I.T.P-END


 未だに俺は彼女の言っていることがよくわからないままでいる。彼女の言葉をりかいしようと努力をしているわけではない。それでも拾える言葉を整理して、自分なりの解釈をしようとはしている。だが、その成果の欠片も見いだせないほどに、彼女が並べる言葉はすべて意味不明で仕方がなかった。そもそも俺に対して理解させるつもりのない言葉ばかりなのではないか、そう文句をつけそうになる。


 太陽はもう空にはない。辺り一面は暗くなっていて、曇天のような厚い雲が世界を閉ざそうとしている。そこに一つの大穴を開けたように満月の澱みだけがひどく輝いて見えて、屋上はそのひとつの月光によって照らされている。それによって俺たちは存在して──。


「──待て」


 俺は、そう言葉を吐いた。


 気づいた。今更になって気づいてしまった。気づくのが遅すぎた。どうして今更になってこんなことに気づいてしまったのか。どうして今までこんなことに気づくことができなかったのか。自分の愚かさに爪を立てて皮膚をちぎりたくなってしまう。それほどまでに愚かしいことに、俺は何にも気づいていなかったことに気が付いた。


 世界がない。


 目の前にあったはずの世界が消え失せている。先ほどまであったはずの街並みはすべて消えている。その夕焼けのひとつも、傾いていた影のひとつも、いつか見た斜塔のような構築物も、今外の世界には何もない。


 ここにあるのは、屋上と、俺と、彼女だけ。ミカと名乗る少女以外のものは、それ以外のものは存在しえない。


 いつの間にか満月を確認していたはずなのに、その月明りさえも遠くのほう鵜へと消えている。暗闇、というよりかは、なにもないことを示すような黒い光に閉ざされている。だが、そんな黒い世界だというのに、存在を強調するように、この屋上だけはどうやら生かされている。


「意識」とミカは言った。


「先ほども言ったはずです。意識、意識によってそれらが存在することを許されています。あなたも、私も。そして世界も。


 あなたが先ほどまで見ていた景色の夕焼けは、あなたが意識をしていたから存在していました。綺麗でしたよね。きっとあれに心を躍らせる人もいるのでしょう。郷愁を覚えて、いつか忘れていた記憶にたどり着きたいと、そんな願いを抱える人もいるのでしょう。


 あなたが先ほどまでいた景色の中にあった、ビルの群れは、あなたが意識をしなくなったから存在をやめたのです。空を見上げましたよね。その時、あなたの頭の中にビルという存在があることをきちんと意識することができていましたか? まあ、愚問でしかないですよね。意識することができていたのならば、それはまだ存在していたのですから。


 あなたは目を逸らした。逸らしたから、意識もそれた。私はずっと答えばかりを吐き続けているというのに、それからも視線を逸らしたから、あらゆる存在が存在することをやめたのです。唯一、唯一です。あなたが存在していることを証明するこの屋上だけは、あなたの視界の中に映り続けている私は存在をし続けています。……ああ、さらに言葉を言い換えれば、あなたは私によって存在することが許されているのです。私があなたを意識することによって、そうしてあなたは今も考えを続けることができる。地に足をつけて立つことができる。目の前の景色の残骸を見て驚くことができる、悲しむことができる、喜ぶことができる、虚ろになることができる。


 そう、すべて私たちのおかげなんですよ」





 そう彼女が言葉を放った。


 そう彼女が言葉を放った瞬間に、口先から音が漏れ出て、それを吐き終えた瞬間に、すべては崩れていった。


 骨格を約束されていた屋上のパラペットはコンクリートから瓦解をした。その瓦解した行方は黒い剥き出しの鉄筋だった。赤く錆びついているように見えるそれを見ながら、まだ光が届くことに安堵をした。安堵をした次に、それを視認することができている自分の存在がまだ確約していることに驚いた。俺は顔を上げた。


 屋上が崩れる景色の中、黒いだけの景色の中で、そこにいたはずの少女の姿はもう目の前にはなかった。黒いセーラー服に緑色をつけた、見慣れることはなかった制服姿の彼女がいたはずなのに、それを見つけることはできなかった。見つけることができないままでいる。


 血眼とはこういうことを言うのだろう、と俯瞰で思いながら、確かに俺は血眼で彼女の存在を探した。探す必要なんてない、と俯瞰の中に躍り続ける自分の存在を否定しながら、途端にやってきた世界の崩壊に恐怖を感じて、人肌を求めて探していた。そうすることで自我を保つことを選択しようとした。それができればよかった。


 だが、彼女は見つからない。


 剥き出しになった鉄筋は網を解いてぐらぐらと揺れていく。部品のひとつひとつ、それを作り上げていたパーツのすべてが崩れて、折れて、消えていく。見えない地面に立っていることに恐怖を抱きながら、それでも俺は世界が崩壊する様を眺めている。


 わからない。わからない。何が起きているのかを理解することはできない。いや、理解はしている。理解はしているはずだ。彼女が、ミカがそう言っていたのだから、俺は理解をしているはずだ。言葉の相互理解を果たしているはずだ。俺は意識をしているのだ。


 意識をしているのだから、俺は俺の存在を確約することができている。だが、なぜそこにミカはいないのだろう。ミカを俺は意識していたはずなのに、どうしてそこにミカを見出すことはできないのだろう。一瞬の思考の中で、一度でも彼女の存在を忘れることがあっただろうか。どうなんだろう。


 ──俺は、今、どうやって、存在している?




 俺は叫び声をあげた。



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