第3話

 ゴミをポケットに突っ込んで水深の浅い川をボーっと眺める。

 さて、これからどうしようか。

 どうするのがいいだろうか。

 いい案はひとつも浮かばない。

 どのくらいの間そうしていたのかはわからない。ふいに頭上から声が降って来た。

 「中条さん? こんなところで何してるんですか?」

 見上げつつ振り向くとそこにいたのは職場の同僚である荒木さんだった。

 「あ、えっと。え? 荒木さんこそこんなところで……」

 「私は中条さんの様子を見に行くように言われて……。荒木さんちに行く途中です」

 「そうでしたか。すみません、お手数をおかけして」

 彼女はふっと笑って私の隣に座った。

 「いえ、病気で倒れてるとかじゃなくてよかったです。というか、言われなくても様子を見に行こうかなって思ってたので」

 急に申し訳なくなった。

 私が何も言えずにいると荒木さんはこう続けた。

 「どうして無断欠勤なんかしたんですか? そういうことをするタイプじゃないでしょ?」

 「あ……なんか……急に全部どうでもよくなっちゃって。すみません、無責任で」

 「ふうん、そうですか」

 呆れられて当然だ。

 「まーでも、気持ちはわかります。朝、ぎゅうぎゅうな通勤電車の中でさ、思うわけですよ。『あーこのまま終点まで乗り続けて知らない街に行きたーい』で、『日のあるうちからお酒浴びるように飲みたーい』みたいな」

 荒木さんはそう言っておどけた調子で笑った。

 どうやらフォローしてくれたらしい。

 それでも私は何も言えなかった。すると彼女は中腰になり私の隣から前へ移動してきた。そして顔を覗き込むようにしてその場に座った。

 「中条さん……なんか悩んでます? 私でよければ聞きますよ」

 「……ありがとうございます。でも、大丈夫です。これは私の問題なので……」

 自分でも素っ気ない言いぐさだなと思った。

 でも彼女を巻き込むわけにはいかない。

 この人はいい人だから。

 職場でなかなか馴染めない私に声をかけてくれたり、業務のフォローを率先してしてくれたり。業務外でも後輩のプライベートな相談に乗っていたこともあるらしく、とにかく正義感が強いというか、まぁいい人なのだ。そのくらい普通だ、と言われるかもしれないが、これまでの人生でそんな人種と関わったことがない私には極めて珍妙で貴重な人に思えるのだった。

 「あの、中条さん、覚えてますか? 一年位前のこと」

 「一年前? 何かありましたっけ……」

 「えー忘れちゃったんですか? 終業後、駅まで一緒に帰ったことがあったじゃないですか。その時いきなり野良犬が飛び出してきてさー、噛みつかれそうになった事件」

 あぁ、そういえばそんなこともあったな。

 「中条さん、私の手を引っ張って一緒に逃げてくれましたよねー」

 「はぁ、まぁ、そうでしたね。それがどうかしました?」

 助けようとしたつもりはなかった。ただ咄嗟に手が出ただけだ。

 「あれ、私、嬉しかったんですよ。私って結構なんでもひとりで解決できるって見られがちでね。でも実はそんなことなくて……。だからあの時もどうしようって内心パニックになってたんですよね。それを中条さんが『逃げるよ』って手をつないでくれて、私本当に救われました」

 「大げさですよ。それは」

 面と向かって感謝されることがこんなに照れくさいとは。少し居たたまれなくなってふいっと顔を反らした。

 すると荒木さんは「そうでもないんですよ」と言ってふふ、と笑った。

 「で、要するに救ってもらったから、私も中条さんの助けになりたいなーって話です」

 あぁ、さっきの話はそこに繋がるのか。

 「いや、でも……」

 口では拒みつつ、ふと私の頭に悪い考えが浮かんだ。

 彼女みたいないい人を振り回してみたい。

 困らせてみたい。

 道を踏み外させたい。

 壊したい。

 こんな感情が自分の中にあったなんて知らなかった。それもこれも昨晩の出来事のせいだ。

 子犬みたいに私の眼をじっと見つめる荒木さんを見つめかえす。

 無垢な人。

 「……わかりました。荒木さんだからお話しします。でも絶対に口外しないでください」

 「もちろん!」

 「えーと、私は昨晩、人を殺しました。彼氏、だった人です。殴られたので私も殴り返しました。フライパンで。当たりどころが悪かったみたいで、昏倒した後そのまま息が止まりました。病院に連れて行けば蘇生できたのかもしれないけど、私はそうしなかった。彼に殴られたことにムカついてたから。今は……自宅の風呂場にとりあえず放置してます。でも涼しくなってきたからって、いずれは腐りますよね。だからどうしようかなーと。これが私の悩み事です」

 荒木さんは口をぽかんと開けて何がなんだかわからないという顔をしていた。それからまた笑顔になって「冗談ですよね」と言った。

 「冗談なんかじゃないですよ。現実で真実です」

 「そんな、まさか……」

 荒木さんは小さくそう呟いて頭を抱えた。

 「助けてくれるって言いましたよね?」

 私は彼女を試すように見つめた。目を閉じて唇を噛んで、何か考え込んでいる様子だった。それからたっぷり間をとってから荒木さんは答えを出す。

 「わかりました。それなら、一緒に埋めましょう。その人を」

 その言葉を聞いた瞬間、私はたまらなく嬉しくなった。

 まさか本当に隠ぺいに協力してくれるなんて!

 私は弾かれたように立ち上がり、彼女の手を引いて自宅へと一目散に走った。

 彼女はその手を振りほどくこともせず、ただついてきてくれた。

 走って、走った。最近では感じたことがないくらい晴れ晴れとした気持ちで。

 「本当にありがとうございます! 荒木さんなら助けてくれると思いました! 大丈夫ですよ、ふたりならやれます!」

 自分でもらしくないなと思うくらい高揚していた。こんなに前向きな言葉が出たのも久しぶりだ。

 荒木さんは何も言わなかった。

 いったい彼女はどんな顔をしているだろうか。

 恐怖に慄く顔?

 後悔にまみれた顔?

 それとも絶望に打ちひしがれた顔だろうか。

 あるいは、あるいは。

 ちょっと振り返れば答えはすぐそこにある。でも私は振り返らなかった。絶対に。

 いつかの日と同じように時々聞こえてくる呼吸音と手の温かさだけが彼女の存在を示していた。

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破滅 マリエラ・ゴールドバーグ @Mary_CBE

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