4ー③ 宝箱にしまう心

 壁に戻ったフリージアはぼんやりと会場を眺めていた。ステップの感触と、周囲の視線からくる高揚感、踊ったダンスのひとつひとつがまだ鮮明に体に残っている。


 デビュタントの日、初めてのダンスはお父様と踊る予定にしていた。パートナーをお父様にしたいと話した時の、嬉しさを隠しながら「そうか」とそっけなく言ったその表情は目を閉じればすぐに鮮明に蘇る。


 来ることはなかったあの日と、全く想像しなかった今日。そして夢にまで見た舞踏会。嬉しさと緊張と、いろいろな気持ちが混じり合い、思い描いていたものではなかったけれど、それでもアルベルトと踊ったこの日を忘れる事はないだろう。


 マスカレードは中盤に差し掛かり、酒の力もあって、皆周囲への注意力が散漫になっているのがわかる。行動を起こすならそろそろ良い頃合いだ。


 丁度曲が終わり、人が入り乱れるのを見て、フリージアは壁から一歩踏みだした。頭で、秘密の通路が書かれた地図を思い出す。まずはホールを出て右手に曲がるはずだ。


 その時誰かに手を取られた。


 強くはないが、しっかりと握られた手の感触、ドレスの裾をひるがえしながら回転し、驚きを持ってその手の先へと視線を移すと、視界に入ったのはミルクティー色の髪に緑の仮面の青年だった。


「ルーカス……さ、ま?」


 驚きと緊張で急激に体温が上がる。


「貴方は……」


 ルーカスは自分からフリージアの手を取っておきながら、なぜか動揺しているように見えた。


 うっかり名前を呼んでしまったが、彼はいったい誰の手を取ったと思っているのだろうか。今ルーカスの目の前にいるのは、黒髪に緑の瞳の令嬢だ。変えているのは髪と瞳の色だけなのだから、いくらなんでももう隠せているとは思ってはいない。それでもいったい誰だと思って呼び止めたのかは疑問に思う。


「あの……」


 手を振りほどこうとしてみるが、後ろにいた誰かとぶつかり、かえってルーカスに近づく格好になってしまった。さらにルーカスが咄嗟とっさにフリージアの手を手前に引いたので、フリージアの顔はルーカスの胸にくっついてしまった。耳でルーカスの息遣い、頬で心臓の音を感じてしまい居心地がすこぶる悪い。


「すみません……」


 すぐにルーカスはフリージアの両肩を掴んで、少しだけ距離を取った。

 顔をこちらに向けてはいるものの、目だけは決して合わないよう意識的に逸らしているのがわかる。


 肩に乗ったままのルーカスの手を払い、その場から離れようとした。しかし丁度音楽隊が曲を奏で始めたことで、周りのカップルが踊り始め、身動きが取れなくなってしまった。


 周囲が躍る中、棒立ちでいては逆に目立って注目を浴びてしまう。そんなことを考えている間に、近くのカップルがぶつかってきて、女性ににらまれてしまった。


「すみません。一曲だけお付き合いいただけますでしょうか?」


 声に困惑がのっているような気がした。

 そもそも手を掴んできたのはルーカスなのだから、困惑するのはこちらであるはずなのに。でも今この状況では、踊るしかない。変な注目を浴びてしまっては本来の作戦まで頓挫とんざしてしまう。


 ルーカスに近づいてはいけないという気持ちと、離れたくないと言う気持ち、相反する気持ちが心で広がって、もはや自分自身何を考えているのか、どうしたいのかすらわからない。


「……はい」


 フリージアはルーカスの誘いに了承の意を示した。一曲だけ、今はこれが正しい選択なのだと言い聞かせて。


 片手は手のひら同士を合わせて絡め、もう片方はルーカスの肩に置いた。ルーカスの手は先ほどリズ嬢にもそうしていたように、腰に回る。手が触れた瞬間、その場所が敏感になり、熱を感じているように思った。


