分自身を責める様に、華奈は手首を力強く握りしめ、必死に涙を堪えた。父の姿は、もう階段の奥へ進んでしまい、視界から消え去ろうとしていた。
やがて、アックスも後を追って行ってしまった後、華奈は一人で父が座っていた痕の残るソファの傍で、絶望を噛み締めていた。先ほどまでは行かないで欲しいと願っていた気持ちも、一度父が2階へ、恐らく自室へ行ってしまった後では、むしろ降りて来ないで欲しい。もう一度、自分に何か嫌なことをする為に戻ってこないで欲しい。そう必死に祈ってしまっていた。
今朝から積み立てていた期待も水泡に帰し、何もかも失った自分に、これ以上の仕打ちを何もしないで欲しい。そう願い、ただ涙が滲むのを必死で呼吸を整え、我慢しようとしている。
しかし、物事はまるで自分の願わない方へばかり転がるのだと、階段から聞こえてくる足音を聞いて、華奈はますます絶望を顔に浮かべた。
次に、わがままを言った自分を憎んだ。心の中で、何度も自分の軽率な行いと発言を悔い、苛烈に責め立てた。
「おい」
視線を下げ、先程父が離れた時から一歩も動いていない華奈を見て、父は短く呼ぶ。華奈は肩をびくりと跳ねさせたが、すでに父の方を見ようとはしない。ただ、今にも泣き出しそうな暗い表情で、自分の太ももを見つめ、怯える自分を諫める様に、手首を掴んで震えている。その姿が、父の心を強く満たした。
自分が少し、華奈を驚かせてやろうとして取った行動、無言で立ち上がって上に上がっただけで、こいつはこうもショックを受けている。その姿を見た父は、頬が吊り上がるのを抑えられなかった。すっかり精神も自分の支配下にあり、こちらの言動に対して感情を揺さぶられるその姿は、華奈の狙っていない所で、父にとてつもない満足と愛着を生み出していたのだ。
「おい、華奈」
再び呼ばれた時、華奈は震えながら、背後に立つ父の気配を感じ取っていた。息が詰まりような緊張に、手が、足が、激しく震える。自らの手首に爪を立てて握りしめているためか、皮膚の内側でじんわりと血が滲んでいた。
華奈は、このまま後ろから何かされるくらいなら。そう覚悟を決めて、ゆっくりと膝を立て、床に手を着いて後ろを振り返った。
父は、そんな緩慢に動く華奈と目が合うや否や、手に握っていた物を投げて渡した。
「捨てるつもりだったからな。やるよ」
瞬間、視界が闇に包まれた華奈は、後ろに倒れそうになりながら必死で腕を藻掻かせて、何とか顔を外に出す。そして見てみると、それは一枚の、黒いトレンチコートだった。
コートの生地は重厚で、生地に毛羽立ちなどは見られない。冷えた2階のクローゼットから持ってきたからか、それは冷たさを感じたが、足にかかっている部分はほんのりと暖かくなってきていた。見ると、襟の部分にタグが付いている。
「買ったはいいけど、サイズが小さかったんだ。まあ、それでもお前には大きいだろうがな」
冷たい声ではあるが、まるで意地悪く見せかけているかのように、父は自分の態度を誇示するように言った。その言葉に華奈は少しだけ心も温かくなる。
それを手で持ちながら、華奈はしかし、どういう表情を浮かべるべきか戸惑う。先程まで、父に対してわがままを言った自分を卑下していた筈が、予想外に欲していた物が貰えたことで、華奈は言葉を失っていた。
「……何だ、文句でもあるのか」
むっとした様子で言う父に、慌てて首を横に振る。そして、大事そうに胸の前で抱えた。
「いえ、違います。……その、もっと頑張りますね」
上手く言葉を紡げないまま、華奈は思わず顔を綻ばせる。父の物を欲するという打算や、寒い思いをしたくないという願望はすでに二の次になってしまい、ただ、父から貰えたという喜びが、華奈を満たしていた。
そんな彼女を横目に、父は再び傍を通ってソファに戻る。そして何かを誤魔化す様に腰を深くかける。
「やった物以上の働きは当然だからな」
華奈はコートをしっかりと抱き締めながら、父の言葉にうなずく。その心には喜びとともに、これからの行いに対する重圧も芽生えていた。父の期待に、より一層応えなければならない。華奈は緊張で、小さく生唾を呑んだ。
憂鬱そうに顔を曇らせながら歩く生徒に交じって、華奈は廊下を歩いていた。
月曜日。それは華奈にとって新しい一週間の始まりであり、これでまたしばらくの間、父と昼も夜も顔を合わせることなく過ごせる、安寧の始まりであった。しかし同級生や、その他生徒にとってはそうでもないらしい。皆それぞれ眠たげな顔を浮かべ、鬱陶しそうに教師や家庭の、他愛もない愚痴を語る姿を背に、華奈はつまらなそうな顔を浮かべる。
