I.T.P-3


「この世界はどのように成り立っているのか」とミカは言った。


「この世界、そのすべて。存在。それはどれでもあり、どれでもない。すべての存在そのものであって、その存在自体の集合的意識ではない。彼らは彼らであり、私たちであって、それらは私ではないし、彼らではない。そのような存在とは、どのようにして成り立っているのか」


「言っている意味が分からない」と俺は返した。慎重に言葉を選ぶようにして並べる彼女の台詞を理解しようとしたが、そのすべてを理解することはできなかった。意味が不明でしかなかった。それは俺の頭が悪いことを意味しているのかもしれないし、単純に彼女が荒唐無稽に話を始めたと言えるのかもしれない。


「ここには存在がある」


 そう言いながら、彼女は撫ぜるように指先を運んでいく。


 その指先のひとつは床に向けられたものだった。雑に鉄筋を覆っているコンクリートの灰色を指している。その床の先には俺が殺した吸殻の破片がいくつか視界に入る。今日のものでなくとも、いつか吸い上げた煙草の過去がそこにあることを証明している。年季があるともとらえられる黒ずみの中に、煙草の灰によって彩られた白色が視界に入った。


 その指先はフェンスへとむけられた。安全を確保するために建てられている緑色のフェンス上部には、人が逃げ出さないことを示唆するような有刺鉄線が巻かれている。緑色のペンキが一部剥がれていて、錆びた朱色が視界を攻撃するように刺してくる。同調するような有刺鉄線の彩がコントラストがグラデーションのようにも映ってくる。


 その指先はミカ地震に向けられた。この学校のものではない制服を着ている彼女の存在は、この高校では異質なものでしかなかった。黒とも紺ともつかない曖昧な存在の色で誤魔化された暗い色の中、緑色のスカーフが視界に入ってくる。近場で見たことのない彼女のセーラー服は、どうしたってこの場には似つかわしくないように思えた。


 その指先は空へと向けられた。高い場所に来れば、いつだって俺は空を見上げている。それは時間帯に限られることなく、いつも俺は天上を見上げて時間を過ごしていた。帰る時間であることを示すように、居間は太陽の存在すら建物の奥に、もしくは見たことのない地平線の奥へと隠れようとしている。


 その指先は、建物へと、鉄塔へと、住居へと、グラウンドへと、転々とする。彼女なりに言葉を伝えるために、その指先を様々なものへと移らせて、俺に理解を促してくる。


 その指先の最後は、俺に向けられた。


「さて、これらの存在の定義を考えましょうか」





「すべて、この世界のすべて。この世界、存在。存在のすべて。無限のうちにあるもの。もしくは無限と呼ばれるもの。有限ではない欠片の存在。それに同属とは並ばない破片。切り取ったものでしかないひとつのもの。それらは複数のもの。それは存在することを許されているもの。それを否定するもの。それらを反証するもの。拒否をするもの。虚とする存在のこと。無とされる存在のこと。これらの存在の定義を考えましょう。そうすることで、私の話も分かるかもしれません」


 長々と彼女はそう言った。息継ぎもなく、無機質な電子的音声のように、ただ感情を含めずにそう言葉を吐いていた。その様子は人間味を感じることはできなくて、吸っていた煙草の熱に気づくまで、呆然と見つめることしかできていなかった。


 悲鳴のような雄たけびを一瞬あげて、指先に灰が垂れていることに気づいた。その瞬間に沈んでいた視線をあげて、世界を見渡すようにする。変わらず彼女の姿を視界にとどめながら、意味の分からない言葉を整理できるように、今一度咀嚼を開始した。


 存在の定義。


 存在の定義を問われている。それは彼女の言葉から理解しているひとつの問いであるが、その意味合いは理解できそうになかった。なぜ俺にそんなことを聞くのか、という気持ちはあるが、こんな場面に至ってしまえば、そんな気持ちでさえ無駄でしかなかった。


「わからない」


 俺は彼女の言葉に答えた。わからないのだから、そう返答するしか俺には選択肢がなかった。


「そうですか? 私とあなたがここにいるということが、そのひとつの答えであるような気もしますけど」


 は? と威圧をした声を返しそうになる。その衝動を殺したうえで、やはり首をかしげるしか俺にはできない。


 吸っていた煙草をフィルターが焦げ付くまで焼ききっていく。煙に特有の苦みが更に入り込んで咽てしまいそうになる。その感覚を忘れるようにしながら、俺は言葉を精査する。吐くべき言葉は何か、それを精査する。だが、そうして生まれる言葉はひとつもない。


「あなたはどうやって存在しているか」とミカは言った。


 それなら答えは簡単だ、と思った。「生まれたから」と思い浮かぶままに返して、息を吐いた。声には煙がかかって、少しばかり自分の声音とは異なる音が確かに出ていた。それをミカは笑って「本当に?」と嘲ってくる。


「本当に? と言われても、そういうしかないだろう。生まれたから存在しているんだろうさ」


「それは本質ではないでしょ。別に私は因果について話したいわけじゃないんですよ。行きつく先についてはそうかもしれませんが、この場合は原因や結果など些末なことでしかないんです」


「じゃあなんだよ」


 無視をすればいいのに、と何度も繰り返している思考の裏側を無視して、そのまま彼女の言葉に反応する。夕焼けが暗くなるのを視界の奥で確認しながら、こんな時間まで残ってしまっている俺という存在が、どれだけ馬鹿なのか、ということを考えてしまう。


「──意識」


 ミカは、くすぐるような声で言葉を吐く。


「意識があるから、──意識が向けられるから、そこに存在が生まれるんでしょう?」

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