 先ほどアルベルトと踊った時は何も感じなかったのに、体の全てがルーカスの全てに共鳴しようとしている。


 ルーカスは慣れた様子でステップを踏む。フリージアも曲に合わせてなんとかステップは踏めていると思うが、たどたどしさがあるのは自分でもわかり、初めて以上に初めてを感じる。


 ルーカスは先ほどリズ嬢と踊っていたし、きっと慣れているだろう。こんなことはなんてことないダンスのひとつに過ぎず、困惑しているのはおそらく自分だけ。そんな初心うぶな自分が恥ずかしい。


 ルーカスの顔を見上げてみたが、仮面の奥のうれいた瞳がこちらを見ることは決してない。形式的な踊り。ただの成り行き。ルーカスの目はそう言っているようにも思えた。それなのに仮面の奥の切なげな瞳には何か意味があるような気がしてしまうのだから自分の楽観的思考に呆れる。


「今日は、黒髪なのですね」


 その言葉に心臓が跳ねる。ルーカスは気付いている。


「貴方は本当にいろんな姿で私を惑わせる。アリアさん」

「えっと……」

「庭園パーティでは申し訳ございませんでした。私も、貴方へ話しかける事の意味をもっと深く考えるべきでした」


 ルーカスはやっとフリージアの目をとらえた。


「いいえ、何もなかったのですから。周りが勘違いしてしまっただけで……」

「いえ、そんなことはないんです。私は……」


 ルーカスが何かを言おうとしている。何かはわからないが、聞きたくないと思った。フリージアはルーカスの言葉を遮った。


「ルーカス様とお話する時間はとても楽しく、ですから、素敵な時間をありがとうございました。とても、とても楽しかったですよ」


 言葉は過去形にした。


 ルーカスが好きなのだとこの時はっきりと認識した。


 恋がどんなものかなんて知らなかった。それでも、この気持ちこそ恋なのだと、教えられなくてもわかる。もちろん、この気持ちは秘めておかなければいけない。


 心でどんな気持ちも抱くのも自由である。けれども大切なのはその気持ちを立場や状況に合わせてどうコントロールするかだ。

 

 人には使命があって、月の国の王女フリージアと帝国貴族のルーカスが交わる糸などどこにも存在しない。


 アルベルトが何をどこまで見透かしていたのかはわからないけれど、まさに今抱いているこの気持ちは余計な感情だ。


 これで終わり。


 この曲が終わったら、この気持ちには完全に蓋をする。消し去ることはできないけれど、封じ込む事ならばしてみせる。


「これで、さようならですね」


 フリージアは微笑んだ。


「私もアリアさんと話す時間はとても楽しかったです」


 ルーカスもこちらを見て微笑んだ。


 その後、曲が終わるまで、お互い何も言葉を発することはなかったが、瞳は合わせた気がした。耳に届く音楽と、熱く波打つ心。言葉は使わず、今この時、この空間でルーカスに触れて踊っている感触を体に、心に刻み込もうと五感の全てに集中した。


 こんなにも人が多い場所にいるのに、まるでこの世に二人だけが存在しているようだった。


 それでも無常に曲は終わりを迎え、人の声や食器の擦れる音、足音とホールを彩る音が戻ってくる。


 終わってしまった。本当はこのまま、手を離したくない。でもなんだか清々すがすがしい気分だ。この思い出は心の宝箱に封印すると決め、たった今鍵をかけた。


 周囲の賑やかな音と、たくさんの人の想いが交錯するこの場所では、抱いた不埒ふらちな気持ちもうまくかき消してくれそうだ。


 さようなら、と心の中で唱えると、ルーカスを突き放すように強く押して、離れた。ドレスの裾を持ちお辞儀をしてからきびすを返し、ホールの出入口へと急いだ。


「アリアさん、いつの日か、また」


 後ろからそんなルーカスの声が聞こえたような気がした。

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