母と喧嘩した。あの数学の教師が出す問題が難しすぎる。お小遣いが少ない。今度の期末試験、どうしよう。
そんな悩みを浮かべる生徒の話を浴びながら、図書室へ向かう彼女にしてみれば、それは何とも贅沢な悩みであった。それこそ、普段であればそんな贅沢ともいえる苦悩を抱える彼ら彼女らに対して、下らないと内心で一蹴するのが常であったが、今はそれ以上に、気持ちが高揚している。
今朝からずっと、授業の時以外は身に着けているもの。それが今の彼女にとって、心の支えになっていた。
昨日、父がくれた、黒のトレンチコート。
それを貰えた時、父は自分用に買ったはいいけれど、サイズを間違えたと言っていたが、それはどう見ても彼女のサイズに丁度合っていた。羽織ってみれば、男性用のものとはいえ、腕の長さも、背中の生地もぴったりと華奈の身体を覆ってくれている。そのお陰で今朝から寒い思いもしていない。華奈は内心、父が自分の為に買って置いてくれたのだと、信じて疑わなかった。
普段は、華奈にとっての父など、恐怖以外の感情を抱く方が難しいと思えるほど、暴虐の限りを尽くしている存在だった。しかし、華奈が父の為を思って行動をして、父もそれに対して、今は優しくなりつつある。その好転が、彼女の足取りを軽くさせた。
これまでされていたことを、決して忘れた訳ではない。しかし、母やアックスといった比較対象に嫉妬していたからだろうか。父に初めて貰ったコートというプレゼントが、華奈のこれまでしてきた努力が形となったように思えるのだった。
静かな図書館に入り、華奈はいつものように自分の席へ座る。引き出しを開け、金曜日の続きを読もうと本を手に取る。流石に室内は暖房が利いているので、少し暑苦しさを感じる。渋々、コートから腕を抜いて、背もたれに丁重な手つきで掛けた。そして、椅子に身を預ける。
空腹を感じていない訳ではないが、もっと頑張っていたら、いずれ。お父さんがわたしにお昼ご飯も持たせてくれたらいいな。そう思い、活字へ視線を落とす。
集中していく内、扉越しに聞こえる喧騒も、ゆっくりと遠くの世界の事のように感じられる。文章の世界に入り込んでいき、その情景が華奈の意識を、ゆっくりと本の中へ引きずり込む。
だがそれは、間もなく図書室の扉を開けた音で中断される。
「……こんにちは」
華奈が声をかけると、そこに立っていた轟は眠たげな目を華奈の方へ向け、少しだけ笑みを浮かべた。それはある種轟らしいともいえる、不器用なものであったが、華奈はそれでも自分が彼女に心を許されていると思えて、嬉しいものだった。
彼女は近くまで歩み寄ってくると、手に提げていたレジ袋を掲げる。それを華奈の前に着き出した。
「いつもお昼食べてないでしょ。食べる?」
そう言って、華奈が受け取るのを待つように轟は、じっと華奈を見つめる。
しかし華奈は、それを受け取れずにいた。内心では、喜びと困惑が交差している。
轟が、自分の為に買ってきてくれたらしいそれ。袋から透けた中身を見るに、購買で昼食を買って来たのだろう。そして、普段から昼を食べていないことを心配しての発言。受け取らないのは、失礼に値すると考える。
しかし一方、華奈にはそれを受け取ったとして、返す所持金が無い。買い物用に、父からある程度の金は渡されているが、それはあくまで買い出し用。それを使って自らの空腹を満たしたとあれば、これまでの努力は水泡に帰すだろう。
悩んだ末、華奈は遠慮して眉を顰める。
「いえ、お気遣いだけで十分ですから」
だが轟は肩を竦め、自嘲的に目を逸らして頬を吊り上げた。
「この間の、家庭訪問のこともあるから。謝りたい。と、思って」
慣れないながら必死に言葉を紡ぐ。緊張で嫌な汗がブラウスに滲むのを感じながら、それでも言わなければと覚悟を決めてきたことを思い返す。
「ごめん……色々勝手して」
その言葉に、華奈はとても困り果てた。一昨日、コンビニで遭った時も言っていた、そしてその前に父も言及していた、家庭訪問。やはり、二人が何かしらの用事で家に来たのだろう。恐らく、自分が学校を休んだことで。それは憶えている。父に抱かれながら、明日は学校を休もうと決めた事は、しっかり記憶として残っている。しかし、問題はその後だ。
どうやら、先生が二人して家に来て、父と話し、そしてどうやら自分とも話しているらしい。華奈はまるで他人事のように状況を憶測し、やはり何も覚えていない、思い出せないことを再認識する。
まるで、全員が口裏を合わせて揶揄われているような気持ちにすらなる中、何も言えなくなる。すると轟は、そんな華奈の沈黙を、許し難いと受け取ったらしい。顔を悲愴に歪ませ、苦痛を耐え忍ぶように歯噛みした。
「やっぱり、怒ってるよね。ごめん。どうしても、華奈のこと。放っておけなくて」
流石に黙ったままでいられず、華奈は口を開く。しかし、何も覚えていないんです先生。と言う訳にもいかない。
「そんな、先生は悪くないです。心配してくれたんですよね。……ありがとうございます。すみません、急に学校を休んでしまって」
そういって、華奈も頭を下げる。すると轟は、そんな姿を見て、悩みながらもゆっくりと腕を伸ばし、カウンターの前に袋を置いた。
「とにかく。わたしの事は気にしないで大丈夫だから。食べて。そしたら、元気出る……かも」
とても気不味い空気が辺りを満たす。華奈は、何を言うべきか悩み、しかしこれといって現状を打破できる言葉が見つからない。轟もまた、華奈の怪我について触れたいが、また以前のように拒絶されることに怯えていた。
情けない。轟はそうして自分を卑下した。目の前に、苦しんでいる生徒が居て、原因も明らかで。そんな中、救ってあげられない自分は、果たして何の為の教師か。
隣に座ったはいいものの、それから二人の間に、何か会話が生まれる雰囲気はもうどこにもない。お互い、辛そうに顔を歪め、それぞれの抱える悩みと直面していた。
先程まで身を沈めることが出来た本の世界は、今や規則正しく並んだインクの染みにしか見えなくなっていた。どれほどそれを目でなぞっても、ただ活字がそこに横たわっているだけである。
やがて、華奈は本を閉じ、目の前に置いてある袋の傍へ置く。その動作を、視界の端で動いた轟が顔を上げて見てきたのを感じ、重苦しい空気を打ち破るように口を開く。
「その、本当に頂いて良いんですか?」
そう聞かれて、轟は顔が明るくなる。彼女もまた、持っていただけの本を置き、嬉しそうに華奈の方へ向き直った。
まるで華奈が手を付けてくれることが、自分を許してくれていることの証左に感じられる。
「うん、食べて。何が好きか分からなかったから、適当に買ったんだけど」
そう言われて、華奈は袋を手に取り、中を覗き込む。
「甘いの好きかな。って思って」
嬉しそうにこちらを見つめる轟を、しかし華奈は驚いた様子で見つめ返した。
「……全部、フルーツのサンドイッチなんですね」
思わずそう言ってしまった後で、失礼な言い方だったと自省する。しかし轟は、恥ずかしそうに肩を竦めて笑った。
「うん。ちょっと欲張りすぎたかも」
その表情は、明るさを取り戻しているようだった。華奈は持ってみた重さから、これを全て食べるのは不可能だと思ったが、しかしここで拒むことで、彼女の表情が再び暗くなってしまう様に感じた。気を遣って、笑みを浮かべる。
「いえ、凄く嬉しいです。甘いの、好きなので」
取り敢えず、食べられるところまで食べよう。そう思って、中から一つ取り出す。ふと、数年はこんな美味しそうなもの、食べていない事に気付いた。普段華奈が食べている物と言えば、父の食事を作った余り物。それすら無いときは、父の残飯を漁る日すら少なくない。それを思い出して胸が僅かに痛んだが、それもまた、自分がやることをやっていないからだと思い、納得させる。
少なくとも今は、誰かが自分の為に用意してくれたものを食べられるのだ。そう思うと、胸が暖かくなる。
「良かった」
轟は安心した様に胸へ手を当てた。
「それじゃあ、遠慮せず全部食べてね。少しでも元気になってくれたら、嬉しいから」
轟の柔らかな言葉に、華奈はゆっくりと頷く。包装を剥がし、飲食不可な室内で食べてもいい物かと逡巡したが、フィルムにべったりと付いても尚、大量にあるクリームと、みずみずしいフルーツを目の当たりにした瞬間、そんなことを考える暇もなかった。
大きく口を開けると、盛大に齧り付く。
その瞬間、久しぶりの糖分に脳が喜んでいると感じる程の感覚に襲われる。力が全身に漲る様で、口の中をフルーツの酸味と、クリームの甘さが埋め尽くす。
気が付くと、自然と綻んだ顔で、そのまま二口目を頬張っていた。
そしてしばらく咀嚼していたが、ふと自分が味の感想も何も言わずに食べ進めていることに気付く。慌てて轟の方を見るが、彼女はとても嬉しそうに目を細め、ただ彼女を見つめていた。
「……おいしいです」
慌てて飲み下し、味を伝える。といっても、華奈は何か劇的な味のレポートが出来る訳ではない。それでも轟は一層嬉しそうに微笑んだ。
まるで、華奈が幼い頃、無我夢中で食事をしている様を見つめている父と母の表情にも似た、そんな記憶が蘇る。あの頃は、二人とも仲が良かった。
「それなら良かった。甘い物って……元気になれるもんね。最近、しんどそうだったから、安心した」
しかし華奈は、そんな風に微笑みかけられた事に対して、複雑な心情を抱えていた。心配してくれる人がいる。それに対して、どう返答したら良いのか、自分でも分からない。普段、こんな風に心配されることなど、考えてみれば無かった。
父は、果たして自分の事を心配してくれた事があるだろうか。
華奈はふと、轟が自分にくれたサンドイッチと、父が自分にくれたコート。それに込められた意味が、愛情が、同じものか。そんなことを、比べるべきではないと思いながらも、つい比較してしまっていた。
華奈が二つ目のサンドイッチを食べ終わった時、轟は壁の時計をちらりと見やる。そして、もう昼休みが終わるまでの時間が残り少ないことを悟ると、言うべきか悩んでいたことを、意を決して伝えた。
「華奈」
呼ばれた彼女は、口の端に着いたクリームを舌で舐め取ったところだった。そして轟を無邪気に見つめる。今やすっかり、華奈にとっての轟は、改めて心を許した相手になっていた。空腹に苦しんでいる所を救われたというのが、それほど華奈にとっては大きい出来事だったのだろう。
轟は、一度目を伏せて言葉を整理してから、小さく息を吸う。
「……もし、困ったことがあったら、話して欲しい。お父さんにされてる事も、何となく分かっちゃってるし」
そう言われた瞬間、華奈は冷や水を背中に流されたような気分になる。焦りを憶えながら、口が勝手に動くのを感じた。
「ち、違うんです。わたし、出来が悪いから……」
内心では、助けを求めたいという思いが顔を出す。しかしその本心を押し潰すようにして、恐怖心が現れた。思えば、華奈はその気になればいつでも誰かに相談できる環境だった。すぐに助けを求められる状況だった。しかしそれをしないでいたのは、この恐怖心からである。
もし誰かに助けを求めたとして、それが父に露呈したら。そう思うと、気が気ではない。きっと、もう二度と学校にも行けなくなるだろう。自由を奪う為に父が何をするかも分からない。ひょっとすると、より辛い日々が始まるかもしれない。
それに、助けを求めたところで、それが叶わなかったら。見放されたら。そんな想像もまた、彼女の判断を鈍らせていた。
華奈は、自分の意思とは裏腹に、父を擁護ばかりする口が憎かった。
「それに、お父さんも悪い人じゃないんです。本当に優しい人で、わたしがちょっと失敗しても……そうです、ちゃんと見放さずにいてくれて。たまに叩いたりもしますけど、でもわたしは一人で生活出来ないし、お父さんがお金を稼いでくれてるお陰で……」
スカートの裾を強く握り、必死で轟に弁明する。父は悪くない。わたしに原因がある。それを何度も繰り返す。どれだけ口が乾こうと、父の事を悪く言うなど到底出来なかった。必死で次の言葉を絞り出し、父を擁護する。轟は、ただ黙って、そんな華奈を見つめていた。眉を下げ、まるで痛ましいものを見るような表情で。
「だって、お父さんが居なかったら、わたしは何も出来ないんです。何ひとつ自分でちゃんと出来なくて、だからお父さんが厳しくするのは、わたしの為なんです。わたしが怠けてばかりだから」
声が震え、涙が滲む。様々な感情が堰を切って溢れ出し、込み上げるものを抑えられない。轟が悲しそうに自分を見つめていることに気付いても、口は止まらない。華奈にとってそれは、まるで自分の存在そのものが間違いであるかのように、自分を責め立てる辛い行為だった。しかし、そうして必死に父を守り、忠誠を示すことだけが、父からの愛を僅かでも得られる方法だと信じていた。
轟が、もし何か父と自分を引き剥がす行動に出たら。父と離れてしまったら。そう想像するだけで、身の毛がよだつ。自分は、父という存在無くして有り得ない。そう決めつけて疑わなかった。そこに多少の暴力が介在しようと、華奈は、依存している存在がない状態での自分など、想像も出来ない。
まるで視界を封じられた状態で、見知らぬ町に放たれたような恐怖を思い浮かべた。
「それに、お父さんはちゃんと考えてくれてるんです。このコートだって」
華奈はまるで何かに追い詰められているかのように、息を切らしながら慌てて背もたれにかけてあるそれを掴む。身体の前へ持っていき、轟に見せつける。
「わたしが寒いって言ったらすぐに……わがままなのに……それにわたしなんて、全然頑張ってもいないのに」
手の甲に、涙が落ちる。迫りくる恐怖に息を荒げながら、必死に父の正当性を説く彼女の声はどこか空虚で、響きのないものだった。瞳は恐怖に震え、追い詰められた気持ちで藻掻きながらも、救いの光へ手を伸ばすことすら恐怖して目を背けてしまう。まるで、波間に流された溺れるクラゲのように、無力で、寄る辺なく漂っていた。
華奈は重い足取りで、玄関をくぐった。トリミングの成果があったのだろうか。アックスは少し怯えた様子で華奈を見つめていたが、吠える事はもう無かった。ただ大人しく柵の向こうからこちらを見つめている様子に、しかし華奈は気付かない。
あの後、昼休み終了を告げるチャイムが鳴り、華奈はようやく押し黙った。轟も、辛そうに眉を顰めたままだったが、やがて何か二、三言伝えてから、部屋を後にした。その足取りは、まるで逃げるようで、華奈は助けを求められない弱い自分を噛み締めながら、悲しそうに部屋を後にするその背中を、音で感じるしかなかった。
その後の授業も、当然身が入らず、気が付いた時には全ての授業が終わっていた。ただその間、ずっと、轟が父と自分を引き剥がそうとしないか、それだけが気がかりだった。
重い足取りで靴を脱ぎ、柵をゆっくりと閉めて自室へ向かう。その姿を、アックスは警戒しながら、顔で追っていた。
救って欲しい。そう心の中で願いながら、しかし父と引き剥がされることをとても恐ろしく思う自分の、相反した感情。それは華奈自身も、理解出来なかった。ただ、轟にそんな自分の気持ちを理解して欲しい。という、とても身勝手な思いだけを抱いている。結局、その後に轟と会うことはなかったが、家に帰ってきてからも、その心配だけはずっと付きまとっていた。
ベッドの隣に鞄を置き、ゆっくりと自分も腰を降ろした。周囲は暗く、父の帰りまではまだ時間があるはずだったが、まるで何かに追い詰められるような気持ちと、身体を支配する倦怠感に囚われ、心がざわついていた。
ふと、轟の表情が浮かぶ。彼女が見せたあの痛ましいような眼差し。何も言わずに去っていった後ろ姿。華奈は、彼女がこれまで自分の話を黙って聞いてくれていたことを思い出し、微かな温かみを感じた。しかし同時に、それは恐怖にも繋がっている。もし彼女が本気で自分を助けようとしたら——父と自分の関係を壊そうとすることの、それがどれだけ恐ろしいことか。
夕食の用意をしなければ。そう頭では分かっていながらも、華奈は身体をベッドに横たえた。無意識に着たままのコートを全身で感じる。これがある事で、父の存在が身近に感じられるようで、少し心が休まる。しかし、その安寧もどこか不安定なもので、父の恐怖を思い出さずにいられない。
程無くして、その恐怖に駆られるようにして身体を起こした華奈は、コートを脱いで1階へ降りた。いつも以上に疲れ果てた身体を引きずるようにして台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。やることをやらなければ。自分の仕事をしなければ。そう思い直し、心の奥で感じる不平を飲み込んだ。
部屋が薄暗くなり始めた夕暮れ時。玄関の扉が開く音と共に、父が帰ってきたと華奈は察知する。少し汗ばんだ手で包丁を握り直し、出来るだけ平静を装いながらまな板の上に横たわる鯖の切り身に目を戻す。
すぐにリビングの扉を開け、父が上着を脱ぎながら入ってくる。
「おかえりなさい」
か細い華奈の声に、しかし父はいつも通り反応を示さない。ただ黙って台所へ近づいてくると、華奈がぴったりとシンクに身を寄せた、その後ろを通り過ぎる。そして、まるで華奈などいないものかのように冷蔵庫を開け、ビール缶を一本取り出した。
プルタブが開く音が大きく響き、華奈は父の機嫌が良くもないが、悪くもなさそうだと安心する。
その華奈の小さな背中を、父は缶を口に当てながら見つめた。
「……昼、何を食べた?」
父の声が静かに響く。
瞬間、辺りの空気がまるで棘のように華奈の全身へ突き刺さる。皮膚がちくちくと痛むような錯覚を覚え、重苦しい空気が喉へ詰まって呼吸すらままならない。
華奈は、そんな質問をこれまで一度もされた事が無いことを思いながら、まるで自分の内面が全て父に見透かされているかのような感覚に襲われる。動揺した心を必死で隠そうとするが、頭の中で何を言うべきか、纏まらない。
夕食以外、食べることを父は許していない。華奈はその時こそ都合良く解釈したが、もし父にサンドイッチを食べたことが知られてしまえば、きっと言い訳の余地などなく、殴られるだろう。
咄嗟に、口を突いて嘘が出た。
「何も……食べてません」
殆ど初めてと言っていい、父に対しての嘘。華奈はまな板から、握りしめた包丁から視線が外せない。ただ一心に、どうか信じて貰えますように。そう心の中で唱え続けた。
父は、微かに口元を歪ませ、笑みを浮かべた。
「そうか、何も食べていないなら、夕食が楽しみだろうな」
華奈はそんな父の含みある言葉に、更なる焦りを感じた。全身から汗が吹き出し、眩暈すら感じる。その時、華奈はすぐ背後に父が歩み寄ったのを感じた。
華奈の踵に父のつま先が当たりそうな程の距離で、父は上から覆いかぶさるように華奈を見降ろした。
「もう一度、聞くぞ。何を食べた?」
彼女はどうするべきか、もう分からなかった。ただ無我夢中で、言葉だけが紡がれる。
「えっと……わ、わたし、お昼は……何も食べてないです」
それを自分で認識した瞬間、心の中に罪悪感と恐怖心が押し寄せる。父は、肩を跳ねさせ、隠し事をしている華奈の反応に気付いていた。まるで獲物をもう逃げ場のない所まで追い詰めたかのように、口角を吊り上げる。
「それは、良い心がけだな。俺が言った通り、夕食以外は食べてないんだな?」
その言葉に、一瞬華奈は嘘が見抜かれてはいないのでは。と僅かな希望を持った。
次の言葉が始まるまでの、ほんの数瞬であったが。
「サンドイッチでも食べておけば良かったのにな」
ふっと、華奈の目の前に父が腕を伸ばして、レジ袋を置いた。それは紛れもなく、華奈が昼、轟から貰ったものだった。
父は華奈の後ろに立ち、片手でビールを飲みながら、もう片手でその中に手を突っ込む。そして、クリームのついた包装を、一つずつ、確かめる様につまんで横へ置いた。その丁寧な動作は、却って華奈を怯えさせた。
父はやがて、二つの包装と、未開封のサンドイッチ一つを並べると、華奈の耳元に口を近付けた。そうして、小さく唸る。
「もう一度、聞いてやろうか? お前はどこで、誰と、何を食べてた?」
父の顔は、相変わらず笑みを浮かべているが、その声音には怒気が含まれていた。華奈は頭が真っ白になり、喉が恐怖で震え始める。視界が狭まるのを感じ、目線すら動かせない。
「お、お昼は……」
口を開くが、恐怖で言葉が続かない。父の目は、そんな華奈をじっと横から見つめていた。
「俺に隠れて、友達から食べ物を貰ったのか? それとも、俺の渡してる金を使ったのか? どっちにしろ、お前が卑しい奴だという事に変わりは無いな」
その言葉に、華奈は思わず肩を竦める。耳に父の生温い吐息がかかり、まるでこれから捕食される獲物のような気分だった。
「で、どっちだ?」
再び静かに質問され、華奈は何とか言葉を絞り出す。
「……サンドイッチ、を、貰いました」
「そうか。で、お前はいつまでこんな事を続けるつもりだ? もうお前のせいで、どれだけの手間がかかっている思ってるんだ?」
父の声が徐々に大きくなり、華奈は肩を竦める。父はそんな華奈の右手を後ろから掴むと、背中に捻り上げた。直後、華奈の僅かな悲鳴が喉から漏れる。だが、抵抗しようにも父の力に勝てる訳が無い。そのまま、容赦なく後ろ手に捻り上げられ、肩の骨と筋肉が悲鳴を上げる。
「何も食べていないだと? ……本当に、何もかも嘘だらけだな、お前」
父はそういうと、手に力を籠める。このまま、腕を捻り上げて肩の骨でも脱臼させてやろうか、という気持ちが沸き上がるのを感じた。これまで、過ちを繰り返しながらも反省して、華奈に暴力を振るうまいと我慢していた自分が、馬鹿馬鹿しく感じられる。
「お前が嘘を吐いたくらいで、俺にバレないとでも思ったか」
次の瞬間、父は腕を離したかと思うと、そのまま空いた右腕で華奈の後頭部に手を添える。そして一気に力を入れ、お辞儀でもさせるかの様に、顔をシンクに叩きつけた。
幸い、置いてあった包丁の傍に顔を打ち付けたので、切り傷を負うことは無かった。しかし鼻の奥に火箸を突っ込まれたような痛みが奔る。涙を反射的に流しながら顔を上げた華奈は、だらだらと溢れ出てくる鼻血が制服を汚しているのを見た。
遅れて、恐怖が思考を支配する。
「うう、ううう」
慌てて、何とか両手で鼻を抑える。血が床を汚さない様に、零れ出るそれを手皿で受け止めながら、流しの方へ移動する。しかし父はそれすら許さない。襟首を掴んで引き戻したかと思うと、華奈の髪の毛を掴んで、無理矢理に上を向かせる。そして自らも顔を覗き込んだ。
髪を掴まれ、鼻も痛み、涙をぼろぼろと流しながら鼻血を垂らす華奈は、恐怖で染まった目を泳がせながら、何とか父に取り入ろうと口を開いた。
「す、すみませんでした。嘘を吐きました。ごめんなさい……」
父はそんな、恐怖に支配された様子の華奈を見つめ、口角を吊り上げた。
「おいおい、初めから嘘を吐かなかったら良かったんだろ? やっぱりお前は、殴ってやらないと俺の言う事が聞けないか。馬鹿だもんな」
そう言うと、父は更に強く髪を引いた。
偶然が、重なった。
たまたま、父が華奈の頭を引いて罵倒をしていて、たまたま、華奈がそれに抵抗する為、手をシンクに付いていて、そしてたまたま、シンクに包丁が転がっていた。
魚を容易に切れるほどの、業物。それを無我夢中で掴んだ華奈は、朦朧とする意識の中、ただ自分に襲い来る恐怖と苦痛から逃れる為、それをでたらめに振るった。
普段であれば、そんなことをする前に、華奈の理性がそれを抑圧しただろう。しかし、頭を強く打ち付けられ、鼻血とはいえ多量の出血を目の当たりにし、吐き気すら覚える脳震盪を経て、抑え付けるものが何もなくなっていた。それもまた、全くの偶然だった。
そして、振るった切っ先が、勢いよく父の首筋を掠めたのも、それがたまたま、人体で殆ど唯一、表層に位置する頸動脈を傷つけたのも。
全て、偶然が重なっただけだった。
決して、華奈が計画的に父を害そうと思って動いた訳では無い。本当に、不運としか言いようのない事故。
しかし、魚の身よりもぬるりと滑らかに父の頸動脈を切り裂いた凶刃は、華奈の手を離れてコンロの方に吹き飛ぶ。元より、鼻血でぬめりを帯びている手のひらである。。
「ってえな」
事の重大さを理解していない父は、首筋に走る鋭い痛みに顔を顰め、華奈を睨む。華奈もまた、依然として思考が覚束無い中で、必死に振り回したものが包丁だともまだ認識出来ていない。ただ、自分の鼻からぼたぼたと垂れ落ちる血を恐ろしそうに手で受け止めながら見つめ、口に鉄の味が広がるのを感じて、ふと父の方を見た。
父は、片膝を付いて、シンクに手を着きながら立つ華奈を鬱陶しそうに睨みつけていた。
「おい、誰に向かってやってくれてんだ」
低く唸る父の声に、しかし覇気はない。華奈は呆然自失と見つめ返す。視界がぼやけ、何が起こったのか理解できない。ただ、痛みと恐怖だけが彼女の心を支配していた。
父は、自分に傷をつけた華奈に対して、今再び殺意を抱いた。どうせ生き返るんだから、殺してやる。そう心に決め、倦怠感が襲う身体に鞭打って、コンロに手を伸ばす。
そのつもりだったが、何故か自分が片膝を付いていて、立ち上がろうにも、身体に力が入らない。苛立ちだけが募り、やがて拳を握ると、自分の膝を殴った。
「ふだけんな、立て!」
呂律すら回らないことにも気付かない程、怒りで思考が支配されている中、父は諦めて辺りに手を着こうと腕を伸ばす。しかしその時、初めて自分の服が、血で濡れていることに。
真っ赤に染まり続けていることに気付いた。
自分の首から勢いよく溢れた血が、まるで水を浴び続けているかのように、襟から胸ポケットを通って、左の下腹部まで、血が這い進んでいる。
途端、身体を芯から襲う寒気に、身震いした。目に驚愕の色が浮かび、手足が急激に冷えていく。まるで冷たい水に沈んでいくかのような錯覚を覚え、息も絶え絶えになる。
父は何がどうなっているのか分からないまま、ぼやける視界で華奈を見た。
「おまえ、なにを」
言葉が続かない。華奈は父の反応、そしてどくどくと溢れ続ける鮮血に戸惑いながらも、少しずつ事の重大さが理解出来てきた。恐怖の中で父が苦しむ姿が、彼女の心に深い恐れを植え付けた。
「お父さん……大丈夫……?」
思わず口から出た言葉に、華奈自身も驚いた。心のどこかで父を助けたいという思いが沸き上がってきていたが、父の視線が徐々に自分を捉え切れていないのを感じる。
「……馬鹿な……ことを」
喘鳴を漏らしながら、父はやがてその場へ身体を倒す。華奈は慌てて駆け寄ると、自らも鼻血を垂れ流していることなど気にも留めず、縋りつく。
「お父さん、お父さん!」
必死で父の名前を呼び、その大きな身体に縋りつく。父はすでに意識を手放し、だらしなく開けられた口と目は、光を失いつつあった。
呼吸や心拍こそ、依然として動いてはいるが、それもやがて尽きるだろう。これほど多量の血を失い、止血すら難しい場所である。華奈はそういったことは理解出来ないまでも、急激に父の身体を何か、抗い難いものが蝕んでいることは本能的に理解出来ていた。
「お父さん!」
肩を揺するが、もう反応はない。華奈の鼻血が父の顔に垂れてしまうが、もとより床へじんわりと血だまりを広げたそれは、今や華奈の靴下やスカートにまで、浸食し始めていた。
「どうしよう……」
口から思わず出た言葉が、静かなキッチンに響き渡る。
華奈は、自分がしてしまった事の重大さを抱え切れず、目の前の現実から目を背けたい一心だった。
噎せ返る様な血の匂いに耐え兼ねて、華奈はその場を離れた。しかしどこにも行く当てはない。じっとしていられず、リビングをしばらく歩き回っていたが、父の血で汚れた靴下は、華奈の軌跡を足跡として描き続けるだけだった。
心臓だけが忙しなく、鼓動しているのを感じていた。頭の中が真っ白になり、何をしてしまったのか、受け止めきれない。不気味なほどの静けさと、嫌に明るく感じられる広いリビングが、華奈の不安を一層搔き立てた。視界に映る家具や壁の色が、嫌に明るく見える。まるで夢の中にいるようだった。
「どうしよう……どうしよう……」
譫言の様に呟いて歩き回るが、しかし行き先が分からない。呼吸が早くなり、ようやく脳震盪の吐き気が収まってきた頃、華奈は息を切らして2階へ続く階段に座り込んだ。しかし父の苦しむ顔が、今際の際が頭から離れない。許さない、というような表情が、今も瞼の裏で自分を睨みつけているような気持ちになる。
彼女はそのまま立ち上がると、何かに取り憑かれた様に自室へ向かった。扉を開けて中へ入ると、少しだけ安心感が広がった。
汚れることも厭わず、ベッドへ向かって腰を掛ける。そして再び、同じように呟いた——どうしよう、どうしよう。
どうしてこんなことに。
いっそ、そうしようとして父を殺害したのなら、華奈はここまで悩む事は無かっただろう。ただ、これが華奈も覚悟を決めていない、たまたま起きた出来事であった。偶然の生み出した事故であった
しかし、それでも犯した罪に変わりはないと、彼女は自分自身を責め立てる。自分のしたことの重大さを考えると、恐怖と後悔が押し寄せてきた。息苦しくなり、僅かな自分の物音にまで怯えてしまう。
彼女は手のひらで顔を覆い、思考が混乱するのを防ごうとした。しかしすぐに自分の鼻からまだ鼻血が垂れていることや、さっきの出来事を思い出し、数分前まで落ち着けると思っていたこの部屋も、自分が追い詰められている様な思考に至る。
支離滅裂なその頭の中は、父を殺してしまったという罪の意識によるものだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰にでもなく懺悔を繰り返す。様々な感情が渦巻いてパニックになるが、華奈は涙すら出てこない。代わりの様に鼻血がぽたぽたと垂れ続け、やがて自分も父と同じように失血死してしまうのでは。という恐怖に苛まれる。
いや、いっそそうなって欲しい。もう死んでしまいたい。そんな事を思い、華奈は涙の出ない目を擦った。
頭の中に浮かぶ選択肢、その全てが恐ろしいものに思えて、決断できない。彼女はベッドに座ったまま、ただ悩むしかなかった。
やがて、自己弁護に思考は移る。
父が自分にあんな事をするから。父が自分に酷いことを言うから。父が自分に、父が自分に。
その時、アックスも異常を察知したのだろう。動物は、血の匂いを危険なものだと認識しているのだろうか。父が横たわっているからだろうか。
階下で、激しく彼が吠える声が聞こえ、華奈は頭を抱えた。耳を塞ぎ、もうやめてと叫ぶ。これ以上、追い詰めないでと願う。
静かな家に、アックスの激しく吠える声だけが、飼い主の危険を知らせるが如く、激しく吠える声が響いた。
「う、うう、うううう」
華奈は頭を抱えて唸り続ける。声を出し、頭の中で何も考えられない様に。
そしてそのまま、もう何も考えられなくなって、部屋を飛び出した。アックスは尚も、リビングで吠え続けていたが、華奈はそれすら考えられない。ただ父をどうするべきか、分からなかった。ならばいっそ、警察に自首しよう。そんなことを考えて、父の部屋へ向かう。父の部屋にしか、電話が置いていない。彼女は自分のスマートフォンなどという、便利なものは持たせてもらえていなかった。
「失礼します」
ノックをしたあと、いつもの癖で挨拶をしてしまった華奈は、自嘲的な気持ちになった。もうすでに父は1階で死んでいるというのに。
部屋に入り、電気を点ける。そしてベッドに目を向けると、そこには起きたばかりの父が、上体を起こしてこちらを鬱陶しそうに見つめていた。
「おい、何勝手に電気付けてんだよ。眩しいだろ」
その姿を見た華奈は、呆然自失とした表情を、ゆっくりと曇らせていく。
罪を犯し、それに苛まれながらも、片隅で何かを感じていた。
もうこの地獄から解放されるという喜び。それを完全に捨て去り、全てを諦めた表情で頬を歪ませた。
「あはは……すみません。起きてたんですね」
溺れるクラゲ なすみ @nasumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます